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第3話 賢者の若返りと空飛ぶ食材
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「おじいさん、大丈夫? いきなり倒れたりして」
私はフライパンを持ったまま、玄関先で土下座のような姿勢を保っている老人に声をかけた。
彼は私の顔を直視しようとして、あまりの眩しさに耐えかねたのか、すぐに目を逸らす。
その挙動は、まるで太陽を肉眼で見てしまった哀れな迷い人のようだ。
老人は地面に額を擦り付けたまま、震える声で何かを呟いている。
「お、おお……勿体なきお言葉……! 私はこの大陸を放浪する賢者アルバスと申す者」
「この死の森に、次元を揺るがすほどの神気が満ちたのを察知し、馳せ参じた次第です」
アルバスと名乗った老人は、震える手で地面をなぞっている。
指先が土に触れるたびに、彼は感電したかのようにビクビクと体を痙攣させていた。
「信じられん……この土、一粒一粒が聖遺物レベルの魔力を帯びている……」
「ここに生えている雑草一本で、隣国の病人が全員完治するほどの霊草ではないか……!」
「ああ、なんという奇跡。呼吸をするだけで、肺の中の穢れが浄化されていくのがわかる」
彼は涙を流しながら、私の足元の草を拝み始めた。
正直、ちょっと引く。
ただの観賞用に生やした花に、そこまでの価値があるとは到底思えない。
クロがトイレの後に土をかけた場所かもしれないのに、物好きな老人だ。
私は困ったように眉を下げ、足元で尻尾を振っているクロに視線を送る。
クロも「変な生き物が来たな」とでも言いたげに、小首を傾げていた。
「そんなことより、お腹空いてない? 今、ちょうどお肉が焼けたところなの」
私がそう提案すると、アルバスは「えっ」と間抜けな声を上げた。
彼は信じられないものを見る目で、私が持っているフライパンと、そこに乗っている肉塊を交互に見比べる。
「め、女神様の手料理を、この私が……? そ、そのような不敬、許されるはずが……」
「そんなことをしたら、魂が浄化されて昇天してしまいます!」
「大袈裟ね。ただの猪のお肉よ。冷めないうちに食べましょう」
私は無理やり彼を立たせ、クリスタルの椅子に座らせた。
テーブルの上には、大皿に盛った猪のステーキが湯気を立てている。
表面は香ばしい狐色に焼き上がり、断面からは透明な肉汁が溢れ出していた。
付け合わせには、庭で採れたばかりの色彩豊かな野菜を添えてある。
黄金色のポテト、ルビーのようなトマト、エメラルド色のブロッコリー。
どれもが宝石のように輝き、食欲をそそる香りを放っていた。
「さあ、召し上がれ」
私が促すと、アルバスは震える手でナイフとフォークを握った。
彼はまるで、爆発物を扱うかのような慎重さでナイフを入れる。
刃が肉に触れた瞬間、抵抗なくスッと沈み込んだ。
肉が柔らかすぎるのだ。
切り口から立ち上る芳醇な香りが、アルバスの鼻腔を直撃する。
彼は一度大きく深呼吸をし、意を決したように肉を口に運んだ。
その瞬間、彼の背後から黄金の後光が射したような錯覚に陥った。
いや、錯覚ではない。
実際に彼の毛穴という毛穴から、光が噴き出している。
「な、なんという……! これは肉ではない、生命の福音だ……!」
「んぐっ、んんっ……! 口の中で肉が溶けていく! 噛む必要すらない!」
「脂が甘い! それでいて、果実のように爽やかだ! これは本当に地上の豚なのか!?」
アルバスは目を見開き、恍惚の表情で叫び声を上げた。
一口食べるごとに、彼の体内でバチバチという音が鳴り響く。
それは、枯渇していた彼の魔力回路が、強制的に修復され、拡張されていく音だった。
「体内の魔力回路が、濁流のようなエネルギーで洗い流されていく……!」
