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良太の視線が炊き場の方へ向いていた。私はその視線に背を向け、火の加減を調えながら黙っていた。こういう時は、何も言わずにいればいい。言葉よりも、匂いと音と温度が、彼のなかの何かをほどいてくれるからだ。
「……あの、俺、少しは働けます」
ぽつりと落ちた声に、私は釜の蓋を閉じてから振り返った。
「働かなくてはいけないと思っていますか?」
「……はい。こんなに食べさせてもらって、何もせずにいるのが、苦しくて」
「では、皿を洗ってください。縁側の桶に湯を張ってあります」
「はい!」
良太の顔が少し明るくなった。その顔を見て、私も少しだけ安心した。働くというのは、義務じゃない。心を繋ぎ止める綱のようなものだ。
桶に手を浸した良太は、湯の温かさに目を見開いていた。冷えた指先がじんわりと解けていくように、彼の表情もまた柔らかくなっていく。
「冷たい水じゃなくて、湯なんですね」
「手は、道具ですから」
「……道具?」
「料理人にとっての包丁と同じです。あなたにとっても、きっと大事な道具になる」
良太は黙って頷いた。そして静かに、けれど丁寧に、皿を洗い始めた。擦る音が水の音に混ざり、炊き場まで届いてきた。
湯気の中で、私は人参を薄く切っていた。細く、揃った幅で。見栄えだけのためじゃない。火の入り方が違えば、味も変わるからだ。
人参の向こうには、里芋と油揚げが待っている。出汁の香りが漂い、鍋の底に小さな泡が生まれる。私はその泡が弾ける音を聞きながら、鍋に材料を入れた。
煮え立つまでのあいだ、私は棚から大きな鉢を取り出した。漬け物を盛り直すためだ。お涼さんが持ってきた大根は、切り口が瑞々しく、香りもよかった。
「それ、俺にもできますか?」
良太が背後から声をかけてきた。手はまだ濡れていたが、皿洗いを終えたようだった。
「できます。でも、包丁は使わせません。……今日は、見るだけです」
「……はい」
私の手元を覗き込むようにして、彼は真剣な目をしていた。その視線の真面目さに、思わず私の指先が緊張する。
「見ていてどう思います?」
「……怖いくらい、無駄がないです」
「そうですね。無駄があると、味に迷いが出ます」
「味に……迷い?」
「どこまで切り込んで、どこまで残すか。それを誤ると、素材の声が聞こえなくなります」
「素材の……」
「難しく考えなくていいです。人も同じでしょう?」
「人も……ですか?」
「どこまで踏み込んで、どこまで黙っているか。それを間違えると、関係が壊れます」
良太は何も言わなかった。ただ、うんと頷いた。その姿を見て、私は鍋の火を少しだけ弱めた。
味見をして、少しだけ薄いと感じた。ほんのひとつまみ、塩を足す。この塩梅を外すと、味が暴れる。けれど、きちんと決まると、舌ではなく心がほぐれる。
「……やわらぎ亭って、いい名前ですね」
良太がぽつりと言った。
「誰が名付けたんですか?」
「私です」
「意味は……?」
「緊張を解くこと。怒りを鎮めること。あるいは、悲しみを包むこと」
「……全部、あたってます」
「そうでしょうか」
「はい。俺、ここに来て、初めて、泣かずにすみました」
彼の声が少し震えていた。私は包丁を置き、鍋の蓋を閉めた。何も言わずに、ただ火の音だけを聞いた。
その静けさのなかで、戸の方からまた気配がした。重々しく、けれど慎重に戸が開く。
「おし乃さん、まだやってるかね」
声は低く、落ち着いていた。振り向くと、そこに立っていたのは、甲州屋の主だった。頬の肉が落ち、着物も少し古びていたが、その眼光は昔のままだった。
「甲州屋さん。……お久しぶりです」
「ちょいと、事情があってな。しばらく顔を出せんかった。……だが今日は、あんたの味が恋しくなってな」
「それは……嬉しいことですね。何を召し上がります?」
「何でもいい。おし乃さんの手が入ってるなら、それで十分だ」
「では、里芋と油揚げの煮物に、大根の漬け物。あと、飯を一膳」
「それで頼むよ。……懐が少し寒くてな、今日は軽く」
「うちは、量り売りです。器が足りなければ、心で盛ります」
「……そう言ってもらえると、身に沁みる」
甲州屋の主が静かに腰を下ろした。良太は黙って、小鉢と箸を並べた。その所作はぎこちなかったが、一生懸命さが伝わった。
「坊や、新顔か?」
「はい、今朝から……少し、居させてもらってます」
