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第7話 因果を消去する杖、あるいはフリクションボールペン
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店内の空気が、完璧に制御された冷気によって支配されている。
外の世界では、初夏の日差しが容赦なく地表を焼き、アスファルトならぬ石畳から陽炎が立ち昇っている頃だろう。
だが、この俺の城――コンビニエンスストアの店内において、季節という概念は無意味だ。
ここでは俺がルールであり、俺が快適だと感じる温度こそが世界の基準となる。
高性能な業務エアコンが低い駆動音を立て、摂氏二十五度の聖域を維持し続けている。
俺はレジカウンターの中で、至福の時を過ごしていた。
手にあるのは、コンビニスイーツの最高峰、『金のしっとりバウムクーヘン』だ。
黄金色のパッケージを丁寧に剥がす。
その瞬間、濃厚で芳醇なバターの香りが、冷えた空気の中で爆発的に拡散した。
フランス産発酵バターを贅沢に使用した、コンビニの棚に並ぶにはあまりにも高貴すぎる円環。
その表面は、幾重にも重なる年輪のような層を描き、外側には薄く砂糖の衣(グレーズ)が纏われている。
「……美しい。これぞ工業製品の極致だ」
俺はフォークを使わず、直接その黄金の輪を手に取った。
指先に伝わる、しっとりとした感触。
重力に従ってわずかにたわむほどの柔らかさ。
一口、齧り付く。
シャリッ、という微かなグレーズの食感の直後、ふわりとした生地が舌の上で雪のように解けていく。
圧倒的な卵のコクと、バターの風味。
そして、計算し尽くされた甘みが、脳髄を直接撫で回すような快楽となって駆け巡る。
ブラック企業時代、深夜のデスクでボロボロになりながら食べた、あのパサついたパンとは次元が違う。
これはもはや、食い物というよりは、高度に精製された幸福の結晶だ。
「……主様。また、その『黄金の円環(ゴールデン・リング)』を食しておられるのですか?」
カウンターの横から、恨めしそうな声が聞こえた。
エルザだ。
彼女は店内の清掃をしていたはずだが、いつの間にかクイックルワイパーを抱えたまま、俺の手元を凝視している。
その瞳は、獲物を狙う肉食獣のように鋭く、かつ飢えに満ちていた。
口の端から、わずかに涎が垂れそうになっているのを必死に堪えているのが分かる。
「愛でてるんじゃない。商品の品質チェックだ」
「嘘をおっしゃい。主様の口元が、見たこともないほど緩んでいます。その円環から放たれる甘美な魔力……。ただの焼き菓子とは思えません。古の精霊樹の年輪を、蜜で煮込んで凝縮したような……」
彼女の妄想は相変わらず加速している。
だが、このバウムクーヘンが異世界の住人にとって衝撃的であることは間違いない。
均一な層を作る焼成技術。
雑味のない砂糖。
そして、この世界では貴重品である卵とバターを惜しげもなく使った贅沢さ。
「食うか? 糖分は脳の栄養だぞ」
俺はバウムクーヘンを一切れちぎり、彼女に差し出した。
エルザの動きが止まる。
彼女は俺の手にある黄金の欠片を、まるで神から授かる聖遺物のように見つめた。
ゴクリ、と喉を鳴らす音が店内に響く。
「……よ、よろしいのですか? 私のような、血に塗れた元暗殺者が、そのような太陽の欠片を口にしても……」
「いいから食え。賞味期限が切れるぞ」
俺が強引に彼女の口元へ押し付けると、彼女は観念したように、しかし期待に震えながら、小さな口を開けた。
ハムッ。
黄金の欠片が、彼女の口内に消える。
「……んっ!? !?!?」
瞬間、エルザの瞳孔が限界まで開いた。
彼女が持っていたクイックルワイパーが、カランと音を立てて床に落ちる。
彼女はそのまま膝から崩れ落ち、カウンターに縋り付くようにして震え始めた。
「……な、何ですか、これは……! 噛んでいないのに……消えた? いえ、舌の上で液体に変わりました……!」
彼女は口元を押さえ、信じられないという表情で虚空を見つめている。
「濃厚な……これは黄金の牛の乳の香り……。そして、太陽の光をそのまま固めたような甘み……。ああ、脳が……脳が溶けてしまいそうです……。何層にも重なった生地が、口の中で解けるたびに、幸せの記憶がフラッシュバックしてくる……!」
「ただのバウムクーヘンだ。落ち着け」
「落ち着くなど無理です! これは禁断の果実……。一度知ってしまえば、二度と粗末な黒パンには戻れない、堕落への片道切符……!」
彼女は恍惚とした表情で、指に残ったわずかな砂糖の粉まで愛おしそうに舐め取っている。
大げさな奴だ。
だが、この反応を見るのが密かな楽しみでもある。
俺が残りのバウムクーヘンを口に運ぼうとした、その時だ。
ウィーン!
