歌と狐と春の雪

夕辺歩

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影法師

白雀

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 美葛は、あれだけ大勢の怪我人や病人を見るのは生まれて初めてだった。うめき声やすすり泣きが耳から離れず、血の臭いが衣にも染みたようで、悲田院を出てかなり来たのにまだ胸が悪い。
 人が六角堂と呼ぶ御堂の前に差しかかった辺りで、庵はもう目と鼻の先だというのに、我知らず道の端に座り込んでしまった。
 気付いた真咲が引き返してきた。

「美葛、どうした。疲れたのか」
「……うん、少し。座って、休んでいこうかなって。二人は先に帰ってて」
「何とまあ、情けない狐さんですね。行きますよ真咲殿」

 もゆらはあっさりしたものだが、真咲は片膝をついて心配顔だった。
 美葛がこれほど参ってしまうのがいかに珍しいことか、半年にわたって共に旅をしてきた彼にはよく分かっているのだ。

「本当に平気か。ちゃんと帰って来られるか」
「大丈夫。すぐそこでしょう。いいからいいから」

 押しやるようにして先に行かせた。
 二人の姿が見えなくなると、美葛は門前の柳の影にそっと身を潜めた。念入りに辺りを見回し、誰の姿もないことを確かめ、変化を解いて狐に戻った。
 大きな大きな、安堵あんどの溜息が出た。
 人の身にはただ冷たいばかりの風が、ふわふわの毛に覆われた狐の身体には心地良かった。地べたが近くなったせいかその風の匂いも変わり、土の香もぐっと鼻に迫ってきた。辺りに繁る枯れ色の草木が内に秘めた、芽吹きの力も嗅ぎ取ることができた。まだまだ浅い春の、儚くて弱々しい、それでいて確かな息吹だ。
 白い尾を振るともなしに振って風を楽しむ美葛の心に、悲田院で目にした悲惨な光景が黒々と影を落とした。一度見聞きしたものをなかったことにはしがたい。美葛はもう一つ、今度は重たい溜息を漏らした。 

『気の毒に。都の毒気に当たったらしい』

 突然の声は上から聞こえた。門前の柳のこずえで小さな羽を広げたものがいた。
 羽音と共に美葛の足元に下りてきたのは、頭から尾の先まで真っ白な雀だった。美葛はこんな愛らしいものを初めて見た。

『形の良い、綺麗な耳だ。それに、尾の先まで素晴らしい毛並みをしていらっしゃる』

 白雀しろすずめの声は若々しく、あまりにも真っ直ぐだったので、美葛は大いに照れた。狐の姿を真正面から褒められたのは初めてだった。

『ありがとう。雀さんの羽も、白くて綺麗。お揃いだね』
『貴女のような方には、都暮らしは辛いのでは? 信太しだの里が恋しくはないか』
『私のことを知ってるの?』
『身構えることはない』

 白雀の声は優しく、どこまでも落ち着き払っていた。

『眷属たちから注進を受けただけだ。常陸国から白狐がやってきた、と』
『……だけどね』

 そんな美葛の自嘲に、白雀が小首を傾げた。ごめんね、と美葛は鼻先を垂れた。

『生まれついての白狐じゃないし、たいした霊力ちからも持たないってこと』
『生まれついての白狐ではない? それほどの毛並みで?』
『うん。元は赤毛。母さんを亡くしてから、私、泣いて泣いて泣いて、いつまでも泣いて、ある朝、気付いたらこんな色だったの』

 母親の死。そして毛の色が抜けたこと。その二つについて、こうして構えずに言葉にできたことは美葛にとっても驚きだった。ついこの間までは思い出すことさえ辛かったというのに。心が疲れて痛みに鈍くなってるのかな、と他人事ひとごとのように思った。
 白雀は神妙な様子で頷いた。

『それはきっと、思う力の強さゆえだろう。我が身を損なうほどとは、まったく恐れ入る。大した霊力を持たないなどとはお思いにならないことだ。至らない考えで心の力をいてしまうことはない』
『雀さん……?』

 美葛には、最後の方の言葉の意味が上手く取れなかった。
 聞き返す前に、白雀がちょんちょんちょんと寄って来た。

『なおのこと、都を去ることをお勧めしたくなってきた』

 つぶらな瞳で見上げてきた。

『ご存知かもしれないが、この土地の気の流れは、日を追ってよどみつつある。けがれつつある。このまま都にとどまり続ければ、貴女はきっと、今抱えているよりもずっとたくさんのさやつらさと向き合うことになるだろう』
『……そう、なのかもしれないね。雀さんの言う通り、私は今、正直言うと、里の暮らしが恋しいみたい』
『ならば』
『でも』

 美葛は乾いた土を尾で一つ打ち、大きく胸を反らしてみせた。

『真咲の……、恩人の助けになりたい。私、受けた恩はちゃんと返したいんだ。だから、それが済むまでは、都を離れたりしないよ』

 美葛なりの決意の言葉だった。
 ううむ、とうなった白雀は、羽を広げて柳の枝へと飛び上がった。

『覚悟の上ということであれば、分かった、とやかく言うまい。……ところで、例の影のことなのだが』
『《影法師》を知ってるの?』
まじないの名は《かげあがい》』
「かげ、あがい」
『貴女には教えておくとしよう。あの影に殴られたのは、誰も彼も、なのだよ』

