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第16章 おじさんと旅芸人の少女
第200話
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旅芸人の夫婦が店に来たのは、昼前だった。
扉が開いたとき、俺はちょうど湯を落としていた。
「失礼するよ、珈琲を二つ、お願いできるかな?」
最初に声をかけてきたのは、濃紺の羽織を身にまとった中背の男。
無駄な装飾はないが、布の質感と立ち振る舞いで、ただ者じゃないとすぐわかる。
後ろには、赤いスカーフを巻いた女性がいた。
柔らかく笑みを浮かべているが、目の奥に油断はない。
俺は頷いて、静かに豆を挽いた。
彼らは黙って席についた。
騒がない芸人、というのはそう多くないが、たまにいる。
舞台の上で熱狂を演じきるために、普段はむしろ、静かを好む者たち。
湯の落ちる音が店内に響く。
香りが広がると、女のほうが目を細めた。
「……なるほど、あの子が気に入るわけだ」
「あの子?」
返事はしない。
代わりに、珈琲を二つ、テーブルに置く。
男がカップを手に取り、ゆっくりと口元へ運ぶ。
一口飲んでから、ふうと息をつく。
「……良い香りと苦味。しみるな、これは」
「娘がお世話になってます」
女が言った。
穏やかな声音。
だが、そこに含まれる想いは軽くない。
「トレシーが……ここをすごく気に入っていて」
「ほら、あの子、あまり人前に出たがらないでしょう?」
「だから、こうして静かに過ごせる場所を見つけたのが、よっぽど嬉しかったんだと思います」
カップを置く音が、やけに軽く響いた。
「私たち、ね。実は少し心配してるんです」
女が目線を落とす。
男は黙ったままだ。
「旅芸人の家に生まれて、芸事に囲まれて育って、なのにあの子は、どうしても舞台に立てない」
「人前に出るのが、怖いみたいで」
「歌も、楽器も、家ではやるんです。でも、それを外では……」
俺は黙ったまま、煙草に火をつける。
「下手じゃないんですよ?」
「むしろ、ものすごく綺麗な声をしていて、音感もいい」
「ただ、それを“見せる”というところに、どうしても踏み出せない」
「向いてないのかなって思った時期もあるけれど、それでもあの子、歌うのは好きみたいなんです」
「家にいるときは、小さな声で、よく鼻歌を歌っていて」
男が、ようやく口を開いた。
「……俺たちは、旅芸人としてあの子に何を残せるだろうなって」
「技を教えるか、舞台に立たせるか、それとも好きな道を歩かせるべきか……」
「ここ最近、ずっと答えが出なかった」
女が頷く。
「でも、この店に通うようになって、少し……変わった気がするんです」
「昨日なんて、リュートのことを話してくれて」
「“すごく綺麗な音がした”って、目を輝かせて」
「その顔を見てたら……」
「この場所が、あの子にとって少しずつ、大事な何かになっていってるんだろうなって」
カップの底を見つめながら、女は小さく笑った。
「……ありがとうございます、本当に」
「うちの娘を、受け入れてくれて」
言葉を返すつもりはなかった。
感謝を求めてやっているわけじゃないし、そもそも受け入れたというほど大層なこともしていない。
俺はただ、ここにいて、珈琲を淹れて、煙草を吸っているだけだ。
ただ、それが彼女にとって居心地よかったというだけの話。
「才能ってのは、見せるだけが全てじゃないんですよね……」
女がぽつりと言った。
「自分の中だけで完結していても、立派な“持ちもの”で」
「でも、親としては……」
「どこかで、それを誰かに見せてほしいって、思ってしまうんです」
「……欲ですね」
「芸人だからこそ、見せたくなる」
「誰かの心を打つ姿を、見てみたい」
「でも、それを無理に引き出すのは違う気がする」
夫婦の言葉には、無理な期待も、押しつけもなかった。
ただ、葛藤があった。
「俺たちが何もせず、ただ待つだけでいいのか」
「それとも、導いてやるべきなのか」
「……難しいな、子育てってのは」
二人は肩を並べたまま、残りの珈琲を飲み干した。
やがて、女が立ち上がり、静かに頭を下げた。
「娘を……これからも、どうかよろしくお願いします」
「ここがあることで、あの子が少しでも……自由になれるなら、それだけで嬉しいです」
俺は頷く。
扉が開いて、また閉じた。
店内に静けさが戻る。
