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第2話 店番という名の絶対王政
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朝の光が、コンビニの強化ガラスを透過して店内に差し込む。
俺はカウンターの奥で、セルフサービスのアイスコーヒーを啜っていた。
喉の奥を、キリリと冷えた黒い液体が滑り落ちていく。
「……生き返るな」
昨夜、店を設営した後に設置したコーヒーマシン。
豆を挽く香ばしい匂いが店内に充満している。
この世界の飲み物といえば、保存状態の悪い樽で熟成された酸っぱいエールか、泥水のような安酒くらいだ。
この澄み渡った苦味とコク、そして雑味を極限まで排除した「抽出(ドリップ)」の技術を知ったら、王族だって腰を抜かすだろうな。
俺の体は、カフェインという名の燃料を求めている。
ブラック企業時代に培われた悪癖だ。
だが、今の俺にとって、この一杯は単なる嗜好品ではない。
異世界という不浄な空気の中で、唯一「文明」を感じさせてくれる聖水だ。
さて、開店の準備を始めるか。
俺は本心では寝ていたい。
二度寝、三度寝を貪り、夕方まで布団の中でスマホをいじっていたい。
だが、悲しいかな、長年染み付いた社畜根性がそれを許さない。
棚に空白があることが許せないのだ。
陳列の乱れが、俺の神経を逆撫でする。
俺はスマホの『現代通販』を操作し、棚に商品を並べていく。
おにぎり、パン、カップ麺。
スナック菓子に、日用雑貨。
指先一つで、黄金の粒子と共に商品が次々と棚を埋めていく。
おにぎりのパッケージは、この世界の住人には魔法の結界に見えるかもしれない。
三層構造のフィルムが、中の海苔を湿気から守り、パリパリの状態を半永久的に保つ。
その「当たり前」の技術が、この世界ではロストテクノロジーすら超越した神の御業だ。
俺にとってはただの作業だが、もしこの光景を魔導師が見たら、空間魔法の極致だと泡を吹いて倒れるに違いない。
「よし、完璧だ」
商品が一直線に並ぶ様は壮観だ。
俺がレジカウンターでスマホゲームをしながら暇を潰していると、自動ドアが開いた。
ピンポーン、という電子音が店内に響く。
「……ひっ!?」
短い悲鳴が聞こえた。
入口に立っていたのは、一人の少女だった。
ボロボロの灰色のローブを纏い、顔には煤と泥のような汚れがついている。
だが、その瞳だけは異様に鋭く、獲物を狙う手負いの獣のような光を宿していた。
彼女は、勝手に開いた自動ドアに腰を抜かし、尻もちをついている。
警戒心が強すぎて、逆に反応が遅れたらしい。
「おい、大丈夫か」
「な、何だ、今の魔法は……!? 姿も見えないのに、扉が勝手に……!」
彼女は震える指で自動ドアを指差している。
床にへたり込みながらも、その手は反射的に懐の武器を探っていた。
だが、彼女の指先は震え、まともに武器を握る力すら残っていないように見える。
「魔法じゃない。ただのセンサーだ」
「せんさー……? 貴様、何者だ。ここは……何なんだ」
彼女は呆然と店内を見渡した。
無理もない。
眩いばかりのLED照明。
床のタイルは、塵一つないほど磨き上げられ、彼女の汚れた姿を鏡のように映し出している。
そして、棚に整然と並べられた、色鮮やかなパッケージの商品たち。
この世界は、全体的に色彩が乏しい。
手染めの布や、くすんだ木の色、石の灰色が基本だ。
そこに、現代日本の高精細なフルカラー印刷技術が持ち込まれたのだ。
赤、青、黄色、銀色。
原色が目に突き刺さるような情報の洪水。
彼女の目には、商品の一つ一つが、王家の宝物庫に眠る秘宝のように見えているに違いない。
