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「本当に、ごめんなさいっ!」
目の前で土下座する少女に、俺はすっかり困っていた。
その少女は、どうやら女神様らしい。
透き通るような金髪を持ち、宝石みたいな青い瞳をしている。
背中からは、純白の翼が生えていた。
服装も、神殿から出てきたような格好だ。
ここは、他には何もない真っ白な空間である。
さっきまでの俺は、実家の宿の厨房で魚を捌いていたはずだった。
眩しい光に包まれたとたん、この場所にいたのだ。
そして目の前の女神様が、泣きながら謝ってきたというわけだ。
「えっと、とりあえず顔を上げてください。リズ様、でしたよね?」
「はい、うっかり女神ことリズと申します。この度は私のうっかりで、ミナト様を異世界に」
しゃくり上げながら話す彼女に、女神の威厳はなかった。
まるで近所の子供が、イタズラを謝っているように見える。
「異世界ですか、つまり俺は死んだとかじゃなくて?」
「死んでません、断じて違います!私が座標指定を間違えて、うっかり召喚しただけです」
どうやら神々の間では、異世界人を召喚するのが流行っているらしい。
それで新米の彼女も、挑戦してみたら大失敗したとのこと。
なんとも、迷惑な話である。
「それで、元の世界には帰れるんですか?」
俺の言葉に、リズ様はさらに顔を青くした。
そして、ぶんぶんと首を横に振る。
「それが、一度召喚した人間を戻すのは、大神様クラスの神力が必要です。新米の私には、とても無理で」
「つまり、帰れないと?」
「はい、本当に申し訳ありません!」
再び土下座しようとするリズ様を、俺は慌てて止めた。
まあ、起こってしまったことは仕方ないだろう。
幸い俺は、離島の宿育ちだ。
両親はもういないし、宿も俺一人でやっていた。
都会での生活に、心残りがあるわけでもない。
むしろ、生き延びることには少し自信があったりする。
「分かりました、もう謝らなくていいですよ。それより俺が転移する世界って、どんな場所なんです?」
俺がそう言うと、リズ様はぽかんとした顔で俺を見た。
「え、怒らないのですか?」
「怒っても、帰れるわけじゃないでしょう。それなら、前向きに考えた方がいいじゃないですか」
「ミナト様、なんてお優しい!」
リズ様は、感動したように涙ぐんでいる。
なんだか、こっちが申し訳なくなってくるな。
「それで、どんな世界なんです?」
「は、はい!ミナト様が転移されるのは、エデンワイルド半島という場所です!」
リズ様はぱっと立ち上がると、何もない空間に映像を映し出した。
そこには、緑豊かな広大な半島が広がっていた。
海の青と森の緑が、目に鮮やかだ。
「ここは大陸の東の果てにある未開の地で、誰も足を踏み入れたことがありません」
「誰も、いないんですか?」
「はい、文明も人もなーんにもありません!」
リズ様は、なぜか胸を張って言った。
そこは、威張るところじゃないだろう。
「つまり俺は、そこで一人で生きていけと」
「ごめんなさい!本当は、ちゃんとした王国の王宮に召喚するはずでした!でも座標が、その座標が!」
また泣き出しそうなリズ様を、俺はなだめる。
まあ誰もいないなら、それはそれで気楽かもしれない。
面倒な、人間関係もなさそうだし。
「分かりました、それで何か助けになるものは貰えるんですか?武器とか、魔法とか」
「もちろんです!お詫びと、お優しいミナト様への感謝を込めて、特別なスキルを二つ授けます!」
リズ様はそう言うと、俺の体にそっと指で触れた。
温かい光が、俺を包み込む。
「一つは、無限に物が入る《空間収納》です!入れた物の時間は止まるので、食べ物が腐る心配もありません。ただし、生き物は入れられませんけど」
