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第80話 紙屑と化した軍資金と甘美なティータイム
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窓の外には、王都アウレリアの整然とした美しい街並みが広がっている。
雲一つない澄み渡る青空の下、大通りを行き交う人々の活気ある姿が見えた。
遠く離れた西方の砂漠地帯で危機が迫っているなど、この平和な王都には微塵も届いていない。
私は執務室の最高級の革張りソファに深く腰を沈め、目の前で青ざめている西方の特使、バジルを見据えた。
「端的に言って、彼らは戦う前に自ら崩壊することになるわ」
私の放った冷徹な宣告に、バジルは信じられないものを見るように大きく目を見開いた。
「た、戦わずに勝てるというのですか」
バジルの声は裏返り、小刻みに震えていた。
「敵は三つの小国が結託した、一万を超える大軍なのですよ。彼らは重武装し、私たちの果樹園や灌漑施設を力ずくで奪う気で押し寄せてきているのです。あのザハール侯爵の残党までが彼らに合流し、復讐の炎を燃やしています。それが自滅するなど、到底信じられません」
額から滝のように汗を流し、すがるような声で訴えるバジル。
彼が恐怖に駆られるのも無理はない。
一万の軍勢が押し寄せてくれば、物理的な防壁などあっという間に突破されてしまう。
しかし、彼らのような旧時代の人間の思考回路は、実に単純で分かりやすい。
力には力で対抗するしかないと思い込み、軍隊の数や武器の質だけで勝敗が決まると信じて疑わないのだ。
私は手元にある分厚い帳簿の革表紙を、指先でトントンとリズミカルに叩いた。
「バジルさん、軍隊を動かすには莫大な資金が必要なの。兵士たちの毎日の食事も、装備する剣や鎧の修繕費も、乗っている馬の餌も、全てはお金で買うものなのよ。一万の軍勢を一日維持するだけで、金貨数百枚が軽く飛んでいく計算になるわ」
「そ、それはそうですが……彼らは豊かな西方のオアシスを略奪して、それを補給に充てるつもりで……」
「略奪する前に、彼ら自身が飢え死にするわ。腹を空かせた兵士は重い剣を振るえない。給料の支払われない軍隊は、忠誠心を失い、ただの烏合の衆に成り下がるのよ」
今の西方の経済は、私が構築した銀行システムなしでは一日も回らない。
武力という目に見える脅威ばかりに気を取られ、その裏にある金脈という本当の弱点に気づいていないのだ。
私は隣に控える、筆頭監査役のカシアンに視線を向けた。
「カシアン、例の三国の主要な銀行口座の状況を彼に教えてちょうだい」
カシアンは銀縁の眼鏡を中指で押し上げ、感情の欠落した冷徹な声で数字を読み上げ始めた。
「はい。今回の連合軍を組織したサンディ王国、ガラ連合、そしてバラ貿易都市」
カシアンは手元の分厚い書類を一枚めくり、淡々と続ける。
「これら全ての国の対外的な支払いは、すでにアークライト銀行の決済システムを全面的に利用しております。彼らの国庫の大部分は、当行の口座に預け入れられている状態です。具体的に申し上げますと、サンディ王国の国家予算の七割、ガラ連合の八割が当行の管理下にあります」
カシアンが差し出した羊皮紙には、三国の国家予算の裏側までが克明に記録されていた。
バジルがそれを覗き込み、目を丸くする。
「な、なぜ彼らの国家機密であるはずの財務状況が、ここにあるのですか。これでは彼らの国の財布の底まで丸見えではありませんか」
「彼らが自ら差し出してきたのですよ。我がアークライト銀行の提供する低金利の融資と、極めて便利な為替手形のシステムに完全に依存しきっているからです。彼らはもはや、当行のシステムを通さなければ、他国と麦一袋の取引すらできない状態にあります」
カシアンの容赦ない言葉が、バジルを圧倒する。
