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「……どうぞ、お入りくださいな。お話だけでもお伺いいたしますわ」
私の言葉に、美しい女性はほっとしたように息をついた。その気品ある佇まいとは裏腹に、心はひどくか細く震えているように私には見えた。
私は彼女を店の奥の静かな席へと案内する。良太が何も言わずに、温かい焙じ茶をそっと差し出した。その心遣いが嬉しい。
「私、千草と申します」
娘さんは小さな声でそう名乗った。日本橋の大店、扇屋の一人娘だという。
「明日、わたくし、祝言を控えておりますの。相手は同じく呉服問屋を営む、伊勢屋の嫡男の方。親同士が決めた縁談にございます」
政略結婚。この江戸では珍しくもない話だ。けれど、彼女の美しい顔は、深い憂いの色に沈んでいる。
「お相手の方をご存知ないのですか?」
「はい……。お噂では、真面目で仕事熱心な立派な方だと伺っております。けれど、一度もお会いしたこともお話したこともございません。わたくし、明日から全く知らぬ方の妻となり、新しい家で生きていかねばならぬのかと思うと……恐ろしくて、胸が張り裂けそうで……」
その潤んだ瞳から、ぽろりと一筋、涙がこぼれ落ちた。無理もない。明日、自分の人生が大きく変わるのだ。その不安と心細さは察するに余りある。
「祝言を前に心が晴れぬなどと、親不孝な娘だとお笑いくださいまし。……けれど、このままではとても笑顔で明日の日を迎えることができそうにないのです。……噂に聞くやわらぎ亭の女将様なら、こんなわたくしの頑なな心も解きほぐしてくださるのではないかと……。わらにもすがる思いで参りました」
静かに語るその声は震えている。私はただ黙って、彼女の言葉に耳を傾けていた。そして、ゆっくりと口を開く。
「千草様。……あなたが幼い頃、心が晴れぬ日や、お身体の具合が優れぬ日に、お母様が作ってくださった思い出のお料理などはございませんか?」
私の唐突な問いに、千草様はきょとんとした顔をした。
「母の、料理……?」
「はい。食べると心がほっと温かくなるような、そんな優しい思い出の味です」
千草様はしばらく、遠くを見るような目で考えていた。その長い睫毛が微かに震えている。やがて、彼女の記憶の糸が何かをたぐり寄せたのだろう。その美しい瞳から、はらりとまた涙がこぼれ落ちた。
「……ございます。……ございますわ。……甘い、甘いお粥が……」
「甘いお粥、ですか」
「はい。わたくしがまだ幼かった頃、風邪を引いて寝込んだ夜には、決まって母が作ってくれました。葛を入れてとろりとさせたお米のお粥。そこにほんのりとお砂糖の甘みがついていて……。それを食べると、不思議と身体も心も温かくなって、安らかに眠ることができたのです。……あの優しい甘さは、今でも忘れられませんわ……」
その時のことを思い出したのだろう。千草様の強張っていた表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「……そうでしたか」
私は静かに立ち上がった。
「千草様。今宵は冷えます。よろしければ、私がその思い出の甘いお粥を再現してご覧にいれましょう。きっと、あなたの冷えた心も温まるはずですわ」
「え……! でも、そんなご迷惑な……」
「いいえ。これも何かのご縁。それに、明日の花嫁御寮に涙は似合いませんもの」
私は悪戯っぽくそう言って笑った。そして炊き場に立つと、早速調理に取り掛かった。
土鍋に研いだばかりの米とたっぷりの水を入れる。火にかけて、ことこととじっくり煮込んでいく。米がふっくらと花開いてきたら、水で溶いた吉野葛をそっと回し入れる。とろりとした優しいとろみがついたら、火を極限まで弱める。そこに上等な和三盆をほんの少しだけ。甘すぎず、けれど心の奥にじんわりと染み渡るような、優しい甘さに。仕上げに香りづけのため、柚子の皮をほんのひとかけらだけ浮かべる。素朴だけれど、これ以上ない心を込めた一品だ。
