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「こ、甲州屋さんが…!米問屋の甲州屋の旦那が、役人に引っ立てられていったんだ!」
ただならぬ様子に、店の和やかな空気が一瞬で凍りついた。
「忠吉さん、どうなさったんですか。そんなに慌てて」
私が落ち着いて尋ねると、忠吉さんはぜえぜえと息を切らしながら、叫ぶように言った。
「甲州屋さんが、捕まっちまったんだよ!なんでも、禁制の品を扱っていたとかで、蔵の中のものはごっそり差し押さえられちまったって話だ!」
「まあ……!あの甲州屋さんが、そんなことを……」
私はにわかには信じられなかった。
甲州屋の主は、確かに一時期は羽振りが良かったが、今は商いも手放し、静かに暮らしていると聞いていた。
それに、あの実直な人が、法を犯すような真似をするとは到底思えなかった。
「詳しいことは俺にもわからねえ。だが、町中はその話で持ちきりだ。甲州屋さんは、もうおしまいだって……」
忠吉さんの言葉に、店の中にいた他の客たちも、ざわつき始める。
「甲州屋の旦那がか……。真面目な人だったのになぁ」
「人は見かけによらねえもんだな」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
「金さん……」
私は、思わず隣に座っていた金さんに視線を向けた。
彼は、いつもの飄々とした態度は崩さずに、静かにお茶をすすっている。しかし、その目の奥には、鋭い光が宿っていた。
「……ふむ。これは、ちと妙ですな」
金さんが、ぽつりと呟いた。
「妙、とはどういうことでございますか?」
「いや、甲州屋の旦那の人柄は、私もよく知っております。あの人が、今さらそのような危ない橋を渡るとは思えませぬ。それに、禁制の品とは……具体的に何だったのか、その話は出ておりましたかな?」
金さんの問いに、忠吉さんは首を横に振った。
「いや、そこまでは……。ただ、相当な値打ちものだったって噂だ」
「なるほど……。これは、裏で誰かが糸を引いているやもしれませぬな」
金さんはそう言うと、すっくと立ち上がった。
「おし乃さん、弥之助。少し、調べたいことができました。私は、一度奉行所に戻ります」
「おう、金さん! 俺も手伝うぜ!」
「いや、弥之助はここにいてくだされ。万が一、甲州屋の家族に何かあってはならぬ。様子を見てきてはくれぬか」
「わかった! 任せとけ!」
弥之助さんは威勢よく返事をすると、すぐに店を飛び出していった。
「おし乃さん、すまぬが、今日のつみれ汁はまた今度、ご馳走になることにしよう。どうやら、のんびり飯を食っている場合ではなさそうだ」
金さんは私に目配せすると、足早に店を後にした。
後に残されたのは、不穏な空気と、客たちの不安げな囁き声だけだった。
「良太、店は大丈夫?」
「は、はい! 俺がちゃんと見てますから、おし乃さんは……」
心配そうに私を見る良太に、私は力なく微笑んだ。
「ありがとう。でも、私もじっとしてはいられないわ。何か、私にできることはないかしら……」
甲州屋の主の、寂しげな背中が脳裏に浮かぶ。
かつては隆盛を誇った商人が、全てを失い、それでも時折このやわらぎ亭に顔を出しては、私の料理を静かに味わっていた。
「ここに来ると、初心を思い出せる」
そう言って、少しだけはにかんだように笑った顔を、私は忘れることができなかった。
あの人が、罪を犯すはずがない。
もし、これが何者かの罠だとしたら……。
私は、いてもたってもいられなくなり、炊き場に立った。
こんな時だからこそ、料理人である私にできることがあるはずだ。
そうだ、甲州屋さんのご家族は、今頃どれほど心細い思いをしていることだろう。
主が捕らえられ、家には役人が押し寄せ、近所の目もある。食事も喉を通らないかもしれない。
