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第59話 音速の貴賓室と数ヶ月の蟄居
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王都アウレリアの並木道が、鮮やかな新緑から深い緑へ、そして今は燃えるような紅葉へとその色を変えていた。
あの起工式で私が金のスコップを大地に突き立ててから、数ヶ月の月日が流れた。
その間、私は何をしていたか。優雅にティータイムを楽しんでいたわけではない。むしろ、その逆だ。
私は屋敷の執務室に籠もり、文字通り書類の海に溺れていた。
鉄道建設という国家規模のプロジェクトは、想像を絶するトラブルの連続だったからだ。
トンネル工事中に湧き出た地下水脈の処理、資材高騰を見越した先物取引によるコストカット、反対派貴族による執拗な嫌がらせへの法的・経済的報復。それらを一つ一つ、冷徹な計算とゼロ兄様の裏工作で潰していく日々。
息抜きといえば、鉄道が開通した際に提供する「車内食」の試作を繰り返すことくらいだった。冷めても美味しいご飯の炊き方、揺れる車内でもこぼれないソースの粘度調整。それらの研究だけが、私の荒んだ心を癒やす唯一の救いだった。
そして今日。
ついに、その蟄居生活が終わる。
「リリア様。お車の用意が整いました。……いよいよ、ですね」
セバスチャンが、感極まったような声で告げた。
私は鏡の前で、アークライト商会の正装である濃紺のドレスを整え、深く息を吐いた。
「ええ。長かったわ。でも、数字は嘘をつかない。計算通りの工期で、計算通りの鉄の道が完成したわ」
私はフェンとノクスを従え、屋敷を出た。
向かうは王都の東門付近。かつてはただの荒れ地だったその場所は今、巨大な鉄とガラスの神殿――「王都中央駅」へと変貌を遂げていた。
駅舎の構内は、朝早くから選ばれた招待客たちが詰めかけ、異様な熱気に包まれている。
彼らの視線が注がれる先、真新しいプラットホームには、黒曜石のように輝く巨大な鉄の塊が鎮座していた。
アークライト鉄道、記念すべき第一号魔導列車『アークライト・ゼロ』だ。
その流線型のフォルムは、風を切り裂く刃のようであり、同時に見る者を圧倒する王者の風格を漂わせている。車体の側面には、金色の塗料でアークライト家の紋章である「天秤と双龍」が誇らしげに描かれていた。
「リリア様! 最終点検、完了いたしました! 魔導エンジンの出力係数は安定、魔力充填率は百二十パーセント。いつでも発車可能です!」
煤と油の匂いを漂わせながら、技師長のガラムが私の前に跪いた。
数ヶ月前、起工式の日に見せた疲労の色は消え、今は成し遂げた男の自信に満ちた顔をしている。
「ご苦労様、ガラム。あなたの班が不眠不休で山を切り拓いてくれたおかげよ。ボーナスは弾んでおいたわ」
「ははっ! 一生ついていきます!」
私は扇をパチリと閉じて微笑んだ。
完璧な工程管理と、潤沢な資金投入、そして私の的確な技術指導。これらが噛み合えば、一年かかると言われた難工事も数ヶ月で終わる。時は金なり。私の辞書に「遅延」という文字は存在しない。
「それにしても、リリア。本当にこれが動くのかい? 城壁よりも巨大に見える鉄の塊だぞ」
隣に立つアーノルド殿下が、信じられないものを見る目で列車を見上げていた。
今日の彼は王族としての正装に身を包んでいるが、その表情は珍しい玩具を与えられた子供のように無防備だ。馬車しか知らない彼らにとって、蒸気機関と魔法を融合させたこのテクノロジーは理解の範疇を超えている。
「殿下。数字は嘘をつきませんわ。質量、推力、摩擦係数、全ての計算は完璧です。あなたはただ、私が用意した特等席で、流れる景色と美酒に酔いしれていればよろしいのです」
私は不敵に言い放ち、殿下をエスコートしてタラップを上がった。
足元では、フェンとノクスが興奮した様子で駆け回っている。
「わんっ! おおきいです! つよいにおいがします!」
「にゃあ。鉄の匂いね。でも、どこか誇らしい匂いだわ」
二匹も、この鉄の怪物が私の新たな力であることを本能で理解しているようだ。
車内に足を踏み入れた瞬間、招待客たちから感嘆のため息が漏れた。
そこは、鉄の箱の中とは思えないほど洗練された空間だった。
床には深紅の最高級絨毯が敷き詰められ、壁は磨き上げられたマホガニー材で覆われている。座席は、長時間座っても疲れないよう、スライムの素材を加工した特殊なクッションを内蔵した革張りソファだ。天井からは魔石を光源としたシャンデリアが下がり、柔らかな光を投げかけている。
「……これは、王宮の貴賓室よりも豪華ではないか」
殿下が、ソファの肌触りを確かめるように撫でながら呟いた。
周囲の貴族たちも、目を丸くして車内を見回している。
「揺れる馬車とは大違いだ」
「まるで、動くサロンですな」
彼らの驚きは計算通りだ。移動そのものを「苦痛」から「極上のエンターテインメント」へと昇華させる。それが、私の狙いなのだから。
「皆様、お席にお着きください。これより、歴史的な処女航海が始まります」
私が合図を送ると、セバスチャンが恭しく一礼し、各車両への伝達魔道具を作動させた。
「総員、配置につけ。発車準備!」
ガラムの声が響き渡る。
次の瞬間。
ポォォォォォォォォォォォォッ!!
