199 / 243
第16章 おじさんと旅芸人の少女
第200話
旅芸人の夫婦が店に来たのは、昼前だった。
扉が開いたとき、俺はちょうど湯を落としていた。
「失礼するよ、珈琲を二つ、お願いできるかな?」
最初に声をかけてきたのは、濃紺の羽織を身にまとった中背の男。
無駄な装飾はないが、布の質感と立ち振る舞いで、ただ者じゃないとすぐわかる。
後ろには、赤いスカーフを巻いた女性がいた。
柔らかく笑みを浮かべているが、目の奥に油断はない。
俺は頷いて、静かに豆を挽いた。
彼らは黙って席についた。
騒がない芸人、というのはそう多くないが、たまにいる。
舞台の上で熱狂を演じきるために、普段はむしろ、静かを好む者たち。
湯の落ちる音が店内に響く。
香りが広がると、女のほうが目を細めた。
「……なるほど、あの子が気に入るわけだ」
「あの子?」
返事はしない。
代わりに、珈琲を二つ、テーブルに置く。
男がカップを手に取り、ゆっくりと口元へ運ぶ。
一口飲んでから、ふうと息をつく。
「……良い香りと苦味。しみるな、これは」
「娘がお世話になってます」
女が言った。
穏やかな声音。
だが、そこに含まれる想いは軽くない。
「トレシーが……ここをすごく気に入っていて」
「ほら、あの子、あまり人前に出たがらないでしょう?」
「だから、こうして静かに過ごせる場所を見つけたのが、よっぽど嬉しかったんだと思います」
カップを置く音が、やけに軽く響いた。
「私たち、ね。実は少し心配してるんです」
女が目線を落とす。
男は黙ったままだ。
「旅芸人の家に生まれて、芸事に囲まれて育って、なのにあの子は、どうしても舞台に立てない」
「人前に出るのが、怖いみたいで」
「歌も、楽器も、家ではやるんです。でも、それを外では……」
俺は黙ったまま、煙草に火をつける。
「下手じゃないんですよ?」
「むしろ、ものすごく綺麗な声をしていて、音感もいい」
「ただ、それを“見せる”というところに、どうしても踏み出せない」
「向いてないのかなって思った時期もあるけれど、それでもあの子、歌うのは好きみたいなんです」
「家にいるときは、小さな声で、よく鼻歌を歌っていて」
男が、ようやく口を開いた。
「……俺たちは、旅芸人としてあの子に何を残せるだろうなって」
「技を教えるか、舞台に立たせるか、それとも好きな道を歩かせるべきか……」
「ここ最近、ずっと答えが出なかった」
女が頷く。
「でも、この店に通うようになって、少し……変わった気がするんです」
「昨日なんて、リュートのことを話してくれて」
「“すごく綺麗な音がした”って、目を輝かせて」
「その顔を見てたら……」
「この場所が、あの子にとって少しずつ、大事な何かになっていってるんだろうなって」
カップの底を見つめながら、女は小さく笑った。
「……ありがとうございます、本当に」
「うちの娘を、受け入れてくれて」
言葉を返すつもりはなかった。
感謝を求めてやっているわけじゃないし、そもそも受け入れたというほど大層なこともしていない。
俺はただ、ここにいて、珈琲を淹れて、煙草を吸っているだけだ。
ただ、それが彼女にとって居心地よかったというだけの話。
「才能ってのは、見せるだけが全てじゃないんですよね……」
女がぽつりと言った。
「自分の中だけで完結していても、立派な“持ちもの”で」
「でも、親としては……」
「どこかで、それを誰かに見せてほしいって、思ってしまうんです」
「……欲ですね」
「芸人だからこそ、見せたくなる」
「誰かの心を打つ姿を、見てみたい」
「でも、それを無理に引き出すのは違う気がする」
夫婦の言葉には、無理な期待も、押しつけもなかった。
ただ、葛藤があった。
「俺たちが何もせず、ただ待つだけでいいのか」
「それとも、導いてやるべきなのか」
