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夫婦鼓
泣声
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人の娘の姿では、狐だった頃と同じものを同じように感じ取ることは難しかった。
目にしろ耳にしろ鼻にしろ、人のそれは美葛に言わせれば嫌になるほど鈍いのだ。
都の妖たちほど力があるなら別だが、例えば故郷の山々で見るともなく見ていた幽きものたちの姿となると、今の美葛はきっと眉間に皺を寄せて探さなければならない。鳥や獣の話す声はもちろん、木々の囁きや石塊の呟きもろくに聞き取れない。臭いを嗅げば大抵のことは知れたものなのにそれさえ覚束ない。
妙泉尼に術をかけられ、狐に戻ることができなくなって今日で三日。ただの変化とは違うせいだろう、日を追うにつれて、何もかもに見放されたような、あらゆる繋がりを絶たれたような、言い知れない心細さばかりが増していく。
人って凄いなあ、と美葛は皮肉っぽく思う。こんなにも不安で頼りない毎日を、何でもないことのように生きているのだから。
ただ、雅楽寮大允藤原為成の娘、琴音姫の場合は少々違っているようだった。天耳通というものだろうか、彼女には、並の人には聞き取れない音や声を捉える力が備わっているらしい。
「誰に話してみても、泣き声なんか聞こえないと返されてしまって……」
まるで萎れた一輪の花。沈んだ面持ちの琴音は、美葛たちを庇の間から母屋へと招いて自ら事の行立を語り出した。何とも恨めしげなその上目遣いは、自身の乳母でもあるという刀自へと主に向けられるようだった。
「風の音や家の軋みを、私の耳が勝手に啜り泣きと聞きなしているのだと言うの。けれど、これは絶対に違う。そんなものじゃない。高くなったり低くなったり、調子が変わったり声を詰まらせたりするもの。女の啜り泣き以外の何ものでもない」
「姫様は物事を悪く取って気にしすぎなのです」
刀自がたしなめる口調で遮った。この老女もまた、どこかの貴人の血に連なる方なのかもしれないと美葛は思った。顎を反らして取り澄ました様子がいかにもそれらしい。
「こぉんな小さい頃からずぅっとそうでございました。絵の中の女が口をきいただの、壺の中から笑い声が聞こえるだの。聞き違いに他ならないものをさも本当のように言ってこの婆を怖がらせ……、もとい、困らせる」
「本当だと感じたものを本当だと言って何が悪いの。どうして分かってくれないの」
「妖だの何だの、そういうものと絡めてお話をなさるのは止していただきたいというのです」
琴音の指図で、屏風や几帳や文机は残らず隅に片寄せられていた。美葛にしか見えない例の黒雲が思い出したように漂い過ぎていく他は、主と客の間を隔てる物など何一つない。
初め、この剥き出しのやりとりについて刀自は露骨に嫌な顔をした。とりわけ、男である真咲が遮る物なく己が養い君に目通りすることには難色を示した。しかし、当の琴音は何らお構いなしだった。啜り泣きとやらが薄気味悪くてそれどころではないのか、さもなければ聞く耳を持たない刀自への当て付けだろう。
折しも、琴音は黒雲の向こうでその青白い顔を顰めた。さながら雲に隠れる月だった。もゆらが心配そうに腰を浮かすのを、琴音が軽く上げた掌で制した。
「……最初に啜り泣きが聞こえたのは、《望月》が消えたと皆が騒いだ、その次の日の火点し頃。初めは、庭に迷子でもいるのかと思ったの。まだ分別のない小さな子供が、犬の子のように迷い込んで来るというのは、まったくないことでもないから。じき暗くなってしまうと思って、すぐに男たちに探させた。けれど……」
どこにも誰もいなかったという。
日暮れ間近な薄暗い庭先。聞こえてくる正体の知れない啜り泣き。
その取り合わせを思い描いてみて、美葛は不気味さに鳥肌が立つのを感じた。
見れば刀自も腕を擦っている。固く目を閉じて、声を出さずに念仏らしきものまで唱えている。
「結局、その啜り泣きが明け方まで途切れなく続いたの。私、ろくに眠れなくて」
「何とまあお気の毒に……」
もゆらのそれは、美葛や真咲に接するときとはまったく違う、心の籠った、刺々しさなどどこにもない柔らかな声だった。
