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まずは、見事な鯛を捌くことから始めた。
三枚におろし、腹身は塩焼きに、背の身は昆布締めに、そして残った骨や頭からは、極上の出汁を取る。
良太には、届けられた極上の米を、丁寧に研いで土鍋で炊いてもらう。炊き上がりの香りが店中に広がるだけで、幸せな気持ちになった。
干し鮑は、時間をかけてゆっくりと水で戻し、柔らかく煮含める。
他にも、いつもの常連さんたちの顔を思い浮かべながら、何品か料理を用意した。
八百屋の忠吉さんには、新鮮な野菜を使った炊き合わせを。
火消しの弥之助さんには、力仕事の後に嬉しい、少し濃いめの味付けの煮物を。
夕暮れ時、やわらぎ亭の暖簾をくぐった常連さんたちは、いつもと違う豪華な料理の数々に、目を丸くしていた。
「お、おし乃ちゃん、なんだいこりゃあ!今日は何かのお祝いかい?」
一番乗りでやってきた忠吉さんが、驚きの声を上げる。
「まあ、そんなところです。ささやかですが、いつもお世話になっている皆さんへのお礼です。どうぞ、たくさん召し上がってくださいな」
私はにこやかに答え、次々と料理を運んだ。
「うひょー!なんだこの鯛の塩焼き!身がふわふわで、脂が乗っててたまらねえぜ!」
弥之助さんが、大きな口で鯛にかぶりつき、歓声を上げる。
「この飯もすげえな。甘みがあって、一粒一粒がしっかりしてる。こんな美味い米、食ったことねえや」
別の席の職人さんも、感心したように頷いている。
やわらぎ亭は、あっという間に客たちの笑顔と、美味しいという言葉で満たされていった。
「おし乃さん、これはまた、見事なものだな」
少し遅れてやってきた金さんも、昆布締めの鯛を口に運び、満足そうに目を細めた。
「金さんにも、ぜひ召し上がっていただきたくて」
私が事の経緯をかいつまんで話すと、金さんはほう、と感心したように息を漏らした。
「越後屋の隠居様か。あの方は、若い頃から目利きで知られたお人だ。そのお方が認めたとなれば、おし乃さんの親父殿も、そしておし乃さん自身も、本物だということだな」
「恐れ入ります」
金さんの言葉に、私は少し顔が熱くなるのを感じた。
「しかし、そのお礼の品を、こうして皆に振る舞うとは。おし乃さんらしい、見事な計らいだ」
「父が繋いでくれたご縁ですから。私一人のものにするのは、もったいないと思いまして」
私がそう言うと、金さんはふっと優しい笑みを浮かべた。
「良い心掛けだ。その心があれば、このやわらぎ亭は、これからも多くの者に愛されるだろう」
その夜のやわらぎ亭は、いつにも増して、温かい笑い声と人々の笑顔で溢れていた。
父が残してくれた料理の心。それは、ただ美味しいものを作るだけではない。
料理を通して、人と人が繋がり、心が通い合い、そして温かい輪が広がっていくこと。
そのことを、私は改めて実感していた。
美味しいものを、好きな人たちと一緒に食べる。
それは、何にも代えがたい、ささやかで、そして最高の幸せだ。
空になった皿を下げながら、私は心の中で、天国の父と、そして越後屋の大女将様に、深く感謝した。
このやわらぎ亭で、私はこれからも、たくさんの心をお腹いっぱいにしていこう。
そう、固く決意した。
外はすっかり暗くなり、提灯の明かりが深川の町を優しく照らしている。
店内の賑わいをBGMに、私は良太と一緒に、黙々と洗い物をこなしていた。
客たちの満足そうな顔を思い出すと、疲れも吹き飛んでしまう。
「良太、今日はお疲れ様。あなたのおかげで、助かったわ」
「いえ、そんな!俺、おし乃さんの手伝いができて、すごく楽しかったです!あんなに凄い食材を触るのも初めてでしたし……勉強になりました!」
目をきらきらさせながら言う良太が、なんだか眩しく見えた。
この子の素直さと料理への情熱は、きっと将来、大きな花を咲かせるだろう。
その成長を一番近くで見守れることが、私の喜びの一つでもあった。
「また、明日からも頑張りましょうね」
「はい!」
元気な返事を聞きながら、私はふと、店の隅に置かれた、まだ手をつけていない贈り物のことを思い出した。
越後屋からの品々は、今日一日で使い切れる量ではなかったのだ。
特に、干し鮑や昆布などの乾物は、まだまだたくさん残っている。
「明日からは、しばらく贅沢な賄いが食べられそうね」
私が冗談めかして言うと、良太は「本当ですか!やったー!」と子供のようにはしゃいだ。
その無邪気な姿に、私もつられて笑ってしまう。
父が亡くなってから、どこか寂しさを抱えていたけれど、今は良太という家族のような存在がいてくれる。そして、やわらぎ亭に集う、温かい常連さんたちがいる。
私は、決して一人ではないのだ。
そんなことを考えていると、店の戸がからりと開いた。
もう客が来る時間ではない。不思議に思って顔を上げると、そこに立っていたのは、薬種問屋の若旦那、宗太郎さんだった。
その手には、小さな風呂敷包みを抱えている。
「宗太郎さん?どうかなさいましたか、こんな時間に」
「いや、すまないね、おし乃さん。店じまいをしているところだったかい」
宗太郎さんは、申し訳なさそうな顔で言った。