「良太」
「はい、おし乃さん!」
「甲州屋さんのところに、差し入れを持っていくわ。何か、温かくて、少しでも元気が出るようなものを。手伝ってくれる?」
「もちろんです!」
良太は、私の意をすぐに汲んで、力強く頷いた。
その目には、不安よりも、誰かの力になりたいという強い意志が宿っていた。
私は、この子がここにいてくれることを、心から頼もしく思った。
何を作ろうか。
私は一瞬考え、そしてすぐに決めた。
こんな時こそ、一番シンプルで、一番心が温まるものがいい。
越後屋から頂いた極上の米で炊いた、真っ白な握り飯。
そして、具沢山の、栄養満点の豚汁だ。
私はすぐに、大根や人参、ごぼうなどの根菜を、手早く刻み始めた。
良太には、豚肉と、油揚げ、こんにゃくを切ってもらう。
大きな鍋に胡麻油を熱し、豚肉と根菜を香ばしく炒める。
そこに、昆布と鰹節で丁寧にとった出汁をたっぷりと注ぎ、アクを取りながら、ことことと煮込んでいく。
野菜が柔らかく煮えたところで、味噌を溶き入れる。
味噌は、信州の白味噌と、八丁味噌を少しだけ合わせた、特製の合わせ味噌だ。
コクがありながら、後味はすっきりとしている。
最後に、刻んだ葱をたっぷりと散らせば、やわらぎ亭特製の豚汁の完成だ。
ほかほかと湯気の立つ白い握り飯は、少しだけ塩気を利かせて、きゅっと固めに握る。
これを食べれば、きっと、少しは力が湧いてくるはずだ。
「よし、できたわ。良太、これを重箱に詰めてくれる?」
「はい!」
良太が手際よく重箱に握り飯と豚汁を詰めている間に、弥之助さんが店に戻ってきた。
その顔は、暗く曇っている。
「どうだった、弥之助さん?」
私が尋ねると、弥之助さんは悔しそうに顔を歪めた。
「ダメだ。甲州屋の家は、役人が固めてて、誰も近づけねえ。奥さんや子供たちの顔も見られなかった。ただ、中から……か細い泣き声が聞こえてきて……」
その言葉に、私は胸が締め付けられる思いだった。
「そう……」
「だが、さっき、甲州屋に出入りしてた手代の男が、こっそり裏口から出てくるところを見たんだ。なんだか、こそこそしてて、妙に挙動不審だったぜ」
「手代が……?」
弥之助さんの言葉に、私は何か引っかかるものを感じた。
その時だった。店の戸がそっと開き、一人の若い娘さんが、おずおずと顔を覗かせた。
年の頃は、十六、七だろうか。見慣れない顔だ。
「あの……こちら、やわらぎ亭さんで、よろしいでしょうか……?」
その声は、か細く震えていた。
よく見ると、着物の袖は少し汚れ、目元は赤く腫れている。
何か、辛いことがあったのだろう。
「はい、さようでございます。どうぞ、お入りくださいな」
私が優しく声をかけると、娘さんはほっとしたように店の中に入ってきた。
そして、私と目が合うと、はらはらと涙をこぼし始めた。
「まあ、どうかなさいましたか? 何か、お困りごとでも?」
私は娘さんを席に座らせ、温かいお茶を差し出した。
娘さんは、しばらくの間、ただしくしくと泣いていたが、やがて、ぽつり、ぽつりと事情を話し始めた。
「わ、私……甲州屋の、娘でございます……」
「まあ……! あなたが、甲州屋さんの……」
私と弥之助さん、良太は、思わず顔を見合わせた。
なんと、こんな時に。
「父が……父が、捕まってしまって……。母も、すっかり気が動転してしまって、どうしていいか分からず……。噂で、こちらのやわらぎ亭の女将様は、とてもお優しくて、困った人の力になってくださると聞いて……。わらにもすがる思いで、参りました……!」
娘さんは、私の前に膝をつき、畳に手をついて懇願した。
「どうか……どうか、父を助けてはいただけないでしょうか! 父は、決して悪いことをするような人ではございません! これは、何かの間違いなのです!」
その必死の訴えに、私の心は決まった。
