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第4話 黒き雷水、あるいはコーラ
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昨日の騒ぎが嘘のように、朝の空気は澄んでいた。
俺はカウンターの中で、新しく入荷したエナジードリンクの缶を手に取る。
極彩色の塗装が施されたアルミの円筒。
表面には、禍々しい爪痕のようなロゴが刻印されている。
俺の人差し指が、冷えたプルタブに掛かる。
力を込める。
プシュッ、という小気味いい音が、静寂に包まれた店内に鋭く響いた。
封印されていた炭酸ガスが解き放たれ、白い霧となって噴き出す。
同時に、人工的な甘い香りと、薬草を煮詰めたようなケミカルな匂いが鼻腔をくすぐる。
「……ん。これだ。これがなきゃ朝は始まらない」
二十四時間労働の地獄で、俺の血管を流れていたのは血液じゃない。
このカフェインと糖分、そしてアルギニンの化合物だ。
一口飲むと、脳の奥がパチパチと火花を散らす感覚がある。
強烈な甘みが舌を麻痺させ、食道を通って胃袋へと落下していく。
ドクン、と心臓が強く脈打つ。
死んでいた細胞が、化学物質の暴力によって強制的に再起動されていく感覚。
やはり、現代の錬金術が産んだ合法的な興奮剤は格が違う。
「主様、またその『神の神髄(ネクタル)』を飲んでいるのですか?」
横からエルザが呆れたような、それでいて羨望の混じった声を出す。
彼女は今朝も店の隅で、床のタイルを磨き上げていた。
手には「激落ちくん」が握られている。
この世界の汚れを許さないという、凄まじい気迫を感じる。
彼女にとって、このコンビニの床は、一点の曇りも許されない祭壇なのだろう。
「神髄じゃない。ただの元気が出る飲み物だ」
「嘘をおっしゃい。それを一口飲むたびに、主様の瞳に宿る魔力が桁違いに跳ね上がっています。全身から立ち昇る金色のオーラが見えないとでも?」
それは単にカフェインで目が冴えて、血糖値が急上昇しているだけなんだが。
彼女の過大評価は、もはや修正不能なレベルに達している。
俺は肩をすくめ、残りの液体を一気に喉に流し込んだ。
空になった缶を握り潰し、リサイクルボックスへ放り込む。
カラン、という乾いた音。
その時だ。
自動ドアが開いた。
ピンポーン、という能天気なチャイム。
しかし、入ってきた者の威圧感は、今までの連中とは比較にならなかった。
空気が変わる。
店内の空調が完全に制御しているはずの室温が、一瞬だけピリついた気がした。
現れたのは、純白の法衣を纏った、透き通るような銀髪の少女だ。
年齢は十代後半といったところか。
その肌は陶器のように白く、瞳は深い湖のような碧色を湛えている。
背後には、白銀の甲冑を纏った騎士たちが十数人も控えていた。
彼らの鎧には、太陽を模した聖印が刻まれている。
教団の精鋭部隊、「聖堂騎士団」だ。
「……ここが、噂の『光の神殿』ですか?」
少女が鈴の鳴るような声で呟いた。
その瞳は、店内の隅々まで隈なく観察している。
天井のLED照明。
埃一つない白い床。
そして、整然と並ぶ商品の数々。
彼女は入り口で立ち止まったまま、動こうとしない。
どうやら、自動ドアが開いたことに驚愕し、警戒しているようだ。
無理もない。
気配も魔力もなく、独りでに開くガラスの扉など、この世界の住人にとっては未知の領域だ。
「悪いが、ここはただの店だ。聖女様が何の用だ?」
俺は面倒な予感を隠さず、カウンターに肘をついた。
彼女の視線が、俺に向く。
その瞳の奥で、何らかの解析魔法が発動しているのが分かった。
俺の底知れなさを測ろうとしているのだろう。
無駄なことだ。
俺はただの店員であり、同時にこの空間における絶対的な管理者(アドミニストレーター)なのだから。
「私はレティア。大陸全土に信徒を持つ大教団の聖女を務めています」
彼女は一歩、店内に足を踏み入れた。
その瞬間、騎士の一人が剣の柄に手をかける。