「ここはコンビニだ。物を売る店だよ」
「店……? 冗談だろう。こんな聖域のような場所が、店なわけがない。ここは……神々の遊技場か?」
彼女はフラフラと立ち上がり、吸い寄せられるように棚の方へ歩み寄った。
そして、一番手前にあった「鮭おにぎり」を凝視する。
「これは……魔道具か? 複雑な術式で封印されているようだが……。この透明な皮膜……ドラゴンの瞳の膜よりも薄く、強靭だ」
「ただのおにぎりだ。食い物だよ」
俺はカウンターから出て、彼女の横に立った。
近づくと、彼女から異臭が漂ってくるのが分かった。
血と泥、そして死の匂い。
彼女の腹が、ぐう、と小さく、しかし切実に鳴った。
どうやら相当腹を空かせているらしい。
極限状態だ。
「金はあるのか?」
「……ない。私は追われている身だ。組織に……信じていた『影』に裏切られた」
彼女は自嘲気味に笑い、隠し持っていた短刀に手をかけた。
刃こぼれした、粗末な鉄のナイフだ。
「奪うつもりなら、容赦はしないぞ。殺せ。どうせ、野垂れ死ぬ命だ」
殺気。
だが、今の俺にはそよ風程度にしか感じられない。
この空間において、俺は絶対的な支配者だ。
指先一つで彼女を店外へ転送することも、防犯システムで無力化することもできる。
だが、腹を空かせた客を追い返すのは、商売人の流儀に反する。
「物騒なこと言うなよ。初来店のお祝いだ。一つやるよ」
俺はおにぎりを一つ手に取り、パッケージの頂点をつまんだ。
1の番号に従ってテープを引く。
スゥーッ、という滑らかな音と共に、フィルムが裂ける。
カサリ、という音。
それだけで彼女の肩がビクリと跳ねる。
封印が解かれた瞬間、漂う微かな海苔の磯の香り。
俺は海苔を巻いた状態のおにぎりを、彼女の口元へ差し出した。
「食え」
彼女は疑わしそうに俺を見た後、意を決したように一口齧り付いた。
パリッ。
静寂な店内に、海苔が弾ける小気味良い音が響く。
「っ!? ……っ!?」
彼女の動きが止まった。
咀嚼が止まり、瞳孔が大きく見開かれる。
カラン、と持っていた短刀が床に落ちた。
彼女は口をパクパクと動かし、咀嚼を再開する。
その目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……信じられない。何だ、この米の輝きは。一粒一粒が、宝石のように立っている……。それに、この黒い草の食感……香ばしすぎる。口の中で爆ぜた瞬間、海の記憶が蘇ってくるようだ……!」
「海苔だ。で、中身は」
「中に入っている、この赤い……ほぐれた肉は……! 塩気が、舌の上で踊っている! これは、ただの塩ではない……。岩塩の旨みを数百倍に濃縮したような……!」
「鮭だ。焼いてほぐしたやつ」
「こんな美味いもの、この世に存在するはずがない……! 王宮の晩餐会でも、こんな洗練された味は出ないぞ! 雑味が一切ない……。これは、神が創造した『完全なる食』だ!」
彼女は夢中で食べ進めた。
獣のように貪るのではない。
一口一口、その味を魂に刻み込むように、大切に食べている。
あっという間におにぎりは消え、彼女は指についた米粒一つ、塩の一粒まで名残惜しそうに舐め取った。
「落ち着けよ。喉に詰まらせるぞ」
俺は冷蔵ケースから、冷えた「お茶」を取り出して渡した。
彼女はプラスチックのボトルを受け取り、その透明度に再び驚愕した。
「ガラスか!? いや、こんなに軽くてしなやかな素材は知らない……。指で押すと凹むのに、決して割れない。まさか、伝説の古龍の鱗を加工したのか!?」
「ただのペットボトルだ。いいから飲め」
彼女がキャップを開ける。
パキッ、という封印の解ける音。
一口飲む。
「……っはあぁぁぁ……」
