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ある日のこと、若様が珍しく、少し浮かない顔で店に入ってきた。
「おし乃、今日は少し、気が滅入ることがあってな…。何か、気分が晴れるような、そんな料理を頼めるだろうか」
「かしこまりました。では、今宵は少し趣向を変えて、揚げ物でもいかがですか?熱々の揚げたてを頬張れば、きっと気分も晴れやかになりましょう」
「揚げ物か…良いかもしれんな。では、頼む」
私は、その日市場で手に入れたばかりの、新鮮な穴子を使うことにした。穴子を丁寧に開き、骨切りをして、薄く衣を付けて揚げる。サクッとした衣の中から、ふっくらとした穴子の身が現れる、江戸前ならではの一品だ。
そして、もう一品。野菜もたっぷりと食べられるように、季節の野菜を使ったかき揚げも作ることにした。人参、玉ねぎ、そして春菊。それぞれの野菜の甘みと香りが、衣の中で一つになる。
揚げ油の温度に細心の注意を払いながら、まずは穴子を揚げる。ぱちぱちという心地よい音と共に、香ばしい匂いが立ち上る。きつね色に揚がった穴子を油から引き上げ、しっかりと油を切る。
次に、野菜のかき揚げ。こちらも、衣をつけすぎず、野菜の持ち味を活かすように、さっくりと揚げる。
揚げたての天ぷらを、大根おろしと生姜を添えた天つゆと共に、若様の前に差し出した。
「若様、どうぞ。穴子と、季節野菜のかき揚げでございます。火傷なさらないように、お気をつけて」
「おお…これは見事な揚げ色だな。香りも良い」
若様は、まずは穴子の天ぷらを一口。
「…!これは…!」
若様の目が、驚きに見開かれた。
「衣はサクッと軽いのに、中の穴子は驚くほどふっくらとしておる!そして、この甘辛い天つゆとの相性も抜群だ。口の中で、穴子の旨味がとろけるようだ…!」
次に、野菜のかき揚げを。
「こちらの野菜も、一つ一つの味がしっかりと感じられる。特に、この春菊のほろ苦さが、良いアクセントになっておるな。揚げ物でありながら、少しも重たく感じない。これは、いくらでも食べられそうだ」
若様は、夢中になったように天ぷらを頬張り、時折、冷えた酒をくいっと煽る。その表情は、店に来た時とは打って変わって、晴れやかで、楽しそうだ。
「おし乃、そなたの天ぷらは、まことに絶品だな!こんなに美味い天ぷらは、生まれて初めて食べたかもしれん。気が滅入っていたことなど、すっかり忘れてしまったわ!」
「お気に召したようで、何よりでございます。揚げたての熱々は、何よりのご馳走でございますからね」
「うむ。それにしても、そなたは本当にたいした料理人だ。どんな食材を使っても、その持ち味を最大限に引き出し、食べる者を幸せな気持ちにさせる。儂は、そなたのような料理人に出会えたことを、心から幸運に思うぞ」
「もったいないお言葉、恐れ入ります」
その夜、若様はすっかり上機嫌になり、いつになく饒舌に、故郷の話や、江戸での暮らしについて語ってくれた。その笑顔は、年相応の若者の、屈託のない笑顔だった。
彼が抱えるものが何であれ、このやわらぎ亭で過ごす時間が、彼にとって少しでも心の安らぎになっているのだとしたら、それ以上に嬉しいことはない。
そんな若様との交流が続く中、ある日、金さんが神妙な面持ちでやわらぎ亭を訪れた。
「おし乃さん、少し、耳に入れておきたいことがある」
金さんのただならぬ雰囲気に、私は自然と居住まいを正した。
「水戸の若様のことなのだが…近頃、江戸の町で、若様の身辺を嗅ぎ回る不穏な輩がいるようなのだ」
「不穏な輩、でございますか…?」
「うむ。若様は、水戸藩の中でも複雑な立場におられる。それを快く思わない者たちが、何か良からぬことを企んでいるやもしれん」
金さんの言葉に、私の胸に不安がよぎる。あの純粋で真っ直ぐな若様に、危険が迫っているというのだろうか。
「おし乃さん、若様は、このやわらぎ亭をたいそう気に入っておられるご様子。これからも、度々訪れることだろう。万が一ということもある。何か変わったことや、不審な者を見かけたら、すぐに儂に知らせてほしい」
「はい、承知いたしました。私も、微力ながら、若様をお守りできるよう、気を配ってまいります」
「頼む。若様は、この国の未来にとって、なくてはならぬお方かもしれんのだ。何としても、お守りせねばならん」
金さんの言葉は重く、事の重大さを物語っていた。
その日から、私はやわらぎ亭の周囲に、これまで以上に気を配るようになった。良太にも事情を話し、二人で店の安全と、若様の身辺に注意を払う。
幸い、すぐに何かが起こるということはなかったが、私の心の中には、常に一抹の不安が付きまとっていた。
そんなある雨の夜、いつものように若様がやわらぎ亭を訪れた。しかし、その日はどこか様子がおかしかった。顔色は青白く、呼吸も浅い。そして何よりも、その目に、これまで見たことのないような強い警戒の色が浮かんでいた。
「若様、どうかなさいましたか?お加減でも…」
「おし乃…すまぬが、今宵は、少し長居をさせてもらっても良いだろうか。そして…できれば、裏口から出られるように、手筈を整えてほしいのだが…」
