元禄怪奇余話~千年の復讐

仮面の雪影

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染子の復讐

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「死んだ! 染子が」
 吉保は、足元から力がぬけてゆくような感覚を覚えた。
「わらわの元に運ばれてきた時には、すでに息を引き取っていた。それで遺体の処理を素早くすませ、魂だけをわらわの手で操ることにしたのだ」
「何故すでに死んだ染子の魂を、そなたの手で操る必要がある」
 吉保は、声を震わせながらたずねた。
「知れたことよ、仇を晴らすためじゃ。家里めがとうとう、あの将軍に取り憑いてしまいおった。あの桂昌院とかいう恐ろしく業の強い女がいるうちは、わらわとて将軍に取り憑くことは容易ではなかった。なれど、かの女人があの世に旅立つや、たちまち魂を乗っ取ってしまいおった。昨今の将軍の乱心は、そのためじゃ」
 その後の由希の語ることは、さらに吉保にとり衝撃的だった。右衛門佐の魂を乗っ取った由希は、将軍のもとへおもむき、染子は全快したと偽りをつたえた。将軍は喜び、見舞いと称して右衛門佐の部屋を訪ねることにした。

 数日して将軍は日が暮れた後、長局にある右衛門佐の部屋を訪ねる。
「お前たちは、そこでしばし待て」
 吉保は同行してきた小姓たちを部屋の外で待たせ、一人染子を見舞った。染子は布団に横になっていた。
「染子、わしじゃ綱吉じゃ!」
 呼びかけるも返事がない。ゆっくりと布団をはがすと、寝間着姿の染子もまた、なんとも艶めかしい。その時、染子がかすかに薄目を開いた。
「上様、お待ちしておりました」
 消えいるような声である。
「余もそなたに会いたかった」
「私の心は、上様のものにござりまする。今一度抱いてくださりまするか?」
 将軍は情欲を刺激され、染子の胸に顔をうずめた。しかし、しばらくすると異変をさっした。染子の胸からは、心臓の音が伝わってこなかったのである。
「上様、私の人生は上様によって奪われました。そしてこの命までも……。私の無念、そして前世からの因縁故、上様! 御命ちょうだい致しまする」
 将軍は得体のしれない恐怖のため、甲高い悲鳴をあげる。四つんばいになりながらも逃げようとし、障子に頭をぶつけた。障子はにぶい音と共に倒れた。そのまま将軍は廊下へ逃げようとする。
「誰かある! 誰かおらぬか!」
将軍は必死に叫ぶも、先ほどまで部屋の外に控えていたはずの小姓さえいないではないか。やがて廊下がT字路になるところまで逃げると、かすかにそこに人影が見えた。
「助けてくれ! 染子が乱心じゃ!」
 救いを求めるように将軍が叫ぶも、次の瞬間には思わず絶句した。なんとそこに出現したのは、先ほどまで将軍の背後にいたはずの染子だったのである。しかも何故か柄杓を片手に持ち、熱湯が湯気をたてていた。将軍はついに腰をぬかし、動けなくなった。
「やめよ染子! 余が悪かった」
 この幼子のような将軍は、半ば泣き顔になった。その様子がおかしかったのか、染子の亡霊はかすかに笑みをうかべた。そして、まるで大人が子供に灸をすえる時のような、恐い顔になった。熱湯が一滴、二滴と将軍の顔にかかる。
「熱い! やめてくれ!」
ついに将軍は気絶した。その様子を見届けながら、染子は刃を将軍めがけて、ふりおろそうとする。次の瞬間だった。染子の体が、正体不明の力で宙に浮いた。壁まで飛ばされた染子は、思わず目をむいた。

 仏説摩訶般若波羅蜜多心経
 観自在菩薩行深般若波羅蜜
 多時照見五蘊皆空度一切苦厄
 舎利子色不異空空不異色色即
 是空空即是色……

 般若心経の音と共に、菩薩たちが染子を取りかこんだ。染子は思わず頭をかかえて、悲鳴をあげた。
「許さんぞ! これ以上、我が子に手をかけること決して許さぬ!」
 なんとそれは、桂昌院の亡霊だった。
「うぬ! 子を守ろうとする母の力には、いかにわらわとて歯がたたぬ! だが次は必ず仇を晴らしてみせる」
 と染子は由希の声で言い、その場から消えてしまった。

……吉保は、あまりのことに驚愕し顔色も真っ青になった。
「こたびは、あの桂昌院とかいう者に阻まれた。だがあの者も、四十九日をすぎれば簡単には現世をさまようことができなくなる。今度こそわらわは仇を晴らす!」
「それで、そなたはわしを一体どうするつもりだ?」
「そなたには呪いをかけた。そなたはこの先、幾度生まれ変わっても、罪を犯して牢の中の人となるのだ。そなた将軍の小姓から今の地位になるまで、さぞかし多くの人をあざむき、そして陥れてきたのであろう。わらわと、そしてその者たちの無念、未来永劫檻の中で思い知るがいい。すなわち、ここがそなたの終の棲家となるのだ」
 そういって由希は立ち去ろうとした。
「待て! 上様にこれ以上手をだすな!」
 吉保の叫びもむなしく、由希の姿はすでにそこにはなかった。

 吉保は覚悟していた。やがて将軍からの使いの者が訪れる。そして切腹か、もしくは打ち首となるだろう。もしかしたら由希が将軍の命を奪うかもしれない。それでも己が、将軍に刀をふりかざした罪は消えることはない。
 しかし一月が過ぎ、二月が過ぎても将軍からの使者は姿をあらわさない。牢の中の吉保が接触できる外界の人間は、朝晩食事を運んでくる者だけである。その者に自らの処分がどうなっているのかたずねるも、身分が低い己のあずかり知らぬこと、としか答えがかえってこなかった。
 吉保にとって牢の中で過ごす日々は、むしろひと思いに死を賜った方が幸福ではあるまいかと思えるほど、つらい日々だった。終日横になっている以外にやることがない一日は、通常の二倍、いや三倍に思えるほど長く感じられる。
 たった一つの楽しみは食事であるが、これがあまりにまずい。主食は豆か芋である。副食は昨今の生類憐みの令の厳格化の影響も受けてか、全て青菜だった。他に漬物、みそ汁はお湯と変わらぬほどうすい。時として明らかに食材が腐っていることさえあった。
 牢の中は常に悪臭がただよい。時々、他の囚人の叫ぶ声がした。髭は伸び放題となり、髷も乱れた。
 やがて吉保は、夜になり己しかいないはずの牢の中で、己以外の何者かの気配を感じるようになった。最初はまたしても由希かと思ったが、振り返ると誰もいない。吉保は恐れ、藁にくるまると必死に経をとなえた。しかし間もなく、逃げ場のない牢の中で、何者かの影が己の背後に迫ってくるのをはっきりと感じた。
「何奴!」
 吉保は跳ね起き、壁際まで後ずさりした。その時だった。何者かの細い手が、己の脇腹のあたりに伸びてきた。吉保は悪寒と共に悲鳴をあげる!
「吉保様……」
 聞き覚えのある声だった。
「染子か……?」
 長い牢獄暮らしで半ばうつ病気味の吉保は、この再会にかすかに涙さえうかべた。
「すまぬ、わしは……そなたを守ることができなんだ。許せ、許せよ」
 染子の霊は、そのまま吉保におおいかぶさってきた。
「吉保様、お迎えにあがりました」
 染子は吉保の首に手をまわした。吉保はゆっくり、ゆっくりと意識が遠のいた……。

 


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