腹の底に響くような、重厚で、しかし澄み渡った汽笛の音が王都の空を切り裂いた。
それは、新しい時代の幕開けを告げる産声だ。
ドクン、と巨体が震え、魔導エンジンが唸りを上げる。圧縮された魔力がピストンを押し出し、鋼鉄の車輪がレールを噛んだ。
ゆっくりと、しかし圧倒的な力強さで、景色が後ろへと流れ始める。
ホームで見送る人々が、あっという間に小さくなっていく。速度は加速度的に増していき、やがて窓の外の風景は、緑色の流線へと変わった。
「は、速い……! なんだこの速度は!?」
「馬が全力疾走しても、これほど速くはないぞ!」
「しかも、ほとんど揺れないではないか!」
貴族たちが、窓に張り付いて叫び声を上げている。
彼らの常識が、音を立てて崩れ去っていく音が聞こえるようだ。時速八十キロ。前世の特急列車には及ばないが、この世界では神の領域に近い速度だ。魔導サスペンションによる振動制御も完璧に機能している。グラスに注がれた水面が、わずかに揺れる程度だ。
「どうかしら、殿下。これが、私の作った『文明の速度』ですわ」
私はワイングラスを傾け、優雅に微笑んだ。殿下は、流れる景色から目を離せずにいる。
「……恐ろしいな。この速度があれば、軍隊を一日で国境まで送ることができる。情報の伝達も、物流も、全てが劇的に変わる。リリア、君はまた、この国の形を変えてしまったな」
「あら、軍事利用など二の次ですわ。私の目的は、もっと崇高なものですもの」
「崇高な目的?」
「ええ。……セバスチャン、例のものを」
私が指を鳴らすと、控えていたセバスチャンとメイドたちが、手際よくワゴンを運んできた。
そこには、木製の美しい小箱がいくつも積まれている。
私が数ヶ月間、執務室での激務の合間に研究を重ねた結晶だ。
芳醇な香りが、車内に漂い始めた。醤油の焦げる香ばしい匂い、炊き立ての米の甘い香り、そして出汁の深い香り。それらが混然一体となり、貴族たちの鼻腔を暴力的に刺激する。
「これは……食事か?」
「はい。鉄道旅行の醍醐味、それは移動しながら楽しむ美食……名付けて『駅弁』ですわ」
私は、殿下の前のテーブルに小箱を置いた。
蓋を開けた瞬間、黄金色の湯気が立ち上る。
中には、艶やかな白米の上に、飴色に輝く牛肉の照り焼きが敷き詰められていた。脇には、彩り豊かな季節の野菜の煮物と、半熟の味玉が添えられている。使用しているのは、もちろんシオン王国から輸入した最高級の醤油と米、そしてアークライト領の牧場で育てたブランド牛だ。
「シオン王国の食材を使った、牛肉弁当……!」
殿下が、喉を鳴らした。貴族たちも、上品ぶるのを忘れて身を乗り出している。
「さあ、召し上がれ。冷めないうちに」
私が促すと、殿下はフォーク……ではなく、練習中の箸を手に取り、牛肉とご飯を一緒に口へと運んだ。
「……美味いッ!!」
王族らしからぬ、素直な感嘆の声。
「肉の脂の甘みと、醤油のコクが、口の中で溶け合っている! 冷めても美味しいように、あえて濃いめの味付けにしているのか? いや、それだけではない。この米だ! 一粒一粒が立っていて、噛むほどに甘みが増してくる!」
「さすが殿下、お目が高い。ご飯は、魔導釜で高圧をかけて炊き上げましたの。揺れる車内で食べることを計算して、少し硬めに仕上げてあります」
私も自分の分を一口食べる。
甘辛いタレが染み込んだご飯の、なんと罪深い味だろうか。窓の外を流れる美しい田園風景を眺めながら、極上の弁当を食す。これぞ、旅情。これぞ、人生。
前世の満員電車で味わった殺伐とした移動とは、雲泥の差だ。
「わんっ! おにく、最高です!」
「にゃあ。この味玉、絶妙な半熟加減ね」
私の隣では、フェンとノクスも専用の器で駅弁を堪能している。彼らの幸せそうな顔を見ているだけで、この数ヶ月の苦労が報われたというものだ。
食後の余韻に浸りながら、私は殿下に新しい地図を広げてみせた。線路沿いに広がる、未開の荒野や森林地帯が記された地図だ。