自動ドアが悲鳴のような駆動音を上げて開いた。
同時に、外の熱気が暴力的に侵入してくる。
平和なティータイムの終わりを告げる乱入者。
「失礼する!! ここに『真理を記す魔筆』があると聞いて来た!!」
店内に怒号が響き渡った。
入ってきたのは、一人の老人だった。
痩せこけた体に、不釣り合いなほど豪華な金糸の刺繍が入ったローブを纏っている。
顔には深い皺が刻まれ、その奥にある瞳は、狂気的なまでの知性を宿してギラギラと輝いていた。
鼻の上には、分厚いレンズの眼鏡が乗っている。
王立研究所の紋章が入った杖を突き、彼は肩で息をしながらカウンターへと突進してきた。
その勢いは、猛獣と言うよりは、何かに憑りつかれた狂信者のようだ。
「……おい、爺さん。ドアは静かに開けろ。エアコンの効きが悪くなる」
俺は最後の一口を飲み込み、不機嫌さを隠さずに言った。
だが、老人は俺の言葉など耳に入っていない様子で、カウンターに両手をついて身を乗り出してきた。
近い。
加齢臭と、古い紙の匂い、そしてインクの鉄臭さが漂ってくる。
「とぼけるな! 街の商人たちが噂していたぞ! 貴殿が、振るえば無限に文字を紡ぎ、あろうことか『書き損じを無に帰す』という神の秘宝を持っていると!」
彼はバンバンとカウンターを叩いた。
血走った目が、俺を射抜く。
「私は王立研究所の所長、ゼノスだ! この国の魔導書、歴史書、そして魔法術式の解析を一手に担う最高学府の長だ! 我々にとって、記録とは命! 正確な記述とは魂そのものなのだ!」
ゼノスは叫び、懐から一本の羽ペンを取り出した。
先端はボロボロで、インクがこびり付いている。
「見ろ! この不便極まりない道具を! インク壺に浸し、数行書いてはまた浸す! 滲めば羊皮紙ごと廃棄! 修正液などという気休めでは、魔力回路の記述ミスは誤魔化せん! 我々の研究の半分は、書き損じとの戦いなのだ!」
切実な叫びだった。
この世界では、紙もインクも高価だ。
そして修正技術が未発達なため、一文字のミスが致命的なロスを生む。
学者が神経質になるのも分かる。
「……ああ、ボールペンのことか」
俺は溜息をつき、文具コーナーの棚からある商品を取り出した。
プラスチックの透明なボディ。
黒、赤、青の三色のノックレバーがついた、やや太めのペン。
『フリクションボール3』。
現代日本が生んだ、文房具の革命児だ。
「これだろ。一本で三色の文字が書けるやつ」
俺はペンの他に、百円の大学ノートを一冊カウンターに置いた。
ゼノスは、俺の手にあるプラスチックの棒を、まるで未知の爆発物でも見るような目で凝視している。
「……それが、筆だと? インク壺が見当たらんが……」
「内蔵されてるんだよ。中に」
俺はカチッ、と黒のノックを押し下げた。
ペン先から、小さな金属のボールが顔を出す。
その精密な機械音に、ゼノスがビクリと肩を震わせた。
「……今、音がしたな。精霊の鼓動か?」
「機構の音だ。ほら、見てろ」
俺はノートを開き、サラサラと文字を書いた。
『あいうえお』。
滑らかな書き心地。
紙に引っかかる感覚など皆無だ。
ボールが回転し、ゲルインクが均一に紙面に転写されていく。
「……なっ!?」
ゼノスが眼鏡をずり上げ、ノートに顔を近づけた。
「なんという滑らかさだ……。筆圧が……いらない? まるで氷の上を滑るように、文字が紡がれていく……。それに、この黒! 深淵の闇を切り取ったかのような、均一で濃密な黒だ! 墨汁の濃淡ムラが一切ない!」
「次は赤だ」
カチッ。
俺は赤のノックを弾いた。
ペン先が引っ込み、代わりに赤いチップが出現する。
「……色が、変わった? 詠唱もなしにか!?」