「おおお、目が見える! 白内障で曇っていた視界が、水晶のようにクリアに!」
「昔患った腰痛も消えた! 古傷が塞がっていく! 力が、力が漲ってくるぞ!」
「若返る、私が若返っていくぞ!」
目の前で、信じがたい現象が起きた。
老人の純白の髭が、根元からみるみるうちに黒く染まっていく。
シミだらけだった肌が剥がれ落ち、下から赤子のようにツヤツヤとした肌が現れる。
曲がっていた背筋がピンと伸び、骨格そのものが全盛期の形へと組み変わっていく。
数分後、そこには三十代半ばほどの、精悍な顔立ちの魔導師が座っていた。
筋肉は隆起し、瞳には知性と活力が宿っている。
もはや、さっきまでの老いぼれた面影はどこにもない。
「……若返りすぎじゃない?」
私が呆れて呟くと、アルバス(若返り版)は、自分の両手を見つめて震えていた。
そして、ガタリと椅子を倒して立ち上がり、再び私の足元に跪いた。
今度は土下座ではなく、騎士が主君に捧げるような優雅な跪礼だ。
「エルナ様! どうか、私をあなたの末席に加えてください! この命、すべてあなたに捧げます!」
「このアルバス、世界最高の賢者と呼ばれた知識と魔法、そのすべてをもってあなた様にお仕えいたします!」
彼の瞳は、狂信的とも言える熱意で燃え上がっていた。
どうやら、ただの食事で彼の一生分の忠誠心を買ってしまったらしい。
まあ、この広い屋敷を一人で管理するのは大変そうだし、手伝ってくれる人がいるのは助かる。
掃除や洗濯、庭の手入れ。
やることは山積みだ。
「わかったわ。じゃあ、まずはこのお皿を洗っておいてくれる?」
「ははっ! 喜んで! この皿一枚、命に代えても磨き上げます!」
クロが隣で「チッ」と舌打ちをしたような気がしたが、見なかったことにする。
彼はアルバスを「獲物を奪うライバル」として認識しているようだ。
私が彼らの相手をしている間にも、私の脳内では通知が鳴り止まない。
【ハピネスポイント:3000】
【アルバスが配下に加わりました。拠点の防衛力が大幅に上昇します】
【新たな施設『聖泉の風呂』が建設可能になりました】
お風呂! それはいい。
この世界のお風呂は、ぬるいお湯を被るだけの不衛生なものが多いから、ずっと不満だったのだ。
温かいお湯に肩まで浸かり、手足を伸ばしてリラックスする。
想像するだけでうっとりしてしまう。
私は早速、邸宅の裏手に最高のバスルームを作るよう、心の中でシステムに念じた。
地下からゴゴゴと低い音が響き、建設が始まったようだ。
一方、その頃。
私を追放した旧王国・ラインハルト領では、阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていた。
王宮の会議室は、怒号と悲鳴で満たされていた。
壁に飾られた歴代王の肖像画は、湿気とカビで黒ずみ、見るも無惨な姿になっている。
窓の外には、かつて美しかった王都の惨状が広がっていた。
川は干上がり、ひび割れた底には魚の死骸が積み重なっている。
街路樹は枯れ木となり、風が吹くたびに枝が折れて人々の頭上に降り注ぐ。
空気は乾燥し、喉を焼くような砂埃が舞っていた。
ライナルト王太子は、報告書を机に叩きつけて激昂していた。
彼の顔色は土気色で、目の下には濃い隈が刻まれている。
かつての輝かしい金髪は、油と脂汗でベタリと額に張り付いていた。
「どういうことだ! なぜ国内の川がすべて干上がっている!?」
「貯水池の水が腐って飲めないだと? ワインを出せ! 水がなければワインを飲めばいいだろうが!」
彼は喚き散らすが、家臣たちは青ざめた顔で首を振るばかりだ。
「殿下、葡萄畑は全滅です……。実をつけるどころか、木そのものが塵になって崩れました」
「農作物は全滅、家畜も次々と倒れています。国民の三割が原因不明の魔力枯渇症で倒れました!」