彼女は深いため息をつき、その場に膝をついた。
「全身の毒素が抜けていくようだ……。これは聖水か? 傷ついた魔力が、みるみるうちに回復していく……。内臓の傷が、細胞レベルで癒着していくのが分かる……」
「ただの緑茶だよ。百円だ」
実際、彼女の顔色は劇的に良くなっていた。
頬には赤みが差し、淀んでいた瞳に力が戻っている。
現代の徹底した衛生管理で作られた飲料は、細菌や寄生虫が蔓延するこの世界の住人にとっては、究極の治癒薬(ポーション)に等しいのかもしれない。
不純物ゼロの水。
完璧に計算された抽出温度。
それがもたらすカテキンの抗酸化作用は、疲弊した彼女の肉体にとっては奇跡そのものだ。
「……礼を言う。私はエルザ。かつては影のギルドで暗殺者をしていた」
彼女は居住まいを正し、俺に深々と頭を下げた。
床に額を擦り付けるような、最上級の礼だ。
「組織に捨てられ、飢えと渇きで死にかけていた私に、貴方は『生』を与えてくれた。ただの施しではない。この食事には、魂を救う暖かさがあった」
彼女は顔を上げ、俺を射抜くような目で見つめた。
「その命、拾わせてもらった。代金は払えないが……私の命を貴方に預けよう」
「いや、いらない。重すぎる」
「断らないでくれ! 私は見たのだ。この店……いや、神殿に満ちる魔力の奔流を。そして、それを指先一つで操る貴方の深淵を!」
彼女は立ち上がり、俺の影に寄り添うように立った。
「今日から私は、この聖域の守護者となる。不埒な客がいれば、即座に排除しよう。貴方の敵は、私の敵だ」
「勝手にしろよ。ただし、店内で血は流すなよ。掃除が面倒だ」
俺は溜息をつき、カウンターに戻った。
店番が一人増えたと思えば、悪くない。
少なくとも、彼女がいれば万引き防止にはなるだろう。
俺は再びスマホゲームを起動し、デイリーミッションの消化を始めた。
しばらくすると、再び自動ドアの音がした。
「おい、この辺りに妙な建物が現れたと聞いたが……」
入ってきたのは、派手な装飾の服を着た中年の男だ。
取り巻きを二人連れている。
腹が出っ張り、指には趣味の悪い宝石の指輪をいくつも嵌めている。
その尊大な態度からして、この辺りを仕切っている商人か、低級の貴族だろう。
「……なんだここは。眩しすぎて目が潰れそうだぞ」
男は顔をしかめながら店内を見渡す。
彼は俺たちを見つけると、ふんぞり返って近づいてきた。
「おい、店主。あそこにある箱は何だ。見たこともない細工がされているな」
男が指差したのは、俺の背後にあるタバコの棚だ。
「タバコだ。一箱五百円。あんたにはまだ早いんじゃないか?」
「なんだと!? 貴様、私を誰だと思っている! この地区の商工会長であるバルカス様だぞ! この街の物流は全て私が握っているのだ!」
バルカスと名乗った男は、カウンターを力一杯叩いた。
バン! という音が響く。
その瞬間、エルザの殺気が膨れ上がった。
彼女の手が、目にも止まらぬ速さで懐へ伸びる。
俺は視線だけでエルザを制した。
動くな。
彼女は瞬時に殺気を収め、影に徹した。
利口な犬だ。
「売り物ならさっさと出せ! 金ならいくらでもある!」
男は金貨の袋をカウンターに叩きつけた。
ジャラッ、と重い音がする。
中身は金貨数十枚といったところか。
本来なら、タバコ一箱にこんな大金は必要ない。
だが、俺は黙って袋を受け取った。
態度が悪い客への「特別料金」だと思えば安いものだ。
俺は肩をすくめ、適当な銘柄のタバコを一箱取り出した。
さらに、百円ライターを一つ添える。
「五百円だ。ライターはサービスしてやるよ。釣りはいらないよな?」
「ふん、ケチな店だ。……ん? これは火打石か?」
男はライターを手に取り、不思議そうに眺めている。
