36 / 100
36
ある日のこと、若様が珍しく、少し浮かない顔で店に入ってきた。
「おし乃、今日は少し、気が滅入ることがあってな…。何か、気分が晴れるような、そんな料理を頼めるだろうか」
「かしこまりました。では、今宵は少し趣向を変えて、揚げ物でもいかがですか?熱々の揚げたてを頬張れば、きっと気分も晴れやかになりましょう」
「揚げ物か…良いかもしれんな。では、頼む」
私は、その日市場で手に入れたばかりの、新鮮な穴子を使うことにした。穴子を丁寧に開き、骨切りをして、薄く衣を付けて揚げる。サクッとした衣の中から、ふっくらとした穴子の身が現れる、江戸前ならではの一品だ。
そして、もう一品。野菜もたっぷりと食べられるように、季節の野菜を使ったかき揚げも作ることにした。人参、玉ねぎ、そして春菊。それぞれの野菜の甘みと香りが、衣の中で一つになる。
揚げ油の温度に細心の注意を払いながら、まずは穴子を揚げる。ぱちぱちという心地よい音と共に、香ばしい匂いが立ち上る。きつね色に揚がった穴子を油から引き上げ、しっかりと油を切る。
次に、野菜のかき揚げ。こちらも、衣をつけすぎず、野菜の持ち味を活かすように、さっくりと揚げる。
揚げたての天ぷらを、大根おろしと生姜を添えた天つゆと共に、若様の前に差し出した。
「若様、どうぞ。穴子と、季節野菜のかき揚げでございます。火傷なさらないように、お気をつけて」
「おお…これは見事な揚げ色だな。香りも良い」
若様は、まずは穴子の天ぷらを一口。
「…!これは…!」
若様の目が、驚きに見開かれた。
「衣はサクッと軽いのに、中の穴子は驚くほどふっくらとしておる!そして、この甘辛い天つゆとの相性も抜群だ。口の中で、穴子の旨味がとろけるようだ…!」
次に、野菜のかき揚げを。
「こちらの野菜も、一つ一つの味がしっかりと感じられる。特に、この春菊のほろ苦さが、良いアクセントになっておるな。揚げ物でありながら、少しも重たく感じない。これは、いくらでも食べられそうだ」
若様は、夢中になったように天ぷらを頬張り、時折、冷えた酒をくいっと煽る。その表情は、店に来た時とは打って変わって、晴れやかで、楽しそうだ。
「おし乃、そなたの天ぷらは、まことに絶品だな!こんなに美味い天ぷらは、生まれて初めて食べたかもしれん。気が滅入っていたことなど、すっかり忘れてしまったわ!」
「お気に召したようで、何よりでございます。揚げたての熱々は、何よりのご馳走でございますからね」
「うむ。それにしても、そなたは本当にたいした料理人だ。どんな食材を使っても、その持ち味を最大限に引き出し、食べる者を幸せな気持ちにさせる。儂は、そなたのような料理人に出会えたことを、心から幸運に思うぞ」
「もったいないお言葉、恐れ入ります」
その夜、若様はすっかり上機嫌になり、いつになく饒舌に、故郷の話や、江戸での暮らしについて語ってくれた。その笑顔は、年相応の若者の、屈託のない笑顔だった。
彼が抱えるものが何であれ、このやわらぎ亭で過ごす時間が、彼にとって少しでも心の安らぎになっているのだとしたら、それ以上に嬉しいことはない。
そんな若様との交流が続く中、ある日、金さんが神妙な面持ちでやわらぎ亭を訪れた。
「おし乃さん、少し、耳に入れておきたいことがある」
金さんのただならぬ雰囲気に、私は自然と居住まいを正した。
「水戸の若様のことなのだが…近頃、江戸の町で、若様の身辺を嗅ぎ回る不穏な輩がいるようなのだ」
「不穏な輩、でございますか…?」
「うむ。若様は、水戸藩の中でも複雑な立場におられる。それを快く思わない者たちが、何か良からぬことを企んでいるやもしれん」
金さんの言葉に、私の胸に不安がよぎる。あの純粋で真っ直ぐな若様に、危険が迫っているというのだろうか。
「おし乃さん、若様は、このやわらぎ亭をたいそう気に入っておられるご様子。これからも、度々訪れることだろう。万が一ということもある。何か変わったことや、不審な者を見かけたら、すぐに儂に知らせてほしい」
「はい、承知いたしました。私も、微力ながら、若様をお守りできるよう、気を配ってまいります」
「頼む。若様は、この国の未来にとって、なくてはならぬお方かもしれんのだ。何としても、お守りせねばならん」
金さんの言葉は重く、事の重大さを物語っていた。
その日から、私はやわらぎ亭の周囲に、これまで以上に気を配るようになった。良太にも事情を話し、二人で店の安全と、若様の身辺に注意を払う。
幸い、すぐに何かが起こるということはなかったが、私の心の中には、常に一抹の不安が付きまとっていた。
そんなある雨の夜、いつものように若様がやわらぎ亭を訪れた。しかし、その日はどこか様子がおかしかった。顔色は青白く、呼吸も浅い。そして何よりも、その目に、これまで見たことのないような強い警戒の色が浮かんでいた。
「若様、どうかなさいましたか?お加減でも…」
「おし乃…すまぬが、今宵は、少し長居をさせてもらっても良いだろうか。そして…できれば、裏口から出られるように、手筈を整えてほしいのだが…」
若様の言葉に、私は息を飲んだ。金さんの懸念が、現実のものとなろうとしているのだろうか。