空間収納か、それは便利そうだ。
食料の保存には、困らないだろう。
釣った魚も獲った獲物も、新鮮なまま保存できる。
「そしてもう一つは、《神頑丈》のスキルです!」
「神頑丈、ですか?」
「はい!このスキルがあれば、ミナト様はあらゆる病気や毒にかかりません!それに、物理的な衝撃にもすっごく強くなります!骨が折れたり大怪我をしたりすることは、まずないと思ってください!」
それはまた、すごいスキルだな。
つまり病気で死ぬことも、怪我で動けなくなることもないわけだ。
生き延びる上で、これほど心強いものはないだろう。
「痛みは感じますけど、致命傷にはなりません!ちょっとくらい無茶しても大丈夫で、疲れも感じにくくなりますよ!」
「なるほど、それはありがたいです」
「えへへ、そうでしょうそうでしょう!」
やっと笑顔になったリズ様を見て、俺も少し安心した。
しかし、ちょっと待てよ。
「あの、攻撃系のスキルはないんですか?魔法とか」
「あ、」
リズ様が、気まずそうに視線をそらした。
これは、嫌な予感がする。
「攻撃魔法とか剣の才能とか、そういうのはコストが高くて。私の神力では、ちょっと」
「つまり、ないんですね」
「はい、ごめんなさい」
また、しょんぼりしてしまった。
まあ、仕方ないか。
神頑丈スキルがあるなら、多少の危険は何とかなるだろう。
逃げるのは、得意な方だし。
「分かりました、その二つのスキルで何とかやってみますよ」
「ミナト様、ありがとうございます!」
リズ様は、ぱあっと顔を輝かせた。
「あの、もしよかったら、時々様子を見に行ってもいいですか?ちゃんと生活できているか、心配なので」
「ええ、いいですよ。話し相手がいないのは、寂しいですし」
「本当ですか、やったー!じゃあ、たまに遊びに行きますね!神なので直接の手伝いはできませんけど、差し入れくらいならできるかもしれません!」
どうやらこの女神様は、俺の保護者になるつもりのようだ。
まあ、悪い気はしない。
「ではミナト様、準備はよろしいでしょうか?」
「はい、お願いします」
俺が頷くと、リズ様は深々と頭を下げた。
「それでは、どうかお元気で。あなたの新たな人生に、幸多からんことを」
その言葉を最後に、俺の意識は再び白い光に包まれた。
次に目を開けた時、俺の目の前には青い海と緑の森があった。
潮の香りと、植物の匂いが鼻をつく。
足元は、柔らかな砂浜だ。
どうやら、無事にエデンワイルド半島へ到着したらしい。
「さて、と」
俺は大きく伸びをした。まずは状況確認からだ。
服装は、厨房で着ていたTシャツとズボンにエプロン姿のままだ。
ポケットを探ると、スマホと財布が入っていた。
もちろん、スマホは圏外になっている。財布の中身も、この世界ではただの紙切れだろう。
だが、一応持っておくか。
俺は早速、スキルを試してみることにした。
「空間収納、」
心で念じると、目の前に半透明の画面が見えた気がした。
試しに、財布を入れてみる。
すっと、財布が吸い込まれるように消えた。
おお、本当に入った。
今度は、取り出してみる。
「取り出し、」
念じると、手の中に財布が戻ってきた。
これは、めちゃくちゃ便利だ。
次に、自分の体を確認する。
特に、変わった様子はない。
だがリズ様の言葉通りなら、俺の体はとんでもなく頑丈なはずだ。
試しに、近くのヤシの木を思い切り殴ってみる。
ゴッ、と鈍い音が響いた。
拳に、ズンと衝撃が走る。痛い。
リズ様が言った通り、痛みは感じるようだ。
でも拳を見てみると、皮がむけたり赤くなったりはしていない。
骨にも、異常はなさそうだ。
一方殴られたヤシの木は、幹が少しへこんでいた。
「すごいな、これ」
これなら、素手でも獣と戦えるかもしれない。
