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「それだけです」と言い切った声には、誤魔化しの余地がなかった。私は鍋の縁を拭いながら、彼の箸の動きを目で追う。ぎこちないながらも、一口ごとに力が戻っていくのがわかった。喉を鳴らす音も、咀嚼の仕草も、誰に見せるでもなく真っ直ぐで、空腹というものの正体がよく見える。
「おかわりは?」
私が尋ねると、彼は一瞬目を見開いたが、すぐに深く頭を下げた。
「……頂けるなら」
「もちろん」
炊き場の釜には、まだ余裕があった。しゃもじを入れると、ほかほかとした飯が気持ちよく浮いてくる。艶のある白に混じって、少しだけ焦げの香りもある。彼の椀に盛るとき、わざと底の焦げを少し入れてやった。香ばしさが、食の喜びを引き立てる。
「……うまいです」
ぽつりと落ちたその言葉に、私は答えなかった。うまいという言葉は、言った本人の身体に還るものだ。私がうまいと思わせようとして作るのではない。自然にそう思えたなら、それが一番いい。
金四郎が箸を置いた。ふと目が合ったが、何も言わず、ただ頷くだけだった。奥で湯が静かに鳴っている。店の外では、少しだけ風の音が和らいできた。
「どこから?」
弥之助が問う。彼はこう見えて、話を引き出すのがうまい。
「……西の口入屋の裏にあった長屋に、いたんです。親方のところで見習いをしてました。でも、先月……あの方が、倒れて」
「で、行き場がなくなったと」
「はい」
「親方、名前は?」
「杉内藤兵衛さん。……左官の親方です」
「……ああ、あの人か。ずいぶんと丁寧な仕事をする方だった。年のわりに腰も強くて」
弥之助が腕を組んで頷いた。金四郎も目を細める。
「確か、去年の秋に、永代橋の欄干の補修を任されていたな。仕上がりを見て、役所の者が感心していたのを覚えている」
「……そうなんです。親方、すごく腕がよくて。でも、無理がたたったのか、急に胸を押さえて、倒れて……」
「それから?」
「奥さんは、もうだいぶ前に亡くしてて。息子さんが一人いたんですが、江戸にゃいなくて……だから、葬式のあと、職人衆もみんな、ばらばらに……」
言葉が詰まる。椀を見つめたまま、箸が止まった。
「……三日、何も食べず?」
「最初の一日は、親方のとこの米櫃に、少し残ってました。でも、それもすぐになくなって。翌日は、裏長屋の人が握り飯を……でも、もう、誰にも、もらう顔もなくて」
「なら、盗む手もあったはずだ」
金四郎の声が、ほんの少し低くなった。男はびくりと肩をすくめる。
「それだけは、したくなかったんです。親方に……叩き込まれましたから。『仕事がなくなっても、手だけは汚すな』って……」
「それで、うちに?」
「はい……うわさを、聞いて……『やわらぎ亭は、腹が減った人を追い返さない』って」
「……誰がそんなことを?」
「わかりません。でも……そういう話だけが、頼りで」
私は何も言わず、空になった椀を受け取った。重さが、ほとんど感じられなかった。腹を満たすというのは、物理の話ではない。心の話だ。
「名前は?」
「良太……です」
「良太さん」
私は釜の底に残った飯をすくい、ほんのひと口分を小鉢に移した。それを囲炉裏の火に当て、軽く焦げ目をつける。干し大根の漬物を添えて、小さな膳に乗せた。
「これを食べたら、少し、休みましょう。裏に、畳のある小部屋があります。火のそばなら、冷えもましになりますから」
「でも……こんな、恩を」
「恩ではありません。……ただの、日常です」
私は目をそらさずに言った。良太は黙って膳を受け取り、深く頭を下げた。その背が、かすかに震えていたのは、寒さだけではなかったと思う。
「……いい話だな」
弥之助がぽつりと言った。
「いや、本当に」
金四郎も、それに続いた。
私はふたりに背を向け、釜に湯を足した。冷たい空気が、戸の隙間から忍び込む。けれど、それを追い出すほどの湯気が、もう店の中に満ちている。
「それにしても」
金四郎の声が、湯の音に紛れて聞こえた。
「やわらぎ亭の名も、随分と広がっているものだ」
「……嬉しいような、怖いような」
「なぜ?」
「誰にでも来てもらえる店にしたい。でも、誰にでも知られる店になったら、いずれ守りきれなくなる」
「ふむ。……難しいものだな」
「だからこそ、味を変えないことだけが、わたしの役目です」
「それができる人は、案外少ない」
私は返事をせず、また釜の中をかき混ぜた。火の加減を見て、蓋を閉じる。さっきの風で乱れた炭を直し、囲炉裏の灰を整える。そういうことの一つ一つが、店の空気を作る。
「さて……」
弥之助が立ち上がった。懐から銭を出し、膳の脇に置く。
「今日も、ありがとよ。……心まで腹がふくれた」
「お気をつけて」
「うん。また来る。明日も火事がなければいいがな」
冗談めかして言いながら、彼は店を出た。戸を開けると、風はすでに穏やかだった。
「おし乃さん」
金四郎が声をかけてきた。
「何でしょう」
「今度、店に名簿をつけてみたらどうだ?」
「名簿、ですか?」
「どんな人が、どんな時に来て、何を食べて、どんな顔をして帰ったか。……それを残しておけば、いつか必ず、助けになる」
「助け……何の?」
「人の記憶には限りがある。でも、字にして残せば、あんたの“見たもの”はずっと消えない」
「……わたしの見たもの、ですか」
「そう。たとえば今日の良太という男のこと。忘れるには惜しい話だった」
「……確かに、そうですね」
「記録は、あんたにしか書けない。味の記憶も、心の機微も。だから、書いてみたらどうだろうと思っただけさ」