透明なプラスチックの中に、液体が入っているのが見えるはずだ。
「使い方はこうだ」
俺は自分の手元にあるライターを取り出した。
昨日はこれの出力調整を忘れて、森の一部を焼き払ってしまった凶悪兵器だ。
だが、今は違う。
俺はスマホの設定画面で『出力制限:一般人向け』にロックしてある。
俺は親指でレバーを押し下げた。
カチッ。
小さな音と共に、先端に数センチのオレンジ色の炎が灯る。
「……なっ!?」
バルカスの目が飛び出た。
後ろの取り巻きたちも、息を呑んで後ずさる。
「え、詠唱もなしに火を出しただと!? しかも、魔力充填の予備動作が一切なかったぞ!」
バルカスは、まるで幽霊でも見たかのように飛び退いた。
「しかも、この安定した炎……。揺らぎが一切ない。風もないのに、垂直に立ち昇っている。これは……火の精霊王を、この小さな箱の中に幽閉しているのか!?」
「ただのガスライターだって。ほら、やってみな」
俺は火を消し、顎で促した。
男は震える指で、手元のライターのレバーに触れた。
恐怖と好奇心が入り混じった顔だ。
彼には分かっているのだろう。
この小さな器具が秘めている、圧倒的なエネルギーの片鱗が。
昨日俺が放った熱量は抑え込まれているが、その「根源」にある可燃性ガスの純度は変わらない。
不純物の多いこの世界の油とは違う、化学的に精製された純粋な燃料。
シュパッ。
小さな火が灯る。
それは、彼らにとっては「完全なる火」の顕現だった。
煤が出ない。
臭いがない。
ただ純粋に、熱と光だけが存在する。
「お、おおお……。熱くない……持ち手が熱くないぞ!?」
バルカスは悲鳴のような声を上げた。
「通常の魔道具なら、これほどの火を維持すれば持ち手が焼けるはずだ! なのに、この透明な素材は冷たいままだ……。熱遮断の結界まで張られているというのか!」
彼はあまりの衝撃に膝をガクガクと震わせた。
持っている手が震え、炎が揺れる。
「これは……国宝級の魔道具だぞ……。いや、古代遺跡から発掘されるロストアーティファクトですら、これほど洗練されてはいない! それが、こんな安っぽいプラスチックのような箱に収められているなんて……」
バルカスはライターを両手で捧げ持ち、その場に跪いた。
額には脂汗がびっしりと浮かんでいる。
彼は悟ったのだ。
この店主は、この程度の「神具」を、サービスでくれてやるほどの超越者なのだと。
「店主……いや、賢者様! 先ほどの無礼をお許しください! 私は知らなかったのです、貴方様のような御方が、このような場所に降臨なされていたとは!」
「ただのコンビニ店員だ。五百円……いや、金貨袋一つ分の代金は貰ったから、あんたのもんだ。さっさと帰ってくれ」
「ありがたき幸せ! この御恩は一生忘れません! この『プロメテウスの火種』、我が家宝として末代まで語り継ぎます!」
男はタバコとライターを、まるで生まれたばかりの赤子か、あるいは爆発寸前の爆弾でも扱うように慎重に抱え、逃げるように店を出ていった。
取り巻きたちも、何度も俺に向かって頭を下げながら後を追う。
「……面倒な奴だったな」
俺は残ったコーヒーを飲み干した。
氷がカラン、と音を立てる。
エルザが、畏怖と崇拝が入り混じった熱っぽい視線で俺を見ている。
「主様……。あのような横暴な者にすら、神の力を分け与えるとは。貴方の慈悲は、大海よりも深い」
「勘違いするな。商売をしただけだ。金さえ払えば、誰にだって売る」
「なんと……。善悪の彼岸を超えて、ただ『対価』のみで奇跡を行使する。やはり貴方は、人の枠を超えた理(ことわり)そのものなのですね」
エルザの解釈が、どんどん危ない方向へ加速していく。
訂正するのは面倒だ。
俺はあくびを噛み殺した。
