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父が遺した未完の料理「宝寄せ」が、深川の町の人々の心を一つにしたあの温かい夜から、季節は静かに巡っていた。良太があの日、皆の前で語った父の料理への想いは、やわらぎ亭の新しい魂となり、店の隅々まで温かい光で満たしているようだった。
やわらぎ亭の暖簾の重みを、私は以前にも増して愛おしく感じていた。
初雪がちらちらと舞い落ち、江戸の町が白銀の化粧を施された冬のある日。店の戸が静かに開き、金さんが一人の若者を伴って姿を現した。その若者の顔を見て、私と良太は思わず息をのんだ。
年の頃は二十代半ばだろうか。質素ながらも上質な着物を粋に着こなし、その佇まいには隠しきれない気品と、以前会った時よりもずっと逞しくなった自信がみなぎっている。
水戸の若様だった。
「ご無沙汰しております、おし乃殿、良太殿」
その涼やかで、しかし力強い声。かつてのどこか影のある表情はなく、その顔には国の未来を担う者としての覚悟と、民を想う優しさが溢れていた。
「若様……! よくぞ、お越しくださいました」
「うむ。江戸へ戻ってきて、真っ先にそなたたちの顔が見たくなった。そして、あの忘れられぬやわらぎ亭の味を、もう一度味わいたくてな」
若様は懐かしそうに店内を見回し、にこりと微笑まれた。
「今日は、堅苦しい挨拶は抜きじゃ。ただの腹を空かせた江戸の若者として、腹一杯、そなたたちの飯を食わせてはくれぬか」
その気さくなお言葉に、私と良太の緊張もふっと和らいだ。
「はい! 喜んで!」
良太が、これまでで一番元気な声で返事をした。
「して、若様。今宵は何を召し上がりますか?」
「うむ。以前いただいた、そなたの『やわらぎ粥』と『きんぴらごぼう』の味が忘れられぬ。だが、今宵は何か、この江戸の冬の厳しさの中にある、人の温もりを感じられるような、そんな一品を所望したい」
人の温もりを感じられる一品。
そのお言葉を聞いた瞬間、私の心は決まった。
今こそ、あの料理を再び作る時だ。
「かしこまりました。……では今宵、このやわらぎ亭の、そしてこの深川の町の、全ての心を込めた一膳をご用意させていただきます」
私の言葉に、若様は興味深そうに目を輝かせた。
「ほう、それは楽しみじゃな」
私は良太に向き直った。
「良太。皆を呼んできておくれ。今宵、私たちは再び、あの『宝寄せ』を作るのです」
「はい、おし乃さん!」
良太は弾かれたように店を飛び出していった。
やがて、彼の呼びかけに応じ、店の常連たちが一人、また一人とやわらぎ亭に集まってきた。八百屋の忠吉さん、指物師の源五郎さん親子、火消しの弥之助、そして漬物屋のお涼さん。誰もが、何事かと顔を見合わせている。
私は皆の前に深々と頭を下げた。
「皆様。今宵、このやわらぎ亭に、水戸の若様がお見えです。そして私は、若様のために、以前皆様のお力をお借りして完成させた、あの『宝寄せ』を再び作りたいのです。どうか、もう一度、皆様のお力をお貸しいただけないでしょうか」
私の必死の頼みに、常連たちは一瞬きょとんとしていたが、やがて、どちらからともなく、にやりと笑った。
「おう、面白えじゃねえか!」
弥之助が威勢よく拳を突き上げる。
「水戸の若様にかい! そいつは、腕が鳴るってもんだ!」
「そうだそうだ。この深川の人情、若様にもとくと味わってもらおうじゃねえか!」
忠吉さんも源五郎さんも力強く胸を叩く。
こうして、若様をお迎えする、一夜限りの特別な「宝寄せ」作りが始まった。
「おう、おし乃さん、良太! とびきり上等な聖護院かぶ、持ってきたぜ!」
忠吉さんが息を切らせて店に運び込んできたのは、赤子ほどの大きさもある見事なかぶだった。
「親父、出番だな」
「おうよ」
指物師の源五郎さん親子が、年季の入った鑿を手に、そのかぶを見事な器へと変えていく。
「海のものなら任せとけ!」
弥之助が、懇意にしている漁師から分けてもらったという、活きの良い車海老と帆立を威勢よく差し出す。
「あたしの糠漬けも、忘れちゃいけないよ」
