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第5話 白い消しゴムと透明な聖衣
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午後の陽光が、強化ガラスの自動ドアを透過して店内に降り注いでいる。
俺はレジカウンターの中で、「激落ちくん」のメラミンスポンジを手に、白い天板の端を無心で磨いていた。
キュッ、キュッ、という微かな摩擦音が、冷房の効いた空間にリズムを刻む。
この世界の空気は、魔法的な要因なのか工業汚染がないせいか、驚くほど澄んでいる。
だが、人の出入りが増えれば、それなりに汚れは持ち込まれる。
靴の裏についた泥。
鎧の隙間から落ちる鉄粉。
あるいは、客が興奮して撒き散らした手汗や涙の跡。
それらは俺の聖域であるコンビニエンスストアの美観を損なうノイズだ。
許容できるものではない。
「……主様。その、手に持っている白い立方体は何ですか?」
エルザが興味深そうに、俺の手元を覗き込んできた。
彼女は棚の陰から、まるで獲物を狙う猫のような姿勢で、俺の指先の動きを観察している。
その瞳には、未知の魔道具に対する警戒と、抑えきれない好奇心が渦巻いていた。
「スポンジだ。汚れを削り落とす」
「削る……? 洗浄の魔法も、水の精霊の力も借りずにですか?」
「ああ。見てろ」
俺は、先ほどの客――興奮してカウンターに額を擦り付けていった老魔導師――が残した、脂ぎった皮脂汚れにスポンジをあてがった。
水を含ませただけの、多孔質のメラミンフォーム。
ミクロン単位のガラス質の骨格が、汚れの層を物理的に破壊し、掻き出していく。
俺は軽く力を込め、汚染箇所をこする。
キュッ。
乾いた音が一つ。
それだけで、頑固な皮脂汚れは跡形もなく消滅した。
後に残るのは、新雪のように白く輝くカウンターの表面のみ。
「……なっ!? き、消えた……概念ごと、消滅したというのですか!?」
エルザが目を見開き、汚れがあった場所を凝視している。
彼女は恐る恐る指を伸ばし、磨かれたばかりの天板に触れた。
「ツルツルです……。いえ、これは『無』の手触り……。そこに存在したはずの汚濁の歴史が、時間軸から切り離されてしまったような……」
「大げさだ。ただ表面を研磨しただけだ」
「違います! あの汚れには、先ほどの客が残した微かな負の思念……欲望や執着といった『業(カルマ)』がこびり付いていました!」
エルザは戦慄し、後ずさった。
「それを、その白い霊具は一瞬で無に帰した……。詠唱も、魔法陣の展開もなく、ただ触れるだけで因果を断ち切るとは……。主様、それは聖属性のアーティファクトの中でも、最上位の『浄化の御石(ホーリー・キューブ)』ですね?」
彼女は震える指で、俺が持っている使い捨てのスポンジを指差した。
その顔色は青ざめ、額には冷や汗が浮かんでいる。
無理もない。
彼女の視点では、俺が指先一つで「過去の改変」を行ったように見えているのだろう。
物理的な汚れを落とす行為と、呪いを解く行為の区別がつかない世界なのだ。
「百円で十個入りの消耗品だ。そんな大層なもんじゃない」
「十個も!? 世界を浄化するほどの宝具が、そんな無造作に……」
彼女は言葉を失い、スポンジを崇めるように見つめている。
この世界の住人は、物事を難しく考えすぎる傾向がある。
俺はスポンジを水でゆすぎ、ギュッと絞った。
汚れた水が滴り落ちる様子を見て、エルザが「邪気が液状化して排出されている……!」と悲鳴を上げたが、無視だ。
俺はスポンジを棚の奥へとしまい、次の作業に移ることにした。
店内の空気が、少し淀んでいる気がする。
先ほどまで店内に溢れかえっていた、汗臭い騎士や、カビ臭いローブを纏った魔導師たちの残り香だ。
