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夫婦鼓
出奔
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刀自と二人の下女の終わらない言い合いに、隣の琴音が小さな吐息を漏らした。
手元の扇を開いたり閉じたり。どうしてこうも憂わしいことばかりなのかと思い詰めるような面差しだ。
内心どきどきしながら、美葛は思い切って声をかけてみた。
「あの、姫様、そろそろお疲れなんじゃありませんか? 日も暮れましたし、お休みになられたら……」
「いいえ、平気です。大事な鼓が消えて、皆はこうして詮議を続けているというのに、主の私が休んでなどいられません。ええと……」
鼻から下を扇で隠し、琴音が小首を傾げた。
問いたげな眼差しに、美葛です、と名乗って微笑み返す。
まともに取り合ってもらえそうで安心した。下賤の者が話しかけるな、などと言われてしまったらどうしようかと、実は心配していたのだ。
「すみません姫様。私が言い出した事で、何だかこう、皆様に仲違いをさせてしまったみたいで」
「謝ることなどないと思います。事に臨んで、これまでの成り行きを知りたいとお考えになるのは、当たり前のことでしょう。それに、これくらいの言い合い、この屋敷ではいつものことですから」
お気になさらず、と困り顔ではあっても穏やかに言い添えてもらって、美葛は心底ほっとした。したのだが――。
「……あの、ええと、何か?」
琴音が、なおもこちらをしげしげと見つめてくるのだった。瞬きを繰り返すきれいな瞳には素直な感心の色が見て取れた。
「美葛殿は狐……、しかも白狐でいらっしゃるとか。ずいぶん上手く化けておいでなのですね。耳も尻尾もお出しにならない」
「ええ、まあその、恥ずかしながらにわかの白狐です」
「にわか、ですか?」
「それに、出さないというより、出せないというのが今は正しくて」
美葛は琴音に、ここへ至るまでの道筋を掻い摘まんで話した。
立派な狐になるという母との約束を果たすために山を下りたこと。同じく母との約束のために都を目指す真咲に同道を願い出たこと。市町の商人から団栗の銭で餅を買ったこと。それを妙泉尼に見つかって調伏されたこと。罰としてこの通り人の姿に留め置かれ、立て替えてもらった餅代を返すまでは狐に戻してもらえないこと。
いちいち頷きながら聞いていた琴音は、とりわけ、美葛も真咲も共に母を亡くした身だという所では深い同情を寄せてくれた。彼女もまた、幼くして母を失ったらしかった。
お高くとまったような所がなく、おっとりして話しやすい。貴顕の姫君たち皆が琴音のようであったらいいな、と美葛は思った。下々の話を親身になって聞く度量がある。そもそも、美葛が化け狐だという話を笑わずに受け入れてくれる、それだけでも大した心の広さではないだろうか。
話を聞き終えた琴音は、それでは、と柔らかな笑みを浮かべた。
「無事に《望月》を見つけて頂けたなら、お礼の品とは別に、妙泉尼様へ返す餅代も、私どもから出させて頂きましょうか」
「え、本当ですか?」
「出来心から犯した罪はあっても、美葛殿は、進んで悪さをするような狐ではない。話を聞いていてそう感じました。そのことも、併せて私からお伝えしたいと思います」
「嬉しい……!」
「ちょっとちょっと、そこ、まだ手掛かりさえ見つけていないことをお忘れなく」
もゆらに脇からちくりとやられてもお構いなし、美葛はその場で小躍りして喜んだ。
ところが、だった。
はしゃぐ美葛を前にして、琴音の微笑みが次第に翳りを帯びていった。
気付いた美葛は慌ててしまった。
「姫様あの、ど、どうしました? 私、今度こそ何か、悪いことでも……」
「……いいえ。違うのです。さっき話に出た撥丸のこと。あの子も、今の美葛殿のように、とても素直に、喜んだり哀しんだりしていたなあ、と思って。色々と、思い出してしまって」
琴音が小さく鼻を啜る。いつしか場はすっかり静まり返っていた。
琴音が訥々と語るところによると、撥丸はそもそも孤児だったという。物心付くまで悲田院という場所で養われていたのが、縁あって琴音の屋敷で下男として働くことになったらしかった。
「とても聡い子でした。それに明るかった。あの子が来てから、屋敷はとても賑やかになった」
「せっかく鳴物があるのだから皆で音を合わせたいと言い出したのも、撥丸でございましたねえ」
刀自も皺の深い目尻を濡らしていた。七絃も小鈴も睫毛を伏せて項垂れている。
