歌と狐と春の雪

夕辺歩

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誦文歌

助言

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 支度をしてから行く、などと言わなくてもいい嘘を言って真咲を河内邸へ戻らせた。
 美葛はなかなか庵を出る気になれずにいた。いつまでもぐずぐずしていた。こっそり狐に戻って白い毛並みを整えてみたり、またいつもの娘姿に化け直して衣や草鞋わらじを改めてみたり、果ては縁に座って妙泉尼から借りた冊子本を開いたりもした。ただ、記された歌の数々をいくら目で追っても、何一つ頭に入っては来なかった。
 本当に求めているものは何か。都を去るべきか残るべきか。
 胸にわだかまるこれら重苦しい悩みもまた、一つの歌の種。ふとそう思った美葛は、今の心持ちを歌に表わしてみようと睫毛まつげを伏せた。
 ときは今。庭を眺める女が一人、という我がことながらぱっとしないけしきおもいは、あえて言葉にするなら、我が身の置き所について思いわずらう今が辛い、といった所だろうか。
 浮かぶことばがまったくないわけではなかった。まぶたの裏には、連日のようにり続けてきた『古今和歌六帖』の歌たちが、手掛かりを示すかのように次々とひらめいては消えた。だが、美葛の歌はいつまで経っても形にならなかった。
 いつか真咲が教えてくれた、彼の中にるという果てしなく大きな水の玉。美葛は、それと同じ物を己の中にこしらえてみようとした。しかし、そんな試みに意味などないことはすぐに分かった。思い描くことで頭が一杯になってしまって、とてもそこから歌など詠み出せない。
 分かり切ったことではあった。物の考え方は十人十色。『水の玉』は真咲による真咲のための作歌法であって、他の誰のためのものでもない。美葛は、美葛なりの歌の詠み方というものを己の力で見出さなければならないのだ。
 美葛はいよいよ途方に暮れてしまった。妖狐にしては乏しい霊力を言霊の力で補い、歌を誦文歌じゅもんかとして扱うことで妖術の代りとなす。言葉にすることは簡単だが、それを成し遂げるまでの道程みちのりは果てしなく長いものに感じられた。



 名を呼ばれたとき、美葛は庵の庭の隅にある井戸を覗き込んでいた。

「何をぼんやりしているのです。頭から落ちたいのですか」

 刺々しい声に顔を上げると、畑の世話をしていたのだろう、もゆらが土に汚れた手を下げて立っていた。何をどう言い返す気力も湧かない美葛はまた井戸を覗き込んだ。
 じめじめして暗い穴の底では、壁から生えた羊歯しだと思しい葉っぱが水面みなもを覆い隠していた。薄曇りの空の寒々しさ。衣をとおして吹く風の冷たさ。今や感じ取るものすべてが胸をふさぐ物思いに繋がって、また我知らず美葛に溜息を吐かせた。
 もゆらは苛々いらいらした様子を隠そうともしなかった。

「そろそろ行った方がいいんじゃありませんか? 何がどうしたのか知りませんけれど、うじうじしている暇があったら動き出してみるものですよ。私ならそうしますけどね」
「分かってるけど……」
「けど何です」

 もゆらがじっと待っているので、美葛も応えない訳にはいかなかった。

「何だか、怖いような気がして」
「怖い? 何が」

 もゆらの追求は止まない。声にすることからして躊躇ためらわれるこの気持ちをどうにか分かってはもらえないものかと、美葛は歯痒く感じた。何しろ、言い表すべきは胸の中に居座ったもやもやのこと。言葉に移しがたいものを強いて言葉にして、してみた先から間違って、相手に出来損ないの思いが伝わってしまうことは本意ではなかった。
 いきおい、返事は曖昧あいまいなものになった。

「……ここしばらく、色々な目にい通しだったからかな。今は、どこで何と関わることも恐ろしいような気がして。じっとしてたら、都で何をどうしたかったのかもよく分からなくなってきちゃって」
「心が疲れてしまった、という訳ですか」

 もゆらが歩み寄ってきて井戸のふちに手を掛けた。美葛は下がって場所を譲った。
 井桁いげたに縄で水桶が結わえてある。もゆらは慣れた手つきで桶を下ろした。水音が聞こえた。童女は重そうに桶を手繰り寄せながら言った。