お涼さんが、箸休めにぴったりの、美しい浅漬けを大皿に盛り付けてくれる。
私と良太は、それらの皆の心がこもった「宝」を、一つ一つ丁寧に下ごしらえしていく。それぞれの持ち味が最大限に生きるように。そして、その全てが完璧に調和するように。
炊き場は、様々な食材の香りと、人々の熱気、そして温かい笑い声で満ち溢れていた。
その光景を、若様はただ静かに、しかしこの上なく幸せそうな顔で見守っておられた。
全ての準備が整った。かぶの器に、色とりどりの宝が詰められていく。それらを結びつけるのは、やわらぎ亭自慢の一番出汁でといた、黄金色の葛餡だ。
大きな蒸篭から湯気がもうもうと立ち上る。その中に、宝の詰まったかぶの器が静かに納められた。
やがて、蒸篭からふわりと豊かで気品のある香りが立ち上ってきた。機は熟した。私は深呼吸を一つして、蒸篭の蓋にそっと手をかけた。
湯気の中から現れたのは、透き通るように美しく蒸しあがった聖護院かぶの器。その蓋を、良太が震える手でそっと開ける。
その瞬間、誰もが息をのんだ。かぶの器の中には、色とりどりの山海の幸がきらきらと輝き、それら全てを包む黄金色の餡が湯気と共に輝きを放っている。
「……見事じゃ」
若様が、感嘆の声を漏らした。
私はその「宝寄せ」を、若様の前にそっと差し出す。
「さあ、どうぞ。私たちの、心の味を」
若様は厳かな気持ちで、その一皿に向き合われた。そして一口、口に運ばれた瞬間、その目が驚きと感動に大きく見開かれた。
「うまい……。なんと、温かい味じゃ……。それぞれの食材の味がしっかりと生きている。それでいて、その全てが、一つの完璧な調和を生み出しておる。……そして何よりも、この味の奥に……この場にいる、全ての者の温かい心が、確かに感じられる……」
若様の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……儂は、目が覚めた。……この日ノ本を本当に支えておるのは、城にいる我らではない。こうして日々を懸命に生き、互いを思いやり、助け合って生きる、名もなき民草の、この温かい心なのだと。……民の力こそ、この国のまことの宝じゃ……!」
その力強いお言葉。
店の誰もが、胸を熱くしていた。
一杯の「宝寄せ」が、若き指導者の心に、この国の真の姿を教えたのだ。
私は涙で潤む目で、店の壁に飾られた父の古い包丁をそっと見上げた。父の満足そうな、優しい笑顔が見えた気がした。
このやわらぎ亭に集う人々の縁こそが、父が遺してくれた、何物にも代えがたい最高の「宝」なのだと、私は改めて確信するのだった。
やわらぎ亭の暖簾の重みを、私は以前にも増して愛おしく感じていた。
初雪がちらちらと舞い落ち、江戸の町が白銀の化粧を施された冬のある日。店の戸が静かに開き、金さんが一人の若者を伴って姿を現した。その若者の顔を見て、私と良太は思わず息をのんだ。
年の頃は二十代半ばだろうか。質素ながらも上質な着物を粋に着こなし、その佇まいには隠しきれない気品と、以前会った時よりもずっと逞しくなった自信がみなぎっている。
水戸の若様だった。
「ご無沙汰しております、おし乃殿、良太殿」
その涼やかで、しかし力強い声。かつてのどこか影のある表情はなく、その顔には国の未来を担う者としての覚悟と、民を想う優しさが溢れていた。
「若様……! よくぞ、お越しくださいました」
「うむ。江戸へ戻ってきて、真っ先にそなたたちの顔が見たくなった。そして、あの忘れられぬやわらぎ亭の味を、もう一度味わいたくてな」
若様は懐かしそうに店内を見回し、にこりと微笑まれた。
「今日は、堅苦しい挨拶は抜きじゃ。ただの腹を空かせた江戸の若者として、腹一杯、そなたたちの飯を食わせてはくれぬか」
その気さくなお言葉に、私と良太の緊張もふっと和らいだ。
「はい! 喜んで!」
良太が、これまでで一番元気な声で返事をした。
「して、若様。今宵は何を召し上がりますか?」
