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第1話 氷の王子の秘密と月のマドレーヌ
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「んーっ、完璧!大成功っ!」
ふわっと甘いバターの香りが満ちる製菓科の実習室で、私はオーブンから取り出したばかりのクッキーを前に、思わずガッツポーズをした。
こんがりきつね色に焼かれた生地の上で、魔法で色付けしたアラザンがキラキラと七色に輝いている。これは私が作った新作『七色スマイルクッキー』。ひと口食べれば、ちょっぴり憂鬱な気分も晴れるっていう、ささやかな魔法菓子(マジック・スイーツ)だ。
私の名前は天野いちご。
ここは、キラ星のような魔法使いたちが集う『王立マグノリア魔法学園』。
そして私は――落ちこぼれの集まりと噂される『製菓科』の生徒。
学園には、二つの科がある。
一つは、強力な攻撃魔法や難解な古代魔術を学ぶ、エリート中のエリート集団『魔法科』。
そしてもう一つが、私たちが所属する『製菓科』。
私たちの魔法は、ドラゴンを倒したり、天変地異を操ったりはできない。できることといえば、お菓子に「食べると少しだけ元気が出る」「ほんのり恋がしたくなる」なんて、可愛らしい魔法をかけることだけ。
だから、魔法科の生徒たちからは、いつもちょっとだけ見下されてる。
「うわ、また甘ったるい匂いがする」「あんなの、魔法のままごとだろ」
実習室の廊下を通り過ぎる魔法科の男子たちの声が聞こえてきて、私の心にちくりと小さな棘が刺さる。
(ままごとじゃないもん……。人の心を温かくする、立派な魔法だもん……)
ぎゅっと拳を握りしめていると、隣で一緒にクッキーを冷ましていた親友の桜ちゃんが、ぷくっと頬を膨らませた。
「もー! いちいち気にしないの、いちご! あの人たちは心がカサカサに乾いてるんだよ。私たちの作る甘いお菓子が必要なの!」
「桜ちゃん……うん、そうだよね!」
桜ちゃんの笑顔に、私の心もふわっと軽くなる。彼女は私の最高の理解者だ。
「それより聞いてよ! また“氷の王子”様がやったんだって!」
「氷の王子……?」
「もう、レオン・ヴァイスハイト様のこと! 魔法科の首席で、学園一の天才! この前の魔法実技試験でも、一人だけ異次元の魔法を披露して、試験官がドン引きしてたって噂だよ!」
キャーッと頬を染める桜ちゃん。
レオン・ヴァイスハイト。
その名前を知らない生徒は、この学園にはいない。
陽の光を吸い込んで銀色に輝く髪。全てを見透かすような、冷たいサファイアの瞳。彫刻みたいに整った顔立ちに、モデルみたいな長身。
おまけに、魔法の腕は超一流。まさに物語から抜け出してきた王子様。
――ただし、“氷”の、だけど。
彼は誰とも馴れ合わず、いつも一人でいて、話しかけた生徒はその冷たい視線に射抜かれて凍り付くって言われている。
私も一度だけ、廊下ですれ違ったことがある。
その時、たしかに感じた。空気がシンと張り詰めるような、近寄りがたいオーラを。
(すごい人なのはわかるけど……ちょっと、怖そうだな)
それが、私の彼に対する正直な感想だった。
「でも、あんなに完璧な人って、悩みとかなさそうだよねぇ」
「そりゃそうでしょ! 私たちとは住む世界が違うんだから!」
桜ちゃんとそんな噂話をしていると、予鈴が鳴り響いた。
「やば、次の授業! いちご、クッキーありがとう! 後で食べるね!」
「うん!」
私たちは慌てて片付けを済ませて、実習室を飛び出した。
キラキラと輝く『七色スマイルクッキー』の包みを手に、この時の私はまだ知らなかった。
あの“氷の王子”様と私が、こんなにも近付くことになるなんて。
そして、彼の抱える、誰にも言えない重大な秘密を、私が知ってしまうことになるなんて――。
◇
放課後。
私は一人、夕暮れの廊下を急いでいた。
(最悪だー! 製菓科で一番大事な、おばあちゃんの形見のレシピノートを忘れちゃうなんて!)
