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夫婦鼓
撥丸
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都を囲う山々の峰を夕暮れの光が照らす頃、屋敷はひどく慌ただしく、そして賑やかになった。
庭に会した破落戸たちが、今日の役目は終わりとばかりに酒を呑み始めたからだ。
妖しの黒雲が漂う中での酒宴は禍々しいことこの上もなく、美葛には鬼の酒盛りのようにも見えた。
屋敷に仕えるお仕着せの下男下女が右に左に行き交って鬼たちの飲み食いの世話を焼いた。酒と握り飯が好きなだけ供されるばかりではない。羹が出て来る、漬け物が出て来る、干し魚が出て来る、辛納豆が出て来る。さすがは貴人の邸宅と言うべきか、妻戸から外を覗く美葛は至れり尽くせりな様子に感心しきりだった。
「でも、あの人たち、お酒なんて飲んで平気なのかな」
仮にも盗人に備えて招かれたのなら、気を引き締めるべきは日が沈んでからではないだろうか――。
などと心配する美葛はそのとき、妙な物を見かけていよいよ眉を寄せた。無頼の連中ともお仕着せの者たちとも違う、七つか八つくらいに見える子供の姿だ。宴の騒ぎをよそに、俯き加減の彼は何かを探す素振りできょろきょろしながら庭を行き来している。
「何をしてるんだろう……」
目敏い数人が美葛を見つけて、こっちへ来て一緒に飲めだの酌をしろだのと大声で喚いた。慌てて首を引っ込めた美葛が音高く戸を閉めると、破れ鐘じみた耳障りな笑い声がひとしきり外を響もした。
「美葛、集まったぞ」
呼びに来てくれた真咲の姿にほっとした。並んで庇の間へ向かいながら、美葛は小さく礼を言った。
「さっきはありがとうね、助け船を出してくれて。真咲に言われなかったら、私、あの黒雲のこと、皆に話そうなんて考えもしなかったよ」
別に、と真咲は口元だけで微笑んだ。
「どうしようもない時ってのは、俺が思うに、何でも良いからした方がいい時なんだ」
灯りを点した庇の間には、琴音、刀自、もゆら、美葛と真咲の他に下女が三人呼びつけられていた。
いずれも《望月》が消えたことについて一言あるという者たちだ。
美葛にしか見えない黒雲と琴音にしか聞こえない啜り泣き。二つの間に関わりがあるかもしれないことは分かったが、それがいったいどんな関わりのか判然としない。何か新たに分かることがあればと、美葛から頼んで、事が起こってからこれまでのことを改めて聞かせてもらうことにしたのだった。
「盗人が入ったのに相違ありません。私、共に働く仲間の中に手引きした者がいなかったかと案じております」
のっけからとんでもない言葉が飛び出して、他所の屋敷のことながら美葛ははらはらした。
呼ばれた三名の中では最も年若い、と言っても三十路間近ではあるだろう、いかにも気の強そうな吊り目の下女だった。彼女、七絃はやたらと前のめりだった。
「この屋敷の蔵は、姫様の父君、為成様が蒐集なさった鳴物を収めるための、言わば宝物庫。中には一張りで屋敷が建とうかという高価な箏やら琵琶やら、楽士なら垂涎ものの名鼓名笛やらがごろごろしております。とんでもないことを、と思われるでしょうけれど、私、前から考えていたのです。もしも私が賊の頭なら真っ先にこの屋敷を狙うのに、と」
「とんでもないことを」
刀自が皺の深い口許をわななかせた。主の姫君をも前にしながら、七絃はしかし悪びれない。
「何しろ男より女の方がずっと多い屋敷ですし、その男というのもまた、腕っ節の強そうな者など一人としておりません。蔵の扉には古い海老錠が掛けてあるだけ。不寝番がいるわけでもない。どうしてこれまで狙われなかったのかが不思議なくらいです」