「……難しいな、子育てってのは」
二人は肩を並べたまま、残りの珈琲を飲み干した。
やがて、女が立ち上がり、静かに頭を下げた。
「娘を……これからも、どうかよろしくお願いします」
「ここがあることで、あの子が少しでも……自由になれるなら、それだけで嬉しいです」
俺は頷く。
扉が開いて、また閉じた。
店内に静けさが戻る。
煙草の火が静かにくすぶる中で、俺はぽつりと呟いた。
「……答えなら、あの娘がそのうち見せてくれるさ」
扉が開いたとき、俺はちょうど湯を落としていた。
「失礼するよ、珈琲を二つ、お願いできるかな?」
最初に声をかけてきたのは、濃紺の羽織を身にまとった中背の男。
無駄な装飾はないが、布の質感と立ち振る舞いで、ただ者じゃないとすぐわかる。
後ろには、赤いスカーフを巻いた女性がいた。
柔らかく笑みを浮かべているが、目の奥に油断はない。
俺は頷いて、静かに豆を挽いた。
彼らは黙って席についた。
騒がない芸人、というのはそう多くないが、たまにいる。
舞台の上で熱狂を演じきるために、普段はむしろ、静かを好む者たち。
湯の落ちる音が店内に響く。
香りが広がると、女のほうが目を細めた。
「……なるほど、あの子が気に入るわけだ」
「あの子?」
返事はしない。
代わりに、珈琲を二つ、テーブルに置く。
男がカップを手に取り、ゆっくりと口元へ運ぶ。
一口飲んでから、ふうと息をつく。
「……良い香りと苦味。しみるな、これは」
「娘がお世話になってます」
女が言った。
穏やかな声音。
だが、そこに含まれる想いは軽くない。
「トレシーが……ここをすごく気に入っていて」
「ほら、あの子、あまり人前に出たがらないでしょう?」
「だから、こうして静かに過ごせる場所を見つけたのが、よっぽど嬉しかったんだと思います」
カップを置く音が、やけに軽く響いた。
「私たち、ね。実は少し心配してるんです」
女が目線を落とす。
男は黙ったままだ。
「旅芸人の家に生まれて、芸事に囲まれて育って、なのにあの子は、どうしても舞台に立てない」
「人前に出るのが、怖いみたいで」
「歌も、楽器も、家ではやるんです。でも、それを外では……」
俺は黙ったまま、煙草に火をつける。
「下手じゃないんですよ?」
「むしろ、ものすごく綺麗な声をしていて、音感もいい」
「ただ、それを“見せる”というところに、どうしても踏み出せない」
「向いてないのかなって思った時期もあるけれど、それでもあの子、歌うのは好きみたいなんです」
「家にいるときは、小さな声で、よく鼻歌を歌っていて」
男が、ようやく口を開いた。
「……俺たちは、旅芸人としてあの子に何を残せるだろうなって」
「技を教えるか、舞台に立たせるか、それとも好きな道を歩かせるべきか……」
「ここ最近、ずっと答えが出なかった」
女が頷く。
「でも、この店に通うようになって、少し……変わった気がするんです」
「昨日なんて、リュートのことを話してくれて」
「“すごく綺麗な音がした”って、目を輝かせて」
「その顔を見てたら……」
「この場所が、あの子にとって少しずつ、大事な何かになっていってるんだろうなって」
カップの底を見つめながら、女は小さく笑った。
「……ありがとうございます、本当に」
「うちの娘を、受け入れてくれて」
言葉を返すつもりはなかった。
感謝を求めてやっているわけじゃないし、そもそも受け入れたというほど大層なこともしていない。
俺はただ、ここにいて、珈琲を淹れて、煙草を吸っているだけだ。
ただ、それが彼女にとって居心地よかったというだけの話。
「才能ってのは、見せるだけが全てじゃないんですよね……」
女がぽつりと言った。
「自分の中だけで完結していても、立派な“持ちもの”で」
「でも、親としては……」