「お顔を上げなさい。大丈夫、私が必ず、お力になります」
私は娘さんの手をとり、力強くそう言った。
「あなたのお父様が、無実であることは、私が一番よく存じております。きっと、何か裏があるのでしょう。……金さんも、そう仰っていました」
「金さん……?」
「ええ。南町奉行所の、遠山様のことです」
私の言葉に、娘さんと弥之助さんが、同時に息をのんだ。
あの遊び人の金さんが、お奉行様……? 無理もない。私も、初めて知った時は心底驚いたのだから。
「金さんが、今、この一件を調べてくださっています。だから、きっと大丈夫。真実は、必ず明らかになります」
「……本当、ですか……?」
「ええ、本当ですとも。だから、あなたも気をしっかり持つのです。今、あなたがお母様やご兄弟を支えなくて、誰が支えるのですか」
私の言葉に、娘さんははっとしたように顔を上げた。
その瞳に、ようやく強い光が戻ってきた。
「はい……! おっしゃる通りですわ。私が、しっかりしなくては……!」
「それでこそ、甲州屋さんの娘さんです。さあ、まずはこれを。お腹が空いては、何もできませんから」
私は、先ほど作ったばかりの握り飯と豚汁を、娘さんの前に差し出した。
「でも、私……」
「遠慮は無用です。これは、あなたのご家族のために作ったもの。まずはあなたが食べて、元気を出すのです。そして、残りは、お母様たちに届けて差し上げなさい」
娘さんは、こくこくと何度も頷きながら、涙で濡れた顔のまま、握り飯を一口、頬張った。
そして、堰を切ったように、わっと泣き出した。
それは、悲しみや絶望の涙ではなかった。
安堵と、そして、人の温かさに触れた、嬉し涙だった。
私は、その背中を、ただ黙って、優しくさすってやることしかできなかった。
外は、いつの間にか雨が降り出していた。
冷たい雨が、江戸の町を濡らしている。
しかし、このやわらぎ亭の中だけは、温かい湯気と、人の情けで、満たされていた。
金さんのことだ、きっとすぐに真相を突き止めてくれるだろう。
そして、甲州屋さんの無実も証明されるはずだ。
私は、そう固く信じていた。
そのために、私にできることは、温かい飯を作り、心を尽くして、人を支えること。
それだけだ。
甲州屋の娘、おみつと名乗った彼女は、泣きながらも、豚汁と握り飯をすべて平らげた。
食べ終える頃には、その顔色は随分と良くなり、少しだけれど、笑顔も見えるようになっていた。
「ごちそうさまでした……。こんなに美味しいもの、生まれて初めていただきました。身体の芯から、温まりました……」
「それはようございました。さあ、残りは、ご家族の元へ。弥之助さん、すまないけれど、おみつさんを送って差し上げてくれないかしら。何かあっては大変だから」
「おう、任せとけ! おみつちゃん、行こうぜ!」
弥之助さんは、力強く胸を叩いた。
おみつさんは、何度も何度も私に頭を下げると、弥之助さんと共に、重箱を大切に抱えて店を出ていった。
「……行ってしまいましたね」
良太が、ぽつりと呟く。
「ええ。……良太、私たちも、仕事を続けましょう。金さんがいつ戻られてもいいように、店を温めておかないとね」
「はい!」
私と良太は、再び炊き場に戻り、夜の仕込みを始めた。
不安な気持ちがないわけではない。
だが、私たちがうろたえても、何も始まらない。
いつも通りに、心を込めて、目の前の仕事に取り組む。
それが、やわらぎ亭のやり方なのだ。
雨脚は、ますます強くなっていた。
私は、鍋から立ち上る湯気の向こうに、金さんの頼もしい背中を思い浮かべながら、ただひたすらに、手を動かし続けた。
夜が更け、店の客足も途絶えた頃、やわらぎ亭の戸が静かに開いた。
雨に濡れた金さんが、そこに立っていた。
その表情は、いつになく険しい。
「金さん……!」
