歌と狐と春の雪

夕辺歩

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夫婦鼓

黒雲

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 いつしか表の騒ぎは鳴りを潜めていた。
 酔った男たちの多くは、食い荒らした小鉢や皿もそのままにどこかへ散ったらしい。残ったのは夜番の数人と戻る家を持たない者ばかりだ、と下男の一人が告げに来た。
 彼が去るのを待って《夕星ゆうずつ》が再び語り始めた。大和国やまとのくに多武峰とうのみねふもとにひっそりと佇むその集落は、桜と鼓の里として、都の貴人たちの間でもかねてから知られていたという。

『里の鼓作りは色々な匠たちの仕事で成り立っていました。胴を彫る者、漆を塗る者、蒔絵を施す者、革を張る者、調べ緒を編む者……。親は子に技を伝え、子は親を助けながらその技を授かり、磨きながら受け継いで、そうしてそれぞれの家業を守り続けていたのです』

《夕星》の声の響きは、泣いていた先程までとは打って変わって落ち着いていた。穏やかなその語り口は美葛に故郷の山をしのばせた。眠たげに霞む春の山々。青葉繁る夏の森。稲穂さざめく秋の田面たのも。寂しくもおごそかな冬木立。もしも懐かしい信太しだの里の様子を人に語るとしたら、美葛もやはり同じような口振りになるのかもしれなかった。

「多武峰にあるという鼓の里のことなら、私も噂に聞いたことがあります」

 もゆらが誰に言うともなく口を挟んだ。知っている土地の名が出て来たこともそうだが、何より、淀みない語り口がいかにももっともらしいからだろう、その場にはもう《夕星》の代弁をする美葛の言葉の真偽を疑うような雰囲気はなかった。

『そんな里で、《望月もちづき》も私も、ある若い匠たちの習作としてこの世に生み出されました』
「しゅうさく?」

 思わず繰り返した美葛に《夕星》がはいと応える。

『覚えた技を磨き、腕を練らんがための、修行中の作。売り物として作られたのではありません。何しろ、鼓の胴といえば多くは桜のところ、《望月》はけやきで、私はかしで、それぞれ作られたくらいですから』

 手元にあった余分の材を使って胴を彫り上げた青年と、箔の屑を集めに集めて絵付けを施した蒔絵師の娘。恋仲だった二人は、《望月》と《夕星》が仕上がった時、手に手を取って喜んだという。

『どちらも家業を継がねばならない身の上。一緒にはなれない運命さだめ。そんな二人が私たちに向けてくれた、我が子を見つめるような優しい眼差しを、今でもはっきりと覚えています。彫りが良い、絵が良いと互いに褒め合って……。ところがそこへ、平何某たいらのなにがしと名乗る都の武人がやってきたのです』

 一体どこでどのように聞き付けてきたのか、《望月》を譲ってほしいと職人たちに強く迫ったのだという。

『そもそも売り物ではないし、他にもっと出来の良い品もあるからと、二人は別の鼓を勧めました。しかし客はどうしても折れません。是非ぜひにと頭まで下げるのです。今は触れませんが、その平何某にもまた抜き差しならない理由があったのです。最後には、彼の望みが通る運びとなりました』
「それじゃあ《望月》とは離れ離れに……」

 前のめりの美葛に、いいえ、と《夕星》がやんわり応えた。

『作り手の二人は私どものことを夫婦鼓めおとつづみと呼んで、離れ離れになることを望まなかったのです。私も《望月》と一緒に平何某の手元へ参りました』

 それから長い年月の間に色々なことがあった、と《夕星》はしみじみ続けた。色々とはつまり、人の手から手へと渡る中で、飾られてほこりを被ったり、置き忘れられたり、長く桐箱に仕舞い込まれたり、そこから取り出されては舞いや笛に合わせて打たれたりした日々のことだ。
 やがて《望月》と《夕星》が夫婦鼓であることを知る者は周りにいなくなった。それでも、この藤原為成ためなりの蔵の棚に並んで収まるまで、互いを思う二張りの鼓はとうとう一緒の時を過ごし続けたのだった。

『こちらへ来て一番危なかったのは、忘れもしません、三年前の水無月ろくがつのこと。そちらに立派な楽太鼓がありますけれど、あれをどうにかして手に入れようと、主である為成様が方々に働きかけておいでの時でした』
「その時のことなら、私も覚えています」

 いつから目覚めていたのだろう、琴音が刀自に支えられながら身を起こした。

「確か、雅楽寮うたりょうのどこかに長く仕舞い込まれていたのを、父上が当時の助殿すけどのに直に掛け合って……」
『そうでございましたね』

 応える《夕星》の声が柔らかな笑みを含んだ。

『その後、尽力いただいた助殿に御礼を申し上げる段になって、為成様が贈り物として選んだ品々の中に、この私も入っていたのです。ついに別れの日が来てしまった、と思ったその時、身体を張って止めてくれたのが撥丸ばちまるでした』
「思い出した」

 刀自がしわに埋もれた小さな目を見開いた。

「撥丸が、事もあろうに殿から《夕星》を引ったくって、騒ぎになったことがありました。日頃は大人しい、聞き分けの良いあの子が、その時ばかりは血相を変えて。所詮しょせんは十の子のすることと、殿はお許しくださったけれども、その後、なぜあんなことをしたのかと私が厳しく問い質してみたら、撥丸は《望月》と《夕星》を離しちゃならん、夫婦鼓を離しちゃならんと言って……。ああ、すっかり忘れていた」
「撥丸は、なぜ夫婦鼓のことを知っていたんだろうな」

 真咲の問いに、今となっては分かりません、と《夕星》は実に切なげだった。

『たまに為成様がお招きになっていた楽士たちの誰かが、たまたま私どものことを知っていて、それで撥丸に話して聞かせたのかもしれませんね』

 ただ、と続ける彼女の声は優しく、もう会えない撥丸への慕わしさに満ちていた。

『《望月》ともよく話したものです。私たちをこんなに慈しんでくれる撥丸が、あの懐かしい鼓の里にゆかりのある者だったらどんなに良いだろう、と』
「……なるほど、なるほど。よく分かりました。でも、いくらそんな撥丸の霊を弔うためとはいえ、人目を盗んで転がり出て行くなんて、思い切ったことをする鼓もあったものですね。どこに行ったのやら。無事なんでしょうか《望月》は」

 言った後で、さすがにまずいと思ったのだろう、もゆらは片手で口を覆った。
 陰気が陰気を呼び寄せるらしい。ずもももも、と辺りに再び黒雲が立ち籠め始めた。《夕星》がまた涙声になった。

『人に見つかればそこでお仕舞いかもしれません。どんなに良くても市町で売り物。悪くすれば、何しろこの寒い時期ですもの、なたで割られてたきぎにされて、ちょうどこんな黒い雲になって……』

 黒雲があんまり深く立ち籠めるので、一言断った美葛は妻戸に駆け寄り大きく開け放った。詰めていた息を放って、夜の冷たい風を何度も吸ったり吐いたりした。
 その時だった。まだ篝火かがりびの残る庭、下男下女が片付けを続ける中に、こちらを向いて一人立ち尽くす影のない子供がいた。美葛と目が合うと彼はにっこり笑って、門の辺りを真っ直ぐに指差した。
 もしかして――。
 美葛は唾を飲み込んだ。
 振り返ると、やはり外の風に当たりたいのだろう、琴音が刀自に抱えられるようにしてやって来る。

「あの……。姫様、刀自殿、伺いたいのですけれど」

 美葛は子供の姿を横目で捉えたまま問いかけた。

「もしかして撥丸は、団栗眼どんぐりまなこの、笑うと八重歯やえばの覗く子でしたか?」
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