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プロローグ

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 チュバッ。
「んんっ!」
 輪郭だけが人間の、醜穢しゅうわいな存在が、その口内にてぬめりひそめる、節々が膿んだ舌を――その眼前の滑らかな柔肌へ、悦び這わせる。
「あっ、ぅ」
 それに伴い女の柔らかい声が、脊髄反射すら飛ばして、勝手に漏れ出る。
「ゲヘ、ヴヘ」
 不気味グロテスクな声を発し、異臭を漂わせる口角は限りなく上がっていた。悦びで歪んでいるのは明白であった。
 ――それもそうだろう。そいつが押し倒しているのは、引き裂かれた衣服の狭間で無力に震え、乳房をさらけ出している、無力でそこそこの見た目の女一人だけだったのだから。
 レロン。
「~っ」
 嫌悪に見悶えるする女の動静を悦び、邪悪な加虐心をさらにと燃え上がらせ、悪臭と共に下品な笑いをとめどなく口から漏れ出させる。
「ゲッゲ、ヴヘ~」
 ……悪夢でもこれほど酷くはないのではないか? 迫る眼前の人外は、まさに三流の映画や漫画から抜け出た、人外そのものであり、しかもその餌食が、女の身体となってしまった、僕そのものであったのだから――。


「じゃあ、行って来るよ」
 いつもの挨拶を妻にする。
「えぇ、行ってらっしゃい」
 令和三年。日本はかつて無い程に不景気で、そのくせかつて無い程に平和だった。
 地方中小都市在住、二十五歳の僕は、やはり中小企業に勤める冴えない会社員サラリーマンそのものであった。
 その一方、三つ上の妻は国立研究所に勤めており、身内贔屓みうちびいきを差し引いても、才女と言えた。
「あ、そうそう。私、今日は遅くなるから、先に食べててね」
 一見、釣り合わない妻と僕は、実際にその通りに思えた。
「うん……あ、でも遅かったら、駅くらいまでは迎えにいくから」
 だが熱意という花束だけを武器に、僕はひたにぶつかった。その結果、得られた奇跡いま
「ふふっ。誰もこんなおばさん、襲わないわよ」
 義父おとうさんには最後まで反対されたが、さみが味方してくれたおかげで、なんとか結婚へとこぎつけたのだ。
「何をおっしゃいますやら」
 いつもと変わらぬ笑顔で微笑んだ後、玄関にて軽く口づけをする。
 しばし見つめ合った後、彼女は僕の初めてのプレゼントである耳飾イヤリングを軽く揺らして、外へと出て行った。
 バタン。
 ――子供がまだの僕達の間で、何百回と行われてきた幸せな朝の光景にっか
「……さーてと、僕も食器を洗って、会社に急がないと」
 微かな感謝を胸中にて捧げて、日常いつもを繰り返す。


「――こ、こは?」
 見慣れない室内にて目が覚める。ぼやけた頭の中は霧の中そのものであった。
 横たわる僕の視線の先には、無影灯むえいとうが不気味にボンヤリと光っていた。
 照らされた周囲の白い壁、見慣れない機械や器具、まるでテレビの番組ドラマなどでたまに目にする手術室のような……いや、手術室そのものであることに気付く。
 混乱する頭を抑えつつ身体を起こす。
「なん……あ、れ?」
 次いで違和感。身体の異様な気怠けだるさ、脳の稼働率の低さを差し引いても、およそ受け入れ難い奇異な感覚が身体の節々にて散見される。
 まず声。
 妙に高い。まるで売れない女性声優みたいであり、声に出せば出すほど、僕という存在に自信が無くなる。
「――?」
 次にこの手術用の服……もだが、胸のあたりのふたつの出っ張り。
 蜂に刺されてもここまでは腫れないだろう。胸部に出来たこの柔らかな膨らみは、女性の乳房に酷似していた。
「何が、一体?」
 他にも、手術服から覗くほっそりとした肢には無駄毛むだげが無くて、腕も同様で合った。さらに背が少し縮んだような錯覚すら覚える。
 だが、それらの究明については――自己防衛か、あるいは現状の精査を重視してか、後回しとばかりに手術台から降りる。
「えーっと、どこ……ン!?」
 自分のだと思うと気持ち悪い、だが可憐な声が、高く小さく響く。
 なんだなんだ、っと瞬時に瞑った目を開く。
「……」
 胸の先端からの痛みに近い、だが痛みだけではない奇妙な感覚が、予想無しに伝わったためであった。
 肌着インナーがあまりに粗野な素材であったため、男の乳首ですら、擦った刺激に驚いてしまったのか?
「――そ、れより。ここは? 家じゃない。会社でもない?」
 いや、今の感覚を理解してはいけないと、まるで本能が蓋をするかのように、頭が現状の認識へと切り替えられる。
 恐怖と狂気が錯綜する中、それらの出口であるかのように、唯一の小さな扉を見つけて、逃げるようにドアノブへ駆け寄る。


 ギィー、バタン。
「なんだ? ヒドイ、臭いだ」
 そこは薄暗い、六畳ほどの広さの、掃除用品などの倉庫であった。
 草臥くたびれた清掃品が乱雑に置かれ、汚れた段ボールが無造作に置かれていた。壁には害虫が這っており、奥にボロボロの扉が一つ見える。
 明かりは豆電球くらいの小さなものが中央に据え付けられているだけの、いわゆるお化け屋敷の一室であった。
 不気味な気配が漂う。まるで、恐怖ホラー映画のワンシーンのごとく――。
「ま、待てよ。そうだ。さっきのへやに何か使えるものが……」
 怯えるように振り返り、背後の取っ手に手を回すが。
 ガチャ……ガチャガチャ!
「あ、開かない?」
 自動施錠オートロック? 馬鹿な、どうみてもただの扉だぞ。
 不安と混乱が心の中でかさ増しされていく中、心拍数は次第次第にと増していく。
「ハァ、ハァ」
 意味不明なこの状況にこの肉体、僕は、僕は一体?
 キラ。
「ん?」
 弱々しく反射する何かに気付く。小さな鏡が室の隅にて見つかる。
 ――そうだ、とりあえずアレを使って、僕が僕であることを確認しよう。少しは落ち着けるはず。
 目が覚めて以降、初めて浮かべられた微かな笑みと共に、僕は鏡を。
「――!?」
 カチャン。
 まるで投げるように鏡を落としてしまう。
 鏡に映ったのは、かつての自分では無く、見慣れない若い女性が写っていた。
「なん……だれ?」
 脳に焼き付いた鏡の女の顔は、だが不思議と、目や唇、鼻などの部分パーツに僅かな自身の面影を見いだした。髪は肩くらいまであり、恐怖で引きつった表情でなければ、悪くない顔立ちと思えた。
「ハァ、ハァ、ハァ!」
 ドックン、ドックン。
 だが、そんな考察どころではない。耳の中から発せられるかのごとく、熱い心拍の波が鼓膜を揺さぶる。
「じゃ、じゃあ――」
 震える手で、大きめの乳房を服の上から抑える。いや、それより。
 左手を股間に這わせる。
「……な、えっ?」
 手応えの無さと、感じたことのない感覚に、理性が認めてしまったのた。身体が女になってしまっていることに。
「なんで? いつ? どうして?」
 眉間を押しても頭を抱えても、さっきの室にまで運ばれた記憶の繋ぎ目が見当たらない。
「――あっ、……」
 脳が急激に冷えるように感じた。それはおそらく、極端な血圧の低下……で、目眩めまい、が――。
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