【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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旅の僧侶を見送った後、私と良太は黙々と夜の支度を始めた。
夕暮れ時のやわらぎ亭は、一日の中でも特に好きな時間帯だ。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、西の空から差し込む柔らかな光が店の中を橙色に染めていく。
囲炉裏の火がぱちぱちと心地よい音を立て、炊き場から出汁の香りがふわりと漂ってくる。
そんな穏やかな空気の中で、私はただひたすらに料理と向き合う。
この時間が私にとっては、何よりも心が安らぐひとときなのだ。

「おし乃さん。今夜の献立は何にいたしましょうか?」

洗い物を終えた良太が私の隣にやってきて尋ねた。
その顔には、料理を作ることが楽しくて仕方がないという気持ちがありありと浮かんでいる。

「そうねえ……。今日は少し肌寒いから、身体が温まるものがいいわね。……そうだ、けんちん汁なんてどうかしら」

「けんちん汁ですか!」

良太の目がきらりと輝いた。

「ええ。大根、人参、ごぼう、里芋、こんにゃく、そしてお豆腐。色々な具材を胡麻油で香ばしく炒めてから、たっぷりの出汁で煮込むの。野菜の旨味がぎゅっと凝縮されて、それはそれは滋味深い味わいになるわ」

「美味しそうです……! それに栄養も満点ですね!」

「ふふ、そうよ。昔お寺で生まれた料理だから、精進料理の基本でもあるの。旅の僧侶様と出会った今日の締めくくりにはちょうど良いかもしれないわね」

「はい! ぜひ作り方を教えてください!」

私と良太は、早速けんちん汁の準備に取り掛かった。
まずは野菜の皮を剥き、それぞれの食感が生きるように大きさを揃えて切っていく。
大根と人参はいちょう切りに。
ごぼうは笹がきに。
里芋は六方むきにして、ぬめりを取る。
豆腐は一度布巾で水気を切ってから、手で大きく崩す。
この手で崩すというひと手間が、豆腐に味を染み込ませる大切なこつなのだ。

「良太。野菜は切れたかしら?」

「はい! こちらに!」

「じゃあ、この大きな鍋に胡麻油を熱してくれる? たっぷりとね」

「はい!」

鍋から胡麻油の香ばしい匂いが立ち上ってきたら、まずはごぼうから炒め始める。
ごぼうの香りが油に移ったら、次に大根と人参。
最後に里芋とこんにゃくを加えて、全体に油が回るまで丁寧に炒めていく。

「こうして最初に油で炒めることで、野菜の旨味を中に閉じ込めることができるのよ。それに、コクも出て味わいが深くなるわ」

「なるほど……。勉強になります!」

野菜がしんなりとしてきたら、昆布と椎茸でとった精進の出汁をたっぷりと注ぎ入れる。
アクを丁寧に取りながら、野菜が柔らかくなるまでことことと煮込んでいく。

やがて野菜の甘い香りが湯気と共に立ち上り始めたら、崩した豆腐を加える。
そして醤油と塩で味を調える。
味付けは、あくまでも薄味に。
野菜本来の優しい甘みを殺さないように。

「……よし、できたわ。味見をしてみてくれる?」

私は小皿にけんちん汁を少しだけ取り分け、良太に差し出した。
彼はふうふうと息を吹きかけながら、その汁を一口すする。

「……ん……!」

その目が驚きに大きく見開かれた。

「お、美味しいです……! なんて優しい味なんだろう……。野菜の一つ一つの味がちゃんと生きていて、それがお出汁と一緒になって……身体中に温かいものがじんわりと広がっていきます……!」

「ふふ、よかったわ。これならお客さんたちも喜んでくれるかしらね」

「はい! 絶対に喜びます!」

良太は力強くそう言った。
その顔は、自信とそして喜びに満ち溢れていた。

夜の帳が下り、やわらぎ亭にぽつぽつと灯りがともる頃。
店の暖簾をくぐって、いつもの常連さんたちが次々とやってきた。

「よう、おし乃ちゃん! 今夜も美味いもん頼むぜ!」

火消しの弥之助さんが威勢の良い声を上げる。

「あら、弥之助さん。いらっしゃい。今夜はとびきり身体が温まるものをご用意しておりますわよ」

「おう、そいつは楽しみだ!」

やがてやわらぎ亭は、満席になった。
私は大きな椀に熱々のけんちん汁をたっぷりと盛り付け、客たちの前に運んでいく。
湯気と共に立ち上る胡麻油と野菜の香りに、あちこちから「おお……」という感嘆の声が漏れた。

