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誦文歌
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塗籠を後にした美葛と真咲は濡縁まで出て来た。
庭では相変わらず放免たちが雪を相手に奮闘していた。鍬で、笊で、あるいは桶で、誰もが足元の雪を掻いては他所へ移している。無理もないことだが、皆ひどく寒がりながらのちまちました仕事になってしまっていて、どの顔にも疲れの色が濃かった。
真咲が諦め混じりの溜息をついた。
「出て行った放免たちの半分でもいいから、今すぐ戻って来ないもんかなあ」
「何だか、お爺ちゃんばかり残ってる感じだよね」
「まあな。……それにしても参った。なあ美葛、狐の術に雪を止ませるようなのは」
「ないない。そんな都合の良い術」
美葛はゆるゆると首を振った。あればとっくに試している。
「真咲こそ、雪を止ませる誦文歌は知らないの?」
「知らない。聞いたこともないな。ちょっと考えてみるか」
そう呟いて、真咲は腕組みをした。例の『水の玉』の中に立ち返ったのだろう、眠たいような半眼になった。ねえ真咲、と美葛は慌ててその肩を揺さぶった。尋ねるなら今だった。
「邪魔してごめん。その、ちょっと聞いておきたいことがあって」
「何だ」
「真咲と同じような歌の詠み方、いつか私にもできるようになるかな……?」
問われた真咲は一瞬きょとんとしたが、すぐに微笑んだ。
「無理して俺を真似ることないぞ。まず同じようにはできないと思う」
「だよね、やっぱり。……真咲は、いつから『水の玉』の中で歌を?」
「五つのとき、霞ヶ浦で溺れ死にしかけてからだな」
あまりにもはっきりした答えが返ってきたので、今度は美葛がきょとんとしてしまった。霞ヶ浦は常陸国の東にある湾とその一帯の海を示す呼び名。美葛も一度だけ足を運んだことがあった。
里の仲間と遠出をしてな、と真咲が鼻の頭を掻いた。
「初めて見る海に驚いて、調子に乗ってはしゃぎ回っていたら、深みにはまった。近くにいた漁師が助けてくれなかったら間違いなく死んでた」
「真咲にもそんな頃があったんだね」
「まあな。とにかく、その死にかけたときのことが俺を変えたんだと思う。それ以来、見るもの聞くもの思うこと、何でもかんでも水の玉の中だ」
なるほど真似などできるはずもない。美葛は苦笑いで返すしかなかった。
「私も、私なりの詠み方をみつけてみるね」
「だな。差し当たってはこの雪か」
切り替えるように言って空を仰いだ。
「雪を降り止ませる歌……。必ずしも止ませる必要はないのか。日差しが解かすとか、何か別の物になぞらえるとか……。難しいな。そんな歌、すぐには浮かばない」
「誰かがかけた呪いなのは確かみたいだし、その呪いの道具なり何なりを、お屋敷で見つけた方が早いかもしれないね」
よし、と美葛は心を決めた。何であれ、できることをやってみるしかない。
「怖いけど、知っていそうなのに聞いてみる」
「知っていそうなの?」
怪訝そうな真咲もそのままに、美葛は雪の庭へと下り立った。
「不知也、不知也、いるんでしょう? 出てきてよ」
ややあって、いつものごとく不穏な気配が静かに静かに辺りに満ちた。
冷たい水に頭のてっぺんまで浸されたような心地。遠雷か地震いを思わせる、何とも言えない重々しい感じに胸が悪くなる。それでいて、当の不知也は何もない宙から雪の一片よりも軽やかに姿を現した。白い衣の袖を膨らませて音もなく庭に降り立った。
「いると思った。忠親様の時と同じような感じがしてたもの。今度は雪世様の心に付け入るつもりなんでしょう」
「付け入る?」
不知也が首を傾げた。
「狐の間では、人の心に寄り添うことを付け入ると言い表すのですか」
「言わないよ。そっちこそ、人の弱さに付け入ることを寄り添うなんて言うんだね」
「……心外です。まさかそのように受け取られていたとは。弱き者の嘆きに寄り添い、その心を歌にする。もってその望むところをなす。それが私の使命だと申し上げたはず」
「聞こえは良いようだけどな」
真咲も庭に降りてきた。
「言えよ。いったい何のためにそんなことをする」
問われた不知也がまた小首を傾げた。作り物めいて見えるほど真顔だった。
「悲しむ者の心に歌で寄り添ってあげることに理由が必要でしょうか」
「そうやって拵えてやった歌が、誰かの迷惑や不都合の種にもなるらしいってこと、分かってて詠んでるのか」
「私はどこまでも当人の味方。周りを気にしていては真の意味で寄り添うことなどできません」
静かだった不知也の瞳が鬼気とでも呼ぶべきものを宿した。