「さあ、千草様。できましたわ。どうぞ、熱いうちに召し上がってくださいな」
私はその甘いお粥を、彼女の前にそっと置いた。湯気と共に立ち上る、米と柚子の優しい香り。千草様はその香りを深く吸い込むと、震える手で匙を取った。そして、お粥を一口、口に運ぶ。
その瞬間。
「……!」
彼女の大きな瞳が、驚きに見開かれた。そして、その目から堰を切ったように涙が溢れ出す。
「……母の……母の味ですわ……。いいえ、それ以上に優しくて、温かい……」
彼女は子供のように声を上げて泣きじゃくりながら、それでも夢中で、お粥を食べ続けている。一匙、また一匙と、その優しい甘さが彼女の凍てついていた心を、ゆっくりと温かく解かしていく。その涙はもはや、不安や恐怖の涙ではなかった。忘れかけていた親の愛情を思い出した、安堵と感謝の涙だった。
やがて椀が空になる頃、千草様の涙も止まっていた。その顔は、店に来た時とは比べ物にならないほど晴れやかで、そして穏やかだった。
「……おし乃様。……ありがとう存じます」
彼女は私に向かって深々と頭を下げた。
「わたくし、目が覚めました。……親が決めた縁談とはいえ、それはわたくしの幸せを願ってのこと。その親の深い愛情を、わたくしは忘れかけておりました。……明日嫁ぐ相手の方も、きっとその親御様の愛情を一身に受けて育った、立派な方に違いありませんわ。わたくし、もう迷いませぬ。明日、胸を張って笑顔で嫁いでまいります」
その凛とした声。その真っ直ぐな瞳。そこにはもう、か弱い少女の面影はなかった。一人の立派な武家の妻となる覚悟を決めた、女性の顔があった。
「はい。きっと素晴らしい祝言になりますわ」
私はにっこりと微笑んだ。一杯の甘いお粥が、また一つ人の心を温かく照らし出してくれた。料理人として、これ以上の喜びはない。私はそんな幸せな気持ちで満たされていた。
千草様は晴れやかな笑顔で店を後にした。その美しい振袖姿は、夜の闇の中でもひときわ輝いて見えた。
私の言葉に、美しい女性はほっとしたように息をついた。その気品ある佇まいとは裏腹に、心はひどくか細く震えているように私には見えた。
私は彼女を店の奥の静かな席へと案内する。良太が何も言わずに、温かい焙じ茶をそっと差し出した。その心遣いが嬉しい。
「私、千草と申します」
娘さんは小さな声でそう名乗った。日本橋の大店、扇屋の一人娘だという。
「明日、わたくし、祝言を控えておりますの。相手は同じく呉服問屋を営む、伊勢屋の嫡男の方。親同士が決めた縁談にございます」
政略結婚。この江戸では珍しくもない話だ。けれど、彼女の美しい顔は、深い憂いの色に沈んでいる。
「お相手の方をご存知ないのですか?」
「はい……。お噂では、真面目で仕事熱心な立派な方だと伺っております。けれど、一度もお会いしたこともお話したこともございません。わたくし、明日から全く知らぬ方の妻となり、新しい家で生きていかねばならぬのかと思うと……恐ろしくて、胸が張り裂けそうで……」
その潤んだ瞳から、ぽろりと一筋、涙がこぼれ落ちた。無理もない。明日、自分の人生が大きく変わるのだ。その不安と心細さは察するに余りある。
「祝言を前に心が晴れぬなどと、親不孝な娘だとお笑いくださいまし。……けれど、このままではとても笑顔で明日の日を迎えることができそうにないのです。……噂に聞くやわらぎ亭の女将様なら、こんなわたくしの頑なな心も解きほぐしてくださるのではないかと……。わらにもすがる思いで参りました」
静かに語るその声は震えている。私はただ黙って、彼女の言葉に耳を傾けていた。そして、ゆっくりと口を開く。