「それで、次の日も、その啜り泣きはずっと?」
「ずっと。朝方や昼間は鳴りを潜めていたけれど、暗くなるとまた途切れ途切れに聞こえてきて私を眠らせないの。昨日からはいよいよひどくなって、まだ日が高いうちにも聞こえるようになって……」
話しながら、琴音はまた黒雲に隠れるようにして顔を背けた。もゆらが今度こそ尻を浮かした。
「辛そうでいらっしゃる。琴音様、もしかして今も聞こえているのですか?」
「ええ。はっきりと。もゆら、お前には?」
「……申し訳ありません。私の耳には、何も」
隣の真咲が目で問うてきたので、美葛は小さく首を振ってみせた。
泣き声らしきものなどまったく聞こえない。
もゆらが振り向き、眉を寄せた真剣な顔で美葛を急かした。
「今この場で、琴音様のために何かして差し上げられないんですか? 狐の知恵だとか何だとか、色々あってしかるべきだと思いますけど」
「いや、急にそんなこと言われても……。何とかして差し上げたいけれど……」
美葛は唇を尖らせた。
隣で腕組みをしている真咲にしか打ち明けていないことが、実はある。
美葛は、化けるのは大の得意だが、他にはまだろくな術を使えないのだ。それこそ、団栗を銭に見せかける程度のつまらない幻術しか使えない。つまり、元の狐に戻ることを封じられてしまった今、美葛はただの物知らずな小娘に過ぎない。
大弱りのあまり目が泳ぎっぱなしの美葛を、しっかりしろ、と真咲が小さく鋭く励ました。
「できることをやるしかないだろう」
「できることって?」
「そうだな……。例の黒雲のこと。あれを話してみるとか」
「でも、私にしか見えてないのに」
「姫様だってそうだろう。ご自分にしか聞こえていない啜り泣きのことを明かしてくれたぞ」
言われてみれば確かに、と美葛は目を見開いた。
どうにかして事を収めたいというのなら打てる手を何でも打つしかない。
美葛は大きく息を吸った。背筋を伸ばし、意を決して黒雲のことを語り始めた。己にしか見えない妖しい雲が屋敷の中と言わず外と言わず漂っていること。どうやらそれは何人も呼ばれた術士たちの呪いによって生まれたものであるらしいこと――。
そうして皆に向かって話しながら、美葛自身、ようやくそのことに気が付いた。琴音はどうやら、漂う黒雲がその身にかかるたびに啜り泣きの声を耳にするらしかった。
目にしろ耳にしろ鼻にしろ、人のそれは美葛に言わせれば嫌になるほど鈍いのだ。
都の妖たちほど力があるなら別だが、例えば故郷の山々で見るともなく見ていた幽きものたちの姿となると、今の美葛はきっと眉間に皺を寄せて探さなければならない。鳥や獣の話す声はもちろん、木々の囁きや石塊の呟きもろくに聞き取れない。臭いを嗅げば大抵のことは知れたものなのにそれさえ覚束ない。
妙泉尼に術をかけられ、狐に戻ることができなくなって今日で三日。ただの変化とは違うせいだろう、日を追うにつれて、何もかもに見放されたような、あらゆる繋がりを絶たれたような、言い知れない心細さばかりが増していく。
人って凄いなあ、と美葛は皮肉っぽく思う。こんなにも不安で頼りない毎日を、何でもないことのように生きているのだから。
ただ、雅楽寮大允藤原為成の娘、琴音姫の場合は少々違っているようだった。天耳通というものだろうか、彼女には、並の人には聞き取れない音や声を捉える力が備わっているらしい。
「誰に話してみても、泣き声なんか聞こえないと返されてしまって……」
まるで萎れた一輪の花。沈んだ面持ちの琴音は、美葛たちを庇の間から母屋へと招いて自ら事の行立を語り出した。何とも恨めしげなその上目遣いは、自身の乳母でもあるという刀自へと主に向けられるようだった。
「風の音や家の軋みを、私の耳が勝手に啜り泣きと聞きなしているのだと言うの。けれど、これは絶対に違う。そんなものじゃない。高くなったり低くなったり、調子が変わったり声を詰まらせたりするもの。女の啜り泣き以外の何ものでもない」
「姫様は物事を悪く取って気にしすぎなのです」
刀自がたしなめる口調で遮った。この老女もまた、どこかの貴人の血に連なる方なのかもしれないと美葛は思った。顎を反らして取り澄ました様子がいかにもそれらしい。