「さらに致命的なのは、彼らの発行する紙幣の価値です。三国の通貨は、当行の地下金庫に保管されている莫大な金貨によって、その信用が裏付けられ、保証されている状態です」
私は満足して深く頷いた。
テーブルに用意されていた、西方の特産品を使った最高級のレモネードが入ったグラスを手に取る。
アークライト領で切り出された純度の高い氷が、グラスの中でカランと涼しげな音を立てた。
グラスを傾け、琥珀色の液体を一口飲む。
喉を通る鮮烈で爽やかな酸味が、私の思考をさらにクリアに、そして鋭利にしていく。
「つまり、私がその保証を打ち切れば、彼らの持っている金はただの紙切れになる。そういうことよね?」
「その通りでございます。市場は極めて敏感かつ残酷です。アークライト商会が三国の通貨の保証を外したという情報が流れた瞬間、彼らの通貨の信用は完全に底を打ちます」
カシアンの言葉には、一片の迷いも同情もなかった。
経済のルールに則った、純粋な事実だけがそこにある。
「即座にハイパーインフレが発生し、物価は数十倍、数百倍に跳ね上がるでしょう。当然、軍への給料も払えなくなります。兵士たちが持っている紙幣では、パン一個すら買えなくなるのですから」
バジルは息を呑み、絶句した。
経済の首根っこを握るということは、相手の生存権そのものを完全に掌握するということだ。
武力で城壁を打ち破るよりも、はるかに残酷で、そして確実な侵略である。
私はグラスを置き、絶対的な支配者としての命令を下した。
「今すぐ実行しなさい。三国の通貨を市場で一斉に売り浴びせるのよ」
「アークライト銀行の全支店、および提携している全ての商業ギルドに対し、彼ら三国との一切の取引停止を命じてちょうだい。彼らの息の根を、経済の力で完全に止めてあげるわ」
「はっ。直ちに手配いたします」
カシアンは深く一礼し、足音一つ立てずに執務室を出て行った。
バジルはその光景を、膝を震わせながらただ呆然と見つめている。
一滴の血も流さず、剣を一度も交えることなく、一万の大軍を崩壊させる。
彼にとって、私の振るう数字と権力は、魔法や魔獣よりも恐ろしいものに映っているのだろう。
「こ、これが、アークライト流の戦争なのね」
バジルは乾いた唇を引きつらせ、絞り出すように呟いた。
「戦争というほど大げさなものではないわ。ただの、不良債権の処理よ」
私は椅子から優雅に立ち上がり、執務室に続く広いテラスへと足を向けた。
足元では、若狼サイズにまで逞しく成長したフェンが、私の歩調に合わせてゆっくりとついてくる。
彼の美しい銀色の毛並みは、王都の柔らかな太陽の光を浴びて、まるでダイヤモンドのようにキラキラと輝いていた。
「フェン。お外の空気は、少しずつ不穏な匂いに変わってきたわね」
私が声をかけると、フェンは鋭い鼻をひくつかせ、西の方角を睨んで低く唸り声を上げた。
「わんっ。悪いネズミたちの、腐った匂いが漂ってきます。ぼくが全部、噛み砕いてやりましょうか」
頼もしい相棒の言葉に、私は思わずくすりと笑った。
「大丈夫よ、フェン。あなたが出る幕はないわ。彼らはもうすぐ、自分たちからお腹を空かせて泣きついてくるから」
その時、テラスの屋根の影の中から、漆黒の毛並みを持つノクスがしなやかに姿を現した。
ノクスは音もなく飛び降り、私の肩に器用に飛び乗る。
「にゃあ。そんなことより、リリア。おやつの時間はまだかしら。私は小難しい話よりも、甘いお菓子が食べたいわ」
ノクスの金色の瞳は、すでにテラスのテーブルの上に用意されている準備を見抜いていた。
「ふふ、そうね。お仕事の区切りには、糖分の補給が必要不可欠だわ」
私は笑って、テラスの中央に設置された白亜の円卓へと向かった。
そこには、王都でも最高峰の腕を持つ私のお抱えパティシエが用意した、今日のための特別なお菓子が並べられている。
「ハニーレモン・グレーズド・ドーナツ。これが今日の報酬よ」