俺の放つ「気配のなさ」を、逆に脅威と捉えたらしい。
だが、レティアはそれを手で制した。
「下がりなさい。この御方の前で剣を抜くなど、自殺行為です」
彼女は正確に状況を理解していた。
この店の中において、物理的な武力など何の意味も持たないことを、本能で悟っている。
レティアはゆっくりとカウンターまで歩み寄り、俺と視線を合わせた。
至近距離で見ると、その美貌は人間離れしていた。
だが、俺にとっては客の一人に過ぎない。
「店主さん。街では貴方の売った『聖なる火』と『癒やしの聖水』が騒動になっています。あれは、教団の教義を根底から覆すオーパーツです」
「ああ、あのライターと水か。ただの商品だよ」
「……ただの商品? あれほどの高純度な魔力媒介を、そう呼ぶのですか?」
彼女の瞳が、僅かに細められた。
探るような、それでいて深い敬意を孕んだ視線。
彼女は知っているのだ。
無詠唱で火を生み出す機構や、不純物を完全に取り除いた水が、どれほどの高度な技術と魔力を必要とするかを。
「私には分かります。この店自体が、この世のものとは思えない高度な術式で構成されている。天井の光……あれは太陽の欠片を封じ込めているのでしょう? そしてこの涼しい風……氷の精霊王を、壁の中に幽閉していなければ説明がつかない」
「術式なんて使ってない。プレハブ工法なだけだ。あとエアコン」
話が通じないのは、この世界の住人の共通仕様なのか。
いちいち訂正するのも面倒になってきた。
レティアは俺の言葉を「賢者の謙遜」と受け取ったのか、さらに熱っぽい視線を送ってくる。
ふと、彼女の視線がカウンターの向こう側にある、飲料の冷蔵ケースに止まった。
そこには、赤と黒のラベルが眩しい「コーラ」のペットボトルが並んでいる。
ガラス越しに見える、漆黒の液体。
LEDの光を受けて、妖しく艶めいている。
「……あの、黒い液体は何ですか? 禍々しいほどの魔圧を感じますが」
レティアの声が震えた。
彼女は聖女としての鋭敏な感覚で、コーラが放つ異常な存在感を感じ取ったらしい。
砂糖。
カフェイン。
炭酸ガス。
カラメル色素。
それらが複雑に絡み合った現代化学の結晶は、彼女の目には「深淵の闇を煮詰めた禁断の霊薬」に見えているに違いない。
「コーラだ。百五十円」
「こーら……。聞いたことがない名です。しかし、この内側から湧き上がるような泡……。生きているのですか?」
彼女は魅入られたように冷蔵ケースに近づき、ガラスに手を触れた。
ひんやりとした感触に、ビクリと肩を震わせる。
「……欲しい。その黒き聖水を、私に譲ってください」
「金さえ払えば売るぞ」
「代金は……これで足りますか?」
彼女は懐から、拳大の石を取り出した。
虹色に輝く結晶体。
内部で光が渦を巻き、周囲のマナを吸収して脈動している。
おそらく、高位のドラゴン体内から摘出された魔石か、あるいは古代遺跡のコアだろう。
一国を買えるほどの価値があるかもしれない。
「……お釣りが出ないぞ」
「構いません。その霊薬の価値に比べれば、この程度の石ころなど路傍の砂利も同然です」
彼女は本気だった。
俺は溜息をつき、その魔石を受け取ってレジの下に放り込んだ。
ゴトッ、と無造作な音がする。
騎士たちが「ああっ! 国宝級の秘宝が!」と悲鳴を上げているが無視だ。
俺は冷蔵庫から、キンキンに冷えたコーラを一本取り出した。
表面に水滴がびっしりとついている。
「ほらよ」
彼女に手渡すと、その冷たさに驚いたように目を見開いた。
この世界において、これほどの低温を維持することは至難の業だ。
彼女は震える両手でボトルを捧げ持った。
まるで、神の心臓でも受け取ったかのような慎重さだ。
「キャップを捻れば飲めるぞ。振るなよ、爆発するからな」
「ば、爆発……!? やはり、強大なエネルギーが圧縮されているのですね……」
レティアはゴクリと喉を鳴らし、覚悟を決めた表情でキャップに手をかけた。
騎士たちが、主を守ろうと盾を構える。
俺が見守る中、彼女は力を込めてキャップを回した。
シュパッ!!