いや戦うのは最後の手段で、基本は逃げるに限る。
さて、これからどうするか。
まずは、安全な寝床の確保だ。
夜になって、獣に襲われたらたまらない。
それから、飲み水の確保も重要だ。
幸い、森が近い。川くらい、あるだろう。
俺は砂浜を歩き、森の入り口へと向かった。
森の中は、見たこともない植物が生い茂っている。
巨大なシダ植物や、色鮮やかな花があった。
日本の森とは、明らかに違う。
下手に食べると、毒があるかもしれない。
食料は、しばらく海で調達するのが安全そうだ。
俺は、森の中を慎重に進んでいく。
鳥の声や、虫の羽音が聞こえる。
生き物の気配は、とても濃厚だ。
しばらく歩くと、小さな川を見つけた。
水は、透き通っていてとても綺麗だ。
手ですくって、飲んでみる。
冷たくて、美味しい。
これで、飲み水は確保できた。
俺は川に沿って、上流へと歩を進める。
どこか、雨風をしのげる場所はないだろうか。
洞窟のような場所があれば、最高なんだが。
そう思いながら歩いていると、少し開けた場所に出た。
そこには、ちょうどいい感じの岩壁があった。
そしてその岩壁の根元に、人が一人入れそうな洞窟の入り口があった。
「おお、ラッキー」
俺は早速、中を調べてみることにした。
洞窟の中は、思ったよりも広かった。
大人二人が、寝転がれるくらいのスペースはある。
獣の匂いや、糞もない。
ここなら、安心して眠れそうだ。
今日の寝床は、ここに決まりだな。
俺は、ひとまず安心した。
さて、次は火の確保だ。
夜は冷えるだろうし、火があれば獣除けにもなる。
幸い周りには、乾いた枝や葉っぱがたくさん落ちている。
俺は、火口になりそうな乾いた苔や木の皮を集めた。
そして硬い木の枝を見つけて、火きりぎねを作る。
宿で子供向けの体験教室をやった時の知識が、こんな所で役立つとはな。
俺は火きり板に杵を当てて、両手で勢いよく回転させる。
すぐに、煙が立ち上り始めた。
神頑丈スキルのおかげか、腕が全く疲れない。
すごい勢いで杵を回し続けると、やがて火種が生まれた。
俺は慎重に火種を火口に移し、息を吹きかける。
ぼわっ、とオレンジ色の炎が燃え上がった。
「よし、ついた」
俺は洞窟の入り口近くに、石でかまどを作り火を安定させる。
パチパチと薪がはぜる音を聞いていると、なんだか落ち着いてきた。
空を見上げると、太陽がだいぶ傾いている。
そろそろ、夕食の準備をしないと。
腹が減っては、戦はできぬだ。
俺は海に戻って、何か食べられるものを探すことにした。
モリでもあれば、魚を突けるんだが今は何もない。
仕方ない、手づかみで何か捕まえるか。
俺はズボンの裾をまくり、浅瀬に入った。
岩場の影を探すと、カニやエビのような生き物がたくさんいた。
大きさも、結構でかい。
これは、美味そうだ。
俺は、手づかみでカニを捕まえる。
挟まれても、神頑丈スキルのおかげで全然痛くない。
面白いように、捕まえられる。
あっという間に、両手いっぱいのカニとエビが獲れた。
俺は獲物を空間収納に入れると、洞窟へと戻った。
かまどの火は、まだ元気に燃えている。
俺は近くにあった平たい石を火で熱し、即席の鉄板を作った。
そこに、捕まえたカニとエビを並べる。
じゅうじゅうと焼ける音が、食欲をそそる。
香ばしい匂いが、辺りに立ち込めた。
やがて、カニの甲羅が真っ赤に色づく。
うん、そろそろいいだろう。
俺は熱々のカニを手に取り、殻を割った。
中から、真っ白な身が顔を出す。
ふーふーと息を吹きかけて冷まし、一口食べる。
「美味い、!」
思わず、声が出た。
プリプリとした、食感。
噛むほどに広がる、濃厚な甘み。
塩も何もつけていないのに、絶妙な塩加減だ。
これは、今まで食べたどんなカニよりも美味いかもしれない。