銀のカバーが開けられると、揚げたてのドーナツの甘く香ばしい匂いが、暴力的なまでに食欲を激しく刺激してきた。
アークライト領で収穫された最高級の小麦粉と、たっぷりのバターを練り込んだ生地。
その表面をたっぷりと覆う、透き通った黄色いグレーズ。
西方の果樹園で採れた新鮮なレモンの果汁と、アークライト領で採れた濃厚な蜂蜜を絶妙な比率で混ぜ合わせた、特製のコーティングだ。
それが太陽の光を反射して、まるで宝石のリングのように美しく光っていた。
私は純銀のトングで最も形の良い一つを手に取り、大きく口を開けて遠慮なく頬張った。
「……んっ!」
サクッという小気味よい食感の直後、空気をたっぷりと含んだふわふわの生地が、口の中であっという間に溶けていく。
「最高。この甘さと酸味のバランス、私の計算通りだわ」
蜂蜜の重厚で濃厚なコクを、レモンの鮮烈で爽やかな酸味が完璧に引き締めている。
上質な油で揚げているため、くどさは一切ない。
噛むたびに、幸せな味が疲労した脳細胞に直接栄養を届けてくれる感覚がある。
私は夢中になって、二口、三口とドーナツを食べ進めた。
「フェン、ノクス。あなたたちの分も、特製の蜂蜜で味付けしてあるわよ」
私が指差すると、二匹は待ってましたとばかりに、自分たち専用の銀の皿に顔を突っ込んだ。
「わんっ!はぐはぐ!あまくて、サクサクで、ほっぺたが落ちそうです!」
フェンは歓喜の声を上げながら尻尾を激しく振り、あっという間にドーナツを平らげていく。
「にゃあ。このグレーズの酸味、猫の舌にも悪くないわ。上品な仕上がりね。紅茶によく合う味だわ」
ノクスも目を細め、喉をゴロゴロと鳴らしながら優雅に味わっている。
テラスには、私たちの平和で甘美な午後のティータイムの空気が流れていた。
室内に残されたバジルだけが、この状況との落差に耐えきれず、完全に思考を停止させて立ち尽くしている。
国が滅ぶかどうかの瀬戸際で、優雅にドーナツを頬張る六歳の少女。
その異常な光景に、彼は自分がどれほど巨大な怪物に助けを求めたのかを、ようやく理解したのだろう。
一時間後。
私が二つ目のドーナツに手を伸ばし、至福の味わいを楽しんでいる最中だった。
執務室に置かれた魔導通信機から、けたたましいアラート音が鳴り響いた。
緊急事態を知らせる、赤い光が点滅している。
カシアンが足早にテラスへと現れ、手にした最新の報告書を私に差し出した。
その表情には、私の恐るべき手腕に対する畏怖がはっきりと浮かんでいる。
「リリア様。先ほど、西方の為替市場で三国の通貨が大暴落を起こしました」
カシアンは、手元の数字を淡々と読み上げる。
「アークライト銀行の取引停止発表からわずか三十分で、彼らの通貨価値は百分の一にまで下落。現在も止まることなく下がり続けております。市場はパニックに陥り、紙幣は文字通り紙屑と化しました」
「そして、国境付近に集結していた一万の連合軍ですが、完全に瓦解いたしました」
予想通りの結果だ。
「兵士たちは、自分たちに支払われる予定だった軍資金が無価値になったことを知り、激怒しています」
「彼らは武器を捨てて指揮官の天幕を取り囲み、未払いの給与を金貨の現物でよこせと暴動を起こしているとのことです。一部の部隊はすでに略奪に走り、もはや軍隊としての体をなしておりません」
「軍の首脳陣は混乱に乗じて逃亡を図り、三国の王族たちも国家破産の危機に直面し、完全にパニックに陥っているようです」
カシアンの報告は、私の脳内で行ったシミュレーションの速度をさらに上回るものだった。
「いいわ。そのまま、彼らが土下座をしてくるまで徹底的に追い込みなさい」
私はドーナツの残りの一片を口に運び、指先についた甘いグレーズを舐め取ってから、優雅にナプキンで口を拭った。
「私に牙を剥いた愚か者には、自分の愚かさを骨の髄まで理解させなければならないわ。彼らの国の全ての資産を担保に取るための、新しい条約書を作成しておいて」