ガスが抜ける鋭い音。
ボトルの中で気圧が変化し、無数の気泡が一気に湧き上がった。
シュワシュワシュワ……と、液体が沸騰したような音を立てる。
「きゃっ!? ……く、空気が……弾けた? いや、これは精霊の悲鳴!?」
「炭酸だ。驚くなよ」
レティアは湧き上がる泡を見て、恐怖と期待が入り混じった顔をしている。
彼女は意を決し、ボトルの口を小さな唇に当てた。
そして、恐る恐るボトルを傾け、漆黒の液体を口内に流し込んだ。
とぷん。
最初の一口が入った瞬間。
彼女の動きが止まった。
直後。
口の中で、数千、数万の気泡が炸裂した。
「……っ!? !!?!?!?」
彼女の碧眼が見開かれ、極限まで収縮する。
舌の上で暴れ回る炭酸の刺激。
それは、彼女の知る「飲み物」の概念を根底から破壊する暴力だった。
痛い。
しかし、その痛みの直後に訪れる、脳髄を溶かすような強烈な甘み。
そして、鼻に抜ける爽快なスパイスの香り。
「……むぐ、ふっ、んんんっ!! はぁぁぁっ!!」
レティアはボトルから口を離し、激しく喘いだ。
顔が一瞬で真っ赤に染まり、瞳からは生理的な涙が溢れ出している。
喉の奥を必死に押さえ、その衝撃に耐えている。
「せ、聖女様!? ご無事ですか!?」
騎士たちが駆け寄ろうとするが、レティアはそれを手で制した。
彼女は震える足で立ち続け、恍惚とした表情で天井を仰いだ。
「……何ですか、これは……! 口の中で、何千もの光の矢が爆発しました! 雷鳴です……黒き雷鳴が、私の体内を駆け巡りました!」
「炭酸の刺激だ。喉越しがいいだろ?」
「喉越し……? そんな生温い言葉では表現できません! これは、魂の不純物を焼き尽くす『神の洗礼』です!」
レティアは叫んだ。
その声には、深い感動と、未知の体験への畏怖が込められていた。
「お腹の奥が、熱いです……。胃袋に落ちた雷が、四肢の末端まで衝撃を伝えていく……。滞っていた魔力の回路が、この黒い奔流によって強制的にこじ開けられ、循環させられている……!」
実際は、糖分が急速に吸収され、炭酸ガスで胃が膨れているだけだ。
だが、彼女にとっては、それが魔力循環の活性化に感じられるらしい。
彼女は再びボトルに口をつけ、今度は貪るように飲み始めた。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ。
喉を鳴らし、黒い液体を体内に取り込んでいく。
その姿は、聖女というよりは、禁断の果実を知ってしまった背徳者のようだった。
「ぷはぁっ……!」
半分ほどを一気に飲み干し、彼女は大きく息を吐いた。
口の端から、黒い滴がこぼれ落ちる。
それを拭うこともせず、彼女はうっとりとした目でボトルを見つめた。
「……美味しい。痛いのに、苦しいのに、魂がこの刺激を求めて叫んでいる……。
いいえ、これこそが大賢者が追い求めた、全知全能の霊薬……真のエリクサーに違いありません!」
彼女はその場に崩れ落ちるように膝をつき、祈りを捧げ始めた。
両手でボトルを高く掲げ、涙を流しながら感謝の言葉を紡ぐ。
「ああ、神よ……。このような辺境の地に、真の救世主を遣わしてくださるとは……。
私は今、生まれ変わりました。この黒い聖水によって、過去の軟弱な私は死に、新たな『覚醒者』として蘇ったのです!」
後ろの騎士たちも、主の劇的な変化を見て、慌てて彼女に習って跪く。
ガシャン、ガシャンと鎧の音が響き、全員が俺に向かって平伏した。
異様な光景だ。
コンビニの店内で、集団土下座が行われている。
「……おい、店内で宗教儀式を始めるな。邪魔だ」
俺はカウンターから身を乗り出し、冷ややかに言い放った。
エルザが「さすが主様、聖女すらも一瞬で屈服させるとは」という、誇らしげな顔で俺を見ている。
勘弁してくれ。
俺はただ、静かに店番をしていたいだけなんだ。
「店主様……。いえ、聖導師様! この霊薬を、教団の本山へ持ち帰る許可をいただけますか!」
