37 / 100
37
しおりを挟む
「若様、何があったのですか?詳しくお聞かせください!」
私は声を低め、若様に詰め寄った。ただ事ではない、それは明らかだった。
「…実は、今日、藩邸を出たところから、何者かにつけられているような気がするのだ。気のせいかもしれぬが、どうにも胸騒ぎがしてならぬ。このまま正面から帰るよりは、一度ここで身を隠し、ほとぼりが冷めた頃に裏からこっそりと…と考えたのだが」
若様の額には、冷たい汗が滲んでいる。よほどのことなのだろう。
「わかりました。裏口の戸は、いつでも開けられるようにしておきます。ですが、まずは何か温かいものを召し上がって、少し落ち着いてください。良太、すぐに熱いお茶と、何かお腹に優しいものを用意して」
「は、はい!おし乃さん!」
良太は緊張した面持ちで、すぐに支度に取り掛かった。私も、若様の傍に座り、できるだけ安心させるように言葉をかける。
「大丈夫でございますよ、若様。このやわらぎ亭にいる限りは、誰も手出しはできません。私が、必ずお守りいたします」
「…すまぬ、おし乃。そなたにまで、面倒をかけてしまうとは…」
「とんでもない。若様は、大切なお客様でございますから」
良太が、熱いお茶と、卵とじの雑炊を運んできた。湯気の立つ雑炊は、見るからに優しく、そして温かそうだ。
「さあ、若様。まずはこれを召し上がって、少しお腹を温めてください。体が温まれば、気持ちも少しは落ち着きましょう」
若様はこくりと頷き、おずおずと匙を取った。雑炊を一口、口に運ぶと、その強張っていた表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。
「…美味い。この雑炊は、体が芯から温まるようだ。出汁の香りが、何とも言えぬ…」
「ありがとうございます。生姜を少しだけ利かせてございますから、体も温まりましょう」
若様は、黙々と雑炊を食べ進めている。その間に、私は店の表の様子をそっと窺った。雨は相変わらず降り続いているが、店の前には特に変わった様子は見られない。しかし、油断はできない。金さんの言葉が、私の脳裏をよぎる。
「おし乃さん、若様のことは、お奉行様にお知らせした方が良いのではないでしょうか?」
良太が小声で私に尋ねてきた。
「そうね…。でも、今すぐに動くのは、かえって相手に感づかれるかもしれない。もう少しだけ、様子を見ましょう。若様が落ち着かれてから、金さんにご連絡を取るのが良いわ」
「はい…」
若様が雑炊を平らげ、熱いお茶を飲んで一息つくと、その顔色は幾分か良くなっていた。
「おし乃、本当に助かった。体も温まったし、少し落ち着いたようだ」
「それはようございました。では、裏口の準備をいたしますので、若様は今しばらく、こちらでお休みください」
「うむ、頼む」
私は良太に目配せし、二人で裏口へと向かった。雨戸を少しだけ開け、外の様子を窺う。裏路地は薄暗く、雨の音以外には何も聞こえない。今のところ、誰かが潜んでいるような気配はない。
「良太、あなたはここで、何かあったらすぐに私に知らせて。私は、金さんに使いを出すわ」
「はい、おし乃さん!お気をつけて!」
私は手早く身支度を整え、店の表から、そっと外へ出た。雨に紛れて、できるだけ人目につかないように、金さんのいる奉行所へと急ぐ。
幸い、道中は誰にも気づかれることなく、無事に奉行所へたどり着くことができた。門番に事情を話し、金さんへの取り次ぎを頼む。
ほどなくして、金さんが奥から姿を現した。その顔には、いつものような柔和な笑みはなく、鋭い緊張感が漂っている。
「おし乃さん、よく来てくれた。若様のご様子は?」
「はい。今はやわらぎ亭におりますが、何者かにつけられていると…。お加減も、あまり良くないご様子です」
「そうか…やはり、奴らが動き出したか…」
金さんは苦々しげに呟くと、すぐに供の者たちに指示を出し始めた。