ゼノスの声が裏返った。
俺は続けて、赤い文字を書く。
「……馬鹿な。本来、赤いインクは『火竜の血』か、希少な『紅水晶』を粉末にして溶いたものでしか作れんはず……。それが、指先一つで切り替わるとは……。この細い杖の中に、色彩を司る三柱の精霊を封印しているというのか!?」
「最後は青だ」
カチッ。
青い文字が走る。
ゼノスはもはや声も出ないようで、口をパクパクとさせている。
彼は震える手でペンを奪い取るように受け取った。
そして、恐る恐るノートにペン先を走らせた。
「……素晴らしい……! なんという書き心地だ……! 手首への負担が皆無だ。これならば、三日三晩徹夜で論文を書き続けても、腱鞘炎になることはない! これは魔法だ! 『自動筆記』の魔道具をも凌駕する、究極の筆記具だ!」
彼は猛烈な勢いで、ノートに複雑な魔法陣や数式を書き殴り始めた。
インクの乾きも早い。
袖口が汚れることもない。
彼にとって、それは数百年分の技術革新を一瞬で体験するようなものだろう。
「だが、驚くのはそこじゃないぞ」
俺は彼の興奮を遮るように言った。
ゼノスが動きを止め、怪訝な顔で俺を見る。
「まだ何かあるというのか? これ以上の奇跡が?」
「書き損じを消すんだろ? 見てろ」
俺はペンを取り返し、今書いたばかりの魔法陣の一部を指した。
「ここ、間違えたとするだろ」
俺はペンの後部についている、半透明のラバー部分を紙に当てた。
そして、少し強めにこする。
ゴシゴシゴシ。
摩擦熱が発生する。
摂氏六十度を超えた瞬間、特殊なインクに含まれる成分が化学反応を起こし、色が透明化する。
「……あ?」
ゼノスの喉から、間抜けな音が漏れた。
文字が、消えた。
インクが剥がれたのではない。
滲んで消えたのでもない。
そこに書かれていたはずの線が、最初から存在しなかったかのように、透き通って見えなくなったのだ。
カラン。
ゼノスの眼鏡が、床に落ちた。
彼は裸眼で見開いた目を、ノートに限界まで近づけた。
鼻先が紙に触れるほどの距離で、消えた跡を凝視している。
「……嘘、だ……」
彼の全身が、ガタガタと震え始めた。
それは、歓喜を超えた、根源的な恐怖に近い震えだった。
「痕跡が……ない。魔力残滓も、インクの削りカスも、紙の繊維の毛羽立ちすらもない……。ただ、『書いた』という事実だけが、この世界から消失している……」
彼はゆっくりと顔を上げ、俺を見た。
その顔色は蒼白で、唇は紫色に震えている。
「店主殿……。貴殿は、何をした? これは単なる『消去』ではない。 修正液で上書きするような欺瞞でも、削り取るような破壊でもない……。これは、因果律への干渉だ」
「は? いや、熱で色が消えるインクなだけだって」
「熱だと!? 誤魔化すな! 熱で物質が消滅するものか! これは時間逆行……いや、事象の改変だ! 貴殿は、このペンの後部にある『賢者の石』で、紙の上の時間を数秒だけ巻き戻したのだ!」
ゼノスの妄想が、光の速さで暴走していく。
彼はペンのラバー部分を、世界を滅ぼしかねない危険物として凝視している。
「恐ろしい……。書かれた歴史を、無かったことにできる杖……。これを悪用すれば、国家の契約も、王の勅命も、歴史書の記述さえも、跡形もなく改竄できるということか……!」
「そんな物騒なもんじゃない。消えるだけだ。しかも冷やすと復活するぞ」
「ふ、復活するだと!? 消去された過去を、再び現世に呼び戻すことも可能だと!? ……神だ。貴殿は、時と知恵を司る神の化身に違いない……!」
ゼノスはその場に平伏した。
床に額を打ち付け、ペンを両手で高く掲げ、捧げ持つポーズをとる。