レティアが顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめてくる。
その瞳には、もはや疑いの色は微塵もない。
あるのは、狂信に近い崇拝のみだ。
「この奇跡を、枢機卿猊下や法王様にも体験していただきたいのです! 世界中の信徒が、この黒い雷鳴によって救われるはずです!」
「売ったんだから好きにしろ。ただし、転売するならマージンを……いや、もういい」
どうせ言っても無駄だ。
彼女の中で、俺は既に「神の代理人」か何かに格上げされている。
下手に否定すれば、さらに面倒な問答が始まるだけだ。
「感謝いたします! この奇跡、必ずや世界に広めてみせましょう! 貴方様の偉大なる御名を、聖典の第一節に刻ませていただきます!」
聖女は飲みかけのコーラを聖遺物のように高く掲げ、騎士たちを引き連れて嵐のように去っていった。
自動ドアが開くたびに、外の熱気が少しだけ入り込み、そしてまた冷房によってかき消される。
店内に、静寂が戻る。
残されたのは、彼女が置いていった巨大な魔石と、騎士たちが落としていった熱狂の余韻だけだ。
俺は新しい商品を棚に並べ直すため、スマホを操作した。
画面の中の「在庫補充」ボタンをタップする。
黄金の粒子が舞い、コーラの棚が再び満たされていく。
「……主様。また世界が壊れましたね」
エルザが、しみじみとした口調で呟いた。
「壊してない。商品を売っただけだ」
俺はカップ麺の棚を整理し始めた。
今日のノルマはまだ終わっていない。
平和な日常を取り戻すためには、淡々と業務をこなすしかないのだ。
自動ドアが、また誰かの来訪を告げた。
俺はカウンターの中で、新しく入荷したエナジードリンクの缶を手に取る。
極彩色の塗装が施されたアルミの円筒。
表面には、禍々しい爪痕のようなロゴが刻印されている。
俺の人差し指が、冷えたプルタブに掛かる。
力を込める。
プシュッ、という小気味いい音が、静寂に包まれた店内に鋭く響いた。
封印されていた炭酸ガスが解き放たれ、白い霧となって噴き出す。
同時に、人工的な甘い香りと、薬草を煮詰めたようなケミカルな匂いが鼻腔をくすぐる。
「……ん。これだ。これがなきゃ朝は始まらない」
二十四時間労働の地獄で、俺の血管を流れていたのは血液じゃない。
このカフェインと糖分、そしてアルギニンの化合物だ。
一口飲むと、脳の奥がパチパチと火花を散らす感覚がある。
強烈な甘みが舌を麻痺させ、食道を通って胃袋へと落下していく。
ドクン、と心臓が強く脈打つ。
死んでいた細胞が、化学物質の暴力によって強制的に再起動されていく感覚。
やはり、現代の錬金術が産んだ合法的な興奮剤は格が違う。
「主様、またその『神の神髄(ネクタル)』を飲んでいるのですか?」
横からエルザが呆れたような、それでいて羨望の混じった声を出す。
彼女は今朝も店の隅で、床のタイルを磨き上げていた。
手には「激落ちくん」が握られている。
この世界の汚れを許さないという、凄まじい気迫を感じる。
彼女にとって、このコンビニの床は、一点の曇りも許されない祭壇なのだろう。
「神髄じゃない。ただの元気が出る飲み物だ」
「嘘をおっしゃい。それを一口飲むたびに、主様の瞳に宿る魔力が桁違いに跳ね上がっています。全身から立ち昇る金色のオーラが見えないとでも?」
それは単にカフェインで目が冴えて、血糖値が急上昇しているだけなんだが。
彼女の過大評価は、もはや修正不能なレベルに達している。
俺は肩をすくめ、残りの液体を一気に喉に流し込んだ。
空になった缶を握り潰し、リサイクルボックスへ放り込む。
カラン、という乾いた音。
その時だ。
自動ドアが開いた。
ピンポーン、という能天気なチャイム。
しかし、入ってきた者の威圧感は、今までの連中とは比較にならなかった。
空気が変わる。
店内の空調が完全に制御しているはずの室温が、一瞬だけピリついた気がした。