「検討してみます」
私はそれだけ言って、炊き場に戻った。帳面を置く場所くらい、すぐに作れる。筆も墨もある。ただ、何を書くのか。それを考えるには、まだ少し時間が要る気がした。
「おかわりは?」
私が尋ねると、彼は一瞬目を見開いたが、すぐに深く頭を下げた。
「……頂けるなら」
「もちろん」
炊き場の釜には、まだ余裕があった。しゃもじを入れると、ほかほかとした飯が気持ちよく浮いてくる。艶のある白に混じって、少しだけ焦げの香りもある。彼の椀に盛るとき、わざと底の焦げを少し入れてやった。香ばしさが、食の喜びを引き立てる。
「……うまいです」
ぽつりと落ちたその言葉に、私は答えなかった。うまいという言葉は、言った本人の身体に還るものだ。私がうまいと思わせようとして作るのではない。自然にそう思えたなら、それが一番いい。
金四郎が箸を置いた。ふと目が合ったが、何も言わず、ただ頷くだけだった。奥で湯が静かに鳴っている。店の外では、少しだけ風の音が和らいできた。
「どこから?」
弥之助が問う。彼はこう見えて、話を引き出すのがうまい。
「……西の口入屋の裏にあった長屋に、いたんです。親方のところで見習いをしてました。でも、先月……あの方が、倒れて」
「で、行き場がなくなったと」
「はい」
「親方、名前は?」
「杉内藤兵衛さん。……左官の親方です」
「……ああ、あの人か。ずいぶんと丁寧な仕事をする方だった。年のわりに腰も強くて」
弥之助が腕を組んで頷いた。金四郎も目を細める。
「確か、去年の秋に、永代橋の欄干の補修を任されていたな。仕上がりを見て、役所の者が感心していたのを覚えている」
「……そうなんです。親方、すごく腕がよくて。でも、無理がたたったのか、急に胸を押さえて、倒れて……」
「それから?」
「奥さんは、もうだいぶ前に亡くしてて。息子さんが一人いたんですが、江戸にゃいなくて……だから、葬式のあと、職人衆もみんな、ばらばらに……」
言葉が詰まる。椀を見つめたまま、箸が止まった。
「……三日、何も食べず?」
「最初の一日は、親方のとこの米櫃に、少し残ってました。でも、それもすぐになくなって。翌日は、裏長屋の人が握り飯を……でも、もう、誰にも、もらう顔もなくて」
「なら、盗む手もあったはずだ」
金四郎の声が、ほんの少し低くなった。男はびくりと肩をすくめる。
「それだけは、したくなかったんです。親方に……叩き込まれましたから。『仕事がなくなっても、手だけは汚すな』って……」
「それで、うちに?」
「はい……うわさを、聞いて……『やわらぎ亭は、腹が減った人を追い返さない』って」
「……誰がそんなことを?」
「わかりません。でも……そういう話だけが、頼りで」
私は何も言わず、空になった椀を受け取った。重さが、ほとんど感じられなかった。腹を満たすというのは、物理の話ではない。心の話だ。
「名前は?」
「良太……です」
「良太さん」
私は釜の底に残った飯をすくい、ほんのひと口分を小鉢に移した。それを囲炉裏の火に当て、軽く焦げ目をつける。干し大根の漬物を添えて、小さな膳に乗せた。
「これを食べたら、少し、休みましょう。裏に、畳のある小部屋があります。火のそばなら、冷えもましになりますから」
「でも……こんな、恩を」
「恩ではありません。……ただの、日常です」
私は目をそらさずに言った。良太は黙って膳を受け取り、深く頭を下げた。その背が、かすかに震えていたのは、寒さだけではなかったと思う。
「……いい話だな」
弥之助がぽつりと言った。
「いや、本当に」
金四郎も、それに続いた。
私はふたりに背を向け、釜に湯を足した。冷たい空気が、戸の隙間から忍び込む。けれど、それを追い出すほどの湯気が、もう店の中に満ちている。
「それにしても」
金四郎の声が、湯の音に紛れて聞こえた。
「やわらぎ亭の名も、随分と広がっているものだ」
「……嬉しいような、怖いような」
「なぜ?」
「誰にでも来てもらえる店にしたい。でも、誰にでも知られる店になったら、いずれ守りきれなくなる」
「ふむ。……難しいものだな」
「だからこそ、味を変えないことだけが、わたしの役目です」
「それができる人は、案外少ない」
私は返事をせず、また釜の中をかき混ぜた。火の加減を見て、蓋を閉じる。さっきの風で乱れた炭を直し、囲炉裏の灰を整える。そういうことの一つ一つが、店の空気を作る。
「さて……」
弥之助が立ち上がった。懐から銭を出し、膳の脇に置く。
「今日も、ありがとよ。……心まで腹がふくれた」
「お気をつけて」
「うん。また来る。明日も火事がなければいいがな」
冗談めかして言いながら、彼は店を出た。戸を開けると、風はすでに穏やかだった。
「おし乃さん」
金四郎が声をかけてきた。
「何でしょう」
「今度、店に名簿をつけてみたらどうだ?」
「名簿、ですか?」
「どんな人が、どんな時に来て、何を食べて、どんな顔をして帰ったか。……それを残しておけば、いつか必ず、助けになる」
「助け……何の?」
「人の記憶には限りがある。でも、字にして残せば、あんたの“見たもの”はずっと消えない」
「……わたしの見たもの、ですか」
「そう。たとえば今日の良太という男のこと。忘れるには惜しい話だった」
「……確かに、そうですね」
「記録は、あんたにしか書けない。味の記憶も、心の機微も。だから、書いてみたらどうだろうと思っただけさ」
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