コンビニの床で老人が土下座をする光景はシュール極まりないが、エルザが「当然です」と言わんばかりに頷いているのが頭痛の種だ。
「店主殿……いや、大賢者様! この神具、いくらだ!? 我が研究所の年間予算、金貨五千枚を全て差し出しても足りぬかもしれんが、それでも欲しい! これ一本あれば、我々の研究速度は神域に達する!」
「五百円だ。金貨一枚でお釣りが出る」
「……ご、五百円……?」
ゼノスが硬直した。
あまりの安さに、言葉の意味を理解できていないようだ。
「金貨一枚の数千分の一……? 路傍の石ころよりも安いではないか……。 なぜだ? なぜ、このような、国を買えるほどの価値ある宝具を、タダ同然で……?」
「文房具だからな。消耗品だ。インクが切れたらまた買いに来い。芯だけ売ってやる」
「芯……? まだ『替えの魂』まであるというのか……!」
ゼノスは涙を流し始めた。
彼は震える手で懐から金貨袋を取り出し、カウンターに叩きつけた。
ジャラッ、と重い音がする。
「受け取ってくれ! これが私の精一杯の誠意だ! お釣りなどいらぬ! この慈悲、王国の学術史に永遠に刻み込むと誓おう!」
彼は金貨の山を残し、ペンとノートを胸に抱いて、脱兎のごとく店を飛び出していった。
その背中は、まるで初恋を知った少年のように弾んでいた。
外から、彼の絶叫が聞こえてくる。
「見たかァァァ!! 私はついに手に入れたぞ!! 神の領域に触れる鍵を!! これで世界の真理を解き明かせる!! うおおおおおッ!!」
近所迷惑にも程がある。
俺はレジに残された金貨を回収し、ドロワーに放り込んだ。
たった一本のボールペンで、ここまで騒がれるとは。
「……主様」
エルザが、静かな声で俺を呼んだ。
彼女は、ゼノスが去っていった方向を、戦慄した表情で見つめている。
「あの方の言っていたこと……あながち間違いではありませんね。あのペンは、運命の記述すら書き換える力を持っているのでしょう? 主様は、それを人類に与えて、歴史がどう変わるのかを観察しておられる……」
「違う。温度変化で透明になる化学反応だ。理科の実験レベルの話だ」
「またそうやって煙に巻く……。ですが、私には分かります。主様の手のひらの上で、この世界の理(ことわり)が音を立てて書き換わっているのが」
エルザは深く頷き、再び掃除に戻っていった。
彼女の中で、俺の評価が「時空の支配者」あたりにランクアップしたようだ。
訂正するのはもう諦めた。
俺はスマホを取り出し、中断していたゲームの画面をタップした。
外ではまだ、ゼノスが通りすがりの人々にペンの奇跡を説いて回っている声が聞こえる。
うるさい。
俺はポケットからノイズキャンセリング機能付きのイヤホンを取り出した。
耳に押し込むと、世界から音が消えた。
そこに残るのは、俺と、ゲームと、快適なエアコンの風だけ。
俺は画面の中の敵キャラクターを指先でタップし、コンボを繋げ始めた。
外の世界では、初夏の日差しが容赦なく地表を焼き、アスファルトならぬ石畳から陽炎が立ち昇っている頃だろう。
だが、この俺の城――コンビニエンスストアの店内において、季節という概念は無意味だ。
ここでは俺がルールであり、俺が快適だと感じる温度こそが世界の基準となる。
高性能な業務エアコンが低い駆動音を立て、摂氏二十五度の聖域を維持し続けている。
俺はレジカウンターの中で、至福の時を過ごしていた。
手にあるのは、コンビニスイーツの最高峰、『金のしっとりバウムクーヘン』だ。
黄金色のパッケージを丁寧に剥がす。
その瞬間、濃厚で芳醇なバターの香りが、冷えた空気の中で爆発的に拡散した。