現れたのは、純白の法衣を纏った、透き通るような銀髪の少女だ。
年齢は十代後半といったところか。
その肌は陶器のように白く、瞳は深い湖のような碧色を湛えている。
背後には、白銀の甲冑を纏った騎士たちが十数人も控えていた。
彼らの鎧には、太陽を模した聖印が刻まれている。
教団の精鋭部隊、「聖堂騎士団」だ。
「……ここが、噂の『光の神殿』ですか?」
少女が鈴の鳴るような声で呟いた。
その瞳は、店内の隅々まで隈なく観察している。
天井のLED照明。
埃一つない白い床。
そして、整然と並ぶ商品の数々。
彼女は入り口で立ち止まったまま、動こうとしない。
どうやら、自動ドアが開いたことに驚愕し、警戒しているようだ。
無理もない。
気配も魔力もなく、独りでに開くガラスの扉など、この世界の住人にとっては未知の領域だ。
「悪いが、ここはただの店だ。聖女様が何の用だ?」
俺は面倒な予感を隠さず、カウンターに肘をついた。
彼女の視線が、俺に向く。
その瞳の奥で、何らかの解析魔法が発動しているのが分かった。
俺の底知れなさを測ろうとしているのだろう。
無駄なことだ。
俺はただの店員であり、同時にこの空間における絶対的な管理者(アドミニストレーター)なのだから。
「私はレティア。大陸全土に信徒を持つ大教団の聖女を務めています」
彼女は一歩、店内に足を踏み入れた。
その瞬間、騎士の一人が剣の柄に手をかける。
俺の放つ「気配のなさ」を、逆に脅威と捉えたらしい。
だが、レティアはそれを手で制した。
「下がりなさい。この御方の前で剣を抜くなど、自殺行為です」
彼女は正確に状況を理解していた。
この店の中において、物理的な武力など何の意味も持たないことを、本能で悟っている。
レティアはゆっくりとカウンターまで歩み寄り、俺と視線を合わせた。
至近距離で見ると、その美貌は人間離れしていた。
だが、俺にとっては客の一人に過ぎない。
「店主さん。街では貴方の売った『聖なる火』と『癒やしの聖水』が騒動になっています。あれは、教団の教義を根底から覆すオーパーツです」
「ああ、あのライターと水か。ただの商品だよ」
「……ただの商品? あれほどの高純度な魔力媒介を、そう呼ぶのですか?」
彼女の瞳が、僅かに細められた。
探るような、それでいて深い敬意を孕んだ視線。
彼女は知っているのだ。
無詠唱で火を生み出す機構や、不純物を完全に取り除いた水が、どれほどの高度な技術と魔力を必要とするかを。
「私には分かります。この店自体が、この世のものとは思えない高度な術式で構成されている。天井の光……あれは太陽の欠片を封じ込めているのでしょう? そしてこの涼しい風……氷の精霊王を、壁の中に幽閉していなければ説明がつかない」
「術式なんて使ってない。プレハブ工法なだけだ。あとエアコン」
話が通じないのは、この世界の住人の共通仕様なのか。
いちいち訂正するのも面倒になってきた。
レティアは俺の言葉を「賢者の謙遜」と受け取ったのか、さらに熱っぽい視線を送ってくる。
ふと、彼女の視線がカウンターの向こう側にある、飲料の冷蔵ケースに止まった。
そこには、赤と黒のラベルが眩しい「コーラ」のペットボトルが並んでいる。
ガラス越しに見える、漆黒の液体。
LEDの光を受けて、妖しく艶めいている。
「……あの、黒い液体は何ですか? 禍々しいほどの魔圧を感じますが」
レティアの声が震えた。
彼女は聖女としての鋭敏な感覚で、コーラが放つ異常な存在感を感じ取ったらしい。
砂糖。
カフェイン。
炭酸ガス。
カラメル色素。
それらが複雑に絡み合った現代化学の結晶は、彼女の目には「深淵の闇を煮詰めた禁断の霊薬」に見えているに違いない。
「コーラだ。百五十円」
「こーら……。聞いたことがない名です。しかし、この内側から湧き上がるような泡……。生きているのですか?」
彼女は魅入られたように冷蔵ケースに近づき、ガラスに手を触れた。
ひんやりとした感触に、ビクリと肩を震わせる。
