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影法師
市町
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二度目の訪問でも忠親と面会できなかった美葛たちは、言葉少なに東市までやってきた。
真昼の市町界隈は繁華な上にも繁華だった。
信太の里では祭りの日でも見られないような人の数だ。一つの場所にこうまで集まって過ごす生き物を美葛は蟻や蜂の他に知らない。
つんと澄ました花売りや柴売りの女たちが籐の籠を被いて足早に行き交っていた。大原や静原といった土地の名を叫びながら競って炭を売り歩く者たちもいた。皆、己の商う品がいかに他よりも優れているかを訴えていたが、安い安いと言いながらも詳しくはいくらだと声を張る者は少なかった。代わりに、捕えた客を囲い込もうとするらしい、同業の悪口を言うのを厭わない者は多かった。
立場の強さを笠に着て、干し魚をあまりにも安く買い叩く女房がいた。何を入れた桶なのか、撓る天秤棒に拉がれそうな振り売りの子供がいた。襤褸を着た男たちを群がらせて端から仕事を割り当てていく口入れ屋と思しい市女は、忙しさのためか目がひどく血走っていた。冷たい地べたに筵さえ敷かずに座り込んで誰彼構わず物を乞う者も掃いて捨てるほどいた。
なぜかしら都の醜さばかりが目につくことに思い至って、美葛は身震いした。あの薬師の男が放つ陰の気に当てられたのかもしれない。鳥肌の立った二の腕を何度も強く擦った。
「なあおい、聞いてるのか美葛」
苛立ちも露わな真咲に肩を揺さぶられた。
「さっきの大男、本当に人じゃないんだな?」
「う、うん。……人じゃないと思う。あれは違う」
ただ、では何なのかと聞かれても上手く答えきれない。そう続けかけた美葛を振り捨てるようにして、真咲が駆け出した。もゆらがすぐさま袖を広げて立ちはだかった。真咲がたたらを踏んで止まった。美葛も慌てて後ろから真咲の腰にしがみついた。抗おうとするのを力任せに道の端へ引き戻した。
「行ってどうするの!」
「あいつが忠親様や雪世様に取り憑いて悪さをしてるんだろう。そうに決まってる」
「そうに決まってない。『忠親のため』って言ってたよ。本当に薬師が生業で、ただそうやって都で暮らしているだけかもしれないよ」
我ながら苦しい言い訳だと思った。陰気の塊に目鼻を付けたような、あれほどのものが何の狙いもなく人に関わろうとするだろうか。
ただ、行かせたくないという美葛の気持ちだけは伝わったらしい、真咲は張り詰めたようだった身体の力をゆっくりと抜いた。痩せた柳の枝越しに曇った空を見上げると、溜息を漏らして、決まり悪そうに頭を掻いた。
「よほど忠親様のことが気にかかるのですね」
もゆらは袖を下ろしたが、その目はまだ油断なく真咲を見据えていた。
「元は忠親様も常陸国の方で、真咲殿のお母様の古馴染みとお聞きしましたけれど、どうもそれだけでもないような」
「勘繰るなよ」
「恩人なんだよね、真咲の」
「……ああ。お袋も俺も、炭焼きの仕事だけじゃ、きっとまともに暮らせなかった」
真咲は柳に背中を預けてずるずると座り込んだ。
道の向かい側に物乞いの子供たちが固まっている。そちらを見るともなしに見ながら、忠親様は、と真咲は溜息交じりに話し出した。
「季節毎に、色々な贈り物を届けてくださったんだ。常陸国を離れて、都に上った後もずっとな。お陰で生きてこれたような所が、うちにはあった。隣郡の河内から何か届くたび、お袋は俺に言ったもんだ。都の忠親様が施してくださった。日の沈む方に手を合わせて、御礼かたがた、ご健勝をお祈り申し上げろってな」
「真咲のお母さんと忠親様は、もしかして好き合っていたの?」
「だから、勘繰るなよ」
「気のない相手に贈り物を続けたりしますかね。それも遠く離れてからもずっとだなんて。身内でもないのに……」
もゆらは、そこまで言って、何かに思い至ったらしかった。大きな目をさらに大きく見開いて真咲を覗き込む。
勘繰るんじゃない、と真咲はまた強く言って首を振った。
「忠親様と俺とは、今もゆらが考えているような間柄じゃない」
「と言いますと?」
「言わせるなよ。俺は確かに父親を知らない。お袋も、なぜかそのことばっかりはどんなにせがんでも教えちゃくれなかった。けど忠親様じゃない。それだけは言える」
立ち上がって尻を叩く真咲に、もう苛立ちの暗い気配はなかった。昂ぶっていた気分も落ち着いて、もうすっかり平静を取り戻した様子だ。
「何か頭に血が上ってたみたいだ。悪かった。屋敷へは、忠親様にお会いするためじゃなくて、安倍家から任された務めを果たすために行ったはずだったのに」