エビも、同じく絶品だった。
夢中で獲物を平らげると、すっかり満腹になった。
空には満月が昇り、星がまたたいている。
人工の光が一切ないからか、星の数が尋常じゃない。
まるで、宝石をばらまいたようだ。
俺は燃えさかる焚き火を眺めながら、これからのことを考えた。
帰れないのは残念だが、この場所は悪くない。
海も森も豊かで、食料には困らなさそうだ。
何より、誰にも邪魔されない自由がある。
宿の仕事は好きだったが、客商売には気苦労も多かった。
ここでは、そんなストレスとは無縁だ。
「案外、スローライフを楽しめるかもな」
俺はそんなことを呟きながら、洞窟の中に作った枯れ葉のベッドに横になった。
焚き火の暖かさが、心地いい。
すぐに、俺は深い眠りに落ちていった。
異世界初日の夜は、こうして穏やかに過ぎていった。
目の前で土下座する少女に、俺はすっかり困っていた。
その少女は、どうやら女神様らしい。
透き通るような金髪を持ち、宝石みたいな青い瞳をしている。
背中からは、純白の翼が生えていた。
服装も、神殿から出てきたような格好だ。
ここは、他には何もない真っ白な空間である。
さっきまでの俺は、実家の宿の厨房で魚を捌いていたはずだった。
眩しい光に包まれたとたん、この場所にいたのだ。
そして目の前の女神様が、泣きながら謝ってきたというわけだ。
「えっと、とりあえず顔を上げてください。リズ様、でしたよね?」
「はい、うっかり女神ことリズと申します。この度は私のうっかりで、ミナト様を異世界に」
しゃくり上げながら話す彼女に、女神の威厳はなかった。
まるで近所の子供が、イタズラを謝っているように見える。
「異世界ですか、つまり俺は死んだとかじゃなくて?」
「死んでません、断じて違います!私が座標指定を間違えて、うっかり召喚しただけです」
どうやら神々の間では、異世界人を召喚するのが流行っているらしい。
それで新米の彼女も、挑戦してみたら大失敗したとのこと。
なんとも、迷惑な話である。
「それで、元の世界には帰れるんですか?」
俺の言葉に、リズ様はさらに顔を青くした。
そして、ぶんぶんと首を横に振る。
「それが、一度召喚した人間を戻すのは、大神様クラスの神力が必要です。新米の私には、とても無理で」
「つまり、帰れないと?」
「はい、本当に申し訳ありません!」
再び土下座しようとするリズ様を、俺は慌てて止めた。
まあ、起こってしまったことは仕方ないだろう。
幸い俺は、離島の宿育ちだ。
両親はもういないし、宿も俺一人でやっていた。
都会での生活に、心残りがあるわけでもない。
むしろ、生き延びることには少し自信があったりする。
「分かりました、もう謝らなくていいですよ。それより俺が転移する世界って、どんな場所なんです?」
俺がそう言うと、リズ様はぽかんとした顔で俺を見た。
「え、怒らないのですか?」
「怒っても、帰れるわけじゃないでしょう。それなら、前向きに考えた方がいいじゃないですか」
「ミナト様、なんてお優しい!」
リズ様は、感動したように涙ぐんでいる。
なんだか、こっちが申し訳なくなってくるな。
「それで、どんな世界なんです?」
「は、はい!ミナト様が転移されるのは、エデンワイルド半島という場所です!」
リズ様はぱっと立ち上がると、何もない空間に映像を映し出した。
そこには、緑豊かな広大な半島が広がっていた。
海の青と森の緑が、目に鮮やかだ。
「ここは大陸の東の果てにある未開の地で、誰も足を踏み入れたことがありません」
「誰も、いないんですか?」
「はい、文明も人もなーんにもありません!」
リズ様は、なぜか胸を張って言った。
そこは、威張るところじゃないだろう。
「つまり俺は、そこで一人で生きていけと」