「……欲しい。その黒き聖水を、私に譲ってください」
「金さえ払えば売るぞ」
「代金は……これで足りますか?」
彼女は懐から、拳大の石を取り出した。
虹色に輝く結晶体。
内部で光が渦を巻き、周囲のマナを吸収して脈動している。
おそらく、高位のドラゴン体内から摘出された魔石か、あるいは古代遺跡のコアだろう。
一国を買えるほどの価値があるかもしれない。
「……お釣りが出ないぞ」
「構いません。その霊薬の価値に比べれば、この程度の石ころなど路傍の砂利も同然です」
彼女は本気だった。
俺は溜息をつき、その魔石を受け取ってレジの下に放り込んだ。
ゴトッ、と無造作な音がする。
騎士たちが「ああっ! 国宝級の秘宝が!」と悲鳴を上げているが無視だ。
俺は冷蔵庫から、キンキンに冷えたコーラを一本取り出した。
表面に水滴がびっしりとついている。
「ほらよ」
彼女に手渡すと、その冷たさに驚いたように目を見開いた。
この世界において、これほどの低温を維持することは至難の業だ。
彼女は震える両手でボトルを捧げ持った。
まるで、神の心臓でも受け取ったかのような慎重さだ。
「キャップを捻れば飲めるぞ。振るなよ、爆発するからな」
「ば、爆発……!? やはり、強大なエネルギーが圧縮されているのですね……」
レティアはゴクリと喉を鳴らし、覚悟を決めた表情でキャップに手をかけた。
騎士たちが、主を守ろうと盾を構える。
俺が見守る中、彼女は力を込めてキャップを回した。
シュパッ!!
ガスが抜ける鋭い音。
ボトルの中で気圧が変化し、無数の気泡が一気に湧き上がった。
シュワシュワシュワ……と、液体が沸騰したような音を立てる。
「きゃっ!? ……く、空気が……弾けた? いや、これは精霊の悲鳴!?」
「炭酸だ。驚くなよ」
レティアは湧き上がる泡を見て、恐怖と期待が入り混じった顔をしている。
彼女は意を決し、ボトルの口を小さな唇に当てた。
そして、恐る恐るボトルを傾け、漆黒の液体を口内に流し込んだ。
とぷん。
最初の一口が入った瞬間。
彼女の動きが止まった。
直後。
口の中で、数千、数万の気泡が炸裂した。
「……っ!? !!?!?!?」
彼女の碧眼が見開かれ、極限まで収縮する。
舌の上で暴れ回る炭酸の刺激。
それは、彼女の知る「飲み物」の概念を根底から破壊する暴力だった。
痛い。
しかし、その痛みの直後に訪れる、脳髄を溶かすような強烈な甘み。
そして、鼻に抜ける爽快なスパイスの香り。
「……むぐ、ふっ、んんんっ!! はぁぁぁっ!!」
レティアはボトルから口を離し、激しく喘いだ。
顔が一瞬で真っ赤に染まり、瞳からは生理的な涙が溢れ出している。
喉の奥を必死に押さえ、その衝撃に耐えている。
「せ、聖女様!? ご無事ですか!?」
騎士たちが駆け寄ろうとするが、レティアはそれを手で制した。
彼女は震える足で立ち続け、恍惚とした表情で天井を仰いだ。
「……何ですか、これは……! 口の中で、何千もの光の矢が爆発しました! 雷鳴です……黒き雷鳴が、私の体内を駆け巡りました!」
「炭酸の刺激だ。喉越しがいいだろ?」
「喉越し……? そんな生温い言葉では表現できません! これは、魂の不純物を焼き尽くす『神の洗礼』です!」
レティアは叫んだ。
その声には、深い感動と、未知の体験への畏怖が込められていた。
「お腹の奥が、熱いです……。胃袋に落ちた雷が、四肢の末端まで衝撃を伝えていく……。滞っていた魔力の回路が、この黒い奔流によって強制的にこじ開けられ、循環させられている……!」
実際は、糖分が急速に吸収され、炭酸ガスで胃が膨れているだけだ。
だが、彼女にとっては、それが魔力循環の活性化に感じられるらしい。
彼女は再びボトルに口をつけ、今度は貪るように飲み始めた。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ。
喉を鳴らし、黒い液体を体内に取り込んでいく。