高性能な空調システムをもってしても、染み付いた体臭までは完全には除去しきれない。
俺はスマホを取り出し、画面をスワイプした。
[日用品:清掃・消臭]のカテゴリーを開く。
店内の清潔感を保つため、強力な消臭剤の入荷が必要だ。
俺は迷わず、某有名メーカーの布用消臭スプレーを選択した。
黄金の粒子が舞い、俺の手元に白と青の流線型のボトルが現れる。
「ファブリーズ」だ。
トウモロコシ由来の消臭成分が、ニオイの元を化学的に分解する現代の錬金術。
「次はこれだ」
俺は店内の空間に向けて、トリガーを引いた。
シュッ、シュッ。
微細なミストが広がり、照明の光を受けて虹色に輝く。
人工的な、しかし圧倒的に爽やかな「せっけんの香り」が、店内の生活臭を暴力的なまでの洗浄力で上書きしていく。
「……はっ!? く、空気が……空気が変わった!?」
エルザが鼻をひくひかせ、驚愕の表情で周囲を見回した。
彼女は空中に手を伸ばし、漂う香りの粒子を掴もうとする。
「これは、森の精霊たちが住まう聖域の最奥……そこでしか嗅ぐことのできない、純粋なる『精霊の息吹』の香り……。いや、それ以上に純度が高い……」
「ただの消臭剤だ。臭い消しだよ」
「臭い消しなどという次元ではありません! 空気に混じっていた邪気、病魔の予兆、そして死の匂いが、ことごとく霧散しました!」
彼女は大きく深呼吸をし、その場に崩れ落ちた。
恍惚とした表情で天井を仰いでいる。
「……ああ、肺の奥まで浄化されていく……。心が洗われるようです。主様、これは魂の洗濯なのですね……」
「勝手に感動してろ。俺は仕事をする」
俺はレジに戻り、商品の在庫チェックを始めた。
最近、ある特定の商品だけが、異常な速度で消費されている。
「レジ袋」だ。
本来は商品を持ち帰るためのサービス品だが、この異世界では別の用途で奪い合いになっているらしい。
客が商品を持ち帰る際、あの薄いポリエチレンの袋を「無敵の防壁」だと言い張って、中身よりも大切に抱えて帰るのだ。
俺には理解できないが、需要があるなら供給するのが商売の鉄則だ。
「店主殿! 頼む、あの『透明な結界』を譲ってくれ!」
自動ドアが勢いよく開き、一人の巨漢が飛び込んできた。
蝶番が悲鳴を上げそうなほどの勢いだ。
現れたのは、全身を分厚いフルプレートアーマーで固めた重騎士だった。
鎧の表面には無数の傷跡があり、歴戦の猛者であることを物語っている。
肩には、王国の騎士団長クラスがつける階級章が輝いていた。
だが、その顔は必死そのものだ。
兜を脇に抱え、汗だくになりながらカウンターに詰め寄ってくる。
「……レジ袋のことか? 一枚五円だぞ」
「五円……!? その程度の代価で、あの『あらゆる魔法を遮断する極薄の膜』を譲ってくださるのか!」
騎士団長は目を剥き、唾を飛ばしながら叫んだ。
声がデカい。
店内の空気がビリビリと震える。
「魔法を遮断する? そんな機能はない。ただのビニールだ」
「嘘を言うな! 謙遜もそこまで行くと嫌味だぞ、賢者殿!」
彼はカウンターをバンと叩いた。
「先日、これを手に入れた我が部下が、狂った魔術師との決闘で奇跡を起こしたのだ!」
彼は身振りを交えて熱弁を振るい始めた。
「敵は『紅蓮の魔導師』と呼ばれる高位の術者だ。奴が放った第三階位の爆裂魔法『炎熱地獄(インフェルノ・ブラスト)』……本来なら、鉄の盾ごと人間を溶解させる必殺の一撃だった! だが、我が部下は咄嗟に、懐からこの『透明な膜』を取り出し、頭から被ったのだ!」
レジ袋を被る。
想像しただけで窒息しそうな絵面だが、彼らは真剣だ。
「爆炎が袋に触れた瞬間、炎はまるで滑るように軌道を逸らした! 熱波は遮断され、袋の内側にいた部下は、髪の毛一本焦げることなく生還したのだ! 袋の表面は僅かに溶けたようだが、その防御性能はオリハルコンの盾をも凌駕していたと!」
なるほど。