 それが何を意味しているのか美葛が問いかけるより先に、白雀は六角堂のいらかを越えて飛び去ってしまった。



 庵へ戻った美葛のことを、もゆらが何やら疑うような、何をしてきたのかといぶかるような目つきでにらんだ。胸の前に抱えた文箱で、童女は黙って奥を示した。
 母屋では妙泉尼みょうせんにが、いつもの脇息きょうそくにその身を預けて、竹をいだものらしい細い札の何枚かに目を落としていた。小さな火鉢を挟んで妙泉尼と向かい合っていた真咲が、美葛の方を振り向いた。

「もういいのか」
「うん」

 隣に座って横目で問うと、例の歌のことば、と真咲が囁いた。

「《影法師》がぶつぶつ言ってたっていうあれだ。竹簡ちくかんに記したのを見ていただいてる」

 竹簡を扱う、その手の白いこと。
 美葛はつくづく不思議に思わずにはいられない。人に化けた今の美葛とそう変わらない年頃に見えるこのうるわしい尼僧の、いったいどこに妖狐の術を封じるほどの力が宿っているのかしら、と。
 暮れ方近い光の加減なのか、肩にかかる尼削あまそぎの髪は深い深い紫色にも見えた。墨染すみぞめ小袿こうちき檜皮ひわだ色のはかま、格好はいつも地味なのに、信女しんにょというより遊女あそびめと呼びたいようなこのなまめかしさはどうだろう。
 妙泉尼が竹簡をまとめて火鉢の上にかざした。腰を浮かした真咲がうやうやしく受け取った。
 それで? と妙泉尼はたっぷり間を置いて首を傾げた。黒髪の一筋が頬を流れた。

「私に何を問いたい。まさか続柄つづけがらが分からぬ訳でもなかろう」
「妙泉尼様も、これらを一首の歌とお見立てになるってことですね」

『つゆのいのちを』『またのよもうし』『よにしすぐせば』『つねならぬ』『すくせとて』
 五枚ある竹簡にはそれらの言葉が記されていた。殴られた者たちが耳にした、美葛にはその意味するところが分からないものさえある文句たちだ。

「問うまでもないことを」

 妙泉尼はさもつまらなそうにこたえた。

三世さんぜうれう詠み手の心、気付くなという方が難しい」
「……三世?」

 首をひねる美葛に、真咲が頷いた。床に竹簡を一つずつ置いていく。

前世さきのよ現世いまのよ来世のちのよのことだな。集めたことばたちを一首の歌と見たとき、初句から並べると恐らくこうなる」

 すくせとて つゆのいのちを つねならぬ よにしすぐせば またのよもうし

「『宿世とて 露の命を 常ならぬ 世にし過ぐせば 又の世も憂し』。これも前世からの因縁いんねんと諦めて、儚い命を無常の現世に過ごしていると、来世のことまでうれわしく思えてくる。と詠んでいる訳だ」
「うわあ……」

 何とも言えず暗い。暗くて重い。そしてひどく哀しげだ。
 歌は心の表れ。明るいものや楽しげなものばかりではないことくらい美葛も知っている。恋に破れた哀しさをうったえるものや、老い果てた我が身をなげくものなど、心が様々なように歌も様々だ。そうわきまえてはいても、さすがに面食らった。ここまで陰鬱いんうつな一首に出会うのは初めてだった。
 こんな歌を呟きながら人を殴りつけていたとは。いったい何のために? 美葛は思い切り眉を寄せた。

「どう詠みたいかはどうりたいか」

 ふいに、妙泉尼が気のない様子で呟いた。
 きょとんとした美葛に、つまり、と真咲が言い添えてくれた。 

「歌には必ず、程度の差はあれ、詠み手が現れるってことだ」

 けどなあ、と真咲は今度は難しい顔になって腕組みをした。

「いったいどんな狙いがあれば、こんな歌を歌いながら人を殴りつけたりするんだろうな」
「いまいち分からないね」
「ただ、よく思い出してみたら俺、最初に《影法師》に行き逢ったとき、相手が憎くて仕方ないとか、腹立たしくてならないとか、そういう理由で動いているようには見えなかった」
「……そう言われてみれば、そうかも。こんな一首を繰り返し歌ってると思ったら、何だかこう、ちょっと哀しい感じもしてくるね」

 ふらりと現れて、気を失うまで人を殴りつけ、連れ去って放り出す。行いだけを見れば乱暴極まりないが、この歌を知った上で振り返ると、美葛にはまた違った受け取り方もできそうに思えた。
 加えて白雀から聞いた話だった。あの落ち着き払った小鳥の言葉を信じるなら、殴られた者たちは誰も彼も手癖が悪かった。その上|《影法師》が彼らを放り出していくのは都の非違ひいけんする看督長かどのおさの屋敷の前ときている。
 美葛が六角堂で白雀から聞いた話を打ち明けると、真咲が眉を開いて微笑んだ。

「《かげあがい》。影贖かげあがい、か。……繋がりが見えてきた気がする。お手柄だぞ、美葛」

 ただこの時、なぜか美葛には、真実に近付いたらしい真咲の目に、どこか翳りがあるようにも見えたのだった。
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