「いい加減にせい! 姫様の前で!」
「刀自、私は屋敷の今後を案じてこのように申し上げているのです。ここは値打ちのある物が多い割に護りが薄過ぎます」
屋敷のこれからを憂うらしい七絃は片膝を立てて拳を握り、いよいよ声を張り上げる。
「《望月》だけを盗ったのは恐らく様子見のため。賊は今、我々が再び油断する時を静かに待っているはず。各々方、ゆめゆめ気を抜いたりなさいませんよう。私が集めに集めた腕に覚えのある男たちを、この後も屋敷のあちこちに配して、来たるべきその日に備えるといたしましょう」
庭の連中を呼び寄せたのは彼女だったようだ。美葛はなぜかしら納得の思いだった。
屋敷で働く者すべてに護りの小刀を持たせるだの、万一の時に備えて戦うための術を身に付けさせるだの、話がどんどん物騒になっていくのを真咲が手を上げて止めた。
「手引きした者がいなかったか、と今しがた仰った。疑わしい方がいらっしゃるので?」
「おりません!」
強く言い切ったのは刀自だった。
「姫様に仕える者たちの長として、私は一人ひとりと会って懇ろに話をいたしました。蔵に物がない以上、盗人の仕業かもしれないという疑いはもちろん捨てられません。ただ、手引きだの様子見だのといった剣呑な話は、あんまり穿《うが》ちすぎていて、とてもとても」
「仲の良い者ばかりですものねえ、うちは」
これも呼ばれた三名の内の一人、ふくよかという以上にふくよかな垂れ目の年増、小鈴がおっとりと微笑んだ。他の者には見えない花園に一人きり佇んでいるかのような、美葛から見てもぽやっとした雰囲気を漂わせる女だ。
「何しろお手当は充分に頂いております。家内の物を盗らねば立ち行かないほど暮らしに困っている者がいるなどという話、少なくとも私は聞きません。老いも若きも鳴物が好きで、為成様や姫様の許しがあれば、めいめい好きな得物を蔵から持ち出して音を合わせたりもする。手引きだとか様子見だとかは本当、穿ちすぎです。うちにはちっともそぐわないのですもの」
「けれど、《望月》がなくなった事実そのものは動かしようがありません」
七絃が顎を反らして強く言い返した。
「こっそり蔵の扉の鍵を開けた者がいたのでなければ、誰がどうやってあの鼓を持ち出したというのです」
「今度のこと、撥丸の悪戯だろうと私は思っております」
福相をほころばせた小鈴の何でもないような一言に、琴音も刀自も七絃も、屋敷の者たちはなぜか揃って真っ青になった。誰も彼も息を呑んで口許を覆ってしまった。
撥丸だなんて珍しい名、などと暢気に思った美葛の斜め前で、誰よりも早く気を取り直した刀自が強く床を叩いた。
「戯けたことを! あんな明るくて心根の優しい、皆に好かれた子が、ど、どうして《望月》を持ち出して姫様や私らを困らせたりする!」
「だってそれは……、刀自、お忘れですか? 撥丸は、鳴物の中でも特に鼓が好きな子だったじゃありませんか」
開きかけた口を噤んで、眉間を摘まんだ刀自は力なく俯いた。心底悩ましそうに溜息を漏らした。
話についていけない美葛たちに、うちにいた下男の一人です、と琴音が囁いて教えてくれた。
「去年の今頃、引き込んだ風邪をこじらせて死んでしまったのですけれど」
美葛は遅蒔きの怖気に襲われた。小鈴はなおも笑顔を崩さない。
「鳴物への強い執着が、撥丸の霊に《望月》を持ち出させたに違いありません。死んだ後も大好きな鼓を打ちたかったのですね。もちろん私、哀しくて痛ましいことだと思っておりますよ。なので、あちこち人を遣って招きに招いた術師や法師の皆様方には、失せ物探しばかりでなく、撥丸の霊を慰めてやることにも力を注いで頂きたいと、そう強くお願い申し上げておきました」