フランス産発酵バターを贅沢に使用した、コンビニの棚に並ぶにはあまりにも高貴すぎる円環。
その表面は、幾重にも重なる年輪のような層を描き、外側には薄く砂糖の衣(グレーズ)が纏われている。
「……美しい。これぞ工業製品の極致だ」
俺はフォークを使わず、直接その黄金の輪を手に取った。
指先に伝わる、しっとりとした感触。
重力に従ってわずかにたわむほどの柔らかさ。
一口、齧り付く。
シャリッ、という微かなグレーズの食感の直後、ふわりとした生地が舌の上で雪のように解けていく。
圧倒的な卵のコクと、バターの風味。
そして、計算し尽くされた甘みが、脳髄を直接撫で回すような快楽となって駆け巡る。
ブラック企業時代、深夜のデスクでボロボロになりながら食べた、あのパサついたパンとは次元が違う。
これはもはや、食い物というよりは、高度に精製された幸福の結晶だ。
「……主様。また、その『黄金の円環(ゴールデン・リング)』を食しておられるのですか?」
カウンターの横から、恨めしそうな声が聞こえた。
エルザだ。
彼女は店内の清掃をしていたはずだが、いつの間にかクイックルワイパーを抱えたまま、俺の手元を凝視している。
その瞳は、獲物を狙う肉食獣のように鋭く、かつ飢えに満ちていた。
口の端から、わずかに涎が垂れそうになっているのを必死に堪えているのが分かる。
「愛でてるんじゃない。商品の品質チェックだ」
「嘘をおっしゃい。主様の口元が、見たこともないほど緩んでいます。その円環から放たれる甘美な魔力……。ただの焼き菓子とは思えません。古の精霊樹の年輪を、蜜で煮込んで凝縮したような……」
彼女の妄想は相変わらず加速している。
だが、このバウムクーヘンが異世界の住人にとって衝撃的であることは間違いない。
均一な層を作る焼成技術。
雑味のない砂糖。
そして、この世界では貴重品である卵とバターを惜しげもなく使った贅沢さ。
「食うか? 糖分は脳の栄養だぞ」
俺はバウムクーヘンを一切れちぎり、彼女に差し出した。
エルザの動きが止まる。
彼女は俺の手にある黄金の欠片を、まるで神から授かる聖遺物のように見つめた。
ゴクリ、と喉を鳴らす音が店内に響く。
「……よ、よろしいのですか? 私のような、血に塗れた元暗殺者が、そのような太陽の欠片を口にしても……」
「いいから食え。賞味期限が切れるぞ」
俺が強引に彼女の口元へ押し付けると、彼女は観念したように、しかし期待に震えながら、小さな口を開けた。
ハムッ。
黄金の欠片が、彼女の口内に消える。
「……んっ!? !?!?」
瞬間、エルザの瞳孔が限界まで開いた。
彼女が持っていたクイックルワイパーが、カランと音を立てて床に落ちる。
彼女はそのまま膝から崩れ落ち、カウンターに縋り付くようにして震え始めた。
「……な、何ですか、これは……! 噛んでいないのに……消えた? いえ、舌の上で液体に変わりました……!」
彼女は口元を押さえ、信じられないという表情で虚空を見つめている。
「濃厚な……これは黄金の牛の乳の香り……。そして、太陽の光をそのまま固めたような甘み……。ああ、脳が……脳が溶けてしまいそうです……。何層にも重なった生地が、口の中で解けるたびに、幸せの記憶がフラッシュバックしてくる……!」
「ただのバウムクーヘンだ。落ち着け」
「落ち着くなど無理です! これは禁断の果実……。一度知ってしまえば、二度と粗末な黒パンには戻れない、堕落への片道切符……!」
彼女は恍惚とした表情で、指に残ったわずかな砂糖の粉まで愛おしそうに舐め取っている。
大げさな奴だ。
だが、この反応を見るのが密かな楽しみでもある。
俺が残りのバウムクーヘンを口に運ぼうとした、その時だ。
ウィーン!