しんみりしてしまった庇の間の静寂を、その時、もにょもにょという誰かの声が破った。
呼ばれた下女たちの三人目、年配の刀自よりも更に一回りは年嵩に違いない、気の毒なほど老い屈んだ小さな小さな媼のものだった。
媼の声は極めて小さく、どこかうわごとめいていてあまりにも聞き取りづらい。耳の遠い彼女に寄り添った刀自が噛み付くようにがなり立てて、ようやくすべてを聞き出すことができた。媼はどうやら、《望月》は自ら屋敷を出て行ったと言い張るらしかった。
これはまた、と真咲が半笑いを浮かべた。
「『身内に盗人』、『死人の悪戯』と来て最後は『付喪神の家出』か」
付喪神。年経た器物に霊が宿って――、というあれのことだ。美葛もそれくらいは知っていた。ただ、木石の変化になら仲良しもいるが付喪神に知り合いは一つもいない。
「《望月》が蔵から転がり出て行くのを、確かに見たと仰るのですね?」
もゆらの声高な問いかけに、媼ははっきりと頷いた。
媼は屋敷の誰よりも年長で、誰よりも朝が早い。仕事があろうとなかろうと早い。五日前の未明、やはり早々に寝床を上げた媼は、庭に下りて、かねて世話をしている菊の籬を見ていたらしい。しばらくすると、いつも通り鳴物の清拭のため蔵に入っていく下女たちの姿が見えた。普段と変わらない様子だったが、その時、妙な物が動くのにふと気付いた。開いた扉の隙間からころころと転がり出て来て女たちの足元を行き過ぎる、何かの丸い影だった。
影は短い階を弾むようにして下り、朝ぼらけの庭を横切り、下男によって開けられて間もない表門から外へと出て行った。
「それが《望月》のように見えた、と。そのこと、屋敷の皆様にはすぐにお伝えしたのですか?」
もゆらが重ねて問うと、媼は小さな身体をいよいよ小さくして、すまなそうに首を振った。軽々しく口にしてうっかり祟られでもしたらと、我が身可愛さに今日この時まで言えずにいたという。
何しろ人が人で事が事。年寄りの夢か見間違いかもしれないというのでその場の誰も媼を責めたりはしなかった。
もう話すことはないけれどいかが、とばかりに下女たちの目が美葛の方へと向けられた。美葛は大いに弱ってしまった。誰の陳ずる話にも、例の啜り泣きに関わりのありそうな点が見つからなかったからだ。また助け船を期待して真咲を見ると、彼は目を合わせてもくれずにひょいと肩を竦めた。
「今の付喪神の話が本当なら」
気まずい沈黙を破ったのは、ずっと思案顔で俯いていた琴音だった。
「《望月》が消えて悲しがりそうな物に、私、心当たりがあります」
手元の扇を開いたり閉じたり。どうしてこうも憂わしいことばかりなのかと思い詰めるような面差しだ。
内心どきどきしながら、美葛は思い切って声をかけてみた。
「あの、姫様、そろそろお疲れなんじゃありませんか? 日も暮れましたし、お休みになられたら……」
「いいえ、平気です。大事な鼓が消えて、皆はこうして詮議を続けているというのに、主の私が休んでなどいられません。ええと……」
鼻から下を扇で隠し、琴音が小首を傾げた。
問いたげな眼差しに、美葛です、と名乗って微笑み返す。
まともに取り合ってもらえそうで安心した。下賤の者が話しかけるな、などと言われてしまったらどうしようかと、実は心配していたのだ。
「すみません姫様。私が言い出した事で、何だかこう、皆様に仲違いをさせてしまったみたいで」
「謝ることなどないと思います。事に臨んで、これまでの成り行きを知りたいとお考えになるのは、当たり前のことでしょう。それに、これくらいの言い合い、この屋敷ではいつものことですから」
お気になさらず、と困り顔ではあっても穏やかに言い添えてもらって、美葛は心底ほっとした。したのだが――。
「……あの、ええと、何か?」
琴音が、なおもこちらをしげしげと見つめてくるのだった。瞬きを繰り返すきれいな瞳には素直な感心の色が見て取れた。
「美葛殿は狐……、しかも白狐でいらっしゃるとか。ずいぶん上手く化けておいでなのですね。耳も尻尾もお出しにならない」
「ええ、まあその、恥ずかしながらにわかの白狐です」
「にわか、ですか?」
「それに、出さないというより、出せないというのが今は正しくて」
美葛は琴音に、ここへ至るまでの道筋を掻い摘まんで話した。
立派な狐になるという母との約束を果たすために山を下りたこと。同じく母との約束のために都を目指す真咲に同道を願い出たこと。市町の商人から団栗の銭で餅を買ったこと。それを妙泉尼に見つかって調伏されたこと。罰としてこの通り人の姿に留め置かれ、立て替えてもらった餅代を返すまでは狐に戻してもらえないこと。