外からは、まだバルカスたちの興奮した叫び声が聞こえてくる。
どうやら、平和な隠居生活には、まだ時間がかかりそうだ。
俺はカウンターの奥で、セルフサービスのアイスコーヒーを啜っていた。
喉の奥を、キリリと冷えた黒い液体が滑り落ちていく。
「……生き返るな」
昨夜、店を設営した後に設置したコーヒーマシン。
豆を挽く香ばしい匂いが店内に充満している。
この世界の飲み物といえば、保存状態の悪い樽で熟成された酸っぱいエールか、泥水のような安酒くらいだ。
この澄み渡った苦味とコク、そして雑味を極限まで排除した「抽出(ドリップ)」の技術を知ったら、王族だって腰を抜かすだろうな。
俺の体は、カフェインという名の燃料を求めている。
ブラック企業時代に培われた悪癖だ。
だが、今の俺にとって、この一杯は単なる嗜好品ではない。
異世界という不浄な空気の中で、唯一「文明」を感じさせてくれる聖水だ。
さて、開店の準備を始めるか。
俺は本心では寝ていたい。
二度寝、三度寝を貪り、夕方まで布団の中でスマホをいじっていたい。
だが、悲しいかな、長年染み付いた社畜根性がそれを許さない。
棚に空白があることが許せないのだ。
陳列の乱れが、俺の神経を逆撫でする。
俺はスマホの『現代通販』を操作し、棚に商品を並べていく。
おにぎり、パン、カップ麺。
スナック菓子に、日用雑貨。
指先一つで、黄金の粒子と共に商品が次々と棚を埋めていく。
おにぎりのパッケージは、この世界の住人には魔法の結界に見えるかもしれない。
三層構造のフィルムが、中の海苔を湿気から守り、パリパリの状態を半永久的に保つ。
その「当たり前」の技術が、この世界ではロストテクノロジーすら超越した神の御業だ。
俺にとってはただの作業だが、もしこの光景を魔導師が見たら、空間魔法の極致だと泡を吹いて倒れるに違いない。
「よし、完璧だ」
商品が一直線に並ぶ様は壮観だ。
俺がレジカウンターでスマホゲームをしながら暇を潰していると、自動ドアが開いた。
ピンポーン、という電子音が店内に響く。
「……ひっ!?」
短い悲鳴が聞こえた。
入口に立っていたのは、一人の少女だった。
ボロボロの灰色のローブを纏い、顔には煤と泥のような汚れがついている。
だが、その瞳だけは異様に鋭く、獲物を狙う手負いの獣のような光を宿していた。
彼女は、勝手に開いた自動ドアに腰を抜かし、尻もちをついている。
警戒心が強すぎて、逆に反応が遅れたらしい。
「おい、大丈夫か」
「な、何だ、今の魔法は……!? 姿も見えないのに、扉が勝手に……!」
彼女は震える指で自動ドアを指差している。
床にへたり込みながらも、その手は反射的に懐の武器を探っていた。
だが、彼女の指先は震え、まともに武器を握る力すら残っていないように見える。
「魔法じゃない。ただのセンサーだ」
「せんさー……? 貴様、何者だ。ここは……何なんだ」
彼女は呆然と店内を見渡した。
無理もない。
眩いばかりのLED照明。
床のタイルは、塵一つないほど磨き上げられ、彼女の汚れた姿を鏡のように映し出している。
そして、棚に整然と並べられた、色鮮やかなパッケージの商品たち。
この世界は、全体的に色彩が乏しい。
手染めの布や、くすんだ木の色、石の灰色が基本だ。
そこに、現代日本の高精細なフルカラー印刷技術が持ち込まれたのだ。
赤、青、黄色、銀色。
原色が目に突き刺さるような情報の洪水。
彼女の目には、商品の一つ一つが、王家の宝物庫に眠る秘宝のように見えているに違いない。
「ここはコンビニだ。物を売る店だよ」
「店……? 冗談だろう。こんな聖域のような場所が、店なわけがない。ここは……神々の遊技場か?」
彼女はフラフラと立ち上がり、吸い寄せられるように棚の方へ歩み寄った。