彼の顔色が、心なしか優れないように見えるのが気にかかる。
三枚におろし、腹身は塩焼きに、背の身は昆布締めに、そして残った骨や頭からは、極上の出汁を取る。
良太には、届けられた極上の米を、丁寧に研いで土鍋で炊いてもらう。炊き上がりの香りが店中に広がるだけで、幸せな気持ちになった。
干し鮑は、時間をかけてゆっくりと水で戻し、柔らかく煮含める。
他にも、いつもの常連さんたちの顔を思い浮かべながら、何品か料理を用意した。
八百屋の忠吉さんには、新鮮な野菜を使った炊き合わせを。
火消しの弥之助さんには、力仕事の後に嬉しい、少し濃いめの味付けの煮物を。
夕暮れ時、やわらぎ亭の暖簾をくぐった常連さんたちは、いつもと違う豪華な料理の数々に、目を丸くしていた。
「お、おし乃ちゃん、なんだいこりゃあ!今日は何かのお祝いかい?」
一番乗りでやってきた忠吉さんが、驚きの声を上げる。
「まあ、そんなところです。ささやかですが、いつもお世話になっている皆さんへのお礼です。どうぞ、たくさん召し上がってくださいな」
私はにこやかに答え、次々と料理を運んだ。
「うひょー!なんだこの鯛の塩焼き!身がふわふわで、脂が乗っててたまらねえぜ!」
弥之助さんが、大きな口で鯛にかぶりつき、歓声を上げる。
「この飯もすげえな。甘みがあって、一粒一粒がしっかりしてる。こんな美味い米、食ったことねえや」
別の席の職人さんも、感心したように頷いている。
やわらぎ亭は、あっという間に客たちの笑顔と、美味しいという言葉で満たされていった。
「おし乃さん、これはまた、見事なものだな」
少し遅れてやってきた金さんも、昆布締めの鯛を口に運び、満足そうに目を細めた。
「金さんにも、ぜひ召し上がっていただきたくて」
私が事の経緯をかいつまんで話すと、金さんはほう、と感心したように息を漏らした。
「越後屋の隠居様か。あの方は、若い頃から目利きで知られたお人だ。そのお方が認めたとなれば、おし乃さんの親父殿も、そしておし乃さん自身も、本物だということだな」
「恐れ入ります」
金さんの言葉に、私は少し顔が熱くなるのを感じた。
「しかし、そのお礼の品を、こうして皆に振る舞うとは。おし乃さんらしい、見事な計らいだ」
「父が繋いでくれたご縁ですから。私一人のものにするのは、もったいないと思いまして」
私がそう言うと、金さんはふっと優しい笑みを浮かべた。
「良い心掛けだ。その心があれば、このやわらぎ亭は、これからも多くの者に愛されるだろう」
その夜のやわらぎ亭は、いつにも増して、温かい笑い声と人々の笑顔で溢れていた。
父が残してくれた料理の心。それは、ただ美味しいものを作るだけではない。
料理を通して、人と人が繋がり、心が通い合い、そして温かい輪が広がっていくこと。
そのことを、私は改めて実感していた。
美味しいものを、好きな人たちと一緒に食べる。
それは、何にも代えがたい、ささやかで、そして最高の幸せだ。
空になった皿を下げながら、私は心の中で、天国の父と、そして越後屋の大女将様に、深く感謝した。
このやわらぎ亭で、私はこれからも、たくさんの心をお腹いっぱいにしていこう。
そう、固く決意した。
外はすっかり暗くなり、提灯の明かりが深川の町を優しく照らしている。
店内の賑わいをBGMに、私は良太と一緒に、黙々と洗い物をこなしていた。
客たちの満足そうな顔を思い出すと、疲れも吹き飛んでしまう。
「良太、今日はお疲れ様。あなたのおかげで、助かったわ」
「いえ、そんな!俺、おし乃さんの手伝いができて、すごく楽しかったです!あんなに凄い食材を触るのも初めてでしたし……勉強になりました!」
目をきらきらさせながら言う良太が、なんだか眩しく見えた。
この子の素直さと料理への情熱は、きっと将来、大きな花を咲かせるだろう。
その成長を一番近くで見守れることが、私の喜びの一つでもあった。
「また、明日からも頑張りましょうね」
「はい!」
元気な返事を聞きながら、私はふと、店の隅に置かれた、まだ手をつけていない贈り物のことを思い出した。
越後屋からの品々は、今日一日で使い切れる量ではなかったのだ。
特に、干し鮑や昆布などの乾物は、まだまだたくさん残っている。
「明日からは、しばらく贅沢な賄いが食べられそうね」
私が冗談めかして言うと、良太は「本当ですか!やったー!」と子供のようにはしゃいだ。
その無邪気な姿に、私もつられて笑ってしまう。
父が亡くなってから、どこか寂しさを抱えていたけれど、今は良太という家族のような存在がいてくれる。そして、やわらぎ亭に集う、温かい常連さんたちがいる。
私は、決して一人ではないのだ。
そんなことを考えていると、店の戸がからりと開いた。
もう客が来る時間ではない。不思議に思って顔を上げると、そこに立っていたのは、薬種問屋の若旦那、宗太郎さんだった。
その手には、小さな風呂敷包みを抱えている。
「宗太郎さん?どうかなさいましたか、こんな時間に」
「いや、すまないね、おし乃さん。店じまいをしているところだったかい」
宗太郎さんは、申し訳なさそうな顔で言った。
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