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「あら、金さん。いらっしゃいませ。朝から珍しいですわね」
私が声をかけると、金さんは人の好さそうな笑みを浮かべて店に入ってきた。
「いやなに、少し野暮用でこちらの方面まで来たものでな。何やら、腹の虫が騒ぐ良い匂いがしたもので、つい足が向いてしまった」
金さんはそう言うと、くんくんと鼻を鳴らし、弥之助さんが食べて空になった丼に目を留めた。
「ほう、これはまた美味そうなものを食べていたようだ。鰯か?」
「おう、金さん! ちっと聞いてくれよ! おし乃さんが、そりゃあもう絶品の鰯料理をよぉ!」
弥之助さんが、興奮冷めやらぬ様子で、先ほどの鰯の蒲焼きがいかに素晴らしかったかを熱弁し始める。
その隣で、お初ちゃんも「すっごくおいしかったんだよ!」と、一生懸命に背伸びをして金さんにアピールしていた。
そんな微笑ましい光景に、金さんは相好を崩している。
「はっはっは、そうかそうか。それは羨ましい限りだ。火消し組の悩み事を、おし乃さんが一品で解決してしまった、というわけですな」
「そういうこった! さすがは金さん、話が早えや!」
私は苦笑しながら、炊き場に残っていた蒲焼きを、小さなお皿に盛り付けた。
「金さんも、よろしければお味見なさいますか? まだ少しだけ残っておりますので」
「お、それはありがたい。では、遠慮なく」
金さんは、嬉しそうに席に着いた。
私は、炊きたてのご飯を少しだけよそった小丼と、蒲焼きの小皿をそっと差し出す。
金さんは、まずは蒲焼きを一切れ、じっくりと眺め、それからゆっくりと口に運んだ。
しばしの間、金さんは何も言わず、ただ目を閉じてその味を噛み締めている。
弥之助さんもお初ちゃんも、固唾をのんでその様子を見守っていた。
やがて、金さんはゆっくりと目を開けると、ふう、と一つ、満足げな息を吐いた。
「……見事なものだ」
その一言には、深い感嘆が込められていた。
「この甘辛いタレが、鰯の持ち味を少しも殺していない。むしろ、鰯の持つ豊かな脂の甘みを、最大限に引き出している。それでいて、後味は少しもくどくない。山椒の香りが、また良い仕事をしているな」
次々と繰り出される的確な評価の言葉に、私はただ恐縮するばかりだった。
この人は、ただの遊び人の浪人ではない。その舌と観察眼は、本物だ。
「おし乃さん。あんたの腕は、日に日に凄みを増していくようだ。このやわらぎ亭は、江戸一番の名店になるやもしれんな」
「まあ、金さんまで。おからかいになっては、筆が進みませんわ」
私は照れ隠しにそう言うと、弥之助さんのために書き物机に向き直った。
金さんは、残りの蒲焼きを名残惜しそうに食べ終えると、満足げにお茶をすすっている。
「さて、弥之助さん。お待たせいたしました。次は、つみれ汁の作り方ですわね」
「おう! 頼む、おし乃さん!」
「つみれ汁は、まず、鰯を根気よく叩くところから始まります。包丁で、粘りが出るまで何度も叩くのです」
私はそう説明しながら、残りの鰯をまな板の上に乗せ、二本の包丁を使ってリズミカルに叩き始めた。
トントントン、という軽快な音が、店の中に響き渡る。
やがて、鰯の身は滑らかなすり身状になっていった。
「うへぇ、こりゃあ根気がいる作業だな。俺にはちと真似できそうにねえや」
弥之助さんが、早くも弱音を吐く。
「慣れれば、どうということはありませんわ。ここに、お味噌と生姜のすりおろし、それからつなぎに少しだけ片栗粉を加えて、よく混ぜ合わせます」
すり鉢ですり身と調味料を混ぜ合わせると、ふわりと生姜の良い香りがした。