「もう終わりです……この国は、神に見放されたのです!」
「黙れ! 神になど見放されていない! 私には『真の聖女』リリアがいる!」
ライナルトは血走った目で、部屋の隅にうずくまっている婚約者を睨みつけた。
リリアはボロボロのドレスを纏い、ガタガタと震えている。
彼女の自慢だったピンク色の髪は、色褪せてパサパサになっていた。
「そんな……私はちゃんと祈っているわよ! でも、大地が私の声を聞いてくれないの!」
「私の魔力を流しても、砂漠に水を撒くみたいに、一瞬で吸い込まれて消えちゃうのよぉ!」
「無能が! お前はエルナより優れた聖女だと言ったではないか!」
「お前の祈りが足りないからだ! もっと魔力を絞り出せ! 爪が剥がれるまで祈り続けろ!」
ライナルトはリリアの胸倉を掴み、激しく揺さぶる。
リリアは「ひっ……! ライナルト様、痛いです、腕を離して!」と悲鳴を上げた。
かつての甘い雰囲気は微塵もなく、二人は互いに責任をなすりつけ合っている。
彼らはまだ理解していない。
私がいたからこそ、この国の無秩序な魔力消費が成立していたという事実に。
私が歩くパワースポットのようなもので、存在するだけで周囲を活性化させていたのだ。
私の体から無自覚に漏れ出していた余剰魔力が、土壌を肥やし、水を清め、病を防いでいた。
その供給源を自ら断ち切ったのだから、国が滅びるのは必然だった。
今までは、私の「残り香」とも言える残留魔力がわずかに漂っていたため、かろうじて国の形を保てていただけだ。
だが、その残り香もついに底をついた。
今日、この瞬間から、本当の崩壊が始まる。
大地は本来の不毛な姿へと戻り、人々は自分たちの無力さを呪いながら干からびていくしかない。
そんな旧王国の惨状など、今の私にはどうでもいい。
美味しいお茶とお菓子があれば、それだけで世界は完璧なのだから。
「アルバス、食後のデザートにこれ食べてみて。さっき作ったイチゴのタルト」
私は切り分けたタルトを、若返った賢者の前に置いた。
タルト生地には、先ほど採取した黄金の小麦を使い、カスタードクリームには最高級のミルクと卵をたっぷりと使用している。
そして上には、宝石のように輝く真紅のイチゴが山のように盛られていた。
イチゴの甘酸っぱい香りが、部屋中に広がる。
「ははっ! ありがたく頂戴いたします! ……ぐおっ!? この甘み、魂が震える!」
アルバスは一口食べるごとに、椅子から転げ落ちんばかりの衝撃を受けている。
「生地のサクサク感と、クリームの濃厚な甘み……そしてイチゴの酸味が絶妙なハーモニーを奏でている!」
「これはただの菓子ではない……芸術だ! いや、奇跡の具現化だ!」
「食べるだけで、脳の処理速度が向上していく! 新しい魔法理論が、次々と頭に浮かんでくるぞ!」
そのオーバーなリアクションが面白くて、私は思わずクスクスと笑った。
クロは私の膝の上で丸まり、私の指を甘噛みして遊んでいる。
彼の口元には、タルトのクリームがちょっぴりついていて愛らしい。
「そういえばアルバス。この近くに、美味しいお水が湧いている場所はないかしら?」
私はふと思い立って尋ねた。
今の水も十分に美味しいけれど、これだけの食材が揃っているのだから、水にもこだわりたい。
最高級の紅茶を淹れるための、究極の水が欲しい。
「水……ですか? それなら北にある『氷竜の涙』という湖が有名ですが、今は魔物の巣窟で……」
「そこは、かつて神々が喉を潤したとされる聖域。ですが、数百年前に『氷竜アズール・ヘイズ』が住み着いて以来、何人たりとも近づけぬ極寒の地獄と化しております」
アルバスは顔をしかめて説明する。
極寒の地獄、か。
冷たい水が飲めるなら、少しくらい寒くても問題ない。
「氷竜? それ、美味しいかしら」
私の言葉に、アルバスが喉を鳴らした。
彼は私が何を言っているのか理解できないという顔をしている。