「また勝手なことを……!」
刀自がまた床を叩いて、美葛にはどこか空しくも聞こえる下女たちの言い合いが再び始まった。
庭に会した破落戸たちが、今日の役目は終わりとばかりに酒を呑み始めたからだ。
妖しの黒雲が漂う中での酒宴は禍々しいことこの上もなく、美葛には鬼の酒盛りのようにも見えた。
屋敷に仕えるお仕着せの下男下女が右に左に行き交って鬼たちの飲み食いの世話を焼いた。酒と握り飯が好きなだけ供されるばかりではない。羹が出て来る、漬け物が出て来る、干し魚が出て来る、辛納豆が出て来る。さすがは貴人の邸宅と言うべきか、妻戸から外を覗く美葛は至れり尽くせりな様子に感心しきりだった。
「でも、あの人たち、お酒なんて飲んで平気なのかな」
仮にも盗人に備えて招かれたのなら、気を引き締めるべきは日が沈んでからではないだろうか――。
などと心配する美葛はそのとき、妙な物を見かけていよいよ眉を寄せた。無頼の連中ともお仕着せの者たちとも違う、七つか八つくらいに見える子供の姿だ。宴の騒ぎをよそに、俯き加減の彼は何かを探す素振りできょろきょろしながら庭を行き来している。
「何をしてるんだろう……」
目敏い数人が美葛を見つけて、こっちへ来て一緒に飲めだの酌をしろだのと大声で喚いた。慌てて首を引っ込めた美葛が音高く戸を閉めると、破れ鐘じみた耳障りな笑い声がひとしきり外を響もした。
「美葛、集まったぞ」
呼びに来てくれた真咲の姿にほっとした。並んで庇の間へ向かいながら、美葛は小さく礼を言った。
「さっきはありがとうね、助け船を出してくれて。真咲に言われなかったら、私、あの黒雲のこと、皆に話そうなんて考えもしなかったよ」
別に、と真咲は口元だけで微笑んだ。
「どうしようもない時ってのは、俺が思うに、何でも良いからした方がいい時なんだ」
灯りを点した庇の間には、琴音、刀自、もゆら、美葛と真咲の他に下女が三人呼びつけられていた。
いずれも《望月》が消えたことについて一言あるという者たちだ。
美葛にしか見えない黒雲と琴音にしか聞こえない啜り泣き。二つの間に関わりがあるかもしれないことは分かったが、それがいったいどんな関わりのか判然としない。何か新たに分かることがあればと、美葛から頼んで、事が起こってからこれまでのことを改めて聞かせてもらうことにしたのだった。
「盗人が入ったのに相違ありません。私、共に働く仲間の中に手引きした者がいなかったかと案じております」
のっけからとんでもない言葉が飛び出して、他所の屋敷のことながら美葛ははらはらした。
呼ばれた三名の中では最も年若い、と言っても三十路間近ではあるだろう、いかにも気の強そうな吊り目の下女だった。彼女、七絃はやたらと前のめりだった。
「この屋敷の蔵は、姫様の父君、為成様が蒐集なさった鳴物を収めるための、言わば宝物庫。中には一張りで屋敷が建とうかという高価な箏やら琵琶やら、楽士なら垂涎ものの名鼓名笛やらがごろごろしております。とんでもないことを、と思われるでしょうけれど、私、前から考えていたのです。もしも私が賊の頭なら真っ先にこの屋敷を狙うのに、と」
「とんでもないことを」
刀自が皺の深い口許をわななかせた。主の姫君をも前にしながら、七絃はしかし悪びれない。
「何しろ男より女の方がずっと多い屋敷ですし、その男というのもまた、腕っ節の強そうな者など一人としておりません。蔵の扉には古い海老錠が掛けてあるだけ。不寝番がいるわけでもない。どうしてこれまで狙われなかったのかが不思議なくらいです」
「いい加減にせい! 姫様の前で!」
「刀自、私は屋敷の今後を案じてこのように申し上げているのです。ここは値打ちのある物が多い割に護りが薄過ぎます」