「かしこまりました。一文字の抜けも許さぬ、完璧な絶対隷属の契約書をご用意いたします。彼らには息をする権利すら残さない内容に仕上げましょう」
カシアンは深く頷き、すぐさま書類作成の準備に取り掛かった。
私の美味しさを邪魔する不純物は、全て数字の底に沈めてあげなければ気が済まない。
西の地平線の彼方に、自業自得で生み出された不穏な黒雲が広がっているのが見えた気がした。
しかし、私の心は波一つ立たない湖のように平穏を保っていた。
勝敗は、私が帳簿を開いた瞬間にすでに決まっていたのだから。
私はテラスの入り口で、彫像のように控えている護衛騎士に視線を向けた。
「レオン様。騎士団の準備を。ただし、抜剣は禁止よ」
扉の近くで微動だにせず待機していたレオンが、私の声に反応し、力強く拳を胸に当てて敬礼した。
彼の青い瞳には、武力ではなく知力で一万の軍勢を制圧した私への、狂信的なまでの忠誠が燃えている。
「はっ。リリア様、ご命令を。どのようにお守りすればよろしいでしょうか。暴徒と化した敵兵が押し寄せる前に、全て制圧いたしましょうか」
「彼らを迎え撃つのではないわ。降伏しに来た哀れな客人を、丁重に案内するの」
私は扇を取り出し、ゆっくりと広げた。
「彼らはもうすぐ、白旗を掲げて王都まで這いつくばってくるはずよ。私の駅舎を汚さないように、マナーの悪い方は容赦なく追い返して構わないわよ」
私は不敵な笑みを浮かべ、再びグラスのレモネードに手を伸ばした。
戦わずして勝つ。
それこそが、アークライト商会の絶対的な鉄則であり、私の美学だ。
莫大な利益と、極上の食材の数々を、彼ら自身の手で向こうから差し出させるのよ。
窓の外では、王都の中央駅を起点とした、大規模な鉄道の拡張工事の音が規則正しく響いている。
ハンマーの音、魔導エンジンの重低音、そして人々の活気ある声。
その全てが、私の支配する経済圏の力強い鼓動だった。
私は冷たいグラスを傾け、喉を潤す。
黄金のレールは、止まることなく西へと伸び続けていた。
雲一つない澄み渡る青空の下、大通りを行き交う人々の活気ある姿が見えた。
遠く離れた西方の砂漠地帯で危機が迫っているなど、この平和な王都には微塵も届いていない。
私は執務室の最高級の革張りソファに深く腰を沈め、目の前で青ざめている西方の特使、バジルを見据えた。
「端的に言って、彼らは戦う前に自ら崩壊することになるわ」
私の放った冷徹な宣告に、バジルは信じられないものを見るように大きく目を見開いた。
「た、戦わずに勝てるというのですか」
バジルの声は裏返り、小刻みに震えていた。
「敵は三つの小国が結託した、一万を超える大軍なのですよ。彼らは重武装し、私たちの果樹園や灌漑施設を力ずくで奪う気で押し寄せてきているのです。あのザハール侯爵の残党までが彼らに合流し、復讐の炎を燃やしています。それが自滅するなど、到底信じられません」
額から滝のように汗を流し、すがるような声で訴えるバジル。
彼が恐怖に駆られるのも無理はない。
一万の軍勢が押し寄せてくれば、物理的な防壁などあっという間に突破されてしまう。
しかし、彼らのような旧時代の人間の思考回路は、実に単純で分かりやすい。
力には力で対抗するしかないと思い込み、軍隊の数や武器の質だけで勝敗が決まると信じて疑わないのだ。
私は手元にある分厚い帳簿の革表紙を、指先でトントンとリズミカルに叩いた。
「バジルさん、軍隊を動かすには莫大な資金が必要なの。兵士たちの毎日の食事も、装備する剣や鎧の修繕費も、乗っている馬の餌も、全てはお金で買うものなのよ。一万の軍勢を一日維持するだけで、金貨数百枚が軽く飛んでいく計算になるわ」
「そ、それはそうですが……彼らは豊かな西方のオアシスを略奪して、それを補給に充てるつもりで……」