「……エルナ様。普通の人間は、竜を食材としては見ません」
「竜とは、崇めるか、恐怖する対象であり、決して皿の上に乗るものでは……」
「あら、そうなの? でも、クロがさっきから『竜のステーキが食べたい』って顔をしてるわよ」
私がクロを見ると、彼は「ワン!」と元気よく吠えた。
その瞳は、獲物を狙う狩人のように鋭く輝いている。
舌なめずりをして、完全に「おやつ」を見る目で窓の外を凝視していた。
クロが指し示した(鼻で示した)方向を見ると、空の彼方から何かが近づいてくるのが見えた。
周囲の雲を一瞬で凍らせ、大気を震わせながら飛来する巨大な影。
「グオオオオオオオオオッ!!」
咆哮とともに、気温が急激に下がる。
窓ガラスに氷の結晶が張り付き、庭の花々が恐怖で震え上がった。
空を覆い尽くさんばかりの巨大な翼。
陽光を反射して青白く輝く鱗。
それは、アルバスが恐れていた『氷竜アズール・ヘイズ』そのものだった。
どうやら、向こうから食材が歩いて(飛んで)きてくれたようだ。
わざわざデリバリーしてくれるなんて、なんて親切なドラゴンなのだろう。
私はナプキンで口元を拭い、優雅に立ち上がった。
「ちょうどいいわ。お肉のストックも欲しかったところだし、出迎えに行きましょうか」
私はフライパンを持ったまま、玄関先で土下座のような姿勢を保っている老人に声をかけた。
彼は私の顔を直視しようとして、あまりの眩しさに耐えかねたのか、すぐに目を逸らす。
その挙動は、まるで太陽を肉眼で見てしまった哀れな迷い人のようだ。
老人は地面に額を擦り付けたまま、震える声で何かを呟いている。
「お、おお……勿体なきお言葉……! 私はこの大陸を放浪する賢者アルバスと申す者」
「この死の森に、次元を揺るがすほどの神気が満ちたのを察知し、馳せ参じた次第です」
アルバスと名乗った老人は、震える手で地面をなぞっている。
指先が土に触れるたびに、彼は感電したかのようにビクビクと体を痙攣させていた。
「信じられん……この土、一粒一粒が聖遺物レベルの魔力を帯びている……」
「ここに生えている雑草一本で、隣国の病人が全員完治するほどの霊草ではないか……!」
「ああ、なんという奇跡。呼吸をするだけで、肺の中の穢れが浄化されていくのがわかる」
彼は涙を流しながら、私の足元の草を拝み始めた。
正直、ちょっと引く。
ただの観賞用に生やした花に、そこまでの価値があるとは到底思えない。
クロがトイレの後に土をかけた場所かもしれないのに、物好きな老人だ。
私は困ったように眉を下げ、足元で尻尾を振っているクロに視線を送る。
クロも「変な生き物が来たな」とでも言いたげに、小首を傾げていた。
「そんなことより、お腹空いてない? 今、ちょうどお肉が焼けたところなの」
私がそう提案すると、アルバスは「えっ」と間抜けな声を上げた。
彼は信じられないものを見る目で、私が持っているフライパンと、そこに乗っている肉塊を交互に見比べる。
「め、女神様の手料理を、この私が……? そ、そのような不敬、許されるはずが……」
「そんなことをしたら、魂が浄化されて昇天してしまいます!」
「大袈裟ね。ただの猪のお肉よ。冷めないうちに食べましょう」
私は無理やり彼を立たせ、クリスタルの椅子に座らせた。
テーブルの上には、大皿に盛った猪のステーキが湯気を立てている。
表面は香ばしい狐色に焼き上がり、断面からは透明な肉汁が溢れ出していた。
付け合わせには、庭で採れたばかりの色彩豊かな野菜を添えてある。
黄金色のポテト、ルビーのようなトマト、エメラルド色のブロッコリー。
どれもが宝石のように輝き、食欲をそそる香りを放っていた。
「さあ、召し上がれ」
私が促すと、アルバスは震える手でナイフとフォークを握った。
彼はまるで、爆発物を扱うかのような慎重さでナイフを入れる。
刃が肉に触れた瞬間、抵抗なくスッと沈み込んだ。
