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釜の湯が再びぽこぽこと音を立て始め、私は米の香りに包まれながら箸を研いだ。朝の慌ただしさが一段落し、店内はしんと静まっていた。けれど、その静けさには余韻があった。良太の顔も、与三郎の声も、まだこの空間にうっすらと残っているような気がしてならなかった。
「……なあに、ひと仕事終わったような顔して」
聞き覚えのある声がして、私は振り返る。入り口に立っていたのは、お涼さんだった。髪を結い直したばかりのようで、いつもよりも少し背筋が伸びて見える。手には籠を提げ、蓋の隙間から漬け物の香りが漏れていた。
「おはようございます。今朝も早いですね」
「こちとら、あんたの朝餉が食べたくて仕方ないのさ。まったく、腹より先に心が空くってのは、ほんと困ったもんだよ」
「それは……困りましたね」
「だから仕方なく、うちで漬けた大根持ってきたよ。あんたのとこじゃ、少しは役に立つと思って」
「ありがたいです。きっと、おいしいでしょうね」
お涼さんは、言葉よりも手が早かった。籠を渡すとそのまま炊き場に回り、勝手知ったる様子で木杓子を探す。私は笑って彼女に椀を差し出した。
「今朝は、鯛のあら炊きは終わりましたが、蕗と竹輪の煮物ならあります」
「そいつは嬉しいね。朝から蕗の香りってのは、ちょっとした贅沢だよ」
小鉢を渡すと、彼女はすぐに一口運んだ。噛みしめたその瞬間、目元がほころぶ。
「……これだよ、これ。歯応えも、味の入り具合も、あたしの知ってる蕗じゃない。あんた、どうしてこう、絶妙な加減ができるのさ」
「火に聞くだけです」
「うまいこと言って。……けど、ほんとそうかもね。ここの火って、なんだか、人の気持ちを読むみたいだよ」
「読んでるのは、私です」
「そうかい。なら、あんたの目が火みたいなもんだね」
お涼さんは小鉢を抱えたまま、縁側の良太に目をやった。彼は膝を抱えたまま、うたた寝をしていた。陽が差せばよく見えるその頬の痩け具合に、彼女の表情がふっと変わる。
「あの子……誰?」
「朝から、空腹でふらふらのところを。少し休ませてます」
「どっかの丁稚かね?」
「杉内藤兵衛さんのところで、見習いだったそうです」
「……ああ、あの左官の。真面目な人だったよ。裏店の壁も直してもらったことがある。気のいいおっちゃんだったけど、急に逝ったって噂で」
「そうだったんですね」
「そりゃあ、この子も放り出されるさ。……にしても、あんたはよう拾うよねぇ」
「飯屋ですから。来る人に、腹を満たしてもらうのが仕事です」
「……違うさ。あんたは、“人をほどく”んだよ」
お涼さんの言葉が、急に深く胸に届いた気がした。私は返す言葉が見つからず、ただ湯を継ぎ足す手に力を入れた。
「ま、こんな時代だからこそ、そういう店があるってのは、救いだわね」
「それは、お涼さんの言うような大げさなものじゃ……」
「いや、大げさでもなんでもないよ。誰か一人でも、ここで救われたら、それで十分さ」
「……そう、でしょうか」
「そうさ。人の一日は、ひと膳の飯で決まるんだよ。空腹のまま働けば、心も荒む。腹が満ちれば、人にやさしくなれる。それだけで、世の中ひとつ分、よくなるんだ」
私は初めて、お涼さんの目をまっすぐに見た。その瞳には、どこか芯の通った、静かな炎があった。私と似た火だと思った。だが、燃やしているものは少し違う。
「……では、もう一品、お出しします。今朝の大根は、味がよくしみています」
「うわ、それはずるい。……さっき、漬けたばっかりのをあげたばかりなのに」
「漬け物と煮物は、別の世界ですから」
ふたりして笑い合った時、店の外から子どもの声が聞こえた。表を覗くと、長屋の子らが竹馬で競い合っている。泥跳ねしながら走る姿は、まるで風みたいだ。