「どこかで、それを誰かに見せてほしいって、思ってしまうんです」
「……欲ですね」
「芸人だからこそ、見せたくなる」
「誰かの心を打つ姿を、見てみたい」
「でも、それを無理に引き出すのは違う気がする」
夫婦の言葉には、無理な期待も、押しつけもなかった。
ただ、葛藤があった。
「俺たちが何もせず、ただ待つだけでいいのか」
「それとも、導いてやるべきなのか」
「……難しいな、子育てってのは」
二人は肩を並べたまま、残りの珈琲を飲み干した。
やがて、女が立ち上がり、静かに頭を下げた。
「娘を……これからも、どうかよろしくお願いします」
「ここがあることで、あの子が少しでも……自由になれるなら、それだけで嬉しいです」
俺は頷く。
扉が開いて、また閉じた。
店内に静けさが戻る。
煙草の火が静かにくすぶる中で、俺はぽつりと呟いた。
「……答えなら、あの娘がそのうち見せてくれるさ」
あなたにおすすめの小説
おばさんは、ひっそり暮らしたい
蝋梅
恋愛
30歳村山直子は、いわゆる勝手に落ちてきた異世界人だった。
たまに物が落ちてくるが人は珍しいものの、牢屋行きにもならず基礎知識を教えてもらい居場所が分かるように、また定期的に国に報告する以外は自由と言われた。
さて、生きるには働かなければならない。
「仕方がない、ご飯屋にするか」
栄養士にはなったものの向いてないと思いながら働いていた私は、また生活のために今日もご飯を作る。
「地味にそこそこ人が入ればいいのに困るなぁ」
意欲が低い直子は、今日もまたテンション低く呟いた。
騎士サイド追加しました。2023/05/23
番外編を不定期ですが始めました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
神様の手違いで異世界転生した俺の魅了チートが、勇者のハーレムを根こそぎ奪って溺愛ハーレム作りました!
まさき
恋愛
ブラック企業で働き続けた俺が過労で倒れ、気づけば異世界に転生していた。
「手違いでごめんなさい」と神様に言われ、お詫びに貰ったのは【魅了】スキル——でも俺には使ってる自覚がない。
ただ普通に生きてるだけなのに、気づけばエルフが隣で微笑んでいる。
獣人族が耳を赤くしてついてくる。元魔王の娘が手料理を持ってくる。
そして10年かけてハーレムを作った勇者が、なぜか仲間を全員失っていく。
「手違い転生者に何故負けるんだああ!?」
社畜だった俺の、異世界溺愛ハーレム生活——ざまぁあり、甘々あり、笑いあり。
1話完結のオムニバス形式でお届けします!
【完結】転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して二年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
【完結】転生したら最強の魔法使いでした~元ブラック企業OLの異世界無双~
きゅちゃん
ファンタジー
過労死寸前のブラック企業OL・田中美咲(28歳)が、残業中に倒れて異世界に転生。転生先では「セリア・アルクライト」という名前で、なんと世界最強クラスの魔法使いとして生まれ変わる。
前世で我慢し続けた鬱憤を晴らすかのように、理不尽な権力者たちを魔法でバッサバッサと成敗し、困っている人々を助けていく。持ち前の社会人経験と常識、そして圧倒的な魔法力で、この世界の様々な問題を解決していく痛快ストーリー。
スマホアプリで衣食住確保の異世界スローライフ 〜面倒なことは避けたいのに怖いものなしのスライムと弱気なドラゴンと一緒だとそうもいかず〜
もーりんもも
ファンタジー
命より大事なスマホを拾おうとして命を落とした俺、武田義経。
ああ死んだと思った瞬間、俺はスマホの神様に祈った。スマホのために命を落としたんだから、お慈悲を!