屋敷のこれからを憂うらしい七絃は片膝を立てて拳を握り、いよいよ声を張り上げる。
「《望月》だけを盗ったのは恐らく様子見のため。賊は今、我々が再び油断する時を静かに待っているはず。各々方、ゆめゆめ気を抜いたりなさいませんよう。私が集めに集めた腕に覚えのある男たちを、この後も屋敷のあちこちに配して、来たるべきその日に備えるといたしましょう」
庭の連中を呼び寄せたのは彼女だったようだ。美葛はなぜかしら納得の思いだった。
屋敷で働く者すべてに護りの小刀を持たせるだの、万一の時に備えて戦うための術を身に付けさせるだの、話がどんどん物騒になっていくのを真咲が手を上げて止めた。
「手引きした者がいなかったか、と今しがた仰った。疑わしい方がいらっしゃるので?」
「おりません!」
強く言い切ったのは刀自だった。
「姫様に仕える者たちの長として、私は一人ひとりと会って懇ろに話をいたしました。蔵に物がない以上、盗人の仕業かもしれないという疑いはもちろん捨てられません。ただ、手引きだの様子見だのといった剣呑な話は、あんまり穿《うが》ちすぎていて、とてもとても」
「仲の良い者ばかりですものねえ、うちは」
これも呼ばれた三名の内の一人、ふくよかという以上にふくよかな垂れ目の年増、小鈴がおっとりと微笑んだ。他の者には見えない花園に一人きり佇んでいるかのような、美葛から見てもぽやっとした雰囲気を漂わせる女だ。
「何しろお手当は充分に頂いております。家内の物を盗らねば立ち行かないほど暮らしに困っている者がいるなどという話、少なくとも私は聞きません。老いも若きも鳴物が好きで、為成様や姫様の許しがあれば、めいめい好きな得物を蔵から持ち出して音を合わせたりもする。手引きだとか様子見だとかは本当、穿ちすぎです。うちにはちっともそぐわないのですもの」
「けれど、《望月》がなくなった事実そのものは動かしようがありません」
七絃が顎を反らして強く言い返した。
「こっそり蔵の扉の鍵を開けた者がいたのでなければ、誰がどうやってあの鼓を持ち出したというのです」
「今度のこと、撥丸の悪戯だろうと私は思っております」
福相をほころばせた小鈴の何でもないような一言に、琴音も刀自も七絃も、屋敷の者たちはなぜか揃って真っ青になった。誰も彼も息を呑んで口許を覆ってしまった。
撥丸だなんて珍しい名、などと暢気に思った美葛の斜め前で、誰よりも早く気を取り直した刀自が強く床を叩いた。
「戯けたことを! あんな明るくて心根の優しい、皆に好かれた子が、ど、どうして《望月》を持ち出して姫様や私らを困らせたりする!」
「だってそれは……、刀自、お忘れですか? 撥丸は、鳴物の中でも特に鼓が好きな子だったじゃありませんか」
開きかけた口を噤んで、眉間を摘まんだ刀自は力なく俯いた。心底悩ましそうに溜息を漏らした。
話についていけない美葛たちに、うちにいた下男の一人です、と琴音が囁いて教えてくれた。
「去年の今頃、引き込んだ風邪をこじらせて死んでしまったのですけれど」
美葛は遅蒔きの怖気に襲われた。小鈴はなおも笑顔を崩さない。
「鳴物への強い執着が、撥丸の霊に《望月》を持ち出させたに違いありません。死んだ後も大好きな鼓を打ちたかったのですね。もちろん私、哀しくて痛ましいことだと思っておりますよ。なので、あちこち人を遣って招きに招いた術師や法師の皆様方には、失せ物探しばかりでなく、撥丸の霊を慰めてやることにも力を注いで頂きたいと、そう強くお願い申し上げておきました」
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