「……また、来ますよ」
「お待ちしてます」
お涼さんが帰るとき、良太が目を覚ました。ぼんやりとした顔で、私を見つめている。
「おはようございます。もう少し寝てもよかったのに」
「……夢かと思ってました。朝から、こんな……いい匂いのする場所にいるなんて」
「現実です。……それが、いい夢より価値のあることもあります」
彼は黙って頷いた。目がほんの少し潤んでいた。私はそれを見ないふりをして、また火に手をかざした。湯気は、止まることなく立ち上っていた。
「……なあに、ひと仕事終わったような顔して」
聞き覚えのある声がして、私は振り返る。入り口に立っていたのは、お涼さんだった。髪を結い直したばかりのようで、いつもよりも少し背筋が伸びて見える。手には籠を提げ、蓋の隙間から漬け物の香りが漏れていた。
「おはようございます。今朝も早いですね」
「こちとら、あんたの朝餉が食べたくて仕方ないのさ。まったく、腹より先に心が空くってのは、ほんと困ったもんだよ」
「それは……困りましたね」
「だから仕方なく、うちで漬けた大根持ってきたよ。あんたのとこじゃ、少しは役に立つと思って」
「ありがたいです。きっと、おいしいでしょうね」
お涼さんは、言葉よりも手が早かった。籠を渡すとそのまま炊き場に回り、勝手知ったる様子で木杓子を探す。私は笑って彼女に椀を差し出した。
「今朝は、鯛のあら炊きは終わりましたが、蕗と竹輪の煮物ならあります」
「そいつは嬉しいね。朝から蕗の香りってのは、ちょっとした贅沢だよ」
小鉢を渡すと、彼女はすぐに一口運んだ。噛みしめたその瞬間、目元がほころぶ。
「……これだよ、これ。歯応えも、味の入り具合も、あたしの知ってる蕗じゃない。あんた、どうしてこう、絶妙な加減ができるのさ」
「火に聞くだけです」
「うまいこと言って。……けど、ほんとそうかもね。ここの火って、なんだか、人の気持ちを読むみたいだよ」
「読んでるのは、私です」
「そうかい。なら、あんたの目が火みたいなもんだね」
お涼さんは小鉢を抱えたまま、縁側の良太に目をやった。彼は膝を抱えたまま、うたた寝をしていた。陽が差せばよく見えるその頬の痩け具合に、彼女の表情がふっと変わる。
「あの子……誰?」
「朝から、空腹でふらふらのところを。少し休ませてます」
「どっかの丁稚かね?」
「杉内藤兵衛さんのところで、見習いだったそうです」
「……ああ、あの左官の。真面目な人だったよ。裏店の壁も直してもらったことがある。気のいいおっちゃんだったけど、急に逝ったって噂で」
「そうだったんですね」
「そりゃあ、この子も放り出されるさ。……にしても、あんたはよう拾うよねぇ」
「飯屋ですから。来る人に、腹を満たしてもらうのが仕事です」
「……違うさ。あんたは、“人をほどく”んだよ」
お涼さんの言葉が、急に深く胸に届いた気がした。私は返す言葉が見つからず、ただ湯を継ぎ足す手に力を入れた。
「ま、こんな時代だからこそ、そういう店があるってのは、救いだわね」
「それは、お涼さんの言うような大げさなものじゃ……」
「いや、大げさでもなんでもないよ。誰か一人でも、ここで救われたら、それで十分さ」
「……そう、でしょうか」
「そうさ。人の一日は、ひと膳の飯で決まるんだよ。空腹のまま働けば、心も荒む。腹が満ちれば、人にやさしくなれる。それだけで、世の中ひとつ分、よくなるんだ」
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「……夢かと思ってました。朝から、こんな……いい匂いのする場所にいるなんて」
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