「おし乃さん。……少し、厄介なことになりましたぞ」
ただならぬ様子に、店の和やかな空気が一瞬で凍りついた。
「忠吉さん、どうなさったんですか。そんなに慌てて」
私が落ち着いて尋ねると、忠吉さんはぜえぜえと息を切らしながら、叫ぶように言った。
「甲州屋さんが、捕まっちまったんだよ!なんでも、禁制の品を扱っていたとかで、蔵の中のものはごっそり差し押さえられちまったって話だ!」
「まあ……!あの甲州屋さんが、そんなことを……」
私はにわかには信じられなかった。
甲州屋の主は、確かに一時期は羽振りが良かったが、今は商いも手放し、静かに暮らしていると聞いていた。
それに、あの実直な人が、法を犯すような真似をするとは到底思えなかった。
「詳しいことは俺にもわからねえ。だが、町中はその話で持ちきりだ。甲州屋さんは、もうおしまいだって……」
忠吉さんの言葉に、店の中にいた他の客たちも、ざわつき始める。
「甲州屋の旦那がか……。真面目な人だったのになぁ」
「人は見かけによらねえもんだな」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
「金さん……」
私は、思わず隣に座っていた金さんに視線を向けた。
彼は、いつもの飄々とした態度は崩さずに、静かにお茶をすすっている。しかし、その目の奥には、鋭い光が宿っていた。
「……ふむ。これは、ちと妙ですな」
金さんが、ぽつりと呟いた。
「妙、とはどういうことでございますか?」
「いや、甲州屋の旦那の人柄は、私もよく知っております。あの人が、今さらそのような危ない橋を渡るとは思えませぬ。それに、禁制の品とは……具体的に何だったのか、その話は出ておりましたかな?」
金さんの問いに、忠吉さんは首を横に振った。
「いや、そこまでは……。ただ、相当な値打ちものだったって噂だ」
「なるほど……。これは、裏で誰かが糸を引いているやもしれませぬな」
金さんはそう言うと、すっくと立ち上がった。
「おし乃さん、弥之助。少し、調べたいことができました。私は、一度奉行所に戻ります」
「おう、金さん! 俺も手伝うぜ!」
「いや、弥之助はここにいてくだされ。万が一、甲州屋の家族に何かあってはならぬ。様子を見てきてはくれぬか」
「わかった! 任せとけ!」
弥之助さんは威勢よく返事をすると、すぐに店を飛び出していった。
「おし乃さん、すまぬが、今日のつみれ汁はまた今度、ご馳走になることにしよう。どうやら、のんびり飯を食っている場合ではなさそうだ」
金さんは私に目配せすると、足早に店を後にした。
後に残されたのは、不穏な空気と、客たちの不安げな囁き声だけだった。
「良太、店は大丈夫?」
「は、はい! 俺がちゃんと見てますから、おし乃さんは……」
心配そうに私を見る良太に、私は力なく微笑んだ。
「ありがとう。でも、私もじっとしてはいられないわ。何か、私にできることはないかしら……」
甲州屋の主の、寂しげな背中が脳裏に浮かぶ。
かつては隆盛を誇った商人が、全てを失い、それでも時折このやわらぎ亭に顔を出しては、私の料理を静かに味わっていた。
「ここに来ると、初心を思い出せる」
そう言って、少しだけはにかんだように笑った顔を、私は忘れることができなかった。
あの人が、罪を犯すはずがない。
もし、これが何者かの罠だとしたら……。
私は、いてもたってもいられなくなり、炊き場に立った。
こんな時だからこそ、料理人である私にできることがあるはずだ。
そうだ、甲州屋さんのご家族は、今頃どれほど心細い思いをしていることだろう。
主が捕らえられ、家には役人が押し寄せ、近所の目もある。食事も喉を通らないかもしれない。
「良太」
「はい、おし乃さん!」
「甲州屋さんのところに、差し入れを持っていくわ。何か、温かくて、少しでも元気が出るようなものを。手伝ってくれる?」