現代の石油化学製品であるポリエチレンは、熱可塑性樹脂だ。
魔力が「物理的な熱量」として作用する前に、分子構造レベルでエネルギーを受け流したのか、あるいは単に電気を通さない絶縁体としての性質が、魔力というエネルギー波を無効化したのか。
いずれにせよ、科学の産物が、ファンタジーの理(ことわり)をねじ伏せたらしい。
彼らにとって、あの薄く、軽く、透明な袋は、物理法則を無視した「絶対防壁」に見えるのだろう。
「分かった、分かった。何枚欲しいんだ?」
「あるだけだ! 我が騎士団の全財産を賭けてもいい! これさえあれば、来るべき隣国との戦争、我が軍の損害は皆無となる!」
騎士はカウンターに、金貨が詰まった大きな革袋をドン、ドン、ドンと三つ並べた。
袋の口が開き、中から溢れ出た金貨がジャラジャラと音を立てる。
一枚で百万円の価値がある金貨が、数百枚。
レジ袋数枚に対して、国家予算レベルの金額が提示されている。
インフレもここまで来ると笑えてくる。
「……そんなにいらない。転売対策で、一人三枚までだ」
「三枚……!? たったの三枚か……。くっ、やはり神具の数には限りがあるということか……」
騎士は苦渋の表情を浮かべたが、すぐに気を取り直して頷いた。
「承知した! その三枚、私が責任を持って運用しよう! 一枚は国王陛下へ献上し、残る二枚は騎士団の至宝として祭壇に祀る!」
「使うんじゃないのかよ。まあいい、五円だ」
俺はレジ袋を三枚、指先で摘んでカウンターに置いた。
カサカサ、という安っぽい音。
だが、騎士はその音さえも神託のように聞き入っている。
「おお……。この音……。空間の裂け目が擦れ合う音だ……。なんと薄く、なんと強靭な……」
彼は震える手でレジ袋を受け取った。
まるで、生まれたばかりの赤子か、あるいは世界を滅ぼす爆弾でも扱うかのような慎重さだ。
彼は一枚ずつ丁寧に折り畳み、懐の最も安全な場所――心臓の上あたりにあるポケットへしまい込んだ。
「店主殿、貴殿は王国の恩人だ。この礼は必ずや……」
「いいから。後ろがつかえてる、次だ」
俺は顎で入り口を指した。
騎士はハッとして後ろを振り返る。
自動ドアの外には、レジ袋の噂を聞きつけた兵士や冒険者たちが、長蛇の列を作っていた。
彼らの目は血走り、手には金貨を握りしめている。
完全にパニック買いの様相だ。
「む……そうだな。独占は良くない。感謝する、賢者殿!」
騎士は深々と頭を下げ、満足げに店を出ていった。
その背中は、伝説の聖剣を手に入れた勇者のように誇らしげだった。
「……主様。あの袋、実は龍の皮膚を薄く加工したものだったのですね?」
エルザが感心したように頷いている。
彼女もまた、レジ袋の信奉者の一人だ。
以前あげたおにぎりの包装フィルムを、未だにお守りとして持っているくらいだからな。
「石油だよ。ただの油だ」
「なるほど……。地脈の深淵から湧き出る、古の巨神の血液……。それを精製し、薄く引き延ばして膜にするとは。やはり主様は恐ろしいお方だ」
もう訂正する気も起きない。
彼らの解釈力は、俺の想像を遥かに超えている。
俺は溜息をつき、おにぎりの棚を補充するために立ち上がった。
棚が空だと、また「飢餓の神への冒涜だ」とか騒がれるからな。
ふと外を見ると、行列の中に、場違いなほど豪華な馬車が止まっているのが見えた。
白塗りの車体に、金色の装飾。
四頭立ての白馬。
そして、馬車の扉には、この国の王家の紋章である「双頭の獅子」が刻まれている。
周囲の兵士たちが直立不動で敬礼し、野次馬たちが道を開けている。
「……嫌な予感しかしないな」
俺はカウンターの下から缶コーヒーを一本取り出し、プルタブを引いた。
プシュッ、という音が、これから始まる面倒事を告げる合図のように響く。
一気に飲み干す。
カフェインが脳に回り、覚悟を決める手助けをしてくれる。