「殿下。この鉄道の沿線にある土地、全てアークライト商会が開発権を頂きます。ここに大規模な食品加工工場と、物流倉庫を建設します」
「君は……国の中に、もう一つ国を作るつもりか。恐ろしい子供だ」
「あら、人聞きの悪い。私はただ、効率よくお金を回したいだけですわ」
列車は、順調に速度を維持したまま、目的地のシルダへと近づいていた。
かつては馬車で数日かかった道のりを、わずか半日で走破しようとしている。
窓の外には、かつて内乱で荒れ果てていた街が、復興の槌音と共に活気を取り戻している様子が見えてくる。
蒸気の排出音と共に、アークライト・ゼロはシルダ駅の真新しいホームに滑り込み、静かに停止した。
寸分の狂いもない、定刻通りの到着だ。
扉が開くと、割れんばかりの歓声が私たちを出迎えた。
「リリア殿! ようこそ、シルダへ!」
ホームの中心に、見覚えのある青白い顔をした青年が立っている。
ガルディナ帝国の、フランツ皇子だ。
彼は、近づいてくる巨大な列車を見て、子供のように目を輝かせていた。彼にとっても、この鉄道は帝国復興の鍵となる重要なライフラインだ。王国から食料や物資が安定して届けば、彼の地位は盤石なものとなる。
「ごきげんよう、フランツ殿下。約束通り、鉄の道で参りましたわ。これで、王国と帝国の距離は、半日になりました」
「素晴らしい……! これほどの技術を、これほどの短期間で実用化するとは! やはり貴女は、私が選んだ最高のパートナーだ!」
式典の喧騒を適当にこなし、私は駅構内に新設させたカフェテラスへと足を運んだ。
私の「駅ナカビジネス」の第一号店だ。
「リリア様、お疲れ様でした。こちら、当店自慢の『シルダ・ベリー・パルフェ』でございます」
店員が運んできたのは、シルダ特産の甘酸っぱいベリーをふんだんに使った、高さ三十センチはあろうかという巨大パルフェだった。
「んんっ……美味しい! この酸味が、数ヶ月のデスクワークで疲れた頭をシャキッとさせてくれるわ」
私は夢中でスプーンを動かした。
窓の外では、鉄道から次々と荷物が降ろされ、代わりに帝国の特産品が積み込まれていく。人と物が、血管を流れる血液のように循環している。その中心に、私がいる。
「さて。東西の大動脈は完成したわ」
私は、最後の一口を飲み込み、ナプキンで口元を拭った。私の視線は、すでに次の地図へと向けられている。
南。
「フェン、ノクス。次は南の港町、ポルトゥスまで線路を伸ばしましょう。そこには、獲れたての新鮮な魚介類が待っているわ」
「おさかな! まぐろ! たべたいです!」
「お刺身ね。楽しみだわ」
二匹の相棒が、目を輝かせて同意した。
南の海には、まだ見ぬ美食と、そして莫大なビジネスチャンスが眠っている。塩、海産物、そして海外貿易。私の野望は、陸を越え、海へと広がっていくのだ。
あの起工式で私が金のスコップを大地に突き立ててから、数ヶ月の月日が流れた。
その間、私は何をしていたか。優雅にティータイムを楽しんでいたわけではない。むしろ、その逆だ。
私は屋敷の執務室に籠もり、文字通り書類の海に溺れていた。
鉄道建設という国家規模のプロジェクトは、想像を絶するトラブルの連続だったからだ。
トンネル工事中に湧き出た地下水脈の処理、資材高騰を見越した先物取引によるコストカット、反対派貴族による執拗な嫌がらせへの法的・経済的報復。それらを一つ一つ、冷徹な計算とゼロ兄様の裏工作で潰していく日々。
息抜きといえば、鉄道が開通した際に提供する「車内食」の試作を繰り返すことくらいだった。冷めても美味しいご飯の炊き方、揺れる車内でもこぼれないソースの粘度調整。それらの研究だけが、私の荒んだ心を癒やす唯一の救いだった。
そして今日。
ついに、その蟄居生活が終わる。
「リリア様。お車の用意が整いました。……いよいよ、ですね」