実習室に置き忘れてしまったのだ。あれがないと、私はお先真っ暗。明日からの魔法菓子作りが何もできなくなっちゃう。
夕日でオレンジ色に染まった廊下は、シンとしていて誰もいない。
実習室のドアを開けると、まだほんのり甘い香りが残っていた。
「あった、あった!」
作業台の下に落ちていたノートを見つけて、ほっと胸をなでおろす。表紙に『あなたを笑顔にする魔法』と書かれた、世界で一冊だけの私の宝物だ。
ノートを抱きしめて校舎を出ると、空はもう濃紺色に変わり始めていた。
(早く帰らないと)
近道だからと、普段はあまり使わない旧校舎の裏手を通った、その時だった。
――カシャァン!
ガラスが割れるような、鋭い音。
そして、
「……っ、ぐ……!」
誰かの、苦しそうな声。
(え……?)
ドキッ、と心臓が跳ねる。
音と声がしたのは、旧校舎のさらに奥にある、今は使われていない古い温室の方からだ。昔は薬草を育てるために使われていたらしいけど、今はすっかり寂れて、誰も近寄らない場所のはず。
(お、お化け……!?)
背筋がゾクッとして、一刻も早く立ち去ろうとした。でも。
「……くそ……! なぜ、制御できない……っ!」
聞こえてきたのは、明らかに人の声だった。それも、どこかで聞いたことがあるような……?
ダメだってわかってるのに、私の足は勝手に温室の方へ向かっていた。怖いけど、もし誰かが怪我でもしていたら大変だ。
錆びついた温室のドアが少しだけ開いている。私は息を殺して、その隙間からそっと中を覗き込んだ。
そして――息をのんだ。
そこにいたのは、信じられない人物だった。
「レオン……様……?」
“氷の王子”、レオン・ヴァイスハイトが、そこにいた。
月の光が、割れた天窓から差し込んでいる。その光を浴びて、彼の銀色の髪が青白く光っていた。
でも、いつもみたいな完璧な姿じゃなかった。
肩で大きく息をしていて、その顔は苦痛に歪んでいる。彼の周りでは、制御を失った魔力の火花がバチバチと音を立てていた。それはまるで、小さな嵐のようだった。
「……静まれ……っ!」
レオン様は苦しげに呟きながら、自分の腕を押さえつける。でも、魔力の嵐は収まるどころか、どんどん激しくなっていく。
ガシャン! また何かが割れる音。彼の足元には、砕け散った植木鉢が転がっていた。
(うそ……でしょ……?)
魔法科の首席。学園一の天才。
完璧で、無敵で、悩みなんて何一つないように見えたあの人が、今、目の前で自分の魔力に苦しんでいる。
まるで、魔力という名の猛獣を、必死で押さえつけようとしているみたいに。
その時、彼の体がぐらりと傾いだ。
「危ない!」
私は思わず叫んで、錆びたドアを押し開けていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
温室に飛び込んできた私を見て、レオン様はサファイアの瞳を驚きに見開いた。
「……! なぜ、お前がここに……」
彼の声は、いつもよりずっと弱々しかった。
「そ、それは……忘れ物を取りにきて……そしたら、物音がしたから……」
しどろもどろに答える私を、彼は睨みつける。その視線は氷のように冷たいのに、彼の額には玉のような汗が浮かんでいた。
「……見るな」
振り絞るような声で、彼は言った。
「……っ!」
その瞬間、彼の体を包んでいた魔力の嵐が、ふっと嘘のように消え去った。
そして、糸が切れた人形みたいに、レオン様の体がゆっくりと地面に崩れ落ちていく。
「レオン様!」
私は駆け寄って、彼の体を支えた。
腕に触れた彼の体は、びっくりするくらい熱かった。魔力を暴走させたせいで、熱が出ているんだ。
ぐったりと私の腕の中にいる彼は、普段の“氷の王子”の姿からは想像もできないくらい、無防備で、なんだか……儚く見えた。
いつも人を寄せ付けない彼が、実は深刻な『魔力不全』に苦しんでいたなんて。
そして、それを誰にも知られないように、たった一人で戦っていたなんて。
見てはいけないものを見てしまった。
彼の最大の秘密に、触れてしまった。
心臓が、バクバクと音を立てる。
