【読者賞受賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

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「若様、何があったのですか?詳しくお聞かせください!」

私は声を低め、若様に詰め寄った。ただ事ではない、それは明らかだった。

「…実は、今日、藩邸を出たところから、何者かにつけられているような気がするのだ。気のせいかもしれぬが、どうにも胸騒ぎがしてならぬ。このまま正面から帰るよりは、一度ここで身を隠し、ほとぼりが冷めた頃に裏からこっそりと…と考えたのだが」

若様の額には、冷たい汗が滲んでいる。よほどのことなのだろう。

「わかりました。裏口の戸は、いつでも開けられるようにしておきます。ですが、まずは何か温かいものを召し上がって、少し落ち着いてください。良太、すぐに熱いお茶と、何かお腹に優しいものを用意して」

「は、はい!おし乃さん!」

良太は緊張した面持ちで、すぐに支度に取り掛かった。私も、若様の傍に座り、できるだけ安心させるように言葉をかける。

「大丈夫でございますよ、若様。このやわらぎ亭にいる限りは、誰も手出しはできません。私が、必ずお守りいたします」

「…すまぬ、おし乃。そなたにまで、面倒をかけてしまうとは…」

「とんでもない。若様は、大切なお客様でございますから」

良太が、熱いお茶と、卵とじの雑炊を運んできた。湯気の立つ雑炊は、見るからに優しく、そして温かそうだ。

「さあ、若様。まずはこれを召し上がって、少しお腹を温めてください。体が温まれば、気持ちも少しは落ち着きましょう」

若様はこくりと頷き、おずおずと匙を取った。雑炊を一口、口に運ぶと、その強張っていた表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。

「…美味い。この雑炊は、体が芯から温まるようだ。出汁の香りが、何とも言えぬ…」

「ありがとうございます。生姜を少しだけ利かせてございますから、体も温まりましょう」

若様は、黙々と雑炊を食べ進めている。その間に、私は店の表の様子をそっと窺った。雨は相変わらず降り続いているが、店の前には特に変わった様子は見られない。しかし、油断はできない。金さんの言葉が、私の脳裏をよぎる。

「おし乃さん、若様のことは、お奉行様にお知らせした方が良いのではないでしょうか?」

良太が小声で私に尋ねてきた。

「そうね…。でも、今すぐに動くのは、かえって相手に感づかれるかもしれない。もう少しだけ、様子を見ましょう。若様が落ち着かれてから、金さんにご連絡を取るのが良いわ」

「はい…」

若様が雑炊を平らげ、熱いお茶を飲んで一息つくと、その顔色は幾分か良くなっていた。

「おし乃、本当に助かった。体も温まったし、少し落ち着いたようだ」

「それはようございました。では、裏口の準備をいたしますので、若様は今しばらく、こちらでお休みください」

「うむ、頼む」

私は良太に目配せし、二人で裏口へと向かった。雨戸を少しだけ開け、外の様子を窺う。裏路地は薄暗く、雨の音以外には何も聞こえない。今のところ、誰かが潜んでいるような気配はない。

「良太、あなたはここで、何かあったらすぐに私に知らせて。私は、金さんに使いを出すわ」

「はい、おし乃さん!お気をつけて!」

私は手早く身支度を整え、店の表から、そっと外へ出た。雨に紛れて、できるだけ人目につかないように、金さんのいる奉行所へと急ぐ。

幸い、道中は誰にも気づかれることなく、無事に奉行所へたどり着くことができた。門番に事情を話し、金さんへの取り次ぎを頼む。

ほどなくして、金さんが奥から姿を現した。その顔には、いつものような柔和な笑みはなく、鋭い緊張感が漂っている。

「おし乃さん、よく来てくれた。若様のご様子は?」

「はい。今はやわらぎ亭におりますが、何者かにつけられていると…。お加減も、あまり良くないご様子です」

「そうか…やはり、奴らが動き出したか…」

金さんは苦々しげに呟くと、すぐに供の者たちに指示を出し始めた。

「おし乃さん、すぐにやわらぎ亭へ戻ってくれ。儂も、すぐに手勢を率いて向かう。それまで、何としても若様をお守りしてくれ!」

「はい、承知いたしました!」

私は金さんの言葉に力強く頷くと、再び雨の中を、やわらぎ亭へと引き返した。

店に戻ると、良太が心配そうに私を迎えた。

「おし乃さん、大丈夫でしたか?」

「ええ。金さんが、すぐにこちらへ来てくださるわ。それまで、私たちが若様をお守りするのよ」

「はい!」

若様は、囲炉裏のそばで静かに座っていた。その表情は落ち着いているように見えるが、やはりどこか不安の色は隠せない。

「若様、お奉行様が、もうすぐこちらへお見えになります。それまで、どうぞご安心ください」

「そうか…それは心強い。おし乃、重ね重ね、すまぬな」

「いえ…」

その時だった。店の表の戸が、乱暴に蹴破られるような音がした。そして、数人の屈強な男たちが、ずかずかと店の中へ押し入ってきたのだ。その手には、抜き身の刀が握られている。

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