セバスチャンが、感極まったような声で告げた。
私は鏡の前で、アークライト商会の正装である濃紺のドレスを整え、深く息を吐いた。
「ええ。長かったわ。でも、数字は嘘をつかない。計算通りの工期で、計算通りの鉄の道が完成したわ」
私はフェンとノクスを従え、屋敷を出た。
向かうは王都の東門付近。かつてはただの荒れ地だったその場所は今、巨大な鉄とガラスの神殿――「王都中央駅」へと変貌を遂げていた。
駅舎の構内は、朝早くから選ばれた招待客たちが詰めかけ、異様な熱気に包まれている。
彼らの視線が注がれる先、真新しいプラットホームには、黒曜石のように輝く巨大な鉄の塊が鎮座していた。
アークライト鉄道、記念すべき第一号魔導列車『アークライト・ゼロ』だ。
その流線型のフォルムは、風を切り裂く刃のようであり、同時に見る者を圧倒する王者の風格を漂わせている。車体の側面には、金色の塗料でアークライト家の紋章である「天秤と双龍」が誇らしげに描かれていた。
「リリア様! 最終点検、完了いたしました! 魔導エンジンの出力係数は安定、魔力充填率は百二十パーセント。いつでも発車可能です!」
煤と油の匂いを漂わせながら、技師長のガラムが私の前に跪いた。
数ヶ月前、起工式の日に見せた疲労の色は消え、今は成し遂げた男の自信に満ちた顔をしている。
「ご苦労様、ガラム。あなたの班が不眠不休で山を切り拓いてくれたおかげよ。ボーナスは弾んでおいたわ」
「ははっ! 一生ついていきます!」
私は扇をパチリと閉じて微笑んだ。
完璧な工程管理と、潤沢な資金投入、そして私の的確な技術指導。これらが噛み合えば、一年かかると言われた難工事も数ヶ月で終わる。時は金なり。私の辞書に「遅延」という文字は存在しない。
「それにしても、リリア。本当にこれが動くのかい? 城壁よりも巨大に見える鉄の塊だぞ」
隣に立つアーノルド殿下が、信じられないものを見る目で列車を見上げていた。
今日の彼は王族としての正装に身を包んでいるが、その表情は珍しい玩具を与えられた子供のように無防備だ。馬車しか知らない彼らにとって、蒸気機関と魔法を融合させたこのテクノロジーは理解の範疇を超えている。
「殿下。数字は嘘をつきませんわ。質量、推力、摩擦係数、全ての計算は完璧です。あなたはただ、私が用意した特等席で、流れる景色と美酒に酔いしれていればよろしいのです」
私は不敵に言い放ち、殿下をエスコートしてタラップを上がった。
足元では、フェンとノクスが興奮した様子で駆け回っている。
「わんっ! おおきいです! つよいにおいがします!」
「にゃあ。鉄の匂いね。でも、どこか誇らしい匂いだわ」
二匹も、この鉄の怪物が私の新たな力であることを本能で理解しているようだ。
車内に足を踏み入れた瞬間、招待客たちから感嘆のため息が漏れた。
そこは、鉄の箱の中とは思えないほど洗練された空間だった。
床には深紅の最高級絨毯が敷き詰められ、壁は磨き上げられたマホガニー材で覆われている。座席は、長時間座っても疲れないよう、スライムの素材を加工した特殊なクッションを内蔵した革張りソファだ。天井からは魔石を光源としたシャンデリアが下がり、柔らかな光を投げかけている。
「……これは、王宮の貴賓室よりも豪華ではないか」
殿下が、ソファの肌触りを確かめるように撫でながら呟いた。
周囲の貴族たちも、目を丸くして車内を見回している。
「揺れる馬車とは大違いだ」
「まるで、動くサロンですな」
彼らの驚きは計算通りだ。移動そのものを「苦痛」から「極上のエンターテインメント」へと昇華させる。それが、私の狙いなのだから。
「皆様、お席にお着きください。これより、歴史的な処女航海が始まります」
私が合図を送ると、セバスチャンが恭しく一礼し、各車両への伝達魔道具を作動させた。
「総員、配置につけ。発車準備!」
ガラムの声が響き渡る。
次の瞬間。
ポォォォォォォォォォォォォッ!!