「思い出していただけて何よりです」
もゆらがいつもの冷淡な調子に戻って頷いた。
「得体の知れないのに進んで関わり合って、成すべき事も成せないまま庵へ引き上げるはめになっては堪りませんからね。そうなったらお師匠様はがっかりなさるでしょうし、安倍家の皆様方にまでご迷惑をおかけしてしまいかねません」
今は己らにできることをしてみよう、という話になった。
市町の東西を問わず現れ、人を殴り倒して連れ去り、決まってある場所へ放り捨てていく。迷惑極まりないその何かのことが、安倍家に届けられた書状には《影法師》という名で記してあった。美葛と真咲が行き逢った、あの揺らめく不気味な影がそうだ。打擲を受けて気を失った者たちが置き去られていく場所こそが河内家の門前であり、何とかしてほしいと安倍家に縋ったのは弱り切った放免たちだったらしい。
「本当、つくづく都って怖い。常陸国では見たことも聞いたこともない妖だよ。ね、真咲」
「まったくだな。信太の里では、そんな怪しげで物騒な奴の話は一度も聞かない」
「物心つく前からずっと都暮らしですけれど、私だって今度のような無法者のことは初めて聞きましたよ」
もゆらは小さな唇をつんと尖らせて、何やら不満そうだ。美葛は、それも当たり前のことだと気付いてすまない気持ちになった。生まれ育った土地を悪く言われて喜ぶ者がいるだろうか。
もうお手上げといった身振りで、もゆらが悩ましげに首を振った。
「都は変わってしまったんですよ。おかしなことばかり起こるようになったんです。去年の長月辺りから」
「それって、もしかして」
「そう。きっかけは安倍晴明様が世を去ったこと、というのがお師匠様の見立てです。それまで鳴りを潜めていたものや、大きな顔をできなかったものが、押さえ付けるものがなくなったことで表に現れてきたのだろう、と」
なるほど、と美葛は納得の思いだった。枯れて倒れたり人に伐られたりで森の大きな木がなくなると、ぽっかり空いた所に陽の光が射し込んで下草が勢いよく伸び始めることがある。それと似たようなものかもしれない。
「ともあれ、まずは相手を知らなければ。申し合わせ通り、めいめい《影法師》について聞き込みをしてみるとしましょう」
もゆらが言って踵を返した。機敏な童女は動き出してから振り向いた。
「私はちょっと足を伸ばして西の市町まで行ってみます。お二人はこの東市近辺をお願いします。申の刻の鐘を聞く頃、またここに集まるということで」
真昼の市町界隈は繁華な上にも繁華だった。
信太の里では祭りの日でも見られないような人の数だ。一つの場所にこうまで集まって過ごす生き物を美葛は蟻や蜂の他に知らない。
つんと澄ました花売りや柴売りの女たちが籐の籠を被いて足早に行き交っていた。大原や静原といった土地の名を叫びながら競って炭を売り歩く者たちもいた。皆、己の商う品がいかに他よりも優れているかを訴えていたが、安い安いと言いながらも詳しくはいくらだと声を張る者は少なかった。代わりに、捕えた客を囲い込もうとするらしい、同業の悪口を言うのを厭わない者は多かった。
立場の強さを笠に着て、干し魚をあまりにも安く買い叩く女房がいた。何を入れた桶なのか、撓る天秤棒に拉がれそうな振り売りの子供がいた。襤褸を着た男たちを群がらせて端から仕事を割り当てていく口入れ屋と思しい市女は、忙しさのためか目がひどく血走っていた。冷たい地べたに筵さえ敷かずに座り込んで誰彼構わず物を乞う者も掃いて捨てるほどいた。
なぜかしら都の醜さばかりが目につくことに思い至って、美葛は身震いした。あの薬師の男が放つ陰の気に当てられたのかもしれない。鳥肌の立った二の腕を何度も強く擦った。
「なあおい、聞いてるのか美葛」
苛立ちも露わな真咲に肩を揺さぶられた。
「さっきの大男、本当に人じゃないんだな?」
「う、うん。……人じゃないと思う。あれは違う」
ただ、では何なのかと聞かれても上手く答えきれない。そう続けかけた美葛を振り捨てるようにして、真咲が駆け出した。もゆらがすぐさま袖を広げて立ちはだかった。真咲がたたらを踏んで止まった。美葛も慌てて後ろから真咲の腰にしがみついた。抗おうとするのを力任せに道の端へ引き戻した。
「行ってどうするの!」
「あいつが忠親様や雪世様に取り憑いて悪さをしてるんだろう。そうに決まってる」
「そうに決まってない。『忠親のため』って言ってたよ。本当に薬師が生業で、ただそうやって都で暮らしているだけかもしれないよ」
我ながら苦しい言い訳だと思った。陰気の塊に目鼻を付けたような、あれほどのものが何の狙いもなく人に関わろうとするだろうか。