でも、それと同時に、私の心の中に、今まで感じたことのない気持ちが芽生えていた。
(この人を、助けたい――)
それは、同情とか、憐れみとか、そんなものじゃない。
もっと、ずっと純粋な気持ち。
弱っている彼を見て、初めて知った彼の本当の姿を見て、私の心は強く、強く揺さぶられていた。
◇
レオン様を保健室のベッドに運び、先生に「貧血で倒れていたみたいです」とだけ伝えて、私は逃げるようにその場を後にした。
自分の教室に戻っても、心臓のドキドキが全然収まらない。
(どうしよう……見ちゃった……)
脳裏に焼き付いて離れない、苦しそうなレオン様の顔。
いつも冷たくて完璧な彼が、あんなに必死な顔で何かに耐えていたなんて。
『見るな』
そう言った時の、彼の声が耳から離れない。
きっと、彼が一番知られたくない秘密だったんだ。プライドの高い彼にとって、これ以上ない屈辱だったのかもしれない。
(私、とんでもないことをしちゃった……。きっと、すごく怒ってる。もう二度と私の前に現れるなって言われるかも……)
そう思うと、胸がズキッと痛んだ。
なんで痛むのかなんて、自分でもよくわからない。ただ、彼のあの苦しそうな顔を思い出すと、ぎゅーっと胸が締め付けられるのだ。
「……ん?」
机の上で腕を組んで突っ伏していたら、カバンの中から滑り落ちたレシピノートが目に入った。
おばあちゃんの形見の、私の宝物。
その表紙の文字が、なぜか今日の私には、いつもと違って見えた。
『あなたを笑顔にする魔法』
(笑顔に、する……)
私の魔法菓子は、食べた人を少しだけ幸せにして、笑顔にするための魔法。
そうだ。おばあちゃんはいつも言っていた。
『いいかい、いちご。本当にすごい魔法っていうのはね、誰かの心を温めたり、涙を笑顔に変えたりする魔法なんだよ。お菓子っていうのは、そのための最高のおまじないなのさ』
ノートを、そっと開く。
パラパラとページをめくっていくと、あるページで私の指が止まった。
それは、まだ一度も作ったことがない、特別なレシピ。
【心を落ち着かせる月のマドレーヌ】
レシピの横には、おばあちゃんの丸っこい文字で、こう書き加えられていた。
『昂ぶり、乱れた魔力を優しく鎮める、夜空のおまじない。材料には、月光をたっぷり浴びた“月見草の蜜”を忘れずにね』
(魔力を、鎮める……?)
ハッとして、顔を上げた。
これだ。
これなら、もしかしたら……。
(レオン様の、助けになれるかもしれない!)
そう思った瞬間、さっきまでの不安や恐怖が、嘘みたいに消えていくのがわかった。
代わりに、胸の中に温かくて強い光が灯るのを感じる。
怒られるかもしれない。迷惑がられるかもしれない。もう関わるなと言われるかもしれない。
でも、そんなこと、どうでもいい。
(私が、彼を笑顔にしたい!)
それは、ほとんど衝動的で、無謀な決意だった。
落ちこぼれの製菓科の私に、学園一の天才の助けになることなんてできるはずがない。周りのみんなは、きっとそう言って笑うだろう。
でも、私には、私にしかできないことがある。
おばあちゃんが教えてくれた、この甘くて優しい魔法がある。
「よしっ!」
私は勢いよく立ち上がった。
もう迷わない。
“氷の王子”なんて呼ばれて、一人で戦っている彼の心を、私の魔法菓子で溶かしてみせる。
たとえ、それが無謀な挑戦だとしても。
私は急いで実習室の使用許可を取り、夜の学園へと駆け出した。
“月見草”は、確かあの使われていない温室の近くに咲いているはずだ。
レオン様のためだけの、特別な魔法菓子作りが、今、始まる。
凍てついた彼の心を、とろけるように甘い魔法で温めるために。
私の心臓は、緊張と、そしてほんの少しの期待で、今までになく大きく、高鳴っていた。
ふわっと甘いバターの香りが満ちる製菓科の実習室で、私はオーブンから取り出したばかりのクッキーを前に、思わずガッツポーズをした。
こんがりきつね色に焼かれた生地の上で、魔法で色付けしたアラザンがキラキラと七色に輝いている。これは私が作った新作『七色スマイルクッキー』。ひと口食べれば、ちょっぴり憂鬱な気分も晴れるっていう、ささやかな魔法菓子(マジック・スイーツ)だ。
