歌と狐と春の雪

夕辺歩

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夫婦鼓

夕星

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 蔵へ行くためには、どうしても庭を通らなければならなかった。
 無頼漢ぶらいかんたちの、まだまだ終わりそうにないどころかとさえ見える酒宴のすぐ脇を、琴音に頭から布を被せて皆で囲いながら進むのは一仕事だった。
 刀自に命じられた下男たちが間に立って遮るように両手を広げてはいたが、いくら怒鳴られても叱られても、赤ら顔の酔漢どもは一行にたわむれかかることを止めなかったからだ。美葛には、中に何匹か猿が紛れていてもそれとは分からないかもしれないとまで思えた。

「お酒って怖いんだね」

 思わず呟くと、真咲に鼻で笑われた。

「美葛は、酒を飲んだことは?」
「舐めたこともないよ」
「甘くて美味いのに」
「勧められても嫌。飲まない。こんなお猿たちの仲間になり下がりかねないならね」
「気持ちは分かる。……ところで、例の黒雲はまだ見えるのか」
「見える見える。もう、凄いことになってるよ」

 真咲にも見えたらいいのに、と素直に思う。無礼講ぶれいこうの宴をいっそう不穏なものに見せる禍々しい黒雲たち。嫌だ嫌だと思う心のせいだろうか、美葛には、蔵に近付けば近付くほど、漂う黒雲のかさが増していくようにも感じられた。
 その高殿は、美葛と真咲の故郷、常陸国は信太しだの里で最も大きな寺の本堂よりもまだ大きかった。檜皮葺ひわだぶきの屋根を反らせてどっしりと構えた姿は壮観そのもの。蔵とは名ばかり、美葛にはまるで天人てんにんの住まう堂宇どううであるかのように見えた。
 刀自、琴音、もゆら、美葛、そして真咲の順に中へ入った。
 扉を閉めると宴の賑やかさはたちまち遠退いた。
 間仕切りのない広い屋内は、一言で表わすなら混沌としていた。これでもかというほどの鳴物で溢れかえっていたのだ。
 笛の長いの短いの。その換え筒や舌に当たるもの。鼓の大きいの小さいの。かつらやら柘植つげやらいちいやら、材も多様な笏拍子しゃくびょうし。鈴もかね法螺ほらも、美葛の目には鳴物に見えないような物まで、本当に色々あった。
 大抵の品は桐で作られた棚に見栄え良く飾られているが、もちろんそれだけではない。どうにか人が通れるだけの幅を残して、床にも青い貝で細工したきらきらしいそうや黒光りする琵琶びわなどがずらりと並べられていた。それらのほとんどがふちを取った上等な敷物の上に載せられていた。
 奥の方では、両脇に鉦鼓しょうこ鞨鼓かっこを従えた楽太鼓がくだいこがその大きさと極彩色で一際目を引いている。あちこちに据えられた結び灯台の光に照らされて、何もかもが金銀飴色象牙色きんぎんあめいろぞうげいろに輝いている。類い希なこの光景のことを、美葛はとてもとても残念に思った。このどんより重たい黒雲さえ立ち籠めていなければどんなに壮観だっただろう。

「どうかしてるな、貴人あてびとってのは」

 しばらく蔵の中を見回していた真咲が、やっとの様子で絞り出した一言だった。

「滅多に見られない物を見てるせいか、妙に息苦しい気がする。……っておい、おい平気か。美葛」

 正直、美葛には呼びかけに応じる心のゆとりもなかった。
 蔵の中に漂う妖しの黒雲は、屋敷のどこで見たものよりも色濃くて深かったのだ。蔵に近付くほど嵩を増すように思われた、先程のあの感じは間違っていなかったらしい。ここまで濃いとこちらの心身にも差し響くようで、美葛は足を踏み入れた時から己の肩を強く抱き、あまりの悪寒の酷さに顔を顰めっぱなしだった。