「罪を犯して嘆き、裏切りに遭って嘆き、死に接して嘆く……。そんな嘆いてばかりの己を恥じることはない、隠したりすることはないと私は伝えたい。生きている限り逃れられない辛さや悲しみ。それらを喜びと同じように迎え入れ、受け止めて深く深く浸るとき、私たちの心はより強く優しいものになるのですから。物狂おしさに身を委ねていい。泣きたいだけ泣いていい。もしもそれで心が休まるのであれば、自ら死を選ぶことさえ私は止めないでしょう」
話すにつれて高まっていく不知也らしからぬ語勢が、美葛をたじろがせながらも冷静にさせた。何か狂った理屈を聞かされたように感じた。不知也の言う『嘆きに寄り添う』は、例えば悲しみに暮れる者の立ち直りを見守るといったような、そんな前向きな振る舞いとはまったく違う。
「……雪世様は連れて行かせない」
一歩前に出た美葛がそう呟いた途端、木立の裏やあちこちの暗がり、雪の下、軒下に伸びた氷柱の陰、至る所に潜んでいた不知也に付き従うものたちが一斉に声のない怒号を上げた。美葛は、逃げ出したいのを堪えて声を張った。
「絶対に、連れて行かせない……!」
押し潰されてしまいそうな恐ろしさは、しかし長くは続かなかった。
不知也がこちらに背を向けたからだ。ちらりとだが笑ったようにも見えた。
「かけた呪いの名は『ゆきがさね』」
「……ゆきがさね?」
「解くなり破るなり、それができると仰るのならどうぞご随意に。あなた方と私どもとは、別に仇《かたき》同士ではないのですから」
ただし、と声を低くした。肩越しにこちらを振り向いた。
「雪世殿の悲しみに心の底から寄り添おうというのなら、あなた方もそれ相応の苦しみを舐めることになるでしょう。その覚悟なしには寄り添い得ないし、共に苦しみ悩む覚悟もなしに差し伸べた手など、虚しく宙を切るばかり。そのことをどうかお忘れなく」
現れた時と同じく、不知也とその眷族たちは幻のように消え去った。
魂を握り潰されそうな息苦しさから解き放たれた美葛は、大きく息を吐いてその場にくずおれた。
「美葛」
真咲が肩を抱いて支えてくれた。美葛は無理にも微笑んでみせた。
「見てよ、この手。震えてる」
「そんなに恐ろしいなら……」
止せばいいのに、とは真咲にも言えないらしかった。
何か思う所があるのだろう、真咲はひどく悔しそうだ。
「何もできないと腹が立つもんだな。《影法師》の時もそうだった」
「何言ってるの。仕方ないよ。真咲はただの人なんだから」
「だとしてもだ。美葛ばかり矢面に立たせて、情けない」
弱った心に真咲の気遣いが嬉しかった。美葛は覚悟を決めて立ち上がった。
「手伝って、真咲。ゆきがさねだかゆきだるまだか知らないけど、早く呪いを解いてあげないと」
庭では相変わらず放免たちが雪を相手に奮闘していた。鍬で、笊で、あるいは桶で、誰もが足元の雪を掻いては他所へ移している。無理もないことだが、皆ひどく寒がりながらのちまちました仕事になってしまっていて、どの顔にも疲れの色が濃かった。
真咲が諦め混じりの溜息をついた。
「出て行った放免たちの半分でもいいから、今すぐ戻って来ないもんかなあ」
「何だか、お爺ちゃんばかり残ってる感じだよね」
「まあな。……それにしても参った。なあ美葛、狐の術に雪を止ませるようなのは」
「ないない。そんな都合の良い術」
美葛はゆるゆると首を振った。あればとっくに試している。
「真咲こそ、雪を止ませる誦文歌は知らないの?」
「知らない。聞いたこともないな。ちょっと考えてみるか」
そう呟いて、真咲は腕組みをした。例の『水の玉』の中に立ち返ったのだろう、眠たいような半眼になった。ねえ真咲、と美葛は慌ててその肩を揺さぶった。尋ねるなら今だった。
「邪魔してごめん。その、ちょっと聞いておきたいことがあって」
「何だ」
「真咲と同じような歌の詠み方、いつか私にもできるようになるかな……?」
問われた真咲は一瞬きょとんとしたが、すぐに微笑んだ。
「無理して俺を真似ることないぞ。まず同じようにはできないと思う」
「だよね、やっぱり。……真咲は、いつから『水の玉』の中で歌を?」
「五つのとき、霞ヶ浦で溺れ死にしかけてからだな」
あまりにもはっきりした答えが返ってきたので、今度は美葛がきょとんとしてしまった。霞ヶ浦は常陸国の東にある湾とその一帯の海を示す呼び名。美葛も一度だけ足を運んだことがあった。
里の仲間と遠出をしてな、と真咲が鼻の頭を掻いた。
「初めて見る海に驚いて、調子に乗ってはしゃぎ回っていたら、深みにはまった。近くにいた漁師が助けてくれなかったら間違いなく死んでた」
「真咲にもそんな頃があったんだね」
「まあな。とにかく、その死にかけたときのことが俺を変えたんだと思う。それ以来、見るもの聞くもの思うこと、何でもかんでも水の玉の中だ」
なるほど真似などできるはずもない。美葛は苦笑いで返すしかなかった。
「私も、私なりの詠み方をみつけてみるね」