「もちろんです!」
良太は、私の意をすぐに汲んで、力強く頷いた。
その目には、不安よりも、誰かの力になりたいという強い意志が宿っていた。
私は、この子がここにいてくれることを、心から頼もしく思った。
何を作ろうか。
私は一瞬考え、そしてすぐに決めた。
こんな時こそ、一番シンプルで、一番心が温まるものがいい。
越後屋から頂いた極上の米で炊いた、真っ白な握り飯。
そして、具沢山の、栄養満点の豚汁だ。
私はすぐに、大根や人参、ごぼうなどの根菜を、手早く刻み始めた。
良太には、豚肉と、油揚げ、こんにゃくを切ってもらう。
大きな鍋に胡麻油を熱し、豚肉と根菜を香ばしく炒める。
そこに、昆布と鰹節で丁寧にとった出汁をたっぷりと注ぎ、アクを取りながら、ことことと煮込んでいく。
野菜が柔らかく煮えたところで、味噌を溶き入れる。
味噌は、信州の白味噌と、八丁味噌を少しだけ合わせた、特製の合わせ味噌だ。
コクがありながら、後味はすっきりとしている。
最後に、刻んだ葱をたっぷりと散らせば、やわらぎ亭特製の豚汁の完成だ。
ほかほかと湯気の立つ白い握り飯は、少しだけ塩気を利かせて、きゅっと固めに握る。
これを食べれば、きっと、少しは力が湧いてくるはずだ。
「よし、できたわ。良太、これを重箱に詰めてくれる?」
「はい!」
良太が手際よく重箱に握り飯と豚汁を詰めている間に、弥之助さんが店に戻ってきた。
その顔は、暗く曇っている。
「どうだった、弥之助さん?」
私が尋ねると、弥之助さんは悔しそうに顔を歪めた。
「ダメだ。甲州屋の家は、役人が固めてて、誰も近づけねえ。奥さんや子供たちの顔も見られなかった。ただ、中から……か細い泣き声が聞こえてきて……」
その言葉に、私は胸が締め付けられる思いだった。
「そう……」
「だが、さっき、甲州屋に出入りしてた手代の男が、こっそり裏口から出てくるところを見たんだ。なんだか、こそこそしてて、妙に挙動不審だったぜ」
「手代が……?」
弥之助さんの言葉に、私は何か引っかかるものを感じた。
その時だった。店の戸がそっと開き、一人の若い娘さんが、おずおずと顔を覗かせた。
年の頃は、十六、七だろうか。見慣れない顔だ。
「あの……こちら、やわらぎ亭さんで、よろしいでしょうか……?」
その声は、か細く震えていた。
よく見ると、着物の袖は少し汚れ、目元は赤く腫れている。
何か、辛いことがあったのだろう。
「はい、さようでございます。どうぞ、お入りくださいな」
私が優しく声をかけると、娘さんはほっとしたように店の中に入ってきた。
そして、私と目が合うと、はらはらと涙をこぼし始めた。
「まあ、どうかなさいましたか? 何か、お困りごとでも?」
私は娘さんを席に座らせ、温かいお茶を差し出した。
娘さんは、しばらくの間、ただしくしくと泣いていたが、やがて、ぽつり、ぽつりと事情を話し始めた。
「わ、私……甲州屋の、娘でございます……」
「まあ……! あなたが、甲州屋さんの……」
私と弥之助さん、良太は、思わず顔を見合わせた。
なんと、こんな時に。
「父が……父が、捕まってしまって……。母も、すっかり気が動転してしまって、どうしていいか分からず……。噂で、こちらのやわらぎ亭の女将様は、とてもお優しくて、困った人の力になってくださると聞いて……。わらにもすがる思いで、参りました……!」
娘さんは、私の前に膝をつき、畳に手をついて懇願した。
「どうか……どうか、父を助けてはいただけないでしょうか! 父は、決して悪いことをするような人ではございません! これは、何かの間違いなのです!」
その必死の訴えに、私の心は決まった。
「お顔を上げなさい。大丈夫、私が必ず、お力になります」
私は娘さんの手をとり、力強くそう言った。