煙草の火が静かにくすぶる中で、俺はぽつりと呟いた。
「……答えなら、あの娘がそのうち見せてくれるさ」
扉が開いたとき、俺はちょうど湯を落としていた。
「失礼するよ、珈琲を二つ、お願いできるかな?」
最初に声をかけてきたのは、濃紺の羽織を身にまとった中背の男。
無駄な装飾はないが、布の質感と立ち振る舞いで、ただ者じゃないとすぐわかる。
後ろには、赤いスカーフを巻いた女性がいた。
柔らかく笑みを浮かべているが、目の奥に油断はない。
俺は頷いて、静かに豆を挽いた。
彼らは黙って席についた。
騒がない芸人、というのはそう多くないが、たまにいる。
舞台の上で熱狂を演じきるために、普段はむしろ、静かを好む者たち。
湯の落ちる音が店内に響く。
香りが広がると、女のほうが目を細めた。
「……なるほど、あの子が気に入るわけだ」
「あの子?」
返事はしない。
代わりに、珈琲を二つ、テーブルに置く。
男がカップを手に取り、ゆっくりと口元へ運ぶ。
一口飲んでから、ふうと息をつく。
「……良い香りと苦味。しみるな、これは」
「娘がお世話になってます」
女が言った。
穏やかな声音。
だが、そこに含まれる想いは軽くない。
「トレシーが……ここをすごく気に入っていて」
「ほら、あの子、あまり人前に出たがらないでしょう?」
「だから、こうして静かに過ごせる場所を見つけたのが、よっぽど嬉しかったんだと思います」
カップを置く音が、やけに軽く響いた。
「私たち、ね。実は少し心配してるんです」
女が目線を落とす。
男は黙ったままだ。
「旅芸人の家に生まれて、芸事に囲まれて育って、なのにあの子は、どうしても舞台に立てない」
「人前に出るのが、怖いみたいで」
「歌も、楽器も、家ではやるんです。でも、それを外では……」
俺は黙ったまま、煙草に火をつける。
「下手じゃないんですよ?」
「むしろ、ものすごく綺麗な声をしていて、音感もいい」
「ただ、それを“見せる”というところに、どうしても踏み出せない」
「向いてないのかなって思った時期もあるけれど、それでもあの子、歌うのは好きみたいなんです」
「家にいるときは、小さな声で、よく鼻歌を歌っていて」
男が、ようやく口を開いた。
「……俺たちは、旅芸人としてあの子に何を残せるだろうなって」
「技を教えるか、舞台に立たせるか、それとも好きな道を歩かせるべきか……」
「ここ最近、ずっと答えが出なかった」
女が頷く。
「でも、この店に通うようになって、少し……変わった気がするんです」
「昨日なんて、リュートのことを話してくれて」
「“すごく綺麗な音がした”って、目を輝かせて」
「その顔を見てたら……」
「この場所が、あの子にとって少しずつ、大事な何かになっていってるんだろうなって」
カップの底を見つめながら、女は小さく笑った。
「……ありがとうございます、本当に」
「うちの娘を、受け入れてくれて」
言葉を返すつもりはなかった。
感謝を求めてやっているわけじゃないし、そもそも受け入れたというほど大層なこともしていない。
俺はただ、ここにいて、珈琲を淹れて、煙草を吸っているだけだ。
ただ、それが彼女にとって居心地よかったというだけの話。
「才能ってのは、見せるだけが全てじゃないんですよね……」
女がぽつりと言った。
「自分の中だけで完結していても、立派な“持ちもの”で」
「でも、親としては……」
「どこかで、それを誰かに見せてほしいって、思ってしまうんです」
「……欲ですね」
「芸人だからこそ、見せたくなる」
「誰かの心を打つ姿を、見てみたい」
「でも、それを無理に引き出すのは違う気がする」
夫婦の言葉には、無理な期待も、押しつけもなかった。
ただ、葛藤があった。
「俺たちが何もせず、ただ待つだけでいいのか」
「それとも、導いてやるべきなのか」
「……難しいな、子育てってのは」
二人は肩を並べたまま、残りの珈琲を飲み干した。
やがて、女が立ち上がり、静かに頭を下げた。
「娘を……これからも、どうかよろしくお願いします」
「ここがあることで、あの子が少しでも……自由になれるなら、それだけで嬉しいです」
俺は頷く。
扉が開いて、また閉じた。
店内に静けさが戻る。
煙草の火が静かにくすぶる中で、俺はぽつりと呟いた。
「……答えなら、あの娘がそのうち見せてくれるさ」
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