私の名前は天野いちご。
ここは、キラ星のような魔法使いたちが集う『王立マグノリア魔法学園』。
そして私は――落ちこぼれの集まりと噂される『製菓科』の生徒。
学園には、二つの科がある。
一つは、強力な攻撃魔法や難解な古代魔術を学ぶ、エリート中のエリート集団『魔法科』。
そしてもう一つが、私たちが所属する『製菓科』。
私たちの魔法は、ドラゴンを倒したり、天変地異を操ったりはできない。できることといえば、お菓子に「食べると少しだけ元気が出る」「ほんのり恋がしたくなる」なんて、可愛らしい魔法をかけることだけ。
だから、魔法科の生徒たちからは、いつもちょっとだけ見下されてる。
「うわ、また甘ったるい匂いがする」「あんなの、魔法のままごとだろ」
実習室の廊下を通り過ぎる魔法科の男子たちの声が聞こえてきて、私の心にちくりと小さな棘が刺さる。
(ままごとじゃないもん……。人の心を温かくする、立派な魔法だもん……)
ぎゅっと拳を握りしめていると、隣で一緒にクッキーを冷ましていた親友の桜ちゃんが、ぷくっと頬を膨らませた。
「もー! いちいち気にしないの、いちご! あの人たちは心がカサカサに乾いてるんだよ。私たちの作る甘いお菓子が必要なの!」
「桜ちゃん……うん、そうだよね!」
桜ちゃんの笑顔に、私の心もふわっと軽くなる。彼女は私の最高の理解者だ。
「それより聞いてよ! また“氷の王子”様がやったんだって!」
「氷の王子……?」
「もう、レオン・ヴァイスハイト様のこと! 魔法科の首席で、学園一の天才! この前の魔法実技試験でも、一人だけ異次元の魔法を披露して、試験官がドン引きしてたって噂だよ!」
キャーッと頬を染める桜ちゃん。
レオン・ヴァイスハイト。
その名前を知らない生徒は、この学園にはいない。
陽の光を吸い込んで銀色に輝く髪。全てを見透かすような、冷たいサファイアの瞳。彫刻みたいに整った顔立ちに、モデルみたいな長身。
おまけに、魔法の腕は超一流。まさに物語から抜け出してきた王子様。
――ただし、“氷”の、だけど。
彼は誰とも馴れ合わず、いつも一人でいて、話しかけた生徒はその冷たい視線に射抜かれて凍り付くって言われている。
私も一度だけ、廊下ですれ違ったことがある。
その時、たしかに感じた。空気がシンと張り詰めるような、近寄りがたいオーラを。
(すごい人なのはわかるけど……ちょっと、怖そうだな)
それが、私の彼に対する正直な感想だった。
「でも、あんなに完璧な人って、悩みとかなさそうだよねぇ」
「そりゃそうでしょ! 私たちとは住む世界が違うんだから!」
桜ちゃんとそんな噂話をしていると、予鈴が鳴り響いた。
「やば、次の授業! いちご、クッキーありがとう! 後で食べるね!」
「うん!」
私たちは慌てて片付けを済ませて、実習室を飛び出した。
キラキラと輝く『七色スマイルクッキー』の包みを手に、この時の私はまだ知らなかった。
あの“氷の王子”様と私が、こんなにも近付くことになるなんて。
そして、彼の抱える、誰にも言えない重大な秘密を、私が知ってしまうことになるなんて――。
◇
放課後。
私は一人、夕暮れの廊下を急いでいた。
(最悪だー! 製菓科で一番大事な、おばあちゃんの形見のレシピノートを忘れちゃうなんて!)
実習室に置き忘れてしまったのだ。あれがないと、私はお先真っ暗。明日からの魔法菓子作りが何もできなくなっちゃう。
夕日でオレンジ色に染まった廊下は、シンとしていて誰もいない。
実習室のドアを開けると、まだほんのり甘い香りが残っていた。
「あった、あった!」
作業台の下に落ちていたノートを見つけて、ほっと胸をなでおろす。表紙に『あなたを笑顔にする魔法』と書かれた、世界で一冊だけの私の宝物だ。
ノートを抱きしめて校舎を出ると、空はもう濃紺色に変わり始めていた。
(早く帰らないと)
近道だからと、普段はあまり使わない旧校舎の裏手を通った、その時だった。
――カシャァン!
ガラスが割れるような、鋭い音。
そして、
「……っ、ぐ……!」
誰かの、苦しそうな声。
(え……?)