自動ドアが悲鳴のような駆動音を上げて開いた。
同時に、外の熱気が暴力的に侵入してくる。
平和なティータイムの終わりを告げる乱入者。
「失礼する!! ここに『真理を記す魔筆』があると聞いて来た!!」
店内に怒号が響き渡った。
入ってきたのは、一人の老人だった。
痩せこけた体に、不釣り合いなほど豪華な金糸の刺繍が入ったローブを纏っている。
顔には深い皺が刻まれ、その奥にある瞳は、狂気的なまでの知性を宿してギラギラと輝いていた。
鼻の上には、分厚いレンズの眼鏡が乗っている。
王立研究所の紋章が入った杖を突き、彼は肩で息をしながらカウンターへと突進してきた。
その勢いは、猛獣と言うよりは、何かに憑りつかれた狂信者のようだ。
「……おい、爺さん。ドアは静かに開けろ。エアコンの効きが悪くなる」
俺は最後の一口を飲み込み、不機嫌さを隠さずに言った。
だが、老人は俺の言葉など耳に入っていない様子で、カウンターに両手をついて身を乗り出してきた。
近い。
加齢臭と、古い紙の匂い、そしてインクの鉄臭さが漂ってくる。
「とぼけるな! 街の商人たちが噂していたぞ! 貴殿が、振るえば無限に文字を紡ぎ、あろうことか『書き損じを無に帰す』という神の秘宝を持っていると!」
彼はバンバンとカウンターを叩いた。
血走った目が、俺を射抜く。
「私は王立研究所の所長、ゼノスだ! この国の魔導書、歴史書、そして魔法術式の解析を一手に担う最高学府の長だ! 我々にとって、記録とは命! 正確な記述とは魂そのものなのだ!」
ゼノスは叫び、懐から一本の羽ペンを取り出した。
先端はボロボロで、インクがこびり付いている。
「見ろ! この不便極まりない道具を! インク壺に浸し、数行書いてはまた浸す! 滲めば羊皮紙ごと廃棄! 修正液などという気休めでは、魔力回路の記述ミスは誤魔化せん! 我々の研究の半分は、書き損じとの戦いなのだ!」
切実な叫びだった。
この世界では、紙もインクも高価だ。
そして修正技術が未発達なため、一文字のミスが致命的なロスを生む。
学者が神経質になるのも分かる。
「……ああ、ボールペンのことか」
俺は溜息をつき、文具コーナーの棚からある商品を取り出した。
プラスチックの透明なボディ。
黒、赤、青の三色のノックレバーがついた、やや太めのペン。
『フリクションボール3』。
現代日本が生んだ、文房具の革命児だ。
「これだろ。一本で三色の文字が書けるやつ」
俺はペンの他に、百円の大学ノートを一冊カウンターに置いた。
ゼノスは、俺の手にあるプラスチックの棒を、まるで未知の爆発物でも見るような目で凝視している。
「……それが、筆だと? インク壺が見当たらんが……」
「内蔵されてるんだよ。中に」
俺はカチッ、と黒のノックを押し下げた。
ペン先から、小さな金属のボールが顔を出す。
その精密な機械音に、ゼノスがビクリと肩を震わせた。
「……今、音がしたな。精霊の鼓動か?」
「機構の音だ。ほら、見てろ」
俺はノートを開き、サラサラと文字を書いた。
『あいうえお』。
滑らかな書き心地。
紙に引っかかる感覚など皆無だ。
ボールが回転し、ゲルインクが均一に紙面に転写されていく。
「……なっ!?」
ゼノスが眼鏡をずり上げ、ノートに顔を近づけた。
「なんという滑らかさだ……。筆圧が……いらない? まるで氷の上を滑るように、文字が紡がれていく……。それに、この黒! 深淵の闇を切り取ったかのような、均一で濃密な黒だ! 墨汁の濃淡ムラが一切ない!」