これで、つみれの準備は万端だ。
「あとは、これを一口大に丸めて、お出汁で煮るだけです。お野菜は、大根や人参、ごぼうなどの根菜がよく合いますよ」
炊き場の鍋には、昆布と鰹節で取った一番出汁が、静かに湯気を立てている。
私は、混ぜ合わせた鰯のすり身を、匙を使って手際よく丸め、そっと鍋の中に落としていった。
白いすり身が、熱い出汁の中でくるりと丸まり、ゆっくりと沈んでいく。
「ほう、手際が良いな」
金さんが、カウンター越しに感心したように呟いた。
良太も、私の手元を食い入るように見つめている。この子の真面目な眼差しは、私の背筋をぴんと伸ばしてくれる。
鍋の中では、いくつものつみれが、お互いにぶつからないように、ゆらゆらと揺れていた。
出汁が煮立つにつれて、魚の旨味と生姜の香りが混じり合った、何とも言えない良い匂いが立ち上ってくる。
やがて、鍋の底に沈んでいたつみれが、一つ、また一つと、ふわりと水面に浮かんできた。
火が通った証拠だ。
「こうして、つみれが浮いてきたら、あとはお豆腐やお葱を加えて、お醤油とお塩で味を調えれば…」
私がそう説明しながら、豆腐を鍋に加えようとした、その時だった。
店の戸が、今度は勢いよく、がらん、と大きな音を立てて開かれた。
店にいる全員の視線が、戸口に集まる。
そこに立っていたのは、血相を変えた八百屋の忠吉さんだった。
その手は小刻みに震え、顔は真っ青になっている。
「た、大変だ! おし乃ちゃん!」
ただならぬ様子に、店の和やかな空気が一瞬で凍りついた。
「忠吉さん、どうなさったんですか。そんなに慌てて」
私が落ち着いて尋ねると、忠吉さんはぜえぜえと息を切らしながら、叫ぶように言った。
「こ、甲州屋さんが…!米問屋の甲州屋の旦那が、役人に引っ立てられていったんだ!」
私が声をかけると、金さんは人の好さそうな笑みを浮かべて店に入ってきた。
「いやなに、少し野暮用でこちらの方面まで来たものでな。何やら、腹の虫が騒ぐ良い匂いがしたもので、つい足が向いてしまった」
金さんはそう言うと、くんくんと鼻を鳴らし、弥之助さんが食べて空になった丼に目を留めた。
「ほう、これはまた美味そうなものを食べていたようだ。鰯か?」
「おう、金さん! ちっと聞いてくれよ! おし乃さんが、そりゃあもう絶品の鰯料理をよぉ!」
弥之助さんが、興奮冷めやらぬ様子で、先ほどの鰯の蒲焼きがいかに素晴らしかったかを熱弁し始める。
その隣で、お初ちゃんも「すっごくおいしかったんだよ!」と、一生懸命に背伸びをして金さんにアピールしていた。
そんな微笑ましい光景に、金さんは相好を崩している。
「はっはっは、そうかそうか。それは羨ましい限りだ。火消し組の悩み事を、おし乃さんが一品で解決してしまった、というわけですな」
「そういうこった! さすがは金さん、話が早えや!」
私は苦笑しながら、炊き場に残っていた蒲焼きを、小さなお皿に盛り付けた。
「金さんも、よろしければお味見なさいますか? まだ少しだけ残っておりますので」
「お、それはありがたい。では、遠慮なく」
金さんは、嬉しそうに席に着いた。
私は、炊きたてのご飯を少しだけよそった小丼と、蒲焼きの小皿をそっと差し出す。
金さんは、まずは蒲焼きを一切れ、じっくりと眺め、それからゆっくりと口に運んだ。
しばしの間、金さんは何も言わず、ただ目を閉じてその味を噛み締めている。
弥之助さんもお初ちゃんも、固唾をのんでその様子を見守っていた。
やがて、金さんはゆっくりと目を開けると、ふう、と一つ、満足げな息を吐いた。
「……見事なものだ」