「さあ、どうぞ。やわらぎ亭特製具沢山のけんちん汁です」

客たちは一斉に箸をつけた。
そして次の瞬間。
店の中は水を打ったように、静まり返った。
聞こえるのは汁をすする音と野菜を噛む、しゃくしゃく、という心地よい音だけ。
誰もが無言で夢中になって、けんちん汁を味わっている。
その光景は料理人にとって、何よりも嬉しい最高の賛辞だった。

やがて一番に椀を空にした弥之助さんがぷはーっ、と大きな息をついた。

「……うめえ……! うめえよ、おし乃ちゃん……!」

その一言を皮切りに、あちこちから賞賛の声が次々と上がり始めた。

「本当だ! こんなに滋味深いけんちん汁は初めてだぜ!」

「野菜の甘みがたまらねえな! それに、この豆腐! 味がよーく染みてる!」

「身体の芯からぽかぽかしてきやがった! こりゃあ風邪も吹き飛んじまうぜ!」

客たちの、幸せそうな顔、顔、顔。
その笑顔を見ているだけで、私の心もぽかぽかと温かくなってくる。
良太も客たちの賞賛の声を自分のことのように、嬉しそうに聞いていた。

そんな和やかな空気に包まれていた、その時だった。
店の戸がそっと開いた。
入ってきたのは見慣れない一組の若い夫婦だった。
年の頃は二十代半ばだろうか。
身なりは質素だが、清潔でどこか品がある。
ただ、その表情は二人とも暗くそして疲れ切っているように見えた。

「……いらっしゃいませ」

私が声をかけると、二人はびくりとしたように顔を上げた。
そして夫の方がおずおずと口を開いた。

「あの……。こちらで食事をいただくことはできますかな……?」

その声はか細く、そしてどこか自信なさげだった。
何か深い事情を抱えている。
私は一目でそう察した。

「ええ、もちろんですとも。どうぞこちらへ。今温かいけんちん汁ができたところですわ」

私は二人を店の隅の落ち着いた席へと案内した。
そして何も聞かずに、ただ熱々のけんちん汁と炊きたてのご飯を二人の前にそっと置いた。

二人はしばらくの間、ただ黙って目の前の膳を見つめていた。
やがて妻の方がぽろり、と一筋涙をこぼした。

「……あなた。……温かい……」

「……ああ。……本当に温かいな……」

夫はそう言うと、震える手で箸を取った。
そしてけんちん汁を一口口に運ぶ。
その瞬間、彼の強張っていた顔がほんの少しだけ和らいだように見えた。

「……美味しい……」

妻も後を追うように汁をすする。
その目から涙があとからあとから溢れ出してくる。
けれどそれは悲しみの涙ではなかった。
凍てついていた心が温かい料理に触れ、ゆっくりと解けていくような。
そんな安堵の涙のように私には見えた。

私は何も言わずに、ただ二人が食べ終わるのを静かに待っていた。
やがて二人は椀の中のものを一滴残らず、綺麗に平らげた。
そして顔を見合わせると、どちらからともなく、ふっと小さな笑みを浮かべた。
それは本当にささやかな、けれど心からの笑顔だった。

「……女将殿」

夫の方が私に向かって静かに頭を下げた。

「……我々は故郷を追われ、江戸へ出てきたばかり。この先どうして生きていけばよいのか途方に暮れておりました。……けれど、今この一杯の汁をいただき、なんだかもう少しだけ頑張れるようなそんな気がしてまいりました。……本当に、ありがとうござった」

「……とんでもないことですわ。お腹が空いては元気も出ませんから」

私はにっこりと微笑んだ。

「この江戸の町は広うございます。きっとお二人のような真面目な方々を受け入れてくれる場所が必ず見つかりますわ。それまで、もしお腹が空いたら、またいつでもいらっしゃいな。温かい飯をご用意して、お待ちしておりますから」

私の言葉に二人は、何度も、何度も頭を下げた。
そして店を出ていくその背中は来た時とは比べ物にならないほどしっかりと前を向いていた。
私はその後ろ姿を温かい気持ちで見送った。
このやわらぎ亭が誰かにとってのそんなささやかな希望の灯りになれたのなら。
料理人としてこれ以上の幸せはない。
そんなことを思いながら、私はまた次の客のために心を込めて鍋を磨き始めるのだった。
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