ドキッ、と心臓が跳ねる。
音と声がしたのは、旧校舎のさらに奥にある、今は使われていない古い温室の方からだ。昔は薬草を育てるために使われていたらしいけど、今はすっかり寂れて、誰も近寄らない場所のはず。
(お、お化け……!?)
背筋がゾクッとして、一刻も早く立ち去ろうとした。でも。
「……くそ……! なぜ、制御できない……っ!」
聞こえてきたのは、明らかに人の声だった。それも、どこかで聞いたことがあるような……?
ダメだってわかってるのに、私の足は勝手に温室の方へ向かっていた。怖いけど、もし誰かが怪我でもしていたら大変だ。
錆びついた温室のドアが少しだけ開いている。私は息を殺して、その隙間からそっと中を覗き込んだ。
そして――息をのんだ。
そこにいたのは、信じられない人物だった。
「レオン……様……?」
“氷の王子”、レオン・ヴァイスハイトが、そこにいた。
月の光が、割れた天窓から差し込んでいる。その光を浴びて、彼の銀色の髪が青白く光っていた。
でも、いつもみたいな完璧な姿じゃなかった。
肩で大きく息をしていて、その顔は苦痛に歪んでいる。彼の周りでは、制御を失った魔力の火花がバチバチと音を立てていた。それはまるで、小さな嵐のようだった。
「……静まれ……っ!」
レオン様は苦しげに呟きながら、自分の腕を押さえつける。でも、魔力の嵐は収まるどころか、どんどん激しくなっていく。
ガシャン! また何かが割れる音。彼の足元には、砕け散った植木鉢が転がっていた。
(うそ……でしょ……?)
魔法科の首席。学園一の天才。
完璧で、無敵で、悩みなんて何一つないように見えたあの人が、今、目の前で自分の魔力に苦しんでいる。
まるで、魔力という名の猛獣を、必死で押さえつけようとしているみたいに。
その時、彼の体がぐらりと傾いだ。
「危ない!」
私は思わず叫んで、錆びたドアを押し開けていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
温室に飛び込んできた私を見て、レオン様はサファイアの瞳を驚きに見開いた。
「……! なぜ、お前がここに……」
彼の声は、いつもよりずっと弱々しかった。
「そ、それは……忘れ物を取りにきて……そしたら、物音がしたから……」
しどろもどろに答える私を、彼は睨みつける。その視線は氷のように冷たいのに、彼の額には玉のような汗が浮かんでいた。
「……見るな」
振り絞るような声で、彼は言った。
「……っ!」
その瞬間、彼の体を包んでいた魔力の嵐が、ふっと嘘のように消え去った。
そして、糸が切れた人形みたいに、レオン様の体がゆっくりと地面に崩れ落ちていく。
「レオン様!」
私は駆け寄って、彼の体を支えた。
腕に触れた彼の体は、びっくりするくらい熱かった。魔力を暴走させたせいで、熱が出ているんだ。
ぐったりと私の腕の中にいる彼は、普段の“氷の王子”の姿からは想像もできないくらい、無防備で、なんだか……儚く見えた。
いつも人を寄せ付けない彼が、実は深刻な『魔力不全』に苦しんでいたなんて。
そして、それを誰にも知られないように、たった一人で戦っていたなんて。
見てはいけないものを見てしまった。
彼の最大の秘密に、触れてしまった。
心臓が、バクバクと音を立てる。
でも、それと同時に、私の心の中に、今まで感じたことのない気持ちが芽生えていた。
(この人を、助けたい――)
それは、同情とか、憐れみとか、そんなものじゃない。
もっと、ずっと純粋な気持ち。
弱っている彼を見て、初めて知った彼の本当の姿を見て、私の心は強く、強く揺さぶられていた。
◇
レオン様を保健室のベッドに運び、先生に「貧血で倒れていたみたいです」とだけ伝えて、私は逃げるようにその場を後にした。
自分の教室に戻っても、心臓のドキドキが全然収まらない。
(どうしよう……見ちゃった……)
脳裏に焼き付いて離れない、苦しそうなレオン様の顔。
いつも冷たくて完璧な彼が、あんなに必死な顔で何かに耐えていたなんて。
『見るな』
そう言った時の、彼の声が耳から離れない。
きっと、彼が一番知られたくない秘密だったんだ。プライドの高い彼にとって、これ以上ない屈辱だったのかもしれない。
(私、とんでもないことをしちゃった……。きっと、すごく怒ってる。もう二度と私の前に現れるなって言われるかも……)