「ごめんなさい!本当は、ちゃんとした王国の王宮に召喚するはずでした!でも座標が、その座標が!」
また泣き出しそうなリズ様を、俺はなだめる。
まあ誰もいないなら、それはそれで気楽かもしれない。
面倒な、人間関係もなさそうだし。
「分かりました、それで何か助けになるものは貰えるんですか?武器とか、魔法とか」
「もちろんです!お詫びと、お優しいミナト様への感謝を込めて、特別なスキルを二つ授けます!」
リズ様はそう言うと、俺の体にそっと指で触れた。
温かい光が、俺を包み込む。
「一つは、無限に物が入る《空間収納》です!入れた物の時間は止まるので、食べ物が腐る心配もありません。ただし、生き物は入れられませんけど」
空間収納か、それは便利そうだ。
食料の保存には、困らないだろう。
釣った魚も獲った獲物も、新鮮なまま保存できる。
「そしてもう一つは、《神頑丈》のスキルです!」
「神頑丈、ですか?」
「はい!このスキルがあれば、ミナト様はあらゆる病気や毒にかかりません!それに、物理的な衝撃にもすっごく強くなります!骨が折れたり大怪我をしたりすることは、まずないと思ってください!」
それはまた、すごいスキルだな。
つまり病気で死ぬことも、怪我で動けなくなることもないわけだ。
生き延びる上で、これほど心強いものはないだろう。
「痛みは感じますけど、致命傷にはなりません!ちょっとくらい無茶しても大丈夫で、疲れも感じにくくなりますよ!」
「なるほど、それはありがたいです」
「えへへ、そうでしょうそうでしょう!」
やっと笑顔になったリズ様を見て、俺も少し安心した。
しかし、ちょっと待てよ。
「あの、攻撃系のスキルはないんですか?魔法とか」
「あ、」
リズ様が、気まずそうに視線をそらした。
これは、嫌な予感がする。
「攻撃魔法とか剣の才能とか、そういうのはコストが高くて。私の神力では、ちょっと」
「つまり、ないんですね」
「はい、ごめんなさい」
また、しょんぼりしてしまった。
まあ、仕方ないか。
神頑丈スキルがあるなら、多少の危険は何とかなるだろう。
逃げるのは、得意な方だし。
「分かりました、その二つのスキルで何とかやってみますよ」
「ミナト様、ありがとうございます!」
リズ様は、ぱあっと顔を輝かせた。
「あの、もしよかったら、時々様子を見に行ってもいいですか?ちゃんと生活できているか、心配なので」
「ええ、いいですよ。話し相手がいないのは、寂しいですし」
「本当ですか、やったー!じゃあ、たまに遊びに行きますね!神なので直接の手伝いはできませんけど、差し入れくらいならできるかもしれません!」
どうやらこの女神様は、俺の保護者になるつもりのようだ。
まあ、悪い気はしない。
「ではミナト様、準備はよろしいでしょうか?」
「はい、お願いします」
俺が頷くと、リズ様は深々と頭を下げた。
「それでは、どうかお元気で。あなたの新たな人生に、幸多からんことを」
その言葉を最後に、俺の意識は再び白い光に包まれた。
次に目を開けた時、俺の目の前には青い海と緑の森があった。
潮の香りと、植物の匂いが鼻をつく。
足元は、柔らかな砂浜だ。
どうやら、無事にエデンワイルド半島へ到着したらしい。
「さて、と」
俺は大きく伸びをした。まずは状況確認からだ。
服装は、厨房で着ていたTシャツとズボンにエプロン姿のままだ。
ポケットを探ると、スマホと財布が入っていた。
もちろん、スマホは圏外になっている。財布の中身も、この世界ではただの紙切れだろう。
だが、一応持っておくか。
俺は早速、スキルを試してみることにした。
「空間収納、」
心で念じると、目の前に半透明の画面が見えた気がした。
試しに、財布を入れてみる。
すっと、財布が吸い込まれるように消えた。