肉が柔らかすぎるのだ。
切り口から立ち上る芳醇な香りが、アルバスの鼻腔を直撃する。
彼は一度大きく深呼吸をし、意を決したように肉を口に運んだ。
その瞬間、彼の背後から黄金の後光が射したような錯覚に陥った。
いや、錯覚ではない。
実際に彼の毛穴という毛穴から、光が噴き出している。
「な、なんという……! これは肉ではない、生命の福音だ……!」
「んぐっ、んんっ……! 口の中で肉が溶けていく! 噛む必要すらない!」
「脂が甘い! それでいて、果実のように爽やかだ! これは本当に地上の豚なのか!?」
アルバスは目を見開き、恍惚の表情で叫び声を上げた。
一口食べるごとに、彼の体内でバチバチという音が鳴り響く。
それは、枯渇していた彼の魔力回路が、強制的に修復され、拡張されていく音だった。
「体内の魔力回路が、濁流のようなエネルギーで洗い流されていく……!」
「おおお、目が見える! 白内障で曇っていた視界が、水晶のようにクリアに!」
「昔患った腰痛も消えた! 古傷が塞がっていく! 力が、力が漲ってくるぞ!」
「若返る、私が若返っていくぞ!」
目の前で、信じがたい現象が起きた。
老人の純白の髭が、根元からみるみるうちに黒く染まっていく。
シミだらけだった肌が剥がれ落ち、下から赤子のようにツヤツヤとした肌が現れる。
曲がっていた背筋がピンと伸び、骨格そのものが全盛期の形へと組み変わっていく。
数分後、そこには三十代半ばほどの、精悍な顔立ちの魔導師が座っていた。
筋肉は隆起し、瞳には知性と活力が宿っている。
もはや、さっきまでの老いぼれた面影はどこにもない。
「……若返りすぎじゃない?」
私が呆れて呟くと、アルバス(若返り版)は、自分の両手を見つめて震えていた。
そして、ガタリと椅子を倒して立ち上がり、再び私の足元に跪いた。
今度は土下座ではなく、騎士が主君に捧げるような優雅な跪礼だ。
「エルナ様! どうか、私をあなたの末席に加えてください! この命、すべてあなたに捧げます!」
「このアルバス、世界最高の賢者と呼ばれた知識と魔法、そのすべてをもってあなた様にお仕えいたします!」
彼の瞳は、狂信的とも言える熱意で燃え上がっていた。
どうやら、ただの食事で彼の一生分の忠誠心を買ってしまったらしい。
まあ、この広い屋敷を一人で管理するのは大変そうだし、手伝ってくれる人がいるのは助かる。
掃除や洗濯、庭の手入れ。
やることは山積みだ。
「わかったわ。じゃあ、まずはこのお皿を洗っておいてくれる?」
「ははっ! 喜んで! この皿一枚、命に代えても磨き上げます!」
クロが隣で「チッ」と舌打ちをしたような気がしたが、見なかったことにする。
彼はアルバスを「獲物を奪うライバル」として認識しているようだ。
私が彼らの相手をしている間にも、私の脳内では通知が鳴り止まない。
【ハピネスポイント:3000】
【アルバスが配下に加わりました。拠点の防衛力が大幅に上昇します】
【新たな施設『聖泉の風呂』が建設可能になりました】
お風呂! それはいい。
この世界のお風呂は、ぬるいお湯を被るだけの不衛生なものが多いから、ずっと不満だったのだ。
温かいお湯に肩まで浸かり、手足を伸ばしてリラックスする。
想像するだけでうっとりしてしまう。
私は早速、邸宅の裏手に最高のバスルームを作るよう、心の中でシステムに念じた。
地下からゴゴゴと低い音が響き、建設が始まったようだ。
一方、その頃。
私を追放した旧王国・ラインハルト領では、阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていた。
王宮の会議室は、怒号と悲鳴で満たされていた。
壁に飾られた歴代王の肖像画は、湿気とカビで黒ずみ、見るも無惨な姿になっている。
窓の外には、かつて美しかった王都の惨状が広がっていた。