そう思うと、胸がズキッと痛んだ。
なんで痛むのかなんて、自分でもよくわからない。ただ、彼のあの苦しそうな顔を思い出すと、ぎゅーっと胸が締め付けられるのだ。
「……ん?」
机の上で腕を組んで突っ伏していたら、カバンの中から滑り落ちたレシピノートが目に入った。
おばあちゃんの形見の、私の宝物。
その表紙の文字が、なぜか今日の私には、いつもと違って見えた。
『あなたを笑顔にする魔法』
(笑顔に、する……)
私の魔法菓子は、食べた人を少しだけ幸せにして、笑顔にするための魔法。
そうだ。おばあちゃんはいつも言っていた。
『いいかい、いちご。本当にすごい魔法っていうのはね、誰かの心を温めたり、涙を笑顔に変えたりする魔法なんだよ。お菓子っていうのは、そのための最高のおまじないなのさ』
ノートを、そっと開く。
パラパラとページをめくっていくと、あるページで私の指が止まった。
それは、まだ一度も作ったことがない、特別なレシピ。
【心を落ち着かせる月のマドレーヌ】
レシピの横には、おばあちゃんの丸っこい文字で、こう書き加えられていた。
『昂ぶり、乱れた魔力を優しく鎮める、夜空のおまじない。材料には、月光をたっぷり浴びた“月見草の蜜”を忘れずにね』
(魔力を、鎮める……?)
ハッとして、顔を上げた。
これだ。
これなら、もしかしたら……。
(レオン様の、助けになれるかもしれない!)
そう思った瞬間、さっきまでの不安や恐怖が、嘘みたいに消えていくのがわかった。
代わりに、胸の中に温かくて強い光が灯るのを感じる。
怒られるかもしれない。迷惑がられるかもしれない。もう関わるなと言われるかもしれない。
でも、そんなこと、どうでもいい。
(私が、彼を笑顔にしたい!)
それは、ほとんど衝動的で、無謀な決意だった。
落ちこぼれの製菓科の私に、学園一の天才の助けになることなんてできるはずがない。周りのみんなは、きっとそう言って笑うだろう。
でも、私には、私にしかできないことがある。
おばあちゃんが教えてくれた、この甘くて優しい魔法がある。
「よしっ!」
私は勢いよく立ち上がった。
もう迷わない。
“氷の王子”なんて呼ばれて、一人で戦っている彼の心を、私の魔法菓子で溶かしてみせる。
たとえ、それが無謀な挑戦だとしても。
私は急いで実習室の使用許可を取り、夜の学園へと駆け出した。
“月見草”は、確かあの使われていない温室の近くに咲いているはずだ。
レオン様のためだけの、特別な魔法菓子作りが、今、始まる。
凍てついた彼の心を、とろけるように甘い魔法で温めるために。
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全年齢ですが、けがをしたり、命を狙われたりする描写と「死」の表現があります。
苦手な方は回れ右をお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
私が子どもの頃から温めてきたお話のひとつで、小説家になろうの冬の童話際2022に参加した作品です。
石河 翠さまが開催されている個人アワード『石河翠プレゼンツ勝手に冬童話大賞2022』で大賞をいただきまして、イラストはその副賞に相内 充希さまよりいただいたファンアートです。ありがとうございます(^-^)!
こちらは他サイトにも掲載しています。
あいつは悪魔王子!~悪魔王子召喚!?追いかけ鬼をやっつけろ!~
とらんぽりんまる
児童書・童話
【第15回絵本・児童書大賞、奨励賞受賞】ありがとうございました!
主人公の光は、小学校五年生の女の子。
光は魔術や不思議な事が大好きで友達と魔術クラブを作って活動していたが、ある日メンバーの三人がクラブをやめると言い出した。
その日はちょうど、召喚魔法をするのに一番の日だったのに!
一人で裏山に登り、光は召喚魔法を発動!
でも、なんにも出て来ない……その時、子ども達の間で噂になってる『追いかけ鬼』に襲われた!
それを助けてくれたのは、まさかの悪魔王子!?
人間界へ遊びに来たという悪魔王子は、人間のフリをして光の家から小学校へ!?
追いかけ鬼に命を狙われた光はどうなる!?
※稚拙ながら挿絵あり〼
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