そして、一番手前にあった「鮭おにぎり」を凝視する。
「これは……魔道具か? 複雑な術式で封印されているようだが……。この透明な皮膜……ドラゴンの瞳の膜よりも薄く、強靭だ」
「ただのおにぎりだ。食い物だよ」
俺はカウンターから出て、彼女の横に立った。
近づくと、彼女から異臭が漂ってくるのが分かった。
血と泥、そして死の匂い。
彼女の腹が、ぐう、と小さく、しかし切実に鳴った。
どうやら相当腹を空かせているらしい。
極限状態だ。
「金はあるのか?」
「……ない。私は追われている身だ。組織に……信じていた『影』に裏切られた」
彼女は自嘲気味に笑い、隠し持っていた短刀に手をかけた。
刃こぼれした、粗末な鉄のナイフだ。
「奪うつもりなら、容赦はしないぞ。殺せ。どうせ、野垂れ死ぬ命だ」
殺気。
だが、今の俺にはそよ風程度にしか感じられない。
この空間において、俺は絶対的な支配者だ。
指先一つで彼女を店外へ転送することも、防犯システムで無力化することもできる。
だが、腹を空かせた客を追い返すのは、商売人の流儀に反する。
「物騒なこと言うなよ。初来店のお祝いだ。一つやるよ」
俺はおにぎりを一つ手に取り、パッケージの頂点をつまんだ。
1の番号に従ってテープを引く。
スゥーッ、という滑らかな音と共に、フィルムが裂ける。
カサリ、という音。
それだけで彼女の肩がビクリと跳ねる。
封印が解かれた瞬間、漂う微かな海苔の磯の香り。
俺は海苔を巻いた状態のおにぎりを、彼女の口元へ差し出した。
「食え」
彼女は疑わしそうに俺を見た後、意を決したように一口齧り付いた。
パリッ。
静寂な店内に、海苔が弾ける小気味良い音が響く。
「っ!? ……っ!?」
彼女の動きが止まった。
咀嚼が止まり、瞳孔が大きく見開かれる。
カラン、と持っていた短刀が床に落ちた。
彼女は口をパクパクと動かし、咀嚼を再開する。
その目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……信じられない。何だ、この米の輝きは。一粒一粒が、宝石のように立っている……。それに、この黒い草の食感……香ばしすぎる。口の中で爆ぜた瞬間、海の記憶が蘇ってくるようだ……!」
「海苔だ。で、中身は」
「中に入っている、この赤い……ほぐれた肉は……! 塩気が、舌の上で踊っている! これは、ただの塩ではない……。岩塩の旨みを数百倍に濃縮したような……!」
「鮭だ。焼いてほぐしたやつ」
「こんな美味いもの、この世に存在するはずがない……! 王宮の晩餐会でも、こんな洗練された味は出ないぞ! 雑味が一切ない……。これは、神が創造した『完全なる食』だ!」
彼女は夢中で食べ進めた。
獣のように貪るのではない。
一口一口、その味を魂に刻み込むように、大切に食べている。
あっという間におにぎりは消え、彼女は指についた米粒一つ、塩の一粒まで名残惜しそうに舐め取った。
「落ち着けよ。喉に詰まらせるぞ」
俺は冷蔵ケースから、冷えた「お茶」を取り出して渡した。
彼女はプラスチックのボトルを受け取り、その透明度に再び驚愕した。
「ガラスか!? いや、こんなに軽くてしなやかな素材は知らない……。指で押すと凹むのに、決して割れない。まさか、伝説の古龍の鱗を加工したのか!?」
「ただのペットボトルだ。いいから飲め」
彼女がキャップを開ける。
パキッ、という封印の解ける音。
一口飲む。
「……っはあぁぁぁ……」
彼女は深いため息をつき、その場に膝をついた。
「全身の毒素が抜けていくようだ……。これは聖水か? 傷ついた魔力が、みるみるうちに回復していく……。内臓の傷が、細胞レベルで癒着していくのが分かる……」
「ただの緑茶だよ。百円だ」