腹の底に響くような、重厚で、しかし澄み渡った汽笛の音が王都の空を切り裂いた。
それは、新しい時代の幕開けを告げる産声だ。
ドクン、と巨体が震え、魔導エンジンが唸りを上げる。圧縮された魔力がピストンを押し出し、鋼鉄の車輪がレールを噛んだ。
ゆっくりと、しかし圧倒的な力強さで、景色が後ろへと流れ始める。
ホームで見送る人々が、あっという間に小さくなっていく。速度は加速度的に増していき、やがて窓の外の風景は、緑色の流線へと変わった。
「は、速い……! なんだこの速度は!?」
「馬が全力疾走しても、これほど速くはないぞ!」
「しかも、ほとんど揺れないではないか!」
貴族たちが、窓に張り付いて叫び声を上げている。
彼らの常識が、音を立てて崩れ去っていく音が聞こえるようだ。時速八十キロ。前世の特急列車には及ばないが、この世界では神の領域に近い速度だ。魔導サスペンションによる振動制御も完璧に機能している。グラスに注がれた水面が、わずかに揺れる程度だ。
「どうかしら、殿下。これが、私の作った『文明の速度』ですわ」
私はワイングラスを傾け、優雅に微笑んだ。殿下は、流れる景色から目を離せずにいる。
「……恐ろしいな。この速度があれば、軍隊を一日で国境まで送ることができる。情報の伝達も、物流も、全てが劇的に変わる。リリア、君はまた、この国の形を変えてしまったな」
「あら、軍事利用など二の次ですわ。私の目的は、もっと崇高なものですもの」
「崇高な目的?」
「ええ。……セバスチャン、例のものを」
私が指を鳴らすと、控えていたセバスチャンとメイドたちが、手際よくワゴンを運んできた。
そこには、木製の美しい小箱がいくつも積まれている。
私が数ヶ月間、執務室での激務の合間に研究を重ねた結晶だ。
芳醇な香りが、車内に漂い始めた。醤油の焦げる香ばしい匂い、炊き立ての米の甘い香り、そして出汁の深い香り。それらが混然一体となり、貴族たちの鼻腔を暴力的に刺激する。
「これは……食事か?」
「はい。鉄道旅行の醍醐味、それは移動しながら楽しむ美食……名付けて『駅弁』ですわ」
私は、殿下の前のテーブルに小箱を置いた。
蓋を開けた瞬間、黄金色の湯気が立ち上る。
中には、艶やかな白米の上に、飴色に輝く牛肉の照り焼きが敷き詰められていた。脇には、彩り豊かな季節の野菜の煮物と、半熟の味玉が添えられている。使用しているのは、もちろんシオン王国から輸入した最高級の醤油と米、そしてアークライト領の牧場で育てたブランド牛だ。
「シオン王国の食材を使った、牛肉弁当……!」
殿下が、喉を鳴らした。貴族たちも、上品ぶるのを忘れて身を乗り出している。
「さあ、召し上がれ。冷めないうちに」
私が促すと、殿下はフォーク……ではなく、練習中の箸を手に取り、牛肉とご飯を一緒に口へと運んだ。
「……美味いッ!!」
王族らしからぬ、素直な感嘆の声。
「肉の脂の甘みと、醤油のコクが、口の中で溶け合っている! 冷めても美味しいように、あえて濃いめの味付けにしているのか? いや、それだけではない。この米だ! 一粒一粒が立っていて、噛むほどに甘みが増してくる!」
「さすが殿下、お目が高い。ご飯は、魔導釜で高圧をかけて炊き上げましたの。揺れる車内で食べることを計算して、少し硬めに仕上げてあります」
私も自分の分を一口食べる。
甘辛いタレが染み込んだご飯の、なんと罪深い味だろうか。窓の外を流れる美しい田園風景を眺めながら、極上の弁当を食す。これぞ、旅情。これぞ、人生。
前世の満員電車で味わった殺伐とした移動とは、雲泥の差だ。
「わんっ! おにく、最高です!」
「にゃあ。この味玉、絶妙な半熟加減ね」
私の隣では、フェンとノクスも専用の器で駅弁を堪能している。彼らの幸せそうな顔を見ているだけで、この数ヶ月の苦労が報われたというものだ。