川は干上がり、ひび割れた底には魚の死骸が積み重なっている。
街路樹は枯れ木となり、風が吹くたびに枝が折れて人々の頭上に降り注ぐ。
空気は乾燥し、喉を焼くような砂埃が舞っていた。
ライナルト王太子は、報告書を机に叩きつけて激昂していた。
彼の顔色は土気色で、目の下には濃い隈が刻まれている。
かつての輝かしい金髪は、油と脂汗でベタリと額に張り付いていた。
「どういうことだ! なぜ国内の川がすべて干上がっている!?」
「貯水池の水が腐って飲めないだと? ワインを出せ! 水がなければワインを飲めばいいだろうが!」
彼は喚き散らすが、家臣たちは青ざめた顔で首を振るばかりだ。
「殿下、葡萄畑は全滅です……。実をつけるどころか、木そのものが塵になって崩れました」
「農作物は全滅、家畜も次々と倒れています。国民の三割が原因不明の魔力枯渇症で倒れました!」
「もう終わりです……この国は、神に見放されたのです!」
「黙れ! 神になど見放されていない! 私には『真の聖女』リリアがいる!」
ライナルトは血走った目で、部屋の隅にうずくまっている婚約者を睨みつけた。
リリアはボロボロのドレスを纏い、ガタガタと震えている。
彼女の自慢だったピンク色の髪は、色褪せてパサパサになっていた。
「そんな……私はちゃんと祈っているわよ! でも、大地が私の声を聞いてくれないの!」
「私の魔力を流しても、砂漠に水を撒くみたいに、一瞬で吸い込まれて消えちゃうのよぉ!」
「無能が! お前はエルナより優れた聖女だと言ったではないか!」
「お前の祈りが足りないからだ! もっと魔力を絞り出せ! 爪が剥がれるまで祈り続けろ!」
ライナルトはリリアの胸倉を掴み、激しく揺さぶる。
リリアは「ひっ……! ライナルト様、痛いです、腕を離して!」と悲鳴を上げた。
かつての甘い雰囲気は微塵もなく、二人は互いに責任をなすりつけ合っている。
彼らはまだ理解していない。
私がいたからこそ、この国の無秩序な魔力消費が成立していたという事実に。
私が歩くパワースポットのようなもので、存在するだけで周囲を活性化させていたのだ。
私の体から無自覚に漏れ出していた余剰魔力が、土壌を肥やし、水を清め、病を防いでいた。
その供給源を自ら断ち切ったのだから、国が滅びるのは必然だった。
今までは、私の「残り香」とも言える残留魔力がわずかに漂っていたため、かろうじて国の形を保てていただけだ。
だが、その残り香もついに底をついた。
今日、この瞬間から、本当の崩壊が始まる。
大地は本来の不毛な姿へと戻り、人々は自分たちの無力さを呪いながら干からびていくしかない。
そんな旧王国の惨状など、今の私にはどうでもいい。
美味しいお茶とお菓子があれば、それだけで世界は完璧なのだから。
「アルバス、食後のデザートにこれ食べてみて。さっき作ったイチゴのタルト」
私は切り分けたタルトを、若返った賢者の前に置いた。
タルト生地には、先ほど採取した黄金の小麦を使い、カスタードクリームには最高級のミルクと卵をたっぷりと使用している。
そして上には、宝石のように輝く真紅のイチゴが山のように盛られていた。
イチゴの甘酸っぱい香りが、部屋中に広がる。
「ははっ! ありがたく頂戴いたします! ……ぐおっ!? この甘み、魂が震える!」
アルバスは一口食べるごとに、椅子から転げ落ちんばかりの衝撃を受けている。
「生地のサクサク感と、クリームの濃厚な甘み……そしてイチゴの酸味が絶妙なハーモニーを奏でている!」
「これはただの菓子ではない……芸術だ! いや、奇跡の具現化だ!」
「食べるだけで、脳の処理速度が向上していく! 新しい魔法理論が、次々と頭に浮かんでくるぞ!」
そのオーバーなリアクションが面白くて、私は思わずクスクスと笑った。
クロは私の膝の上で丸まり、私の指を甘噛みして遊んでいる。