「うむ。以前いただいた、そなたの『やわらぎ粥』と『きんぴらごぼう』の味が忘れられぬ。だが、今宵は何か、この江戸の冬の厳しさの中にある、人の温もりを感じられるような、そんな一品を所望したい」
人の温もりを感じられる一品。
そのお言葉を聞いた瞬間、私の心は決まった。
今こそ、あの料理を再び作る時だ。
「かしこまりました。……では今宵、このやわらぎ亭の、そしてこの深川の町の、全ての心を込めた一膳をご用意させていただきます」
私の言葉に、若様は興味深そうに目を輝かせた。
「ほう、それは楽しみじゃな」
私は良太に向き直った。
「良太。皆を呼んできておくれ。今宵、私たちは再び、あの『宝寄せ』を作るのです」
「はい、おし乃さん!」
良太は弾かれたように店を飛び出していった。
やがて、彼の呼びかけに応じ、店の常連たちが一人、また一人とやわらぎ亭に集まってきた。八百屋の忠吉さん、指物師の源五郎さん親子、火消しの弥之助、そして漬物屋のお涼さん。誰もが、何事かと顔を見合わせている。
私は皆の前に深々と頭を下げた。
「皆様。今宵、このやわらぎ亭に、水戸の若様がお見えです。そして私は、若様のために、以前皆様のお力をお借りして完成させた、あの『宝寄せ』を再び作りたいのです。どうか、もう一度、皆様のお力をお貸しいただけないでしょうか」
私の必死の頼みに、常連たちは一瞬きょとんとしていたが、やがて、どちらからともなく、にやりと笑った。
「おう、面白えじゃねえか!」
弥之助が威勢よく拳を突き上げる。
「水戸の若様にかい! そいつは、腕が鳴るってもんだ!」
「そうだそうだ。この深川の人情、若様にもとくと味わってもらおうじゃねえか!」
忠吉さんも源五郎さんも力強く胸を叩く。
こうして、若様をお迎えする、一夜限りの特別な「宝寄せ」作りが始まった。
「おう、おし乃さん、良太! とびきり上等な聖護院かぶ、持ってきたぜ!」
忠吉さんが息を切らせて店に運び込んできたのは、赤子ほどの大きさもある見事なかぶだった。
「親父、出番だな」
「おうよ」
指物師の源五郎さん親子が、年季の入った鑿を手に、そのかぶを見事な器へと変えていく。
「海のものなら任せとけ!」
弥之助が、懇意にしている漁師から分けてもらったという、活きの良い車海老と帆立を威勢よく差し出す。
「あたしの糠漬けも、忘れちゃいけないよ」
お涼さんが、箸休めにぴったりの、美しい浅漬けを大皿に盛り付けてくれる。
私と良太は、それらの皆の心がこもった「宝」を、一つ一つ丁寧に下ごしらえしていく。それぞれの持ち味が最大限に生きるように。そして、その全てが完璧に調和するように。
炊き場は、様々な食材の香りと、人々の熱気、そして温かい笑い声で満ち溢れていた。
その光景を、若様はただ静かに、しかしこの上なく幸せそうな顔で見守っておられた。
全ての準備が整った。かぶの器に、色とりどりの宝が詰められていく。それらを結びつけるのは、やわらぎ亭自慢の一番出汁でといた、黄金色の葛餡だ。
大きな蒸篭から湯気がもうもうと立ち上る。その中に、宝の詰まったかぶの器が静かに納められた。
やがて、蒸篭からふわりと豊かで気品のある香りが立ち上ってきた。機は熟した。私は深呼吸を一つして、蒸篭の蓋にそっと手をかけた。
湯気の中から現れたのは、透き通るように美しく蒸しあがった聖護院かぶの器。その蓋を、良太が震える手でそっと開ける。
その瞬間、誰もが息をのんだ。かぶの器の中には、色とりどりの山海の幸がきらきらと輝き、それら全てを包む黄金色の餡が湯気と共に輝きを放っている。
「……見事じゃ」
若様が、感嘆の声を漏らした。
私はその「宝寄せ」を、若様の前にそっと差し出す。
「さあ、どうぞ。私たちの、心の味を」
若様は厳かな気持ちで、その一皿に向き合われた。そして一口、口に運ばれた瞬間、その目が驚きと感動に大きく見開かれた。
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その力強いお言葉。
店の誰もが、胸を熱くしていた。
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