「そうかそうか。……なら、あんたも食え。飯を炊いた女将の手元で働けるのは、ありがたいことだぞ」
「……はい!」
良太の声が少し大きくなった。私は静かに鉢を置き、釜の蓋を開ける。湯気が一斉に立ち上り、店の空気がまた、少しやわらかくなった。
「……あの、俺、少しは働けます」
ぽつりと落ちた声に、私は釜の蓋を閉じてから振り返った。
「働かなくてはいけないと思っていますか?」
「……はい。こんなに食べさせてもらって、何もせずにいるのが、苦しくて」
「では、皿を洗ってください。縁側の桶に湯を張ってあります」
「はい!」
良太の顔が少し明るくなった。その顔を見て、私も少しだけ安心した。働くというのは、義務じゃない。心を繋ぎ止める綱のようなものだ。
桶に手を浸した良太は、湯の温かさに目を見開いていた。冷えた指先がじんわりと解けていくように、彼の表情もまた柔らかくなっていく。
「冷たい水じゃなくて、湯なんですね」
「手は、道具ですから」
「……道具?」
「料理人にとっての包丁と同じです。あなたにとっても、きっと大事な道具になる」
良太は黙って頷いた。そして静かに、けれど丁寧に、皿を洗い始めた。擦る音が水の音に混ざり、炊き場まで届いてきた。
湯気の中で、私は人参を薄く切っていた。細く、揃った幅で。見栄えだけのためじゃない。火の入り方が違えば、味も変わるからだ。
人参の向こうには、里芋と油揚げが待っている。出汁の香りが漂い、鍋の底に小さな泡が生まれる。私はその泡が弾ける音を聞きながら、鍋に材料を入れた。
煮え立つまでのあいだ、私は棚から大きな鉢を取り出した。漬け物を盛り直すためだ。お涼さんが持ってきた大根は、切り口が瑞々しく、香りもよかった。
「それ、俺にもできますか?」
良太が背後から声をかけてきた。手はまだ濡れていたが、皿洗いを終えたようだった。
「できます。でも、包丁は使わせません。……今日は、見るだけです」
「……はい」
私の手元を覗き込むようにして、彼は真剣な目をしていた。その視線の真面目さに、思わず私の指先が緊張する。
「見ていてどう思います?」
「……怖いくらい、無駄がないです」
「そうですね。無駄があると、味に迷いが出ます」
「味に……迷い?」
「どこまで切り込んで、どこまで残すか。それを誤ると、素材の声が聞こえなくなります」
「素材の……」
「難しく考えなくていいです。人も同じでしょう?」
「人も……ですか?」
「どこまで踏み込んで、どこまで黙っているか。それを間違えると、関係が壊れます」
良太は何も言わなかった。ただ、うんと頷いた。その姿を見て、私は鍋の火を少しだけ弱めた。
味見をして、少しだけ薄いと感じた。ほんのひとつまみ、塩を足す。この塩梅を外すと、味が暴れる。けれど、きちんと決まると、舌ではなく心がほぐれる。
「……やわらぎ亭って、いい名前ですね」
良太がぽつりと言った。
「誰が名付けたんですか?」
「私です」
「意味は……?」
「緊張を解くこと。怒りを鎮めること。あるいは、悲しみを包むこと」
「……全部、あたってます」
「そうでしょうか」
「はい。俺、ここに来て、初めて、泣かずにすみました」
彼の声が少し震えていた。私は包丁を置き、鍋の蓋を閉めた。何も言わずに、ただ火の音だけを聞いた。
その静けさのなかで、戸の方からまた気配がした。重々しく、けれど慎重に戸が開く。
「おし乃さん、まだやってるかね」
声は低く、落ち着いていた。振り向くと、そこに立っていたのは、甲州屋の主だった。頬の肉が落ち、着物も少し古びていたが、その眼光は昔のままだった。
「甲州屋さん。……お久しぶりです」
「ちょいと、事情があってな。しばらく顔を出せんかった。……だが今日は、あんたの味が恋しくなってな」
「それは……嬉しいことですね。何を召し上がります?」
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「坊や、新顔か?」
「はい、今朝から……少し、居させてもらってます」
「そうかそうか。……なら、あんたも食え。飯を炊いた女将の手元で働けるのは、ありがたいことだぞ」
「……はい!」
良太の声が少し大きくなった。私は静かに鉢を置き、釜の蓋を開ける。湯気が一斉に立ち上り、店の空気がまた、少しやわらかくなった。
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