その一言には、深い感嘆が込められていた。
「この甘辛いタレが、鰯の持ち味を少しも殺していない。むしろ、鰯の持つ豊かな脂の甘みを、最大限に引き出している。それでいて、後味は少しもくどくない。山椒の香りが、また良い仕事をしているな」
次々と繰り出される的確な評価の言葉に、私はただ恐縮するばかりだった。
この人は、ただの遊び人の浪人ではない。その舌と観察眼は、本物だ。
「おし乃さん。あんたの腕は、日に日に凄みを増していくようだ。このやわらぎ亭は、江戸一番の名店になるやもしれんな」
「まあ、金さんまで。おからかいになっては、筆が進みませんわ」
私は照れ隠しにそう言うと、弥之助さんのために書き物机に向き直った。
金さんは、残りの蒲焼きを名残惜しそうに食べ終えると、満足げにお茶をすすっている。
「さて、弥之助さん。お待たせいたしました。次は、つみれ汁の作り方ですわね」
「おう! 頼む、おし乃さん!」
「つみれ汁は、まず、鰯を根気よく叩くところから始まります。包丁で、粘りが出るまで何度も叩くのです」
私はそう説明しながら、残りの鰯をまな板の上に乗せ、二本の包丁を使ってリズミカルに叩き始めた。
トントントン、という軽快な音が、店の中に響き渡る。
やがて、鰯の身は滑らかなすり身状になっていった。
「うへぇ、こりゃあ根気がいる作業だな。俺にはちと真似できそうにねえや」
弥之助さんが、早くも弱音を吐く。
「慣れれば、どうということはありませんわ。ここに、お味噌と生姜のすりおろし、それからつなぎに少しだけ片栗粉を加えて、よく混ぜ合わせます」
すり鉢ですり身と調味料を混ぜ合わせると、ふわりと生姜の良い香りがした。
これで、つみれの準備は万端だ。
「あとは、これを一口大に丸めて、お出汁で煮るだけです。お野菜は、大根や人参、ごぼうなどの根菜がよく合いますよ」
炊き場の鍋には、昆布と鰹節で取った一番出汁が、静かに湯気を立てている。
私は、混ぜ合わせた鰯のすり身を、匙を使って手際よく丸め、そっと鍋の中に落としていった。
白いすり身が、熱い出汁の中でくるりと丸まり、ゆっくりと沈んでいく。
「ほう、手際が良いな」
金さんが、カウンター越しに感心したように呟いた。
良太も、私の手元を食い入るように見つめている。この子の真面目な眼差しは、私の背筋をぴんと伸ばしてくれる。
鍋の中では、いくつものつみれが、お互いにぶつからないように、ゆらゆらと揺れていた。
出汁が煮立つにつれて、魚の旨味と生姜の香りが混じり合った、何とも言えない良い匂いが立ち上ってくる。
やがて、鍋の底に沈んでいたつみれが、一つ、また一つと、ふわりと水面に浮かんできた。
火が通った証拠だ。
「こうして、つみれが浮いてきたら、あとはお豆腐やお葱を加えて、お醤油とお塩で味を調えれば…」
私がそう説明しながら、豆腐を鍋に加えようとした、その時だった。
店の戸が、今度は勢いよく、がらん、と大きな音を立てて開かれた。
店にいる全員の視線が、戸口に集まる。
そこに立っていたのは、血相を変えた八百屋の忠吉さんだった。
その手は小刻みに震え、顔は真っ青になっている。
「た、大変だ! おし乃ちゃん!」
ただならぬ様子に、店の和やかな空気が一瞬で凍りついた。
「忠吉さん、どうなさったんですか。そんなに慌てて」
私が落ち着いて尋ねると、忠吉さんはぜえぜえと息を切らしながら、叫ぶように言った。
「こ、甲州屋さんが…!米問屋の甲州屋の旦那が、役人に引っ立てられていったんだ!」
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