若様の言葉に、私は息を飲んだ。金さんの懸念が、現実のものとなろうとしているのだろうか。
「おし乃、今日は少し、気が滅入ることがあってな…。何か、気分が晴れるような、そんな料理を頼めるだろうか」
「かしこまりました。では、今宵は少し趣向を変えて、揚げ物でもいかがですか?熱々の揚げたてを頬張れば、きっと気分も晴れやかになりましょう」
「揚げ物か…良いかもしれんな。では、頼む」
私は、その日市場で手に入れたばかりの、新鮮な穴子を使うことにした。穴子を丁寧に開き、骨切りをして、薄く衣を付けて揚げる。サクッとした衣の中から、ふっくらとした穴子の身が現れる、江戸前ならではの一品だ。
そして、もう一品。野菜もたっぷりと食べられるように、季節の野菜を使ったかき揚げも作ることにした。人参、玉ねぎ、そして春菊。それぞれの野菜の甘みと香りが、衣の中で一つになる。
揚げ油の温度に細心の注意を払いながら、まずは穴子を揚げる。ぱちぱちという心地よい音と共に、香ばしい匂いが立ち上る。きつね色に揚がった穴子を油から引き上げ、しっかりと油を切る。
次に、野菜のかき揚げ。こちらも、衣をつけすぎず、野菜の持ち味を活かすように、さっくりと揚げる。
揚げたての天ぷらを、大根おろしと生姜を添えた天つゆと共に、若様の前に差し出した。
「若様、どうぞ。穴子と、季節野菜のかき揚げでございます。火傷なさらないように、お気をつけて」
「おお…これは見事な揚げ色だな。香りも良い」
若様は、まずは穴子の天ぷらを一口。
「…!これは…!」
若様の目が、驚きに見開かれた。
「衣はサクッと軽いのに、中の穴子は驚くほどふっくらとしておる!そして、この甘辛い天つゆとの相性も抜群だ。口の中で、穴子の旨味がとろけるようだ…!」
次に、野菜のかき揚げを。
「こちらの野菜も、一つ一つの味がしっかりと感じられる。特に、この春菊のほろ苦さが、良いアクセントになっておるな。揚げ物でありながら、少しも重たく感じない。これは、いくらでも食べられそうだ」
若様は、夢中になったように天ぷらを頬張り、時折、冷えた酒をくいっと煽る。その表情は、店に来た時とは打って変わって、晴れやかで、楽しそうだ。
「おし乃、そなたの天ぷらは、まことに絶品だな!こんなに美味い天ぷらは、生まれて初めて食べたかもしれん。気が滅入っていたことなど、すっかり忘れてしまったわ!」
「お気に召したようで、何よりでございます。揚げたての熱々は、何よりのご馳走でございますからね」
「うむ。それにしても、そなたは本当にたいした料理人だ。どんな食材を使っても、その持ち味を最大限に引き出し、食べる者を幸せな気持ちにさせる。儂は、そなたのような料理人に出会えたことを、心から幸運に思うぞ」
「もったいないお言葉、恐れ入ります」
その夜、若様はすっかり上機嫌になり、いつになく饒舌に、故郷の話や、江戸での暮らしについて語ってくれた。その笑顔は、年相応の若者の、屈託のない笑顔だった。
彼が抱えるものが何であれ、このやわらぎ亭で過ごす時間が、彼にとって少しでも心の安らぎになっているのだとしたら、それ以上に嬉しいことはない。
そんな若様との交流が続く中、ある日、金さんが神妙な面持ちでやわらぎ亭を訪れた。
「おし乃さん、少し、耳に入れておきたいことがある」
金さんのただならぬ雰囲気に、私は自然と居住まいを正した。
「水戸の若様のことなのだが…近頃、江戸の町で、若様の身辺を嗅ぎ回る不穏な輩がいるようなのだ」
「不穏な輩、でございますか…?」
「うむ。若様は、水戸藩の中でも複雑な立場におられる。それを快く思わない者たちが、何か良からぬことを企んでいるやもしれん」
金さんの言葉に、私の胸に不安がよぎる。あの純粋で真っ直ぐな若様に、危険が迫っているというのだろうか。
「おし乃さん、若様は、このやわらぎ亭をたいそう気に入っておられるご様子。これからも、度々訪れることだろう。万が一ということもある。何か変わったことや、不審な者を見かけたら、すぐに儂に知らせてほしい」
「はい、承知いたしました。私も、微力ながら、若様をお守りできるよう、気を配ってまいります」
「頼む。若様は、この国の未来にとって、なくてはならぬお方かもしれんのだ。何としても、お守りせねばならん」
金さんの言葉は重く、事の重大さを物語っていた。
その日から、私はやわらぎ亭の周囲に、これまで以上に気を配るようになった。良太にも事情を話し、二人で店の安全と、若様の身辺に注意を払う。
幸い、すぐに何かが起こるということはなかったが、私の心の中には、常に一抹の不安が付きまとっていた。
そんなある雨の夜、いつものように若様がやわらぎ亭を訪れた。しかし、その日はどこか様子がおかしかった。顔色は青白く、呼吸も浅い。そして何よりも、その目に、これまで見たことのないような強い警戒の色が浮かんでいた。
「若様、どうかなさいましたか?お加減でも…」
「おし乃…すまぬが、今宵は、少し長居をさせてもらっても良いだろうか。そして…できれば、裏口から出られるように、手筈を整えてほしいのだが…」
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