「次は赤だ」
カチッ。
俺は赤のノックを弾いた。
ペン先が引っ込み、代わりに赤いチップが出現する。
「……色が、変わった? 詠唱もなしにか!?」
ゼノスの声が裏返った。
俺は続けて、赤い文字を書く。
「……馬鹿な。本来、赤いインクは『火竜の血』か、希少な『紅水晶』を粉末にして溶いたものでしか作れんはず……。それが、指先一つで切り替わるとは……。この細い杖の中に、色彩を司る三柱の精霊を封印しているというのか!?」
「最後は青だ」
カチッ。
青い文字が走る。
ゼノスはもはや声も出ないようで、口をパクパクとさせている。
彼は震える手でペンを奪い取るように受け取った。
そして、恐る恐るノートにペン先を走らせた。
「……素晴らしい……! なんという書き心地だ……! 手首への負担が皆無だ。これならば、三日三晩徹夜で論文を書き続けても、腱鞘炎になることはない! これは魔法だ! 『自動筆記』の魔道具をも凌駕する、究極の筆記具だ!」
彼は猛烈な勢いで、ノートに複雑な魔法陣や数式を書き殴り始めた。
インクの乾きも早い。
袖口が汚れることもない。
彼にとって、それは数百年分の技術革新を一瞬で体験するようなものだろう。
「だが、驚くのはそこじゃないぞ」
俺は彼の興奮を遮るように言った。
ゼノスが動きを止め、怪訝な顔で俺を見る。
「まだ何かあるというのか? これ以上の奇跡が?」
「書き損じを消すんだろ? 見てろ」
俺はペンを取り返し、今書いたばかりの魔法陣の一部を指した。
「ここ、間違えたとするだろ」
俺はペンの後部についている、半透明のラバー部分を紙に当てた。
そして、少し強めにこする。
ゴシゴシゴシ。
摩擦熱が発生する。
摂氏六十度を超えた瞬間、特殊なインクに含まれる成分が化学反応を起こし、色が透明化する。
「……あ?」
ゼノスの喉から、間抜けな音が漏れた。
文字が、消えた。
インクが剥がれたのではない。
滲んで消えたのでもない。
そこに書かれていたはずの線が、最初から存在しなかったかのように、透き通って見えなくなったのだ。
カラン。
ゼノスの眼鏡が、床に落ちた。
彼は裸眼で見開いた目を、ノートに限界まで近づけた。
鼻先が紙に触れるほどの距離で、消えた跡を凝視している。
「……嘘、だ……」
彼の全身が、ガタガタと震え始めた。
それは、歓喜を超えた、根源的な恐怖に近い震えだった。
「痕跡が……ない。魔力残滓も、インクの削りカスも、紙の繊維の毛羽立ちすらもない……。ただ、『書いた』という事実だけが、この世界から消失している……」
彼はゆっくりと顔を上げ、俺を見た。
その顔色は蒼白で、唇は紫色に震えている。
「店主殿……。貴殿は、何をした? これは単なる『消去』ではない。 修正液で上書きするような欺瞞でも、削り取るような破壊でもない……。これは、因果律への干渉だ」
「は? いや、熱で色が消えるインクなだけだって」
「熱だと!? 誤魔化すな! 熱で物質が消滅するものか! これは時間逆行……いや、事象の改変だ! 貴殿は、このペンの後部にある『賢者の石』で、紙の上の時間を数秒だけ巻き戻したのだ!」
ゼノスの妄想が、光の速さで暴走していく。
彼はペンのラバー部分を、世界を滅ぼしかねない危険物として凝視している。
「恐ろしい……。書かれた歴史を、無かったことにできる杖……。これを悪用すれば、国家の契約も、王の勅命も、歴史書の記述さえも、跡形もなく改竄できるということか……!」