「おし乃、今日は少し、気が滅入ることがあってな…。何か、気分が晴れるような、そんな料理を頼めるだろうか」
「かしこまりました。では、今宵は少し趣向を変えて、揚げ物でもいかがですか?熱々の揚げたてを頬張れば、きっと気分も晴れやかになりましょう」
「揚げ物か…良いかもしれんな。では、頼む」
私は、その日市場で手に入れたばかりの、新鮮な穴子を使うことにした。穴子を丁寧に開き、骨切りをして、薄く衣を付けて揚げる。サクッとした衣の中から、ふっくらとした穴子の身が現れる、江戸前ならではの一品だ。
そして、もう一品。野菜もたっぷりと食べられるように、季節の野菜を使ったかき揚げも作ることにした。人参、玉ねぎ、そして春菊。それぞれの野菜の甘みと香りが、衣の中で一つになる。
揚げ油の温度に細心の注意を払いながら、まずは穴子を揚げる。ぱちぱちという心地よい音と共に、香ばしい匂いが立ち上る。きつね色に揚がった穴子を油から引き上げ、しっかりと油を切る。
次に、野菜のかき揚げ。こちらも、衣をつけすぎず、野菜の持ち味を活かすように、さっくりと揚げる。
揚げたての天ぷらを、大根おろしと生姜を添えた天つゆと共に、若様の前に差し出した。
「若様、どうぞ。穴子と、季節野菜のかき揚げでございます。火傷なさらないように、お気をつけて」
「おお…これは見事な揚げ色だな。香りも良い」
若様は、まずは穴子の天ぷらを一口。
「…!これは…!」
若様の目が、驚きに見開かれた。
「衣はサクッと軽いのに、中の穴子は驚くほどふっくらとしておる!そして、この甘辛い天つゆとの相性も抜群だ。口の中で、穴子の旨味がとろけるようだ…!」
次に、野菜のかき揚げを。
「こちらの野菜も、一つ一つの味がしっかりと感じられる。特に、この春菊のほろ苦さが、良いアクセントになっておるな。揚げ物でありながら、少しも重たく感じない。これは、いくらでも食べられそうだ」
若様は、夢中になったように天ぷらを頬張り、時折、冷えた酒をくいっと煽る。その表情は、店に来た時とは打って変わって、晴れやかで、楽しそうだ。
「おし乃、そなたの天ぷらは、まことに絶品だな!こんなに美味い天ぷらは、生まれて初めて食べたかもしれん。気が滅入っていたことなど、すっかり忘れてしまったわ!」
「お気に召したようで、何よりでございます。揚げたての熱々は、何よりのご馳走でございますからね」
「うむ。それにしても、そなたは本当にたいした料理人だ。どんな食材を使っても、その持ち味を最大限に引き出し、食べる者を幸せな気持ちにさせる。儂は、そなたのような料理人に出会えたことを、心から幸運に思うぞ」
「もったいないお言葉、恐れ入ります」
その夜、若様はすっかり上機嫌になり、いつになく饒舌に、故郷の話や、江戸での暮らしについて語ってくれた。その笑顔は、年相応の若者の、屈託のない笑顔だった。
彼が抱えるものが何であれ、このやわらぎ亭で過ごす時間が、彼にとって少しでも心の安らぎになっているのだとしたら、それ以上に嬉しいことはない。
そんな若様との交流が続く中、ある日、金さんが神妙な面持ちでやわらぎ亭を訪れた。
「おし乃さん、少し、耳に入れておきたいことがある」
金さんのただならぬ雰囲気に、私は自然と居住まいを正した。
「水戸の若様のことなのだが…近頃、江戸の町で、若様の身辺を嗅ぎ回る不穏な輩がいるようなのだ」
「不穏な輩、でございますか…?」
「うむ。若様は、水戸藩の中でも複雑な立場におられる。それを快く思わない者たちが、何か良からぬことを企んでいるやもしれん」
金さんの言葉に、私の胸に不安がよぎる。あの純粋で真っ直ぐな若様に、危険が迫っているというのだろうか。
「おし乃さん、若様は、このやわらぎ亭をたいそう気に入っておられるご様子。これからも、度々訪れることだろう。万が一ということもある。何か変わったことや、不審な者を見かけたら、すぐに儂に知らせてほしい」
「はい、承知いたしました。私も、微力ながら、若様をお守りできるよう、気を配ってまいります」
「頼む。若様は、この国の未来にとって、なくてはならぬお方かもしれんのだ。何としても、お守りせねばならん」
金さんの言葉は重く、事の重大さを物語っていた。
その日から、私はやわらぎ亭の周囲に、これまで以上に気を配るようになった。良太にも事情を話し、二人で店の安全と、若様の身辺に注意を払う。
幸い、すぐに何かが起こるということはなかったが、私の心の中には、常に一抹の不安が付きまとっていた。
そんなある雨の夜、いつものように若様がやわらぎ亭を訪れた。しかし、その日はどこか様子がおかしかった。顔色は青白く、呼吸も浅い。そして何よりも、その目に、これまで見たことのないような強い警戒の色が浮かんでいた。
「若様、どうかなさいましたか?お加減でも…」
「おし乃…すまぬが、今宵は、少し長居をさせてもらっても良いだろうか。そして…できれば、裏口から出られるように、手筈を整えてほしいのだが…」
若様の言葉に、私は息を飲んだ。金さんの懸念が、現実のものとなろうとしているのだろうか。
あなたにおすすめの小説
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?