「略奪する前に、彼ら自身が飢え死にするわ。腹を空かせた兵士は重い剣を振るえない。給料の支払われない軍隊は、忠誠心を失い、ただの烏合の衆に成り下がるのよ」
今の西方の経済は、私が構築した銀行システムなしでは一日も回らない。
武力という目に見える脅威ばかりに気を取られ、その裏にある金脈という本当の弱点に気づいていないのだ。
私は隣に控える、筆頭監査役のカシアンに視線を向けた。
「カシアン、例の三国の主要な銀行口座の状況を彼に教えてちょうだい」
カシアンは銀縁の眼鏡を中指で押し上げ、感情の欠落した冷徹な声で数字を読み上げ始めた。
「はい。今回の連合軍を組織したサンディ王国、ガラ連合、そしてバラ貿易都市」
カシアンは手元の分厚い書類を一枚めくり、淡々と続ける。
「これら全ての国の対外的な支払いは、すでにアークライト銀行の決済システムを全面的に利用しております。彼らの国庫の大部分は、当行の口座に預け入れられている状態です。具体的に申し上げますと、サンディ王国の国家予算の七割、ガラ連合の八割が当行の管理下にあります」
カシアンが差し出した羊皮紙には、三国の国家予算の裏側までが克明に記録されていた。
バジルがそれを覗き込み、目を丸くする。
「な、なぜ彼らの国家機密であるはずの財務状況が、ここにあるのですか。これでは彼らの国の財布の底まで丸見えではありませんか」
「彼らが自ら差し出してきたのですよ。我がアークライト銀行の提供する低金利の融資と、極めて便利な為替手形のシステムに完全に依存しきっているからです。彼らはもはや、当行のシステムを通さなければ、他国と麦一袋の取引すらできない状態にあります」
カシアンの容赦ない言葉が、バジルを圧倒する。
「さらに致命的なのは、彼らの発行する紙幣の価値です。三国の通貨は、当行の地下金庫に保管されている莫大な金貨によって、その信用が裏付けられ、保証されている状態です」
私は満足して深く頷いた。
テーブルに用意されていた、西方の特産品を使った最高級のレモネードが入ったグラスを手に取る。
アークライト領で切り出された純度の高い氷が、グラスの中でカランと涼しげな音を立てた。
グラスを傾け、琥珀色の液体を一口飲む。
喉を通る鮮烈で爽やかな酸味が、私の思考をさらにクリアに、そして鋭利にしていく。
「つまり、私がその保証を打ち切れば、彼らの持っている金はただの紙切れになる。そういうことよね?」
「その通りでございます。市場は極めて敏感かつ残酷です。アークライト商会が三国の通貨の保証を外したという情報が流れた瞬間、彼らの通貨の信用は完全に底を打ちます」
カシアンの言葉には、一片の迷いも同情もなかった。
経済のルールに則った、純粋な事実だけがそこにある。
「即座にハイパーインフレが発生し、物価は数十倍、数百倍に跳ね上がるでしょう。当然、軍への給料も払えなくなります。兵士たちが持っている紙幣では、パン一個すら買えなくなるのですから」
バジルは息を呑み、絶句した。
経済の首根っこを握るということは、相手の生存権そのものを完全に掌握するということだ。
武力で城壁を打ち破るよりも、はるかに残酷で、そして確実な侵略である。
私はグラスを置き、絶対的な支配者としての命令を下した。
「今すぐ実行しなさい。三国の通貨を市場で一斉に売り浴びせるのよ」
「アークライト銀行の全支店、および提携している全ての商業ギルドに対し、彼ら三国との一切の取引停止を命じてちょうだい。彼らの息の根を、経済の力で完全に止めてあげるわ」
「はっ。直ちに手配いたします」
カシアンは深く一礼し、足音一つ立てずに執務室を出て行った。
バジルはその光景を、膝を震わせながらただ呆然と見つめている。
一滴の血も流さず、剣を一度も交えることなく、一万の大軍を崩壊させる。
彼にとって、私の振るう数字と権力は、魔法や魔獣よりも恐ろしいものに映っているのだろう。
「こ、これが、アークライト流の戦争なのね」