「そんな物騒なもんじゃない。消えるだけだ。しかも冷やすと復活するぞ」
「ふ、復活するだと!? 消去された過去を、再び現世に呼び戻すことも可能だと!? ……神だ。貴殿は、時と知恵を司る神の化身に違いない……!」
ゼノスはその場に平伏した。
床に額を打ち付け、ペンを両手で高く掲げ、捧げ持つポーズをとる。
コンビニの床で老人が土下座をする光景はシュール極まりないが、エルザが「当然です」と言わんばかりに頷いているのが頭痛の種だ。
「店主殿……いや、大賢者様! この神具、いくらだ!? 我が研究所の年間予算、金貨五千枚を全て差し出しても足りぬかもしれんが、それでも欲しい! これ一本あれば、我々の研究速度は神域に達する!」
「五百円だ。金貨一枚でお釣りが出る」
「……ご、五百円……?」
ゼノスが硬直した。
あまりの安さに、言葉の意味を理解できていないようだ。
「金貨一枚の数千分の一……? 路傍の石ころよりも安いではないか……。 なぜだ? なぜ、このような、国を買えるほどの価値ある宝具を、タダ同然で……?」
「文房具だからな。消耗品だ。インクが切れたらまた買いに来い。芯だけ売ってやる」
「芯……? まだ『替えの魂』まであるというのか……!」
ゼノスは涙を流し始めた。
彼は震える手で懐から金貨袋を取り出し、カウンターに叩きつけた。
ジャラッ、と重い音がする。
「受け取ってくれ! これが私の精一杯の誠意だ! お釣りなどいらぬ! この慈悲、王国の学術史に永遠に刻み込むと誓おう!」
彼は金貨の山を残し、ペンとノートを胸に抱いて、脱兎のごとく店を飛び出していった。
その背中は、まるで初恋を知った少年のように弾んでいた。
外から、彼の絶叫が聞こえてくる。
「見たかァァァ!! 私はついに手に入れたぞ!! 神の領域に触れる鍵を!! これで世界の真理を解き明かせる!! うおおおおおッ!!」
近所迷惑にも程がある。
俺はレジに残された金貨を回収し、ドロワーに放り込んだ。
たった一本のボールペンで、ここまで騒がれるとは。
「……主様」
エルザが、静かな声で俺を呼んだ。
彼女は、ゼノスが去っていった方向を、戦慄した表情で見つめている。
「あの方の言っていたこと……あながち間違いではありませんね。あのペンは、運命の記述すら書き換える力を持っているのでしょう? 主様は、それを人類に与えて、歴史がどう変わるのかを観察しておられる……」
「違う。温度変化で透明になる化学反応だ。理科の実験レベルの話だ」
「またそうやって煙に巻く……。ですが、私には分かります。主様の手のひらの上で、この世界の理(ことわり)が音を立てて書き換わっているのが」
エルザは深く頷き、再び掃除に戻っていった。
彼女の中で、俺の評価が「時空の支配者」あたりにランクアップしたようだ。
訂正するのはもう諦めた。
俺はスマホを取り出し、中断していたゲームの画面をタップした。
外ではまだ、ゼノスが通りすがりの人々にペンの奇跡を説いて回っている声が聞こえる。
うるさい。
俺はポケットからノイズキャンセリング機能付きのイヤホンを取り出した。
耳に押し込むと、世界から音が消えた。
そこに残るのは、俺と、ゲームと、快適なエアコンの風だけ。
俺は画面の中の敵キャラクターを指先でタップし、コンボを繋げ始めた。
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