平和な店番生活は、どうやら遠い夢になりそうだ。
ウィーン。
自動ドアが、また誰かの重厚な足取りを感知して、音もなく開いた。
俺はレジカウンターの中で、「激落ちくん」のメラミンスポンジを手に、白い天板の端を無心で磨いていた。
キュッ、キュッ、という微かな摩擦音が、冷房の効いた空間にリズムを刻む。
この世界の空気は、魔法的な要因なのか工業汚染がないせいか、驚くほど澄んでいる。
だが、人の出入りが増えれば、それなりに汚れは持ち込まれる。
靴の裏についた泥。
鎧の隙間から落ちる鉄粉。
あるいは、客が興奮して撒き散らした手汗や涙の跡。
それらは俺の聖域であるコンビニエンスストアの美観を損なうノイズだ。
許容できるものではない。
「……主様。その、手に持っている白い立方体は何ですか?」
エルザが興味深そうに、俺の手元を覗き込んできた。
彼女は棚の陰から、まるで獲物を狙う猫のような姿勢で、俺の指先の動きを観察している。
その瞳には、未知の魔道具に対する警戒と、抑えきれない好奇心が渦巻いていた。
「スポンジだ。汚れを削り落とす」
「削る……? 洗浄の魔法も、水の精霊の力も借りずにですか?」
「ああ。見てろ」
俺は、先ほどの客――興奮してカウンターに額を擦り付けていった老魔導師――が残した、脂ぎった皮脂汚れにスポンジをあてがった。
水を含ませただけの、多孔質のメラミンフォーム。
ミクロン単位のガラス質の骨格が、汚れの層を物理的に破壊し、掻き出していく。
俺は軽く力を込め、汚染箇所をこする。
キュッ。
乾いた音が一つ。
それだけで、頑固な皮脂汚れは跡形もなく消滅した。
後に残るのは、新雪のように白く輝くカウンターの表面のみ。
「……なっ!? き、消えた……概念ごと、消滅したというのですか!?」
エルザが目を見開き、汚れがあった場所を凝視している。
彼女は恐る恐る指を伸ばし、磨かれたばかりの天板に触れた。
「ツルツルです……。いえ、これは『無』の手触り……。そこに存在したはずの汚濁の歴史が、時間軸から切り離されてしまったような……」
「大げさだ。ただ表面を研磨しただけだ」
「違います! あの汚れには、先ほどの客が残した微かな負の思念……欲望や執着といった『業(カルマ)』がこびり付いていました!」
エルザは戦慄し、後ずさった。
「それを、その白い霊具は一瞬で無に帰した……。詠唱も、魔法陣の展開もなく、ただ触れるだけで因果を断ち切るとは……。主様、それは聖属性のアーティファクトの中でも、最上位の『浄化の御石(ホーリー・キューブ)』ですね?」
彼女は震える指で、俺が持っている使い捨てのスポンジを指差した。
その顔色は青ざめ、額には冷や汗が浮かんでいる。
無理もない。
彼女の視点では、俺が指先一つで「過去の改変」を行ったように見えているのだろう。
物理的な汚れを落とす行為と、呪いを解く行為の区別がつかない世界なのだ。
「百円で十個入りの消耗品だ。そんな大層なもんじゃない」
「十個も!? 世界を浄化するほどの宝具が、そんな無造作に……」
彼女は言葉を失い、スポンジを崇めるように見つめている。
この世界の住人は、物事を難しく考えすぎる傾向がある。
俺はスポンジを水でゆすぎ、ギュッと絞った。
汚れた水が滴り落ちる様子を見て、エルザが「邪気が液状化して排出されている……!」と悲鳴を上げたが、無視だ。
俺はスポンジを棚の奥へとしまい、次の作業に移ることにした。
店内の空気が、少し淀んでいる気がする。
先ほどまで店内に溢れかえっていた、汗臭い騎士や、カビ臭いローブを纏った魔導師たちの残り香だ。
高性能な空調システムをもってしても、染み付いた体臭までは完全には除去しきれない。
俺はスマホを取り出し、画面をスワイプした。
[日用品:清掃・消臭]のカテゴリーを開く。
店内の清潔感を保つため、強力な消臭剤の入荷が必要だ。