いちいち頷きながら聞いていた琴音は、とりわけ、美葛も真咲も共に母を亡くした身だという所では深い同情を寄せてくれた。彼女もまた、幼くして母を失ったらしかった。
お高くとまったような所がなく、おっとりして話しやすい。貴顕の姫君たち皆が琴音のようであったらいいな、と美葛は思った。下々の話を親身になって聞く度量がある。そもそも、美葛が化け狐だという話を笑わずに受け入れてくれる、それだけでも大した心の広さではないだろうか。
話を聞き終えた琴音は、それでは、と柔らかな笑みを浮かべた。
「無事に《望月》を見つけて頂けたなら、お礼の品とは別に、妙泉尼様へ返す餅代も、私どもから出させて頂きましょうか」
「え、本当ですか?」
「出来心から犯した罪はあっても、美葛殿は、進んで悪さをするような狐ではない。話を聞いていてそう感じました。そのことも、併せて私からお伝えしたいと思います」
「嬉しい……!」
「ちょっとちょっと、そこ、まだ手掛かりさえ見つけていないことをお忘れなく」
もゆらに脇からちくりとやられてもお構いなし、美葛はその場で小躍りして喜んだ。
ところが、だった。
はしゃぐ美葛を前にして、琴音の微笑みが次第に翳りを帯びていった。
気付いた美葛は慌ててしまった。
「姫様あの、ど、どうしました? 私、今度こそ何か、悪いことでも……」
「……いいえ。違うのです。さっき話に出た撥丸のこと。あの子も、今の美葛殿のように、とても素直に、喜んだり哀しんだりしていたなあ、と思って。色々と、思い出してしまって」
琴音が小さく鼻を啜る。いつしか場はすっかり静まり返っていた。
琴音が訥々と語るところによると、撥丸はそもそも孤児だったという。物心付くまで悲田院という場所で養われていたのが、縁あって琴音の屋敷で下男として働くことになったらしかった。
「とても聡い子でした。それに明るかった。あの子が来てから、屋敷はとても賑やかになった」
「せっかく鳴物があるのだから皆で音を合わせたいと言い出したのも、撥丸でございましたねえ」
刀自も皺の深い目尻を濡らしていた。七絃も小鈴も睫毛を伏せて項垂れている。
しんみりしてしまった庇の間の静寂を、その時、もにょもにょという誰かの声が破った。
呼ばれた下女たちの三人目、年配の刀自よりも更に一回りは年嵩に違いない、気の毒なほど老い屈んだ小さな小さな媼のものだった。
媼の声は極めて小さく、どこかうわごとめいていてあまりにも聞き取りづらい。耳の遠い彼女に寄り添った刀自が噛み付くようにがなり立てて、ようやくすべてを聞き出すことができた。媼はどうやら、《望月》は自ら屋敷を出て行ったと言い張るらしかった。
これはまた、と真咲が半笑いを浮かべた。
「『身内に盗人』、『死人の悪戯』と来て最後は『付喪神の家出』か」
付喪神。年経た器物に霊が宿って――、というあれのことだ。美葛もそれくらいは知っていた。ただ、木石の変化になら仲良しもいるが付喪神に知り合いは一つもいない。
「《望月》が蔵から転がり出て行くのを、確かに見たと仰るのですね?」
もゆらの声高な問いかけに、媼ははっきりと頷いた。
媼は屋敷の誰よりも年長で、誰よりも朝が早い。仕事があろうとなかろうと早い。五日前の未明、やはり早々に寝床を上げた媼は、庭に下りて、かねて世話をしている菊の籬を見ていたらしい。しばらくすると、いつも通り鳴物の清拭のため蔵に入っていく下女たちの姿が見えた。普段と変わらない様子だったが、その時、妙な物が動くのにふと気付いた。開いた扉の隙間からころころと転がり出て来て女たちの足元を行き過ぎる、何かの丸い影だった。
影は短い階を弾むようにして下り、朝ぼらけの庭を横切り、下男によって開けられて間もない表門から外へと出て行った。
「それが《望月》のように見えた、と。そのこと、屋敷の皆様にはすぐにお伝えしたのですか?」
もゆらが重ねて問うと、媼は小さな身体をいよいよ小さくして、すまなそうに首を振った。軽々しく口にしてうっかり祟られでもしたらと、我が身可愛さに今日この時まで言えずにいたという。
何しろ人が人で事が事。年寄りの夢か見間違いかもしれないというのでその場の誰も媼を責めたりはしなかった。
もう話すことはないけれどいかが、とばかりに下女たちの目が美葛の方へと向けられた。美葛は大いに弱ってしまった。誰の陳ずる話にも、例の啜り泣きに関わりのありそうな点が見つからなかったからだ。また助け船を期待して真咲を見ると、彼は目を合わせてもくれずにひょいと肩を竦めた。
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