おお、本当に入った。
今度は、取り出してみる。
「取り出し、」
念じると、手の中に財布が戻ってきた。
これは、めちゃくちゃ便利だ。
次に、自分の体を確認する。
特に、変わった様子はない。
だがリズ様の言葉通りなら、俺の体はとんでもなく頑丈なはずだ。
試しに、近くのヤシの木を思い切り殴ってみる。
ゴッ、と鈍い音が響いた。
拳に、ズンと衝撃が走る。痛い。
リズ様が言った通り、痛みは感じるようだ。
でも拳を見てみると、皮がむけたり赤くなったりはしていない。
骨にも、異常はなさそうだ。
一方殴られたヤシの木は、幹が少しへこんでいた。
「すごいな、これ」
これなら、素手でも獣と戦えるかもしれない。
いや戦うのは最後の手段で、基本は逃げるに限る。
さて、これからどうするか。
まずは、安全な寝床の確保だ。
夜になって、獣に襲われたらたまらない。
それから、飲み水の確保も重要だ。
幸い、森が近い。川くらい、あるだろう。
俺は砂浜を歩き、森の入り口へと向かった。
森の中は、見たこともない植物が生い茂っている。
巨大なシダ植物や、色鮮やかな花があった。
日本の森とは、明らかに違う。
下手に食べると、毒があるかもしれない。
食料は、しばらく海で調達するのが安全そうだ。
俺は、森の中を慎重に進んでいく。
鳥の声や、虫の羽音が聞こえる。
生き物の気配は、とても濃厚だ。
しばらく歩くと、小さな川を見つけた。
水は、透き通っていてとても綺麗だ。
手ですくって、飲んでみる。
冷たくて、美味しい。
これで、飲み水は確保できた。
俺は川に沿って、上流へと歩を進める。
どこか、雨風をしのげる場所はないだろうか。
洞窟のような場所があれば、最高なんだが。
そう思いながら歩いていると、少し開けた場所に出た。
そこには、ちょうどいい感じの岩壁があった。
そしてその岩壁の根元に、人が一人入れそうな洞窟の入り口があった。
「おお、ラッキー」
俺は早速、中を調べてみることにした。
洞窟の中は、思ったよりも広かった。
大人二人が、寝転がれるくらいのスペースはある。
獣の匂いや、糞もない。
ここなら、安心して眠れそうだ。
今日の寝床は、ここに決まりだな。
俺は、ひとまず安心した。
さて、次は火の確保だ。
夜は冷えるだろうし、火があれば獣除けにもなる。
幸い周りには、乾いた枝や葉っぱがたくさん落ちている。
俺は、火口になりそうな乾いた苔や木の皮を集めた。
そして硬い木の枝を見つけて、火きりぎねを作る。
宿で子供向けの体験教室をやった時の知識が、こんな所で役立つとはな。
俺は火きり板に杵を当てて、両手で勢いよく回転させる。
すぐに、煙が立ち上り始めた。
神頑丈スキルのおかげか、腕が全く疲れない。
すごい勢いで杵を回し続けると、やがて火種が生まれた。
俺は慎重に火種を火口に移し、息を吹きかける。
ぼわっ、とオレンジ色の炎が燃え上がった。
「よし、ついた」
俺は洞窟の入り口近くに、石でかまどを作り火を安定させる。
パチパチと薪がはぜる音を聞いていると、なんだか落ち着いてきた。
空を見上げると、太陽がだいぶ傾いている。
そろそろ、夕食の準備をしないと。
腹が減っては、戦はできぬだ。
俺は海に戻って、何か食べられるものを探すことにした。
モリでもあれば、魚を突けるんだが今は何もない。
仕方ない、手づかみで何か捕まえるか。
俺はズボンの裾をまくり、浅瀬に入った。
岩場の影を探すと、カニやエビのような生き物がたくさんいた。
大きさも、結構でかい。
これは、美味そうだ。
俺は、手づかみでカニを捕まえる。
挟まれても、神頑丈スキルのおかげで全然痛くない。
面白いように、捕まえられる。
あっという間に、両手いっぱいのカニとエビが獲れた。
俺は獲物を空間収納に入れると、洞窟へと戻った。