実際、彼女の顔色は劇的に良くなっていた。
頬には赤みが差し、淀んでいた瞳に力が戻っている。
現代の徹底した衛生管理で作られた飲料は、細菌や寄生虫が蔓延するこの世界の住人にとっては、究極の治癒薬(ポーション)に等しいのかもしれない。
不純物ゼロの水。
完璧に計算された抽出温度。
それがもたらすカテキンの抗酸化作用は、疲弊した彼女の肉体にとっては奇跡そのものだ。
「……礼を言う。私はエルザ。かつては影のギルドで暗殺者をしていた」
彼女は居住まいを正し、俺に深々と頭を下げた。
床に額を擦り付けるような、最上級の礼だ。
「組織に捨てられ、飢えと渇きで死にかけていた私に、貴方は『生』を与えてくれた。ただの施しではない。この食事には、魂を救う暖かさがあった」
彼女は顔を上げ、俺を射抜くような目で見つめた。
「その命、拾わせてもらった。代金は払えないが……私の命を貴方に預けよう」
「いや、いらない。重すぎる」
「断らないでくれ! 私は見たのだ。この店……いや、神殿に満ちる魔力の奔流を。そして、それを指先一つで操る貴方の深淵を!」
彼女は立ち上がり、俺の影に寄り添うように立った。
「今日から私は、この聖域の守護者となる。不埒な客がいれば、即座に排除しよう。貴方の敵は、私の敵だ」
「勝手にしろよ。ただし、店内で血は流すなよ。掃除が面倒だ」
俺は溜息をつき、カウンターに戻った。
店番が一人増えたと思えば、悪くない。
少なくとも、彼女がいれば万引き防止にはなるだろう。
俺は再びスマホゲームを起動し、デイリーミッションの消化を始めた。
しばらくすると、再び自動ドアの音がした。
「おい、この辺りに妙な建物が現れたと聞いたが……」
入ってきたのは、派手な装飾の服を着た中年の男だ。
取り巻きを二人連れている。
腹が出っ張り、指には趣味の悪い宝石の指輪をいくつも嵌めている。
その尊大な態度からして、この辺りを仕切っている商人か、低級の貴族だろう。
「……なんだここは。眩しすぎて目が潰れそうだぞ」
男は顔をしかめながら店内を見渡す。
彼は俺たちを見つけると、ふんぞり返って近づいてきた。
「おい、店主。あそこにある箱は何だ。見たこともない細工がされているな」
男が指差したのは、俺の背後にあるタバコの棚だ。
「タバコだ。一箱五百円。あんたにはまだ早いんじゃないか?」
「なんだと!? 貴様、私を誰だと思っている! この地区の商工会長であるバルカス様だぞ! この街の物流は全て私が握っているのだ!」
バルカスと名乗った男は、カウンターを力一杯叩いた。
バン! という音が響く。
その瞬間、エルザの殺気が膨れ上がった。
彼女の手が、目にも止まらぬ速さで懐へ伸びる。
俺は視線だけでエルザを制した。
動くな。
彼女は瞬時に殺気を収め、影に徹した。
利口な犬だ。
「売り物ならさっさと出せ! 金ならいくらでもある!」
男は金貨の袋をカウンターに叩きつけた。
ジャラッ、と重い音がする。
中身は金貨数十枚といったところか。
本来なら、タバコ一箱にこんな大金は必要ない。
だが、俺は黙って袋を受け取った。
態度が悪い客への「特別料金」だと思えば安いものだ。
俺は肩をすくめ、適当な銘柄のタバコを一箱取り出した。
さらに、百円ライターを一つ添える。
「五百円だ。ライターはサービスしてやるよ。釣りはいらないよな?」
「ふん、ケチな店だ。……ん? これは火打石か?」
男はライターを手に取り、不思議そうに眺めている。
透明なプラスチックの中に、液体が入っているのが見えるはずだ。
「使い方はこうだ」
俺は自分の手元にあるライターを取り出した。
昨日はこれの出力調整を忘れて、森の一部を焼き払ってしまった凶悪兵器だ。
だが、今は違う。