「千草様。……あなたが幼い頃、心が晴れぬ日や、お身体の具合が優れぬ日に、お母様が作ってくださった思い出のお料理などはございませんか?」
私の唐突な問いに、千草様はきょとんとした顔をした。
「母の、料理……?」
「はい。食べると心がほっと温かくなるような、そんな優しい思い出の味です」
千草様はしばらく、遠くを見るような目で考えていた。その長い睫毛が微かに震えている。やがて、彼女の記憶の糸が何かをたぐり寄せたのだろう。その美しい瞳から、はらりとまた涙がこぼれ落ちた。
「……ございます。……ございますわ。……甘い、甘いお粥が……」
「甘いお粥、ですか」
「はい。わたくしがまだ幼かった頃、風邪を引いて寝込んだ夜には、決まって母が作ってくれました。葛を入れてとろりとさせたお米のお粥。そこにほんのりとお砂糖の甘みがついていて……。それを食べると、不思議と身体も心も温かくなって、安らかに眠ることができたのです。……あの優しい甘さは、今でも忘れられませんわ……」
その時のことを思い出したのだろう。千草様の強張っていた表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「……そうでしたか」
私は静かに立ち上がった。
「千草様。今宵は冷えます。よろしければ、私がその思い出の甘いお粥を再現してご覧にいれましょう。きっと、あなたの冷えた心も温まるはずですわ」
「え……! でも、そんなご迷惑な……」
「いいえ。これも何かのご縁。それに、明日の花嫁御寮に涙は似合いませんもの」
私は悪戯っぽくそう言って笑った。そして炊き場に立つと、早速調理に取り掛かった。
土鍋に研いだばかりの米とたっぷりの水を入れる。火にかけて、ことこととじっくり煮込んでいく。米がふっくらと花開いてきたら、水で溶いた吉野葛をそっと回し入れる。とろりとした優しいとろみがついたら、火を極限まで弱める。そこに上等な和三盆をほんの少しだけ。甘すぎず、けれど心の奥にじんわりと染み渡るような、優しい甘さに。仕上げに香りづけのため、柚子の皮をほんのひとかけらだけ浮かべる。素朴だけれど、これ以上ない心を込めた一品だ。
「さあ、千草様。できましたわ。どうぞ、熱いうちに召し上がってくださいな」
私はその甘いお粥を、彼女の前にそっと置いた。湯気と共に立ち上る、米と柚子の優しい香り。千草様はその香りを深く吸い込むと、震える手で匙を取った。そして、お粥を一口、口に運ぶ。
その瞬間。
「……!」
彼女の大きな瞳が、驚きに見開かれた。そして、その目から堰を切ったように涙が溢れ出す。
「……母の……母の味ですわ……。いいえ、それ以上に優しくて、温かい……」
彼女は子供のように声を上げて泣きじゃくりながら、それでも夢中で、お粥を食べ続けている。一匙、また一匙と、その優しい甘さが彼女の凍てついていた心を、ゆっくりと温かく解かしていく。その涙はもはや、不安や恐怖の涙ではなかった。忘れかけていた親の愛情を思い出した、安堵と感謝の涙だった。
やがて椀が空になる頃、千草様の涙も止まっていた。その顔は、店に来た時とは比べ物にならないほど晴れやかで、そして穏やかだった。
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その凛とした声。その真っ直ぐな瞳。そこにはもう、か弱い少女の面影はなかった。一人の立派な武家の妻となる覚悟を決めた、女性の顔があった。
「はい。きっと素晴らしい祝言になりますわ」
私はにっこりと微笑んだ。一杯の甘いお粥が、また一つ人の心を温かく照らし出してくれた。料理人として、これ以上の喜びはない。私はそんな幸せな気持ちで満たされていた。
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