「だな。差し当たってはこの雪か」
切り替えるように言って空を仰いだ。
「雪を降り止ませる歌……。必ずしも止ませる必要はないのか。日差しが解かすとか、何か別の物になぞらえるとか……。難しいな。そんな歌、すぐには浮かばない」
「誰かがかけた呪いなのは確かみたいだし、その呪いの道具なり何なりを、お屋敷で見つけた方が早いかもしれないね」
よし、と美葛は心を決めた。何であれ、できることをやってみるしかない。
「怖いけど、知っていそうなのに聞いてみる」
「知っていそうなの?」
怪訝そうな真咲もそのままに、美葛は雪の庭へと下り立った。
「不知也、不知也、いるんでしょう? 出てきてよ」
ややあって、いつものごとく不穏な気配が静かに静かに辺りに満ちた。
冷たい水に頭のてっぺんまで浸されたような心地。遠雷か地震いを思わせる、何とも言えない重々しい感じに胸が悪くなる。それでいて、当の不知也は何もない宙から雪の一片よりも軽やかに姿を現した。白い衣の袖を膨らませて音もなく庭に降り立った。
「いると思った。忠親様の時と同じような感じがしてたもの。今度は雪世様の心に付け入るつもりなんでしょう」
「付け入る?」
不知也が首を傾げた。
「狐の間では、人の心に寄り添うことを付け入ると言い表すのですか」
「言わないよ。そっちこそ、人の弱さに付け入ることを寄り添うなんて言うんだね」
「……心外です。まさかそのように受け取られていたとは。弱き者の嘆きに寄り添い、その心を歌にする。もってその望むところをなす。それが私の使命だと申し上げたはず」
「聞こえは良いようだけどな」
真咲も庭に降りてきた。
「言えよ。いったい何のためにそんなことをする」
問われた不知也がまた小首を傾げた。作り物めいて見えるほど真顔だった。
「悲しむ者の心に歌で寄り添ってあげることに理由が必要でしょうか」
「そうやって拵えてやった歌が、誰かの迷惑や不都合の種にもなるらしいってこと、分かってて詠んでるのか」
「私はどこまでも当人の味方。周りを気にしていては真の意味で寄り添うことなどできません」
静かだった不知也の瞳が鬼気とでも呼ぶべきものを宿した。
「罪を犯して嘆き、裏切りに遭って嘆き、死に接して嘆く……。そんな嘆いてばかりの己を恥じることはない、隠したりすることはないと私は伝えたい。生きている限り逃れられない辛さや悲しみ。それらを喜びと同じように迎え入れ、受け止めて深く深く浸るとき、私たちの心はより強く優しいものになるのですから。物狂おしさに身を委ねていい。泣きたいだけ泣いていい。もしもそれで心が休まるのであれば、自ら死を選ぶことさえ私は止めないでしょう」
話すにつれて高まっていく不知也らしからぬ語勢が、美葛をたじろがせながらも冷静にさせた。何か狂った理屈を聞かされたように感じた。不知也の言う『嘆きに寄り添う』は、例えば悲しみに暮れる者の立ち直りを見守るといったような、そんな前向きな振る舞いとはまったく違う。
「……雪世様は連れて行かせない」
一歩前に出た美葛がそう呟いた途端、木立の裏やあちこちの暗がり、雪の下、軒下に伸びた氷柱の陰、至る所に潜んでいた不知也に付き従うものたちが一斉に声のない怒号を上げた。美葛は、逃げ出したいのを堪えて声を張った。
「絶対に、連れて行かせない……!」
押し潰されてしまいそうな恐ろしさは、しかし長くは続かなかった。
不知也がこちらに背を向けたからだ。ちらりとだが笑ったようにも見えた。
「かけた呪いの名は『ゆきがさね』」
「……ゆきがさね?」
「解くなり破るなり、それができると仰るのならどうぞご随意に。あなた方と私どもとは、別に仇《かたき》同士ではないのですから」
ただし、と声を低くした。肩越しにこちらを振り向いた。
「雪世殿の悲しみに心の底から寄り添おうというのなら、あなた方もそれ相応の苦しみを舐めることになるでしょう。その覚悟なしには寄り添い得ないし、共に苦しみ悩む覚悟もなしに差し伸べた手など、虚しく宙を切るばかり。そのことをどうかお忘れなく」
現れた時と同じく、不知也とその眷族たちは幻のように消え去った。
魂を握り潰されそうな息苦しさから解き放たれた美葛は、大きく息を吐いてその場にくずおれた。
「美葛」
真咲が肩を抱いて支えてくれた。美葛は無理にも微笑んでみせた。
「見てよ、この手。震えてる」
「そんなに恐ろしいなら……」
止せばいいのに、とは真咲にも言えないらしかった。
何か思う所があるのだろう、真咲はひどく悔しそうだ。
「何もできないと腹が立つもんだな。《影法師》の時もそうだった」
「何言ってるの。仕方ないよ。真咲はただの人なんだから」
「だとしてもだ。美葛ばかり矢面に立たせて、情けない」
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