「まあ、田舎狐にしては、頑張った方なんじゃ、ありませんか? そうやって気持ちと向き合って、この場に留まっている訳ですから。何も言わずにどこかへ消えないだけ、ここへ来たばかりの頃の私よりですよ」
「もゆらは、今の私よりどうかしてたの?」
「どうかしてましたね。はっきり言って。私、西の悲田院の前に捨てられていた孤児みなしごなんですけれど」

 さらりと言って、もゆらは桶の水で土まみれの手をすすいだ。冷たそうに顔をしかめた。

「なかなか養ってくれる方が現れなくて、そのまま四つになるまで悲田院だったんです」

 琴音姫の屋敷の下男、撥丸ばちまるも悲田院育ちだったことを美葛は思い出した。
 もゆらは濡れた指をはじいて続けた。

「どうして妙泉尼様に引き取っていただく運びになったのかは、よく覚えていません。私、こんなたちですからね、見るもの聞くことすべてに逆らって、初めは少しも馴染めませんでした。ここを逃げ出しては連れ戻されることを繰り返していました。でも、怒られはしないんですよね。お師匠様もお師匠様であの調子ですから。何も言わずに黙ったままなんです」
「逃げ出すって、どこへ?」
「どこへでしょうね」

 もゆらは形の良い眉を寄せて笑った。

「今でも分かりません。どこかに本当の居場所があるんじゃないかとか、本当の親が待ってくれているんじゃないかとか、幼いながらに考えていたんでしょうか」

 何度目かに逃げ出したときだったという。
 もゆらは無頼ぶらいの男たちに目を付けられ、連れ去られてしまった。

「市町の外れだったと思います。急に、誰かが後ろから私の口をふさいで横抱きにしたんです。すごい力で、とてもあらがえなくて。目だけ動かして見てみたら、がらの悪い、知らない男どもでした。脇を固めた二、三人と一緒に、暗い小路の奥に吸い込まれていくような気がしました」

 恐ろしい一時は、しかし長くは続かなかった。行く手に妙泉尼が現れたからだ。

「お師匠様は、私から見ても得体の知れない、底知れないお方です。昔からずっとああなんです。その時も、念仏のようなそうじゃないような、短い呪文みたいなものをちょちょっと唱えて、あっという間にその男どもを追い払ってしまいました」
「妙泉尼様……、本当に何者なんだろうね」

 もゆらは、その時ばかりはさすがに、妙泉尼の腰にしがみついて涙を流したという。引き取ってもらった恩をかえりみもせず、考えもなしにどこへともなく駆け出したことを初めて悔いて、心から謝った。震える彼女が泣くままに泣かせておいて、美貌の尼僧は呟いた。謝ることはない。そのままのお前でよい、と。

「ああ、いいんだ、と思いましたね。ですから、私はずっとこのままだろうと思います。駆け出してみますし、ぶつかってみます。でも、もう考えなしにどこかへ逃げ出したりはしません。……だから、という訳じゃないのですけれど、その、美葛殿も、ええと、何て言うんですかね。何が言いたかったんでしょう私」

 もどかしそうに、もゆらは後ろ頭を掻いた。

「その、悩むことが苦しいからって、自棄やけを起こしたり、何も言わずにいなくなったり、そういうことだけはしない方がいいと、私は思いますよ」
「……もゆら、私を励ましてくれるんだ」
「助言ですよ助言」

 まったく珍しいことに、もゆらは頬を染めてそっぽを向いた。

「物を知らない田舎狐に教えを垂れてあげたんです。琴音様からも、美葛殿にはくれぐれもよろしく伝えてくれるようにと、お会いするたびに言われていますし」
「そっか、二人は仲良しなんだったね」
「ええ、暇を見つけてお会いしています。悪いものじゃありませんよ、仲良しは。気持ちが安らぎます。美葛殿も、今は辛いかもしれませんけれど、いつかはそういう安らいだ心持ちになることもあるんじゃありませんか。知りませんけれど。……都になんて来るんじゃなかった、人と関わるんじゃなかった、なんて思われると寂しいと、私は言っておきますからね」
「もゆら」
「さあほら!」

 もゆらはいよいよ頬を赤くして、怒ったように美葛を追い立てた。

「もたもたぐずぐずしてないで、さっさと行った行った!」
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