バジルは乾いた唇を引きつらせ、絞り出すように呟いた。
「戦争というほど大げさなものではないわ。ただの、不良債権の処理よ」
私は椅子から優雅に立ち上がり、執務室に続く広いテラスへと足を向けた。
足元では、若狼サイズにまで逞しく成長したフェンが、私の歩調に合わせてゆっくりとついてくる。
彼の美しい銀色の毛並みは、王都の柔らかな太陽の光を浴びて、まるでダイヤモンドのようにキラキラと輝いていた。
「フェン。お外の空気は、少しずつ不穏な匂いに変わってきたわね」
私が声をかけると、フェンは鋭い鼻をひくつかせ、西の方角を睨んで低く唸り声を上げた。
「わんっ。悪いネズミたちの、腐った匂いが漂ってきます。ぼくが全部、噛み砕いてやりましょうか」
頼もしい相棒の言葉に、私は思わずくすりと笑った。
「大丈夫よ、フェン。あなたが出る幕はないわ。彼らはもうすぐ、自分たちからお腹を空かせて泣きついてくるから」
その時、テラスの屋根の影の中から、漆黒の毛並みを持つノクスがしなやかに姿を現した。
ノクスは音もなく飛び降り、私の肩に器用に飛び乗る。
「にゃあ。そんなことより、リリア。おやつの時間はまだかしら。私は小難しい話よりも、甘いお菓子が食べたいわ」
ノクスの金色の瞳は、すでにテラスのテーブルの上に用意されている準備を見抜いていた。
「ふふ、そうね。お仕事の区切りには、糖分の補給が必要不可欠だわ」
私は笑って、テラスの中央に設置された白亜の円卓へと向かった。
そこには、王都でも最高峰の腕を持つ私のお抱えパティシエが用意した、今日のための特別なお菓子が並べられている。
「ハニーレモン・グレーズド・ドーナツ。これが今日の報酬よ」
銀のカバーが開けられると、揚げたてのドーナツの甘く香ばしい匂いが、暴力的なまでに食欲を激しく刺激してきた。
アークライト領で収穫された最高級の小麦粉と、たっぷりのバターを練り込んだ生地。
その表面をたっぷりと覆う、透き通った黄色いグレーズ。
西方の果樹園で採れた新鮮なレモンの果汁と、アークライト領で採れた濃厚な蜂蜜を絶妙な比率で混ぜ合わせた、特製のコーティングだ。
それが太陽の光を反射して、まるで宝石のリングのように美しく光っていた。
私は純銀のトングで最も形の良い一つを手に取り、大きく口を開けて遠慮なく頬張った。
「……んっ!」
サクッという小気味よい食感の直後、空気をたっぷりと含んだふわふわの生地が、口の中であっという間に溶けていく。
「最高。この甘さと酸味のバランス、私の計算通りだわ」
蜂蜜の重厚で濃厚なコクを、レモンの鮮烈で爽やかな酸味が完璧に引き締めている。
上質な油で揚げているため、くどさは一切ない。
噛むたびに、幸せな味が疲労した脳細胞に直接栄養を届けてくれる感覚がある。
私は夢中になって、二口、三口とドーナツを食べ進めた。
「フェン、ノクス。あなたたちの分も、特製の蜂蜜で味付けしてあるわよ」
私が指差すると、二匹は待ってましたとばかりに、自分たち専用の銀の皿に顔を突っ込んだ。
「わんっ!はぐはぐ!あまくて、サクサクで、ほっぺたが落ちそうです!」
フェンは歓喜の声を上げながら尻尾を激しく振り、あっという間にドーナツを平らげていく。
「にゃあ。このグレーズの酸味、猫の舌にも悪くないわ。上品な仕上がりね。紅茶によく合う味だわ」
ノクスも目を細め、喉をゴロゴロと鳴らしながら優雅に味わっている。
テラスには、私たちの平和で甘美な午後のティータイムの空気が流れていた。
室内に残されたバジルだけが、この状況との落差に耐えきれず、完全に思考を停止させて立ち尽くしている。
国が滅ぶかどうかの瀬戸際で、優雅にドーナツを頬張る六歳の少女。
その異常な光景に、彼は自分がどれほど巨大な怪物に助けを求めたのかを、ようやく理解したのだろう。
一時間後。
私が二つ目のドーナツに手を伸ばし、至福の味わいを楽しんでいる最中だった。