かまどの火は、まだ元気に燃えている。
俺は近くにあった平たい石を火で熱し、即席の鉄板を作った。
そこに、捕まえたカニとエビを並べる。
じゅうじゅうと焼ける音が、食欲をそそる。
香ばしい匂いが、辺りに立ち込めた。
やがて、カニの甲羅が真っ赤に色づく。
うん、そろそろいいだろう。
俺は熱々のカニを手に取り、殻を割った。
中から、真っ白な身が顔を出す。
ふーふーと息を吹きかけて冷まし、一口食べる。
「美味い、!」
思わず、声が出た。
プリプリとした、食感。
噛むほどに広がる、濃厚な甘み。
塩も何もつけていないのに、絶妙な塩加減だ。
これは、今まで食べたどんなカニよりも美味いかもしれない。
エビも、同じく絶品だった。
夢中で獲物を平らげると、すっかり満腹になった。
空には満月が昇り、星がまたたいている。
人工の光が一切ないからか、星の数が尋常じゃない。
まるで、宝石をばらまいたようだ。
俺は燃えさかる焚き火を眺めながら、これからのことを考えた。
帰れないのは残念だが、この場所は悪くない。
海も森も豊かで、食料には困らなさそうだ。
何より、誰にも邪魔されない自由がある。
宿の仕事は好きだったが、客商売には気苦労も多かった。
ここでは、そんなストレスとは無縁だ。
「案外、スローライフを楽しめるかもな」
俺はそんなことを呟きながら、洞窟の中に作った枯れ葉のベッドに横になった。
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すぐに、俺は深い眠りに落ちていった。
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Fランク冒険者のアルディンは領主の息子であるザネリにそう吐き捨てられ、パーティーを追放されてしまう。
父親から譲り受けた大切なカードも奪われ、アルディンは失意のどん底に。
しばらくは冒険者稼業をやめて田舎でのんびり暮らそうと街を離れることにしたアルディンは、その道中、メイド姉妹が賊に襲われている光景を目撃する。
彼女たちを救い出す最中、突如として【神眼】が覚醒してしまう。
それはこのカード世界における掟すらもぶち壊してしまうほどの才能だった。
無事にメイド姉妹を助けたアルディンは、大きな屋敷で彼女たちと一緒に楽しく暮らすようになる。
【神眼】を使って楽々とカードを集めてまわり、召喚獣の万能スライムとも仲良くなって、やがて天災級ドラゴンを討伐するまでに成長し、アルディンはどんどん強くなっていく。
一方その頃、ザネリのパーティーでは仲間割れが起こっていた。
ダンジョン攻略も思うようにいかなくなり、ザネリはそこでようやくアルディンの重要さに気づく。
なんとか引き戻したいザネリは、アルディンにパーティーへ戻って来るように頼み込むのだったが……。
これは、かつてFランク冒険者だった青年が、チート能力を駆使してカード無双で成り上がり、やがて神話級改変者〈ルールブレイカー〉と呼ばれるようになるまでの人生逆転譚である。
勇者パーティーを追い出された大魔法導士、辺境の地でスローライフを満喫します ~特Aランクの最強魔法使い~
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クロード・ディスタンスは最強の魔法使い。しかしある日勇者パーティーを追放されてしまう。
勇者パーティーの一員として魔王退治をしてくると大口叩いて故郷を出てきた手前帰ることも出来ない俺は自分のことを誰も知らない辺境の地でひっそりと生きていくことを決めたのだった。
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