食後の余韻に浸りながら、私は殿下に新しい地図を広げてみせた。線路沿いに広がる、未開の荒野や森林地帯が記された地図だ。
「殿下。この鉄道の沿線にある土地、全てアークライト商会が開発権を頂きます。ここに大規模な食品加工工場と、物流倉庫を建設します」
「君は……国の中に、もう一つ国を作るつもりか。恐ろしい子供だ」
「あら、人聞きの悪い。私はただ、効率よくお金を回したいだけですわ」
列車は、順調に速度を維持したまま、目的地のシルダへと近づいていた。
かつては馬車で数日かかった道のりを、わずか半日で走破しようとしている。
窓の外には、かつて内乱で荒れ果てていた街が、復興の槌音と共に活気を取り戻している様子が見えてくる。
蒸気の排出音と共に、アークライト・ゼロはシルダ駅の真新しいホームに滑り込み、静かに停止した。
寸分の狂いもない、定刻通りの到着だ。
扉が開くと、割れんばかりの歓声が私たちを出迎えた。
「リリア殿! ようこそ、シルダへ!」
ホームの中心に、見覚えのある青白い顔をした青年が立っている。
ガルディナ帝国の、フランツ皇子だ。
彼は、近づいてくる巨大な列車を見て、子供のように目を輝かせていた。彼にとっても、この鉄道は帝国復興の鍵となる重要なライフラインだ。王国から食料や物資が安定して届けば、彼の地位は盤石なものとなる。
「ごきげんよう、フランツ殿下。約束通り、鉄の道で参りましたわ。これで、王国と帝国の距離は、半日になりました」
「素晴らしい……! これほどの技術を、これほどの短期間で実用化するとは! やはり貴女は、私が選んだ最高のパートナーだ!」
式典の喧騒を適当にこなし、私は駅構内に新設させたカフェテラスへと足を運んだ。
私の「駅ナカビジネス」の第一号店だ。
「リリア様、お疲れ様でした。こちら、当店自慢の『シルダ・ベリー・パルフェ』でございます」
店員が運んできたのは、シルダ特産の甘酸っぱいベリーをふんだんに使った、高さ三十センチはあろうかという巨大パルフェだった。
「んんっ……美味しい! この酸味が、数ヶ月のデスクワークで疲れた頭をシャキッとさせてくれるわ」
私は夢中でスプーンを動かした。
窓の外では、鉄道から次々と荷物が降ろされ、代わりに帝国の特産品が積み込まれていく。人と物が、血管を流れる血液のように循環している。その中心に、私がいる。
「さて。東西の大動脈は完成したわ」
私は、最後の一口を飲み込み、ナプキンで口元を拭った。私の視線は、すでに次の地図へと向けられている。
南。
「フェン、ノクス。次は南の港町、ポルトゥスまで線路を伸ばしましょう。そこには、獲れたての新鮮な魚介類が待っているわ」
「おさかな! まぐろ! たべたいです!」
「お刺身ね。楽しみだわ」
二匹の相棒が、目を輝かせて同意した。
南の海には、まだ見ぬ美食と、そして莫大なビジネスチャンスが眠っている。塩、海産物、そして海外貿易。私の野望は、陸を越え、海へと広がっていくのだ。
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双子を顧みなかったという元夫のウィルバート公爵に何とか双子を引き取れるよう掛け合うが、話の流れからそのまま公爵家に滞在して双子を育てる羽目に。
だが、この公爵家、何かおかしい?
異常に気付いたハンナは公爵家に巣くう膿をとりのぞくべく、奮闘しはじめる。
一方ハンナを最初は適当にあしらっていたウィルバートだったが、ハンナの魅力に気付き始め……。
ハンナ・キャロライン・バーディナ 22歳
バーディナ伯爵家令嬢
✖️
ウィルバート・アドルファス・キングスフォード 26歳
キングスフォード公爵
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