「あなたのお父様が、無実であることは、私が一番よく存じております。きっと、何か裏があるのでしょう。……金さんも、そう仰っていました」
「金さん……?」
「ええ。南町奉行所の、遠山様のことです」
私の言葉に、娘さんと弥之助さんが、同時に息をのんだ。
あの遊び人の金さんが、お奉行様……? 無理もない。私も、初めて知った時は心底驚いたのだから。
「金さんが、今、この一件を調べてくださっています。だから、きっと大丈夫。真実は、必ず明らかになります」
「……本当、ですか……?」
「ええ、本当ですとも。だから、あなたも気をしっかり持つのです。今、あなたがお母様やご兄弟を支えなくて、誰が支えるのですか」
私の言葉に、娘さんははっとしたように顔を上げた。
その瞳に、ようやく強い光が戻ってきた。
「はい……! おっしゃる通りですわ。私が、しっかりしなくては……!」
「それでこそ、甲州屋さんの娘さんです。さあ、まずはこれを。お腹が空いては、何もできませんから」
私は、先ほど作ったばかりの握り飯と豚汁を、娘さんの前に差し出した。
「でも、私……」
「遠慮は無用です。これは、あなたのご家族のために作ったもの。まずはあなたが食べて、元気を出すのです。そして、残りは、お母様たちに届けて差し上げなさい」
娘さんは、こくこくと何度も頷きながら、涙で濡れた顔のまま、握り飯を一口、頬張った。
そして、堰を切ったように、わっと泣き出した。
それは、悲しみや絶望の涙ではなかった。
安堵と、そして、人の温かさに触れた、嬉し涙だった。
私は、その背中を、ただ黙って、優しくさすってやることしかできなかった。
外は、いつの間にか雨が降り出していた。
冷たい雨が、江戸の町を濡らしている。
しかし、このやわらぎ亭の中だけは、温かい湯気と、人の情けで、満たされていた。
金さんのことだ、きっとすぐに真相を突き止めてくれるだろう。
そして、甲州屋さんの無実も証明されるはずだ。
私は、そう固く信じていた。
そのために、私にできることは、温かい飯を作り、心を尽くして、人を支えること。
それだけだ。
甲州屋の娘、おみつと名乗った彼女は、泣きながらも、豚汁と握り飯をすべて平らげた。
食べ終える頃には、その顔色は随分と良くなり、少しだけれど、笑顔も見えるようになっていた。
「ごちそうさまでした……。こんなに美味しいもの、生まれて初めていただきました。身体の芯から、温まりました……」
「それはようございました。さあ、残りは、ご家族の元へ。弥之助さん、すまないけれど、おみつさんを送って差し上げてくれないかしら。何かあっては大変だから」
「おう、任せとけ! おみつちゃん、行こうぜ!」
弥之助さんは、力強く胸を叩いた。
おみつさんは、何度も何度も私に頭を下げると、弥之助さんと共に、重箱を大切に抱えて店を出ていった。
「……行ってしまいましたね」
良太が、ぽつりと呟く。
「ええ。……良太、私たちも、仕事を続けましょう。金さんがいつ戻られてもいいように、店を温めておかないとね」
「はい!」
私と良太は、再び炊き場に戻り、夜の仕込みを始めた。
不安な気持ちがないわけではない。
だが、私たちがうろたえても、何も始まらない。
いつも通りに、心を込めて、目の前の仕事に取り組む。
それが、やわらぎ亭のやり方なのだ。
雨脚は、ますます強くなっていた。
私は、鍋から立ち上る湯気の向こうに、金さんの頼もしい背中を思い浮かべながら、ただひたすらに、手を動かし続けた。
夜が更け、店の客足も途絶えた頃、やわらぎ亭の戸が静かに開いた。
雨に濡れた金さんが、そこに立っていた。
その表情は、いつになく険しい。
「金さん……!」
「おし乃さん。……少し、厄介なことになりましたぞ」
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