「おし乃さん、すぐにやわらぎ亭へ戻ってくれ。儂も、すぐに手勢を率いて向かう。それまで、何としても若様をお守りしてくれ!」
「はい、承知いたしました!」
私は金さんの言葉に力強く頷くと、再び雨の中を、やわらぎ亭へと引き返した。
店に戻ると、良太が心配そうに私を迎えた。
「おし乃さん、大丈夫でしたか?」
「ええ。金さんが、すぐにこちらへ来てくださるわ。それまで、私たちが若様をお守りするのよ」
「はい!」
若様は、囲炉裏のそばで静かに座っていた。その表情は落ち着いているように見えるが、やはりどこか不安の色は隠せない。
「若様、お奉行様が、もうすぐこちらへお見えになります。それまで、どうぞご安心ください」
「そうか…それは心強い。おし乃、重ね重ね、すまぬな」
「いえ…」
その時だった。店の表の戸が、乱暴に蹴破られるような音がした。そして、数人の屈強な男たちが、ずかずかと店の中へ押し入ってきたのだ。その手には、抜き身の刀が握られている。
私は声を低め、若様に詰め寄った。ただ事ではない、それは明らかだった。
「…実は、今日、藩邸を出たところから、何者かにつけられているような気がするのだ。気のせいかもしれぬが、どうにも胸騒ぎがしてならぬ。このまま正面から帰るよりは、一度ここで身を隠し、ほとぼりが冷めた頃に裏からこっそりと…と考えたのだが」
若様の額には、冷たい汗が滲んでいる。よほどのことなのだろう。
「わかりました。裏口の戸は、いつでも開けられるようにしておきます。ですが、まずは何か温かいものを召し上がって、少し落ち着いてください。良太、すぐに熱いお茶と、何かお腹に優しいものを用意して」
「は、はい!おし乃さん!」
良太は緊張した面持ちで、すぐに支度に取り掛かった。私も、若様の傍に座り、できるだけ安心させるように言葉をかける。
「大丈夫でございますよ、若様。このやわらぎ亭にいる限りは、誰も手出しはできません。私が、必ずお守りいたします」
「…すまぬ、おし乃。そなたにまで、面倒をかけてしまうとは…」
「とんでもない。若様は、大切なお客様でございますから」
良太が、熱いお茶と、卵とじの雑炊を運んできた。湯気の立つ雑炊は、見るからに優しく、そして温かそうだ。
「さあ、若様。まずはこれを召し上がって、少しお腹を温めてください。体が温まれば、気持ちも少しは落ち着きましょう」
若様はこくりと頷き、おずおずと匙を取った。雑炊を一口、口に運ぶと、その強張っていた表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。
「…美味い。この雑炊は、体が芯から温まるようだ。出汁の香りが、何とも言えぬ…」
「ありがとうございます。生姜を少しだけ利かせてございますから、体も温まりましょう」
若様は、黙々と雑炊を食べ進めている。その間に、私は店の表の様子をそっと窺った。雨は相変わらず降り続いているが、店の前には特に変わった様子は見られない。しかし、油断はできない。金さんの言葉が、私の脳裏をよぎる。
「おし乃さん、若様のことは、お奉行様にお知らせした方が良いのではないでしょうか?」
良太が小声で私に尋ねてきた。
「そうね…。でも、今すぐに動くのは、かえって相手に感づかれるかもしれない。もう少しだけ、様子を見ましょう。若様が落ち着かれてから、金さんにご連絡を取るのが良いわ」
「はい…」
若様が雑炊を平らげ、熱いお茶を飲んで一息つくと、その顔色は幾分か良くなっていた。
「おし乃、本当に助かった。体も温まったし、少し落ち着いたようだ」
「それはようございました。では、裏口の準備をいたしますので、若様は今しばらく、こちらでお休みください」
「うむ、頼む」
私は良太に目配せし、二人で裏口へと向かった。雨戸を少しだけ開け、外の様子を窺う。裏路地は薄暗く、雨の音以外には何も聞こえない。今のところ、誰かが潜んでいるような気配はない。