その姿は、聖女というよりは、禁断の果実を知ってしまった背徳者のようだった。
「ぷはぁっ……!」
半分ほどを一気に飲み干し、彼女は大きく息を吐いた。
口の端から、黒い滴がこぼれ落ちる。
それを拭うこともせず、彼女はうっとりとした目でボトルを見つめた。
「……美味しい。痛いのに、苦しいのに、魂がこの刺激を求めて叫んでいる……。
いいえ、これこそが大賢者が追い求めた、全知全能の霊薬……真のエリクサーに違いありません!」
彼女はその場に崩れ落ちるように膝をつき、祈りを捧げ始めた。
両手でボトルを高く掲げ、涙を流しながら感謝の言葉を紡ぐ。
「ああ、神よ……。このような辺境の地に、真の救世主を遣わしてくださるとは……。
私は今、生まれ変わりました。この黒い聖水によって、過去の軟弱な私は死に、新たな『覚醒者』として蘇ったのです!」
後ろの騎士たちも、主の劇的な変化を見て、慌てて彼女に習って跪く。
ガシャン、ガシャンと鎧の音が響き、全員が俺に向かって平伏した。
異様な光景だ。
コンビニの店内で、集団土下座が行われている。
「……おい、店内で宗教儀式を始めるな。邪魔だ」
俺はカウンターから身を乗り出し、冷ややかに言い放った。
エルザが「さすが主様、聖女すらも一瞬で屈服させるとは」という、誇らしげな顔で俺を見ている。
勘弁してくれ。
俺はただ、静かに店番をしていたいだけなんだ。
「店主様……。いえ、聖導師様! この霊薬を、教団の本山へ持ち帰る許可をいただけますか!」
レティアが顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめてくる。
その瞳には、もはや疑いの色は微塵もない。
あるのは、狂信に近い崇拝のみだ。
「この奇跡を、枢機卿猊下や法王様にも体験していただきたいのです! 世界中の信徒が、この黒い雷鳴によって救われるはずです!」
「売ったんだから好きにしろ。ただし、転売するならマージンを……いや、もういい」
どうせ言っても無駄だ。
彼女の中で、俺は既に「神の代理人」か何かに格上げされている。
下手に否定すれば、さらに面倒な問答が始まるだけだ。
「感謝いたします! この奇跡、必ずや世界に広めてみせましょう! 貴方様の偉大なる御名を、聖典の第一節に刻ませていただきます!」
聖女は飲みかけのコーラを聖遺物のように高く掲げ、騎士たちを引き連れて嵐のように去っていった。
自動ドアが開くたびに、外の熱気が少しだけ入り込み、そしてまた冷房によってかき消される。
店内に、静寂が戻る。
残されたのは、彼女が置いていった巨大な魔石と、騎士たちが落としていった熱狂の余韻だけだ。
俺は新しい商品を棚に並べ直すため、スマホを操作した。
画面の中の「在庫補充」ボタンをタップする。
黄金の粒子が舞い、コーラの棚が再び満たされていく。
「……主様。また世界が壊れましたね」
エルザが、しみじみとした口調で呟いた。
「壊してない。商品を売っただけだ」
俺はカップ麺の棚を整理し始めた。
今日のノルマはまだ終わっていない。
平和な日常を取り戻すためには、淡々と業務をこなすしかないのだ。
自動ドアが、また誰かの来訪を告げた。
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新連載始まりました。
私としては初の挑戦になる内容のため、至らぬところもあると思いますが、温めで見守って下さいませ。
会話の「」前に人物の名称入れてみることにしました。
余計読みにくいかなぁ?と思いつつ。
会話がわからない!となるよりは・・
試みですね。
誤字・脱字・文章修正 随時行います。
短編タグが長編に変更になることがございます。
*タイトルの「神々の寵愛者」→「神々の愛し子」に変更しました。
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