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「若様、どうぞこちらへ。囲炉裏のそばが、一番温うございます」
私は若様を促し、店の奥へと案内した。供の武士は、店の入り口近くの席に腰を下ろし、静かに私たちを見守っている。
「かたじけない」
若様は小さな声でそう言うと、促されるままに囲炉裏のそばに座った。その横顔は、どこか張り詰めたような緊張感を漂わせている。お立場上、様々なご苦労があるのだろう。
「何か、お召し上がりになりますか?それとも、まずは温かいお茶でも」
「…茶を、頼む」
「かしこまりました」
良太がすぐに、香りの良いほうじ茶を淹れて差し出す。若様はそれを一口飲むと、ふう、と小さな息を吐いた。少しだけ、肩の力が抜けたように見える。
「ここは…不思議な場所だな」
若様が、ぽつりと言った。
「不思議、でございますか?」
「うむ。江戸に来てからというもの、どこへ行っても息が詰まるような思いばかりであったが…この店は、なぜか、ほっとする」
「そう仰っていただけると、嬉しいです。うちは、ただの小さな飯屋でございますから、気兼ねなくお過ごしください」
「主は、おし乃と申したか」
「はい」
「そなたの料理は、人の心を解きほぐすと聞いた。まことか?」
若様の真っ直ぐな瞳が、私を見つめる。その瞳の奥には、何かを渇望するような、切実な色が浮かんでいるように見えた。
「私には、そのような大それた力はございません。ただ、一膳一膳、心を込めてお作りしているだけでございます。それが、お客様の心に何かをお届けできているのだとしたら、これ以上の喜びはございません」
「…そうか」
若様はそれきり黙り込み、湯呑みを見つめている。何を考えているのか、その表情からは読み取れない。
「若様、もしよろしければ、何か軽いものでもお作りしましょうか?お腹が空いていらっしゃらなくても、少し口にすれば、気持ちも落ち着くやもしれません」
「…では、何か、温かいものを。そなたに、任せる」
「かしこまりました」
私は炊き場へ向かい、何をお出ししようかと考えた。今の若様の心に寄り添えるような、優しくて、温かいもの。そして、水戸藩の若様であるということを考えると、やはり梅を使ったものが良いかもしれない。
そうだ、あれにしよう。以前、佐吉さんの娘さんにもお出しした、蕪のすりおろし粥。あれに、ほんの少しだけ趣向を凝らして。
私は土鍋に米と出汁を入れ、火にかける。そして、蕪をすりおろし、今回はそこに、叩いた梅干しと、ほんの少しの生姜の絞り汁を加えることにした。梅の酸味と生姜の風味が、若様の疲れた心と体を、優しく目覚めさせてくれるかもしれない。
ことことと、土鍋が静かに煮える音。梅と生姜の爽やかな香りが、湯気と共にふわりと立ち上る。良太が、心配そうに私の手元を覗き込んでいる。
「おし乃さん、あのお方…大丈夫でしょうか?」
「ええ、きっと大丈夫よ。美味しいものを食べれば、人は誰でも元気になれるものだから」
やがて、お粥がとろりと炊き上がった。私はそれを、温めておいた椀によそい、仕上げに三つ葉を数枚、彩りとして散らした。
「若様、お待たせいたしました。梅と生姜風味の、蕪のすりおろし粥でございます。どうぞ、熱いうちに」
若様の前に差し出すと、彼は湯気と共に立ち上る香りを、くん、と吸い込んだ。そして、ゆっくりと匙を手に取り、お粥を一口、口に運んだ。
しばしの沈黙。若様は目を閉じ、その味をじっくりと噛み締めているかのようだ。やがて、その口元に、ほんのわずかだが、柔らかな笑みが浮かんだ。
「…うまい」
それは、心の底から漏れたような、小さな、しかし確かな声だった。
「この粥は…温かくて、優しい味がする。梅の酸味が心地よく、生姜の香りがすっと鼻に抜ける。蕪の甘みも、出汁とよく合っている。何よりも…心が、安らぐ味だ」
若様は、一匙、また一匙と、ゆっくりとお粥を味わっている。その表情は、来た時よりもずっと穏やかで、張り詰めていたものが少しずつ解けていくのが見て取れた。
「江戸に来てから、まともに食事が喉を通らなかった。何を口にしても、砂を噛むような心地がしてな…。だが、この粥は違う。体に、すうっと染み込んでいくようだ」
「それは、ようございました。どうぞ、ゆっくりと召し上がってください」
若様は、お粥を綺麗に平らげると、満足そうに息をついた。
「おし乃、と申したな。そなたの料理は、まことに不思議な力があるようだ。荒んでいた儂の心が、少しだけ軽くなった気がする」
「もったいないお言葉でございます。それは、若様ご自身のお心が、この粥を受け入れてくださったからでございますよ」
「ふふ…そうかもしれんな。おし乃、またここへ来ても良いか?そなたの料理を、もっと色々と味わってみたい」
「はい、もちろんでございます。いつでも、お待ち申し上げております」
「うむ。では、今日はこれで失礼する。…良い夜であった」
若様はそう言うと、供の武士と共に、静かに店を後にした。その後ろ姿は、来た時とは見違えるように、どこか晴れやかで、力強いものに変わっていた。
「おし乃さん…良かったですね」
良太が、感極まったような声で言った。
「ええ、本当に。あの方の心が、少しでも軽くなったのなら、それ以上に嬉しいことはないわ」
一杯のお粥が、また一つ、人の心を繋いでくれた。このやわらぎ亭という場所が、これからもそんな温かい奇跡を生み出し続けることができるように、私は明日もまた、心を込めて竈に火を入れよう。そんなことを思いながら、私は静かに店の片付けを始めた。
翌日からも、水戸の若様は、時折やわらぎ亭を訪れるようになった。初めは供の武士と一緒だったが、次第に一人で、ふらりと立ち寄ることも増えてきた。
若様は、いつも静かに、私の料理を味わってくださった。時には、江戸の町で見聞きしたことや、故郷である水戸の話などを、ぽつりぽつりと話してくれることもあった。
その言葉の端々からは、彼が背負っているものの大きさと、それに対する葛藤のようなものが感じられたが、やわらぎ亭で過ごす時間は、彼にとって心休まるひとときであるようだった。
私も、若様に対して特別な料理を用意するというよりは、その日の食材と、若様の顔色や様子を見ながら、いつも通りの、心を込めた一膳をお出しすることを心がけた。それが、彼にとって一番心地よいのだと、何となく感じていたからだ。
私は若様を促し、店の奥へと案内した。供の武士は、店の入り口近くの席に腰を下ろし、静かに私たちを見守っている。
「かたじけない」
若様は小さな声でそう言うと、促されるままに囲炉裏のそばに座った。その横顔は、どこか張り詰めたような緊張感を漂わせている。お立場上、様々なご苦労があるのだろう。
「何か、お召し上がりになりますか?それとも、まずは温かいお茶でも」
「…茶を、頼む」
「かしこまりました」
良太がすぐに、香りの良いほうじ茶を淹れて差し出す。若様はそれを一口飲むと、ふう、と小さな息を吐いた。少しだけ、肩の力が抜けたように見える。
「ここは…不思議な場所だな」
若様が、ぽつりと言った。
「不思議、でございますか?」
「うむ。江戸に来てからというもの、どこへ行っても息が詰まるような思いばかりであったが…この店は、なぜか、ほっとする」
「そう仰っていただけると、嬉しいです。うちは、ただの小さな飯屋でございますから、気兼ねなくお過ごしください」
「主は、おし乃と申したか」
「はい」
「そなたの料理は、人の心を解きほぐすと聞いた。まことか?」
若様の真っ直ぐな瞳が、私を見つめる。その瞳の奥には、何かを渇望するような、切実な色が浮かんでいるように見えた。
「私には、そのような大それた力はございません。ただ、一膳一膳、心を込めてお作りしているだけでございます。それが、お客様の心に何かをお届けできているのだとしたら、これ以上の喜びはございません」
「…そうか」
若様はそれきり黙り込み、湯呑みを見つめている。何を考えているのか、その表情からは読み取れない。
「若様、もしよろしければ、何か軽いものでもお作りしましょうか?お腹が空いていらっしゃらなくても、少し口にすれば、気持ちも落ち着くやもしれません」
「…では、何か、温かいものを。そなたに、任せる」
「かしこまりました」
私は炊き場へ向かい、何をお出ししようかと考えた。今の若様の心に寄り添えるような、優しくて、温かいもの。そして、水戸藩の若様であるということを考えると、やはり梅を使ったものが良いかもしれない。
そうだ、あれにしよう。以前、佐吉さんの娘さんにもお出しした、蕪のすりおろし粥。あれに、ほんの少しだけ趣向を凝らして。
私は土鍋に米と出汁を入れ、火にかける。そして、蕪をすりおろし、今回はそこに、叩いた梅干しと、ほんの少しの生姜の絞り汁を加えることにした。梅の酸味と生姜の風味が、若様の疲れた心と体を、優しく目覚めさせてくれるかもしれない。
ことことと、土鍋が静かに煮える音。梅と生姜の爽やかな香りが、湯気と共にふわりと立ち上る。良太が、心配そうに私の手元を覗き込んでいる。
「おし乃さん、あのお方…大丈夫でしょうか?」
「ええ、きっと大丈夫よ。美味しいものを食べれば、人は誰でも元気になれるものだから」
やがて、お粥がとろりと炊き上がった。私はそれを、温めておいた椀によそい、仕上げに三つ葉を数枚、彩りとして散らした。
「若様、お待たせいたしました。梅と生姜風味の、蕪のすりおろし粥でございます。どうぞ、熱いうちに」
若様の前に差し出すと、彼は湯気と共に立ち上る香りを、くん、と吸い込んだ。そして、ゆっくりと匙を手に取り、お粥を一口、口に運んだ。
しばしの沈黙。若様は目を閉じ、その味をじっくりと噛み締めているかのようだ。やがて、その口元に、ほんのわずかだが、柔らかな笑みが浮かんだ。
「…うまい」
それは、心の底から漏れたような、小さな、しかし確かな声だった。
「この粥は…温かくて、優しい味がする。梅の酸味が心地よく、生姜の香りがすっと鼻に抜ける。蕪の甘みも、出汁とよく合っている。何よりも…心が、安らぐ味だ」
若様は、一匙、また一匙と、ゆっくりとお粥を味わっている。その表情は、来た時よりもずっと穏やかで、張り詰めていたものが少しずつ解けていくのが見て取れた。
「江戸に来てから、まともに食事が喉を通らなかった。何を口にしても、砂を噛むような心地がしてな…。だが、この粥は違う。体に、すうっと染み込んでいくようだ」
「それは、ようございました。どうぞ、ゆっくりと召し上がってください」
若様は、お粥を綺麗に平らげると、満足そうに息をついた。
「おし乃、と申したな。そなたの料理は、まことに不思議な力があるようだ。荒んでいた儂の心が、少しだけ軽くなった気がする」
「もったいないお言葉でございます。それは、若様ご自身のお心が、この粥を受け入れてくださったからでございますよ」
「ふふ…そうかもしれんな。おし乃、またここへ来ても良いか?そなたの料理を、もっと色々と味わってみたい」
「はい、もちろんでございます。いつでも、お待ち申し上げております」
「うむ。では、今日はこれで失礼する。…良い夜であった」
若様はそう言うと、供の武士と共に、静かに店を後にした。その後ろ姿は、来た時とは見違えるように、どこか晴れやかで、力強いものに変わっていた。
「おし乃さん…良かったですね」
良太が、感極まったような声で言った。
「ええ、本当に。あの方の心が、少しでも軽くなったのなら、それ以上に嬉しいことはないわ」
一杯のお粥が、また一つ、人の心を繋いでくれた。このやわらぎ亭という場所が、これからもそんな温かい奇跡を生み出し続けることができるように、私は明日もまた、心を込めて竈に火を入れよう。そんなことを思いながら、私は静かに店の片付けを始めた。
翌日からも、水戸の若様は、時折やわらぎ亭を訪れるようになった。初めは供の武士と一緒だったが、次第に一人で、ふらりと立ち寄ることも増えてきた。
若様は、いつも静かに、私の料理を味わってくださった。時には、江戸の町で見聞きしたことや、故郷である水戸の話などを、ぽつりぽつりと話してくれることもあった。
その言葉の端々からは、彼が背負っているものの大きさと、それに対する葛藤のようなものが感じられたが、やわらぎ亭で過ごす時間は、彼にとって心休まるひとときであるようだった。
私も、若様に対して特別な料理を用意するというよりは、その日の食材と、若様の顔色や様子を見ながら、いつも通りの、心を込めた一膳をお出しすることを心がけた。それが、彼にとって一番心地よいのだと、何となく感じていたからだ。
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