「良太、あなたはここで、何かあったらすぐに私に知らせて。私は、金さんに使いを出すわ」
「はい、おし乃さん!お気をつけて!」
私は手早く身支度を整え、店の表から、そっと外へ出た。雨に紛れて、できるだけ人目につかないように、金さんのいる奉行所へと急ぐ。
幸い、道中は誰にも気づかれることなく、無事に奉行所へたどり着くことができた。門番に事情を話し、金さんへの取り次ぎを頼む。
ほどなくして、金さんが奥から姿を現した。その顔には、いつものような柔和な笑みはなく、鋭い緊張感が漂っている。
「おし乃さん、よく来てくれた。若様のご様子は?」
「はい。今はやわらぎ亭におりますが、何者かにつけられていると…。お加減も、あまり良くないご様子です」
「そうか…やはり、奴らが動き出したか…」
金さんは苦々しげに呟くと、すぐに供の者たちに指示を出し始めた。
「おし乃さん、すぐにやわらぎ亭へ戻ってくれ。儂も、すぐに手勢を率いて向かう。それまで、何としても若様をお守りしてくれ!」
「はい、承知いたしました!」
私は金さんの言葉に力強く頷くと、再び雨の中を、やわらぎ亭へと引き返した。
店に戻ると、良太が心配そうに私を迎えた。
「おし乃さん、大丈夫でしたか?」
「ええ。金さんが、すぐにこちらへ来てくださるわ。それまで、私たちが若様をお守りするのよ」
「はい!」
若様は、囲炉裏のそばで静かに座っていた。その表情は落ち着いているように見えるが、やはりどこか不安の色は隠せない。
「若様、お奉行様が、もうすぐこちらへお見えになります。それまで、どうぞご安心ください」
「そうか…それは心強い。おし乃、重ね重ね、すまぬな」
「いえ…」
その時だった。店の表の戸が、乱暴に蹴破られるような音がした。そして、数人の屈強な男たちが、ずかずかと店の中へ押し入ってきたのだ。その手には、抜き身の刀が握られている。
42
あなたにおすすめの小説
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
【完結】『江戸一番の菓子屋と嘘つき娘』
月影 朔
歴史・時代
江戸日本橋の片隅に佇む、小さな甘味処「春告鳥」。
そこで看板娘として働くおみえは、笑顔と真心で客を迎える、明るく評判の娘だ。
しかし彼女には、誰にも言えぬ秘密があった――
おみえは、心優しき店主夫婦に拾われた孤児なのだ。
その恩に報いるため、大好きなこの店を守るため、「江戸一番」の味を守るため、おみえは必死にもがく。
これは、秘密と嘘を抱えた一人の娘が、逆境の中で真心と向き合い、家族や仲間との絆を通して成長していく感動の物語。
おみえは、大切な春告鳥を守り抜くことができるのか?
彼女のついた嘘は、吉と出るか、それとも凶と出るか?
江戸の町を舞台に繰り広げられる、涙と笑顔の人情譚。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
元Sランク受付嬢の、路地裏ひとり酒とまかない飯
☆ほしい
ファンタジー
ギルド受付嬢の佐倉レナ、外見はちょっと美人。仕事ぶりは真面目でテキパキ。そんなどこにでもいる女性。
でも実はその正体、数年前まで“災厄クラス”とまで噂された元Sランク冒険者。
今は戦わない。名乗らない。ひっそり事務仕事に徹してる。
なぜって、もう十分なんです。命がけで世界を救った報酬は、“おひとりさま晩酌”の幸福。
今日も定時で仕事を終え、路地裏の飯処〈モンス飯亭〉へ直行。
絶品まかないメシとよく冷えた一杯で、心と体をリセットする時間。
それが、いまのレナの“最強スタイル”。
誰にも気を使わない、誰も邪魔しない。
そんなおひとりさまグルメライフ、ここに開幕。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる