歌と狐と春の雪

夕辺歩

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物名歌

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 美葛は、噂に聞く『百鬼夜行』というものに行きったことは一度もない。ないのだが、もしもそうした人ならざるものたちの道行きに加わったなら、ちょうど今と似た心持ちになるかもしれないと密かに思った。
 促されるまま付いてきた美葛と真咲をも包み込む、ひどく濃密な妖気。辺りは、不知也いさやに従う姿のないものたちがかもす不穏な気配と、やはり彼らが発する言い知れない昂揚こうように満ちていた。
 喜斉の屋敷の中を、不知也は勝手知ったる様子で歩いて行く。足元は青白い火の玉に照らされていた。黄昏時たそがれどきなだけあって、火を灯したり蔀戸しとみどを下ろしたりと、立ち働く家人の姿があちこちにある。しかし、その中の誰一人として不知也の方には見向きもしない。よほどさとい者でなければ、屋敷の雰囲気が変わったことには気付きもしないのに違いない。隠形おんぎょうの術に抜かりはないのだった。
 妻戸つまどは触れる前に開き、一行が通り過ぎるとひとりでに閉まった。すだれは勝手に巻き上がり、屏風びょうぶやら几帳きちょうやら、行く手をさえぎる物のすべては見えない手によって直ちに脇へ退かされた。ただでさえ物の少ない屋敷の中をいっそうがらんとさせながら、不知也はずんずん進んでいく。
 喜斉よしただひさしの間の片隅で灯りもつけずに膝を抱えていた。隠れていたつもりなのかもしれなかった。
 不知也が来たことに気付くと、火の玉に照らされた喜斉の青い顔には諦めも色濃い薄笑いが浮かんだ。

「……お迎えご苦労。何だ、今日はふみはないのか」
「ありますとも」

 たもとから取り出した一葉の短冊を、不知也が喜斉の前に示した。
 歌を一読するなり喜斉が表情をなくした。秘められた物の名の響きが心に働きかけ、喜斉が隠し通そうとしている何かがいっそう重みを増した。美葛にはそのように感じられた。
 さあ、と不知也が促した。

「今夜もあの小屋で薫里くゆりが待っています。どうぞ表の車へ」
「しつこい女だ」

 座ったまま、喜斉は口元だけで笑った。その眼は逃げる兎や鼠のように血走って見えた。

「祓ってやれなかったことがつくづく悔やまれる」
「安倍家の遣いをけしかけたことなら知っています」
「それがとんだ役立たずでな。先々のこともあるから、さっさと片付けて欲しかったのだが、ああだこうだ御託ごたくを並べるばかりで何もできないときた」

 これも陰形の術のお陰なのだろう、喜斉には不知也の後ろにいる美葛と真咲のことが見えていないのだった。

「先々のこととは、看督長かどのおさ河内忠親様の娘、雪世様との今後のことですね」

 不知也の一言に真咲が息を呑んだ。ああそのことか、と喜斉が笑みを深めた。

「腕利きで知られた看督長の、大事な一人娘。ろくに世間を知らない箱入りだろうと思っていたが、そうでもなかった。雪世は私が別当の三男だとすぐに見抜いた。少し大人しすぎることをけばなかなか良い女だ。何しろ具合が良い。暇潰しの相手としては悪くない」

 真咲が、音がしそうなほど強くこぶしを握った。何も知らない喜斉は痩せこけた頬をますますいやらしい笑みにゆがめた。

「雪世のことより何より、大事なのは近く迫っている除目じもくの儀式だ。あまり俺の評判が悪いと、親父殿や兄者たちの任免に差しさわる。望ましからぬ関わりとは縁を切っておかねばならん。俺のような役立たずにできることといえば、せいぜい皆の足を引っ張らないようつとめることくらいだからな」
「薫里のことを悪縁だと仰るのですね」
「夜な夜な人を苦しめる死霊が悪縁でなくて何だというのだ」
「あれが望む通りにしてやれば良いものを……」

 美葛には不知也の声が心なしか震えたように聞こえた。後ろにいるせいで表情は分からないが、まるで涙を堪えるかのようだった。続く言葉には、いよいよ隠しきれない心の乱れが感じられた。

諸官任免しょかんにんめんの儀式は近いと知りながら、それに進んで関わろうともしないすねかじり。親兄弟の冷たい目におびえる穀潰ごくつぶし。そんな貴方の立場をさえ思い遣ろうとする薫里の心を、どうしてんでやれないのです。今からでも遅くはありません。伏せたまま訴え続けるだけの値打ちのある貴方だったと、薫里に思わせてやってください」
。俺にはどうにもできん」

 喜斉はよろめくように立ち上がった。
 覚束おぼつかない足取りで不知也に近付き、恐れげもなくその肩に手をかけた。

「何となれば、使いを務めるお主の方から薫里に話を付けてもらおうと思っていたが、もう止めた。行くぞ」
「腹を壊して死にたいのですか」
「私が死ぬのが先か、除目が済むのが先か、どっちだろうな。賭けでもしないか」
「その賭け事にふけって身を持ち崩して、とうとう身内に見限られた者の吐く言葉とも思えませんね」
「色々とよく知っている。車は寄せてあるんだったな」

 喜斉は、へらへらと笑いながら、勝手に道を開ける簾や戸を抜けて外へと出て行った。
 くそっ、と真咲が毒づいた。

「あれが本性か。ろくな男じゃない。雪世様は、あんな男に言い寄られて……。忠親様に、何をどうお伝えすれば……」

 心の底から悔しそうな真咲に、美葛はかける言葉が見つからなかった。
 雪世の行く末の幸せを考えるなら、上役の息子だろうと誰だろうと、あんな男とは少しでも早く縁を切ってしまった方が良い。心苦しいことだが、忠親にはそう伝えるしかないと美葛は思った。
 不知也が振り向いた。泣いてはいなかった。ただ、その表情には静かにたぎるような怒りが露わだった。ご覧になった通りです、と沈んだ声で言った。

「逢瀬を重ねる中で、男の性根が腐っていることにはっきりと気が付きながら、それでも情けをかけてやらずにはいられない、むしろそんな男だからこそ支えてやらなければならないと思い定める、哀れなほど優しい女たちがいます。喜斉は、そんな女たちをもてあそび、食い物にしながら生きている。……美葛殿、真咲殿、今度こそ、ここから先には来ない方がいい。見なくて良いはずのものを見て、わざわざ心を暗くすることはありません」

 美葛は、不知也が手にした、青白い鬼火が照らす短冊に目を落とした。薫里は歌で何を成そうとしたのだろう。物の名を伏せて訴えるという手段を取ることで、喜斉に何をどうしてもらいたかったのだろう。

「俺は行く」

 真咲が言った。

「『頼もしき』の歌の意味する所がどうしても気にかかる。事の顛末てんまつを見届けたい。何もかもを知った上で忠親様にご報告申し上げたい。……美葛はどうする?」
「私は……」

 美葛は喜斉が出て行った方に顔を向けた。
 外はすっかり日も落ちて、山際を染める紫の残照ざんしょうさえ薄らいで消えつつあった。
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