俺は迷わず、某有名メーカーの布用消臭スプレーを選択した。
黄金の粒子が舞い、俺の手元に白と青の流線型のボトルが現れる。
「ファブリーズ」だ。
トウモロコシ由来の消臭成分が、ニオイの元を化学的に分解する現代の錬金術。
「次はこれだ」
俺は店内の空間に向けて、トリガーを引いた。
シュッ、シュッ。
微細なミストが広がり、照明の光を受けて虹色に輝く。
人工的な、しかし圧倒的に爽やかな「せっけんの香り」が、店内の生活臭を暴力的なまでの洗浄力で上書きしていく。
「……はっ!? く、空気が……空気が変わった!?」
エルザが鼻をひくひかせ、驚愕の表情で周囲を見回した。
彼女は空中に手を伸ばし、漂う香りの粒子を掴もうとする。
「これは、森の精霊たちが住まう聖域の最奥……そこでしか嗅ぐことのできない、純粋なる『精霊の息吹』の香り……。いや、それ以上に純度が高い……」
「ただの消臭剤だ。臭い消しだよ」
「臭い消しなどという次元ではありません! 空気に混じっていた邪気、病魔の予兆、そして死の匂いが、ことごとく霧散しました!」
彼女は大きく深呼吸をし、その場に崩れ落ちた。
恍惚とした表情で天井を仰いでいる。
「……ああ、肺の奥まで浄化されていく……。心が洗われるようです。主様、これは魂の洗濯なのですね……」
「勝手に感動してろ。俺は仕事をする」
俺はレジに戻り、商品の在庫チェックを始めた。
最近、ある特定の商品だけが、異常な速度で消費されている。
「レジ袋」だ。
本来は商品を持ち帰るためのサービス品だが、この異世界では別の用途で奪い合いになっているらしい。
客が商品を持ち帰る際、あの薄いポリエチレンの袋を「無敵の防壁」だと言い張って、中身よりも大切に抱えて帰るのだ。
俺には理解できないが、需要があるなら供給するのが商売の鉄則だ。
「店主殿! 頼む、あの『透明な結界』を譲ってくれ!」
自動ドアが勢いよく開き、一人の巨漢が飛び込んできた。
蝶番が悲鳴を上げそうなほどの勢いだ。
現れたのは、全身を分厚いフルプレートアーマーで固めた重騎士だった。
鎧の表面には無数の傷跡があり、歴戦の猛者であることを物語っている。
肩には、王国の騎士団長クラスがつける階級章が輝いていた。
だが、その顔は必死そのものだ。
兜を脇に抱え、汗だくになりながらカウンターに詰め寄ってくる。
「……レジ袋のことか? 一枚五円だぞ」
「五円……!? その程度の代価で、あの『あらゆる魔法を遮断する極薄の膜』を譲ってくださるのか!」
騎士団長は目を剥き、唾を飛ばしながら叫んだ。
声がデカい。
店内の空気がビリビリと震える。
「魔法を遮断する? そんな機能はない。ただのビニールだ」
「嘘を言うな! 謙遜もそこまで行くと嫌味だぞ、賢者殿!」
彼はカウンターをバンと叩いた。
「先日、これを手に入れた我が部下が、狂った魔術師との決闘で奇跡を起こしたのだ!」
彼は身振りを交えて熱弁を振るい始めた。
「敵は『紅蓮の魔導師』と呼ばれる高位の術者だ。奴が放った第三階位の爆裂魔法『炎熱地獄(インフェルノ・ブラスト)』……本来なら、鉄の盾ごと人間を溶解させる必殺の一撃だった! だが、我が部下は咄嗟に、懐からこの『透明な膜』を取り出し、頭から被ったのだ!」
レジ袋を被る。
想像しただけで窒息しそうな絵面だが、彼らは真剣だ。
「爆炎が袋に触れた瞬間、炎はまるで滑るように軌道を逸らした! 熱波は遮断され、袋の内側にいた部下は、髪の毛一本焦げることなく生還したのだ! 袋の表面は僅かに溶けたようだが、その防御性能はオリハルコンの盾をも凌駕していたと!」
なるほど。
現代の石油化学製品であるポリエチレンは、熱可塑性樹脂だ。
魔力が「物理的な熱量」として作用する前に、分子構造レベルでエネルギーを受け流したのか、あるいは単に電気を通さない絶縁体としての性質が、魔力というエネルギー波を無効化したのか。