「こぉんな小さい頃からずぅっとそうでございました。絵の中の女が口をきいただの、壺の中から笑い声が聞こえるだの。聞き違いに他ならないものをさも本当のように言ってこの婆を怖がらせ……、もとい、困らせる」
「本当だと感じたものを本当だと言って何が悪いの。どうして分かってくれないの」
「妖だの何だの、そういうものと絡めてお話をなさるのは止していただきたいというのです」
琴音の指図で、屏風や几帳や文机は残らず隅に片寄せられていた。美葛にしか見えない例の黒雲が思い出したように漂い過ぎていく他は、主と客の間を隔てる物など何一つない。
初め、この剥き出しのやりとりについて刀自は露骨に嫌な顔をした。とりわけ、男である真咲が遮る物なく己が養い君に目通りすることには難色を示した。しかし、当の琴音は何らお構いなしだった。啜り泣きとやらが薄気味悪くてそれどころではないのか、さもなければ聞く耳を持たない刀自への当て付けだろう。
折しも、琴音は黒雲の向こうでその青白い顔を顰めた。さながら雲に隠れる月だった。もゆらが心配そうに腰を浮かすのを、琴音が軽く上げた掌で制した。
「……最初に啜り泣きが聞こえたのは、《望月》が消えたと皆が騒いだ、その次の日の火点し頃。初めは、庭に迷子でもいるのかと思ったの。まだ分別のない小さな子供が、犬の子のように迷い込んで来るというのは、まったくないことでもないから。じき暗くなってしまうと思って、すぐに男たちに探させた。けれど……」
どこにも誰もいなかったという。
日暮れ間近な薄暗い庭先。聞こえてくる正体の知れない啜り泣き。
その取り合わせを思い描いてみて、美葛は不気味さに鳥肌が立つのを感じた。
見れば刀自も腕を擦っている。固く目を閉じて、声を出さずに念仏らしきものまで唱えている。
「結局、その啜り泣きが明け方まで途切れなく続いたの。私、ろくに眠れなくて」
「何とまあお気の毒に……」
もゆらのそれは、美葛や真咲に接するときとはまったく違う、心の籠った、刺々しさなどどこにもない柔らかな声だった。
「それで、次の日も、その啜り泣きはずっと?」
「ずっと。朝方や昼間は鳴りを潜めていたけれど、暗くなるとまた途切れ途切れに聞こえてきて私を眠らせないの。昨日からはいよいよひどくなって、まだ日が高いうちにも聞こえるようになって……」
話しながら、琴音はまた黒雲に隠れるようにして顔を背けた。もゆらが今度こそ尻を浮かした。
「辛そうでいらっしゃる。琴音様、もしかして今も聞こえているのですか?」
「ええ。はっきりと。もゆら、お前には?」
「……申し訳ありません。私の耳には、何も」
隣の真咲が目で問うてきたので、美葛は小さく首を振ってみせた。
泣き声らしきものなどまったく聞こえない。
もゆらが振り向き、眉を寄せた真剣な顔で美葛を急かした。
「今この場で、琴音様のために何かして差し上げられないんですか? 狐の知恵だとか何だとか、色々あってしかるべきだと思いますけど」
「いや、急にそんなこと言われても……。何とかして差し上げたいけれど……」
美葛は唇を尖らせた。
隣で腕組みをしている真咲にしか打ち明けていないことが、実はある。
美葛は、化けるのは大の得意だが、他にはまだろくな術を使えないのだ。それこそ、団栗を銭に見せかける程度のつまらない幻術しか使えない。つまり、元の狐に戻ることを封じられてしまった今、美葛はただの物知らずな小娘に過ぎない。
大弱りのあまり目が泳ぎっぱなしの美葛を、しっかりしろ、と真咲が小さく鋭く励ました。
「できることをやるしかないだろう」
「できることって?」
「そうだな……。例の黒雲のこと。あれを話してみるとか」
「でも、私にしか見えてないのに」
「姫様だってそうだろう。ご自分にしか聞こえていない啜り泣きのことを明かしてくれたぞ」
言われてみれば確かに、と美葛は目を見開いた。
どうにかして事を収めたいというのなら打てる手を何でも打つしかない。
美葛は大きく息を吸った。背筋を伸ばし、意を決して黒雲のことを語り始めた。己にしか見えない妖しい雲が屋敷の中と言わず外と言わず漂っていること。どうやらそれは何人も呼ばれた術士たちの呪いによって生まれたものであるらしいこと――。
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