【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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「ヤン様、とおっしゃいましたか。何かご用件でしょうか?」
私が尋ねると、ヤンと名乗るオランダ人の商人は、人の好さそうな笑みを浮かべた。
「ハイ。ワタシ、ニッポンノ、ゴハン、ダイスキ、デス。シカシ……」
ヤンはそこで言葉を切ると、少し困ったような顔をした。
「……アマいおカシだけが、ドウニモニガテデシテ。アンコ、というのですか? アノ、アズキのアマいのが、どうにも口に合わなくて……」
なるほど。餡子が苦手なのか。異国の方には珍しいことではないのかもしれない。
「それで困っていたら、知り合いのニッポンの商人が教えてくれました。『フカガワに、どんな客の望みも叶えてくれる、魔法のような飯屋がある』と」
魔法のような飯屋。またとんでもない噂が広まっているものだ。私は苦笑するしかなかった。
「ワタシ、故郷の母が作る、アマくてカステラのような、バターの香りがする焼き菓子がとても恋しいのです。……女将殿。何か、そのようなお菓子を作ってはいただけないでしょうか?」
その青い瞳が、すがるように私を見つめている。

カステラ。バター。どちらも私が聞いたこともない言葉だ。けれど、彼の話からその菓子の味を想像する。ふんわりと甘くて、そして豊かな乳の香り。きっと、とても優しくて温かい味なのだろう。
「……かしこまりました、ヤン様」
私はにっこりと微笑んだ。
「バターというものは存じませんが、このやわらぎ亭にある食材でよろしければ。私なりにヤン様の故郷の味を再現してご覧にいれましょう」
「ホントウ、デスカ!?」
ヤンの顔がぱっと輝いた。

私は炊き場に立つと、さてどうしたものかと考えた。カステラというからには、卵と小麦粉、砂糖が基本だろう。問題は、バターという乳の豊かな風味をどう出すか。牛乳ももちろんこの店にはない。
私は店の食材を見回し、そして一つの妙案を思いついた。
そうだ、豆腐を使おう。上質な木綿豆腐を丁寧に裏ごししてクリーム状にする。それに上質な菜種油と、隠し味として白味噌をほんの少しだけ加える。白味噌の持つ発酵した豊かなコクと塩気が、きっとバターの代わりを務めてくれるはずだ。
私はその豆腐クリームと卵、砂糖、小麦粉を手早く混ぜ合わせ、生地を作った。それを熱した鉄鍋に丸く流し込む。ホットケーキという異国の菓子のように。
じゅう、という音と共に甘い香りが立ち上った。
ふっくらと焼きあがった、その丸い菓子。見た目はカステラとはほど遠い。けれど、どこか素朴で温かみのある、やわらぎ亭らしい菓子になった。
仕上げに水飴と醤油を煮詰めて作った、甘辛いみたらし風の蜜をとろりとかける。
「ヤン様。お待たせいたしました。やわらぎ亭風、『和風パンケーキ』でございます」
私はその一皿をヤンの前に差し出した。
ヤンは物珍しそうに、その丸い菓子を見つめている。
「コレハ……カステラ、デハ、アリマセンネ」
「はい。けれど、私の心を込めた一品です。どうぞ、お口に合いますかどうか」
ヤンは、おずおずとその菓子を一口、口に運んだ。
その瞬間、彼の青い目が驚きに大きく見開かれた。
「……オオッ……!」
そして次の瞬間には、その顔が至福の笑みで崩れた。
「オイシイ……! コレハ、トテモ、オイシイ、デス! 故郷のカステラとは違います。デモ、フワフワでヤサシイ甘さ。ソシテ、このソースがアマイとショッパイで、タマラナイ! ナンダカ、心ガ温カクナル味デス……!」
ヤンは夢中になって、その和風パンケーキを平らげていく。その幸せそうな食べっぷりに、私は心から安堵した。
「女将殿! コレハ、スバラシイ! ワタシ、ニッポンにイル間、毎日コレを食べにキマス!」

その言葉通り、ヤンはそれから毎日のようにやわらぎ亭に通ってくれた。そして、その不思議な丸い菓子は「おし乃さんの丸焼き」として、いつしか町の子供たちの間でも評判のおやつになっていった。
やがて、ヤンが国へ帰る日がやってきた。彼は私の前に深々と頭を下げた。
「女将殿。……本当ニ、オ世話ニナリマシタ。コレハ、ワタシからノオ礼デス。ドウゾ、受ケ取ッテクダサイ」
彼が差し出したのは、見事なオランダのガラス細工だった。光にかざすと、きらきらと虹色に輝く。
「まあ、こんな美しいものを……」
「ワタシ、必ズ、マタ、ニッポンニキマス。ソシテ、その時ハ、マタ、アノオイシイ丸焼きヲ、食ベサセテクダサイ」
「はい。いつでもお待ちしておりますわ」
私とヤンは、固い握手を交わした。彼の大きな、温かい手。その温もりが私の心にじんわりと伝わってきた。
ヤンは晴れやかな笑顔で旅立っていった。その後ろ姿を見送りながら、私は、このやわらぎ亭の小さな灯りがいつか海の向こうの遠い国まで届く日が来るのかもしれないなと、そんな途方もない、けれど温かい夢を見ていた。
店の未来が、少しだけ世界に繋がったような。そんな希望に満ちた昼下がりのことだった。

店の壁に飾られた一筆斎文吾の浮世絵。その賑やかな絵を眺めながら、常連さんたちがいつものように酒を酌み交わしている。そんな穏やかな時間が流れていた、ある日の夕暮れ時。
店の戸がそっと開いた。
「……ごめんください」
入ってきたのは、一人の美しい娘さんだった。年の頃は十八、九だろうか。上等な振袖を着てはいるが、その顔には深い悩みの色が浮かんでいる。供の侍女を一人連れているところを見ると、どこかの大店のお嬢様なのだろう。
「いらっしゃいませ。……何かご用でしょうか?」
私が尋ねると、娘さんは少し俯きながら、か細い声で言った。
「……あの。……わたくし、実は明日、祝言を控えておりますの。……けれど、どうしても心が晴れなくて……」
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