【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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「それだけです」と言い切った声には、誤魔化しの余地がなかった。私は鍋の縁を拭いながら、彼の箸の動きを目で追う。ぎこちないながらも、一口ごとに力が戻っていくのがわかった。喉を鳴らす音も、咀嚼の仕草も、誰に見せるでもなく真っ直ぐで、空腹というものの正体がよく見える。

「おかわりは?」

私が尋ねると、彼は一瞬目を見開いたが、すぐに深く頭を下げた。

「……頂けるなら」

「もちろん」

炊き場の釜には、まだ余裕があった。しゃもじを入れると、ほかほかとした飯が気持ちよく浮いてくる。艶のある白に混じって、少しだけ焦げの香りもある。彼の椀に盛るとき、わざと底の焦げを少し入れてやった。香ばしさが、食の喜びを引き立てる。

「……うまいです」

ぽつりと落ちたその言葉に、私は答えなかった。うまいという言葉は、言った本人の身体に還るものだ。私がうまいと思わせようとして作るのではない。自然にそう思えたなら、それが一番いい。

金四郎が箸を置いた。ふと目が合ったが、何も言わず、ただ頷くだけだった。奥で湯が静かに鳴っている。店の外では、少しだけ風の音が和らいできた。

「どこから?」

弥之助が問う。彼はこう見えて、話を引き出すのがうまい。

「……西の口入屋の裏にあった長屋に、いたんです。親方のところで見習いをしてました。でも、先月……あの方が、倒れて」

「で、行き場がなくなったと」

「はい」

「親方、名前は?」

「杉内藤兵衛さん。……左官の親方です」

「……ああ、あの人か。ずいぶんと丁寧な仕事をする方だった。年のわりに腰も強くて」

弥之助が腕を組んで頷いた。金四郎も目を細める。

「確か、去年の秋に、永代橋の欄干の補修を任されていたな。仕上がりを見て、役所の者が感心していたのを覚えている」

「……そうなんです。親方、すごく腕がよくて。でも、無理がたたったのか、急に胸を押さえて、倒れて……」

「それから?」

「奥さんは、もうだいぶ前に亡くしてて。息子さんが一人いたんですが、江戸にゃいなくて……だから、葬式のあと、職人衆もみんな、ばらばらに……」

言葉が詰まる。椀を見つめたまま、箸が止まった。

「……三日、何も食べず?」

「最初の一日は、親方のとこの米櫃に、少し残ってました。でも、それもすぐになくなって。翌日は、裏長屋の人が握り飯を……でも、もう、誰にも、もらう顔もなくて」

「なら、盗む手もあったはずだ」

金四郎の声が、ほんの少し低くなった。男はびくりと肩をすくめる。

「それだけは、したくなかったんです。親方に……叩き込まれましたから。『仕事がなくなっても、手だけは汚すな』って……」

「それで、うちに?」

「はい……うわさを、聞いて……『やわらぎ亭は、腹が減った人を追い返さない』って」

「……誰がそんなことを?」

「わかりません。でも……そういう話だけが、頼りで」

私は何も言わず、空になった椀を受け取った。重さが、ほとんど感じられなかった。腹を満たすというのは、物理の話ではない。心の話だ。

「名前は?」

「良太……です」

「良太さん」

私は釜の底に残った飯をすくい、ほんのひと口分を小鉢に移した。それを囲炉裏の火に当て、軽く焦げ目をつける。干し大根の漬物を添えて、小さな膳に乗せた。

「これを食べたら、少し、休みましょう。裏に、畳のある小部屋があります。火のそばなら、冷えもましになりますから」

「でも……こんな、恩を」

「恩ではありません。……ただの、日常です」

私は目をそらさずに言った。良太は黙って膳を受け取り、深く頭を下げた。その背が、かすかに震えていたのは、寒さだけではなかったと思う。

「……いい話だな」

弥之助がぽつりと言った。

「いや、本当に」

金四郎も、それに続いた。

私はふたりに背を向け、釜に湯を足した。冷たい空気が、戸の隙間から忍び込む。けれど、それを追い出すほどの湯気が、もう店の中に満ちている。

「それにしても」

金四郎の声が、湯の音に紛れて聞こえた。

「やわらぎ亭の名も、随分と広がっているものだ」

「……嬉しいような、怖いような」

「なぜ?」

「誰にでも来てもらえる店にしたい。でも、誰にでも知られる店になったら、いずれ守りきれなくなる」

「ふむ。……難しいものだな」

「だからこそ、味を変えないことだけが、わたしの役目です」

「それができる人は、案外少ない」

私は返事をせず、また釜の中をかき混ぜた。火の加減を見て、蓋を閉じる。さっきの風で乱れた炭を直し、囲炉裏の灰を整える。そういうことの一つ一つが、店の空気を作る。

「さて……」

弥之助が立ち上がった。懐から銭を出し、膳の脇に置く。

「今日も、ありがとよ。……心まで腹がふくれた」

「お気をつけて」

「うん。また来る。明日も火事がなければいいがな」

冗談めかして言いながら、彼は店を出た。戸を開けると、風はすでに穏やかだった。

「おし乃さん」

金四郎が声をかけてきた。

「何でしょう」

「今度、店に名簿をつけてみたらどうだ?」

「名簿、ですか?」

「どんな人が、どんな時に来て、何を食べて、どんな顔をして帰ったか。……それを残しておけば、いつか必ず、助けになる」

「助け……何の?」

「人の記憶には限りがある。でも、字にして残せば、あんたの“見たもの”はずっと消えない」

「……わたしの見たもの、ですか」

「そう。たとえば今日の良太という男のこと。忘れるには惜しい話だった」

「……確かに、そうですね」

「記録は、あんたにしか書けない。味の記憶も、心の機微も。だから、書いてみたらどうだろうと思っただけさ」

「検討してみます」

私はそれだけ言って、炊き場に戻った。帳面を置く場所くらい、すぐに作れる。筆も墨もある。ただ、何を書くのか。それを考えるには、まだ少し時間が要る気がした。
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