俺はスマホの設定画面で『出力制限:一般人向け』にロックしてある。
俺は親指でレバーを押し下げた。
カチッ。
小さな音と共に、先端に数センチのオレンジ色の炎が灯る。
「……なっ!?」
バルカスの目が飛び出た。
後ろの取り巻きたちも、息を呑んで後ずさる。
「え、詠唱もなしに火を出しただと!? しかも、魔力充填の予備動作が一切なかったぞ!」
バルカスは、まるで幽霊でも見たかのように飛び退いた。
「しかも、この安定した炎……。揺らぎが一切ない。風もないのに、垂直に立ち昇っている。これは……火の精霊王を、この小さな箱の中に幽閉しているのか!?」
「ただのガスライターだって。ほら、やってみな」
俺は火を消し、顎で促した。
男は震える指で、手元のライターのレバーに触れた。
恐怖と好奇心が入り混じった顔だ。
彼には分かっているのだろう。
この小さな器具が秘めている、圧倒的なエネルギーの片鱗が。
昨日俺が放った熱量は抑え込まれているが、その「根源」にある可燃性ガスの純度は変わらない。
不純物の多いこの世界の油とは違う、化学的に精製された純粋な燃料。
シュパッ。
小さな火が灯る。
それは、彼らにとっては「完全なる火」の顕現だった。
煤が出ない。
臭いがない。
ただ純粋に、熱と光だけが存在する。
「お、おおお……。熱くない……持ち手が熱くないぞ!?」
バルカスは悲鳴のような声を上げた。
「通常の魔道具なら、これほどの火を維持すれば持ち手が焼けるはずだ! なのに、この透明な素材は冷たいままだ……。熱遮断の結界まで張られているというのか!」
彼はあまりの衝撃に膝をガクガクと震わせた。
持っている手が震え、炎が揺れる。
「これは……国宝級の魔道具だぞ……。いや、古代遺跡から発掘されるロストアーティファクトですら、これほど洗練されてはいない! それが、こんな安っぽいプラスチックのような箱に収められているなんて……」
バルカスはライターを両手で捧げ持ち、その場に跪いた。
額には脂汗がびっしりと浮かんでいる。
彼は悟ったのだ。
この店主は、この程度の「神具」を、サービスでくれてやるほどの超越者なのだと。
「店主……いや、賢者様! 先ほどの無礼をお許しください! 私は知らなかったのです、貴方様のような御方が、このような場所に降臨なされていたとは!」
「ただのコンビニ店員だ。五百円……いや、金貨袋一つ分の代金は貰ったから、あんたのもんだ。さっさと帰ってくれ」
「ありがたき幸せ! この御恩は一生忘れません! この『プロメテウスの火種』、我が家宝として末代まで語り継ぎます!」
男はタバコとライターを、まるで生まれたばかりの赤子か、あるいは爆発寸前の爆弾でも扱うように慎重に抱え、逃げるように店を出ていった。
取り巻きたちも、何度も俺に向かって頭を下げながら後を追う。
「……面倒な奴だったな」
俺は残ったコーヒーを飲み干した。
氷がカラン、と音を立てる。
エルザが、畏怖と崇拝が入り混じった熱っぽい視線で俺を見ている。
「主様……。あのような横暴な者にすら、神の力を分け与えるとは。貴方の慈悲は、大海よりも深い」
「勘違いするな。商売をしただけだ。金さえ払えば、誰にだって売る」
「なんと……。善悪の彼岸を超えて、ただ『対価』のみで奇跡を行使する。やはり貴方は、人の枠を超えた理(ことわり)そのものなのですね」
エルザの解釈が、どんどん危ない方向へ加速していく。
訂正するのは面倒だ。
俺はあくびを噛み殺した。
外からは、まだバルカスたちの興奮した叫び声が聞こえてくる。
どうやら、平和な隠居生活には、まだ時間がかかりそうだ。
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