ただ、行かせたくないという美葛の気持ちだけは伝わったらしい、真咲は張り詰めたようだった身体の力をゆっくりと抜いた。痩せた柳の枝越しに曇った空を見上げると、溜息を漏らして、決まり悪そうに頭を掻いた。
「よほど忠親様のことが気にかかるのですね」
もゆらは袖を下ろしたが、その目はまだ油断なく真咲を見据えていた。
「元は忠親様も常陸国の方で、真咲殿のお母様の古馴染みとお聞きしましたけれど、どうもそれだけでもないような」
「勘繰るなよ」
「恩人なんだよね、真咲の」
「……ああ。お袋も俺も、炭焼きの仕事だけじゃ、きっとまともに暮らせなかった」
真咲は柳に背中を預けてずるずると座り込んだ。
道の向かい側に物乞いの子供たちが固まっている。そちらを見るともなしに見ながら、忠親様は、と真咲は溜息交じりに話し出した。
「季節毎に、色々な贈り物を届けてくださったんだ。常陸国を離れて、都に上った後もずっとな。お陰で生きてこれたような所が、うちにはあった。隣郡の河内から何か届くたび、お袋は俺に言ったもんだ。都の忠親様が施してくださった。日の沈む方に手を合わせて、御礼かたがた、ご健勝をお祈り申し上げろってな」
「真咲のお母さんと忠親様は、もしかして好き合っていたの?」
「だから、勘繰るなよ」
「気のない相手に贈り物を続けたりしますかね。それも遠く離れてからもずっとだなんて。身内でもないのに……」
もゆらは、そこまで言って、何かに思い至ったらしかった。大きな目をさらに大きく見開いて真咲を覗き込む。
勘繰るんじゃない、と真咲はまた強く言って首を振った。
「忠親様と俺とは、今もゆらが考えているような間柄じゃない」
「と言いますと?」
「言わせるなよ。俺は確かに父親を知らない。お袋も、なぜかそのことばっかりはどんなにせがんでも教えちゃくれなかった。けど忠親様じゃない。それだけは言える」
立ち上がって尻を叩く真咲に、もう苛立ちの暗い気配はなかった。昂ぶっていた気分も落ち着いて、もうすっかり平静を取り戻した様子だ。
「何か頭に血が上ってたみたいだ。悪かった。屋敷へは、忠親様にお会いするためじゃなくて、安倍家から任された務めを果たすために行ったはずだったのに」
「思い出していただけて何よりです」
もゆらがいつもの冷淡な調子に戻って頷いた。
「得体の知れないのに進んで関わり合って、成すべき事も成せないまま庵へ引き上げるはめになっては堪りませんからね。そうなったらお師匠様はがっかりなさるでしょうし、安倍家の皆様方にまでご迷惑をおかけしてしまいかねません」
今は己らにできることをしてみよう、という話になった。
市町の東西を問わず現れ、人を殴り倒して連れ去り、決まってある場所へ放り捨てていく。迷惑極まりないその何かのことが、安倍家に届けられた書状には《影法師》という名で記してあった。美葛と真咲が行き逢った、あの揺らめく不気味な影がそうだ。打擲を受けて気を失った者たちが置き去られていく場所こそが河内家の門前であり、何とかしてほしいと安倍家に縋ったのは弱り切った放免たちだったらしい。
「本当、つくづく都って怖い。常陸国では見たことも聞いたこともない妖だよ。ね、真咲」
「まったくだな。信太の里では、そんな怪しげで物騒な奴の話は一度も聞かない」
「物心つく前からずっと都暮らしですけれど、私だって今度のような無法者のことは初めて聞きましたよ」
もゆらは小さな唇をつんと尖らせて、何やら不満そうだ。美葛は、それも当たり前のことだと気付いてすまない気持ちになった。生まれ育った土地を悪く言われて喜ぶ者がいるだろうか。
もうお手上げといった身振りで、もゆらが悩ましげに首を振った。
「都は変わってしまったんですよ。おかしなことばかり起こるようになったんです。去年の長月辺りから」
「それって、もしかして」
「そう。きっかけは安倍晴明様が世を去ったこと、というのがお師匠様の見立てです。それまで鳴りを潜めていたものや、大きな顔をできなかったものが、押さえ付けるものがなくなったことで表に現れてきたのだろう、と」
なるほど、と美葛は納得の思いだった。枯れて倒れたり人に伐られたりで森の大きな木がなくなると、ぽっかり空いた所に陽の光が射し込んで下草が勢いよく伸び始めることがある。それと似たようなものかもしれない。
「ともあれ、まずは相手を知らなければ。申し合わせ通り、めいめい《影法師》について聞き込みをしてみるとしましょう」
もゆらが言って踵を返した。機敏な童女は動き出してから振り向いた。
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