「姫様! 姫様!」

 声を上げたのは刀自だった。
 美葛と同じような苦しい思いをしているのに違いない、琴音が袖で口許を押さえて俯き、その身をよろめかせた。もゆらが刀自と一緒になって姫君の細い身体を支えた。琴音は、覗き込む美葛と目が合うと、あらぬ方を指し示してとうとう気を失った。
 何やら大事な物を託されたような気分で、我知らず背筋が伸びた。まぶたを伏せた美葛は、心で手探りでもするようにを探し始めた。満ち満ちた妖しの黒雲の中、いとわしさを堪えて歩を進め、他とは違う何かを見つけ出そうと試みる。
 やがて、耳の産毛に触れそうで触れないくらいの、あまりにもかすかな、響きになる前の響きとでも呼ぶしかないような何かを見つけた。美葛はそろそろとそちらへ向かった。息を殺したまま、蜘蛛の糸よりも遙かに細いその何かを手繰っていく。床のきしみに邪魔をされても、美葛の耳は一度ひとたび捉えたその感じを失いはしなかった。
 響きは近付くほどはっきりとしてきた。大小の鼓がきれいに並べられた棚だった。今や、それは聞き間違えようもない女のすすり泣きとして耳に届いた。
 棚の一部、ちょうど美葛の目の高さにぽっかりと空きがある。《望月》は恐らくそこにあったのだろう。そのすぐ左隣、他の鼓と同じくやや傾けて飾ってある一張りを、美葛はそっと手に取った。

「貴女が、姫様の仰った《夕星ゆうずつ》ね?」



 急遽きゅうきょ、蔵の母屋を占領していた鳴物たちが隅に片寄せられ、皆が集まって座れるだけの空きが作られた。
 やや黄味の強い革に赤い調べ緒。黒漆塗りの胴には金の蒔絵で山の峰と宵の明星。車座の中央に据えられた小鼓《夕星》は、美葛の目と心を惹き付けて離さなかった。ただし、姿の美しさよりもむしろその嘆きの深さゆえに、だった。

『きっともう二度と会えないのです』

《夕星》は、もう何度目だろう、涙声で美葛にそうこぼした。

『本当に、思いもしませんでした。長い時をむつまじく過ごしてきて、最後にこんな情けない別れが待っているなんて』
「うん、そうだね。本当、可哀想に……。でも《夕星》お願い、悲しむのはそれくらいにしてちょっと私の話を」
『あの時、どうしてもっと強く言って引き留めなかったかと、私は悔やまれて悔やまれて……』

 少しだけ形を変えた、同じ中身の話がまた繰り返されつつあった。
 美葛は居心地の悪さを感じて仕方がなかった。琴音を除く三人、刀自、もゆら、真咲の、どこか冷めたような眼差しが痛い。琴音が気を失っている今、《夕星》の声を聞き取れるのは美葛だけなので、彼女が他の三人に鼓の言葉を語って聞かせているのだが――。

「話がちっとも前に進まないじゃありませんか」

 もゆらが痺れを切らした様子で大きな溜息を漏らした。

「姫様の手前、強くは言いませんけれど、本当なら美葛殿の正気を疑っている所ですよ。その鼓、本当に口をきいているんでしょうね」
「だから本当だったら。どうして疑うの」
「聞こえないからに決まっているじゃありませんか」

 こしらえ事なのではないかと怪しむらしい。真咲と刀自の顔からも、もゆらほどではないが似たような思いが窺えた。嘘などついても美葛には何の得もないことくらい誰もが分かっているはずなのだが、それでもやはり、心からの納得は難しいのだろう。

「ああもう、焦れったい。ちょっと失礼しますよ」

 もゆらは、膝でにじって進み出ると大胆にも小鼓に手を伸ばし、目の高さに抱え上げた。

「しっかりなさい《夕星》。《望月》に戻って来て欲しいのでしょう? 詳しいことを話して頂かないと何も始まりませんよ。うじうじめそめそ情けない。いっそこちらから探しに行くくらいの強い気持ちがなくてどうしますか!」

 怖い物知らずここに極まれり。見ていて美葛の方がどきどきした。付喪神を捕まえて叱りつける童女など聞いたこともない。
 見ていられなくなった美葛は、もゆらをなだめて《夕星》を取り上げた。よしよしと撫でながら語りかける。《夕星》はすっかり怯えて、微かに震えているようでさえあった。

「ごめんごめん、怖かったね。でも、もゆらの言うことも本当だと思うよ。ねえ《夕星》、諦めないで、私たちに詳しく話してみて。《望月》はどうしてここを出て行ったの? 何か理由があったんでしょう?」

 さめざめと、涙を流さずに泣き続けていた《夕星》は、忌日きにちだったのです、とようやく語り出した。

『あの日は、死んだ撥丸ばちまるの忌日だったのです』
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