執務室に置かれた魔導通信機から、けたたましいアラート音が鳴り響いた。
緊急事態を知らせる、赤い光が点滅している。
カシアンが足早にテラスへと現れ、手にした最新の報告書を私に差し出した。
その表情には、私の恐るべき手腕に対する畏怖がはっきりと浮かんでいる。
「リリア様。先ほど、西方の為替市場で三国の通貨が大暴落を起こしました」
カシアンは、手元の数字を淡々と読み上げる。
「アークライト銀行の取引停止発表からわずか三十分で、彼らの通貨価値は百分の一にまで下落。現在も止まることなく下がり続けております。市場はパニックに陥り、紙幣は文字通り紙屑と化しました」
「そして、国境付近に集結していた一万の連合軍ですが、完全に瓦解いたしました」
予想通りの結果だ。
「兵士たちは、自分たちに支払われる予定だった軍資金が無価値になったことを知り、激怒しています」
「彼らは武器を捨てて指揮官の天幕を取り囲み、未払いの給与を金貨の現物でよこせと暴動を起こしているとのことです。一部の部隊はすでに略奪に走り、もはや軍隊としての体をなしておりません」
「軍の首脳陣は混乱に乗じて逃亡を図り、三国の王族たちも国家破産の危機に直面し、完全にパニックに陥っているようです」
カシアンの報告は、私の脳内で行ったシミュレーションの速度をさらに上回るものだった。
「いいわ。そのまま、彼らが土下座をしてくるまで徹底的に追い込みなさい」
私はドーナツの残りの一片を口に運び、指先についた甘いグレーズを舐め取ってから、優雅にナプキンで口を拭った。
「私に牙を剥いた愚か者には、自分の愚かさを骨の髄まで理解させなければならないわ。彼らの国の全ての資産を担保に取るための、新しい条約書を作成しておいて」
「かしこまりました。一文字の抜けも許さぬ、完璧な絶対隷属の契約書をご用意いたします。彼らには息をする権利すら残さない内容に仕上げましょう」
カシアンは深く頷き、すぐさま書類作成の準備に取り掛かった。
私の美味しさを邪魔する不純物は、全て数字の底に沈めてあげなければ気が済まない。
西の地平線の彼方に、自業自得で生み出された不穏な黒雲が広がっているのが見えた気がした。
しかし、私の心は波一つ立たない湖のように平穏を保っていた。
勝敗は、私が帳簿を開いた瞬間にすでに決まっていたのだから。
私はテラスの入り口で、彫像のように控えている護衛騎士に視線を向けた。
「レオン様。騎士団の準備を。ただし、抜剣は禁止よ」
扉の近くで微動だにせず待機していたレオンが、私の声に反応し、力強く拳を胸に当てて敬礼した。
彼の青い瞳には、武力ではなく知力で一万の軍勢を制圧した私への、狂信的なまでの忠誠が燃えている。
「はっ。リリア様、ご命令を。どのようにお守りすればよろしいでしょうか。暴徒と化した敵兵が押し寄せる前に、全て制圧いたしましょうか」
「彼らを迎え撃つのではないわ。降伏しに来た哀れな客人を、丁重に案内するの」
私は扇を取り出し、ゆっくりと広げた。
「彼らはもうすぐ、白旗を掲げて王都まで這いつくばってくるはずよ。私の駅舎を汚さないように、マナーの悪い方は容赦なく追い返して構わないわよ」
私は不敵な笑みを浮かべ、再びグラスのレモネードに手を伸ばした。
戦わずして勝つ。
それこそが、アークライト商会の絶対的な鉄則であり、私の美学だ。
莫大な利益と、極上の食材の数々を、彼ら自身の手で向こうから差し出させるのよ。
窓の外では、王都の中央駅を起点とした、大規模な鉄道の拡張工事の音が規則正しく響いている。
ハンマーの音、魔導エンジンの重低音、そして人々の活気ある声。
その全てが、私の支配する経済圏の力強い鼓動だった。
私は冷たいグラスを傾け、喉を潤す。
黄金のレールは、止まることなく西へと伸び続けていた。
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