目を開けると、俺は異世界に救世主として召喚されていた。それなのに俺のステータスは平均よりやや上といった程度。
スキル欄には見覚えのある虫眼鏡アイコンが。だが異世界人にはただの丸印に見えたらしい。
何やら漂う失望感。結局、救世主ではなく、ただの用無しと認定され、宮殿の使用人という身分に。
やれやれ。スキル欄の虫眼鏡をタップすると検索バーが出た。
「ご飯」と検索すると、見慣れたアプリがずらずらと! アプリがダウンロードできるんだ!
ヤバくない? 不便な異世界だけど、楽してダラダラ生きていこう――そう思っていた矢先、命を狙われ国を出ることに。
ひょんなことから知り合った老婆のお陰でなんとか逃げ出したけど、気がつけば、いつの間にかスライムやらドラゴンやらに囲まれて、どんどん不本意な方向へ……。
2025/04/04-06 HOTランキング1位をいただきました! 応援ありがとうございます!
※AI学習禁止・無断転載禁止・無断翻訳禁止・無断朗読禁止
勇者召喚に巻き込まれ、異世界転移・貰えたスキルも鑑定だけ・・・・だけど、何かあるはず!
よっしぃ
ファンタジー
9月11日、12日、ファンタジー部門2位達成中です!
僕はもうすぐ25歳になる常山 順平 24歳。
つねやま じゅんぺいと読む。
何処にでもいる普通のサラリーマン。
仕事帰りの電車で、吊革に捕まりうつらうつらしていると・・・・
突然気分が悪くなり、倒れそうになる。
周りを見ると、周りの人々もどんどん倒れている。明らかな異常事態。
何が起こったか分からないまま、気を失う。
気が付けば電車ではなく、どこかの建物。
周りにも人が倒れている。
僕と同じようなリーマンから、数人の女子高生や男子学生、仕事帰りの若い女性や、定年近いおっさんとか。
気が付けば誰かがしゃべってる。
どうやらよくある勇者召喚とやらが行われ、たまたま僕は異世界転移に巻き込まれたようだ。
そして・・・・帰るには、魔王を倒してもらう必要がある・・・・と。
想定外の人数がやって来たらしく、渡すギフト・・・・スキルらしいけど、それも数が限られていて、勇者として召喚した人以外、つまり巻き込まれて転移したその他大勢は、1人1つのギフト?スキルを。あとは支度金と装備一式を渡されるらしい。
どうしても無理な人は、戻ってきたら面倒を見ると。
一方的だが、日本に戻るには、勇者が魔王を倒すしかなく、それを待つのもよし、自ら勇者に協力するもよし・・・・
ですが、ここで問題が。
スキルやギフトにはそれぞれランク、格、強さがバラバラで・・・・
より良いスキルは早い者勝ち。
我も我もと群がる人々。
そんな中突き飛ばされて倒れる1人の女性が。
僕はその女性を助け・・・同じように突き飛ばされ、またもや気を失う。
気が付けば2人だけになっていて・・・・
スキルも2つしか残っていない。
一つは鑑定。
もう一つは家事全般。
両方とも微妙だ・・・・
彼女の名は才村 友郁
さいむら ゆか。 23歳。
今年社会人になりたて。
取り残された2人が、すったもんだで生き残り、最終的には成り上がるお話。
ダンジョンを拾ったので、スキル〈ホームセンター〉で好き勝手リフォームします
ランド犬
ファンタジー
異世界に転移した佐々木悠人は、召喚でも勇者でもなかった。ただ迷い込んだ先で見つけたのは、王都を望む郊外にひっそりと口を開けるダンジョン。足を踏み入れた瞬間、発動したスキルは
――〈ホームセンター〉
壁を張り替え、部屋を増やし、畑や牧場、カフェまで作れる不可思議な力だった。
気ままに始めたリフォームは、もふもふなネコミミ獣人の少女との出会いをきっかけに、思わぬ変化を呼び始める。
拡張され続けるダンジョンの先で、悠人が作り上げる“住める迷宮”とは――?