いずれにせよ、科学の産物が、ファンタジーの理(ことわり)をねじ伏せたらしい。
彼らにとって、あの薄く、軽く、透明な袋は、物理法則を無視した「絶対防壁」に見えるのだろう。
「分かった、分かった。何枚欲しいんだ?」
「あるだけだ! 我が騎士団の全財産を賭けてもいい! これさえあれば、来るべき隣国との戦争、我が軍の損害は皆無となる!」
騎士はカウンターに、金貨が詰まった大きな革袋をドン、ドン、ドンと三つ並べた。
袋の口が開き、中から溢れ出た金貨がジャラジャラと音を立てる。
一枚で百万円の価値がある金貨が、数百枚。
レジ袋数枚に対して、国家予算レベルの金額が提示されている。
インフレもここまで来ると笑えてくる。
「……そんなにいらない。転売対策で、一人三枚までだ」
「三枚……!? たったの三枚か……。くっ、やはり神具の数には限りがあるということか……」
騎士は苦渋の表情を浮かべたが、すぐに気を取り直して頷いた。
「承知した! その三枚、私が責任を持って運用しよう! 一枚は国王陛下へ献上し、残る二枚は騎士団の至宝として祭壇に祀る!」
「使うんじゃないのかよ。まあいい、五円だ」
俺はレジ袋を三枚、指先で摘んでカウンターに置いた。
カサカサ、という安っぽい音。
だが、騎士はその音さえも神託のように聞き入っている。
「おお……。この音……。空間の裂け目が擦れ合う音だ……。なんと薄く、なんと強靭な……」
彼は震える手でレジ袋を受け取った。
まるで、生まれたばかりの赤子か、あるいは世界を滅ぼす爆弾でも扱うかのような慎重さだ。
彼は一枚ずつ丁寧に折り畳み、懐の最も安全な場所――心臓の上あたりにあるポケットへしまい込んだ。
「店主殿、貴殿は王国の恩人だ。この礼は必ずや……」
「いいから。後ろがつかえてる、次だ」
俺は顎で入り口を指した。
騎士はハッとして後ろを振り返る。
自動ドアの外には、レジ袋の噂を聞きつけた兵士や冒険者たちが、長蛇の列を作っていた。
彼らの目は血走り、手には金貨を握りしめている。
完全にパニック買いの様相だ。
「む……そうだな。独占は良くない。感謝する、賢者殿!」
騎士は深々と頭を下げ、満足げに店を出ていった。
その背中は、伝説の聖剣を手に入れた勇者のように誇らしげだった。
「……主様。あの袋、実は龍の皮膚を薄く加工したものだったのですね?」
エルザが感心したように頷いている。
彼女もまた、レジ袋の信奉者の一人だ。
以前あげたおにぎりの包装フィルムを、未だにお守りとして持っているくらいだからな。
「石油だよ。ただの油だ」
「なるほど……。地脈の深淵から湧き出る、古の巨神の血液……。それを精製し、薄く引き延ばして膜にするとは。やはり主様は恐ろしいお方だ」
もう訂正する気も起きない。
彼らの解釈力は、俺の想像を遥かに超えている。
俺は溜息をつき、おにぎりの棚を補充するために立ち上がった。
棚が空だと、また「飢餓の神への冒涜だ」とか騒がれるからな。
ふと外を見ると、行列の中に、場違いなほど豪華な馬車が止まっているのが見えた。
白塗りの車体に、金色の装飾。
四頭立ての白馬。
そして、馬車の扉には、この国の王家の紋章である「双頭の獅子」が刻まれている。
周囲の兵士たちが直立不動で敬礼し、野次馬たちが道を開けている。
「……嫌な予感しかしないな」
俺はカウンターの下から缶コーヒーを一本取り出し、プルタブを引いた。
プシュッ、という音が、これから始まる面倒事を告げる合図のように響く。
一気に飲み干す。
カフェインが脳に回り、覚悟を決める手助けをしてくれる。
平和な店番生活は、どうやら遠い夢になりそうだ。
ウィーン。
自動ドアが、また誰かの重厚な足取りを感知して、音もなく開いた。
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