彼の口元には、タルトのクリームがちょっぴりついていて愛らしい。
「そういえばアルバス。この近くに、美味しいお水が湧いている場所はないかしら?」
私はふと思い立って尋ねた。
今の水も十分に美味しいけれど、これだけの食材が揃っているのだから、水にもこだわりたい。
最高級の紅茶を淹れるための、究極の水が欲しい。
「水……ですか? それなら北にある『氷竜の涙』という湖が有名ですが、今は魔物の巣窟で……」
「そこは、かつて神々が喉を潤したとされる聖域。ですが、数百年前に『氷竜アズール・ヘイズ』が住み着いて以来、何人たりとも近づけぬ極寒の地獄と化しております」
アルバスは顔をしかめて説明する。
極寒の地獄、か。
冷たい水が飲めるなら、少しくらい寒くても問題ない。
「氷竜? それ、美味しいかしら」
私の言葉に、アルバスが喉を鳴らした。
彼は私が何を言っているのか理解できないという顔をしている。
「……エルナ様。普通の人間は、竜を食材としては見ません」
「竜とは、崇めるか、恐怖する対象であり、決して皿の上に乗るものでは……」
「あら、そうなの? でも、クロがさっきから『竜のステーキが食べたい』って顔をしてるわよ」
私がクロを見ると、彼は「ワン!」と元気よく吠えた。
その瞳は、獲物を狙う狩人のように鋭く輝いている。
舌なめずりをして、完全に「おやつ」を見る目で窓の外を凝視していた。
クロが指し示した(鼻で示した)方向を見ると、空の彼方から何かが近づいてくるのが見えた。
周囲の雲を一瞬で凍らせ、大気を震わせながら飛来する巨大な影。
「グオオオオオオオオオッ!!」
咆哮とともに、気温が急激に下がる。
窓ガラスに氷の結晶が張り付き、庭の花々が恐怖で震え上がった。
空を覆い尽くさんばかりの巨大な翼。
陽光を反射して青白く輝く鱗。
それは、アルバスが恐れていた『氷竜アズール・ヘイズ』そのものだった。
どうやら、向こうから食材が歩いて(飛んで)きてくれたようだ。
わざわざデリバリーしてくれるなんて、なんて親切なドラゴンなのだろう。
私はナプキンで口元を拭い、優雅に立ち上がった。
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結婚三年目の春、エマは伯爵家の夫アンドレオから突然、側室を迎える話を告げられる。子をなせなかったことを理由に、彼女は僅かな補償のみで離縁された。妻として過ごした三年間は「無価値だった」と突きつけられ、エマは貴族社会から静かに切り捨てられる。
また実家の父母の墓参りに行くと、当主になっていた兄に離縁金を奪われてしまう。
大ピンチのエマには、秘密があった。なんと彼女は幼少期に前世の記憶を思い出していたのだ。
かつて観光地で石を磨き、アクセサリーを作り、人に喜ばれる仕事をしていた人生。何も持たない今だからこそ、もう一度「自分の手で生きる」ことを選び、あの人が住む商業国家スペイラ帝国へ向かう決意をする。
国境への道中、盗賊に襲われるが、護衛兵ロドリゲスの活躍で難を逃れる。彼の誠実な態度に、エマは「守られる価値のある存在」として扱われたことに胸を打たれた。
スペイラ帝国では身分に縛られず働ける。エマは前世の技術を活かし、石を磨いてアクセサリーを作る小さな露店を始める。石に意味を込めた腕輪やペンダントは人々の心を掴み、体験教室も開かれるようになる。伯爵夫人だった頃よりも、今の方がずっと「生きている」と実感していた。
ある朝、ロドリゲスが市場を訪れ、エマの作ったタイガーアイの腕輪を購入する。ところがその夜、彼は驚いた様子で戻り、腕輪が力を一・五倍に高める魔道具だと判明したと告げる。エマ自身は無意識だったが、彼女の作るアクセサリーには確かな力が宿っていた。
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