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やわらぎ亭に、にわかには信じがたいほどの静けさと、そして心地よい緊張が満ちていた。
若君様が、お忍びでこの店に足を運んでくださる。その約束の日が、今日だった。
店の戸口には「本日、都合により休業」の札を下げ、客席にはたった一組、若君様とお付きの奥方様、そして護衛を兼ねて同席する金さんのための膳が用意されている。
炊き場に立つ私は、いつもと変わらぬように心を落ち着けていたが、隣の良太はそうもいかないらしい。朝から顔は青ざめ、手つきはおぼつかず、まるで生まれたての小鹿のように震えている。
「おし乃さん……お、俺、どうしたら……。万が一、粗相でもしたら……」
「大丈夫よ、良太。いつも通りにすれば良いのです。あなたをこの店の板場に立たせているのは、私なのだから。何かあれば、私が全ての責めを負います」
私の静かな声に、良太は少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。ごくりと唾を飲み込み、こくこくと何度も頷く。その生真面目さが、彼の良いところだ。
やがて、店の戸が静かに開かれた。
入ってこられたのは、先日と同じ美しい奥方様と、そして町人の娘に扮した利発そうな顔つきの少年。年の頃は十を超えたあたりだろうか。その目には、隠しきれない聡明さと好奇の光が宿っている。彼こそが、この国の未来を担う若君様だった。
金さんがすっと立ち上がり、深々と頭を下げる。私も良太も、それに倣った。
「ようこそお越しくださいました。ささ、どうぞこちらへ」
金さんの気遣いに、若君様はにこりと微笑み、席に着いた。
「面を上げよ。今日は堅苦しい挨拶は抜きじゃ。そなたたちが、私の喉を救ってくれたおし乃と良太か」
鈴を転がすような気品のある声。けれど、どこか親しみやすい温かさも感じられる。
「は。おし乃にございます」
「りょ、良太と申します!」
裏返った良太の声に、若君様はくすりと笑われた。
「うむ。して、今日はそなたたちの料理を味わいに参った。普段、この店の者たちが食べておるものと同じで良い。特別なものは要らぬ。民の暮らしを、その食を通して知ってみたいのじゃ」
そのお言葉に、私は静かに頷いた。
これこそが、私が最も得意とするところ。派手なご馳走ではなく、日々の暮らしに寄り添う、温かい一膳。
「かしこまりました。それでは、今宵はやわらぎ亭の日常の味を、存分にお楽しみくださいませ」
私は良太に目配せをし、支度に取り掛かった。
まずお出ししたのは、季節の野菜の炊き合わせ。
大根は米のとぎ汁で丁寧に下茹でし、透き通るような柔らかさに。人参は梅の形に飾り切りし、里芋はこっくりと。そして、彩りの絹さや。それぞれ別の鍋で味を含ませ、最後に一つの器に盛り付ける。手間はかかるが、そうすることで一つ一つの野菜の持ち味が際立つのだ。
「ほう……。美しいのう。食べるのが惜しいくらいじゃ」
若君様は感心したように呟き、そっと大根を口に運んだ。
そのお顔が、ぱっと輝く。
「……滋味深い。ただ柔らかいだけではない。出汁の香りと大根そのものの甘みが、口の中で優しく解けていくようじゃ。他の野菜も、それぞれに見事な味わい。……これが、そなたの店の味か」
「お口に合いましたようで、何よりでございます」
続いて、膳の中央に置いたのは、本日の一番のご馳走。
良太が、この日のために心を込めて焼いた鰯の丸干しだった。
紀州で獲れた新鮮な真鰯を、潮風で一夜干しにしたものだ。これを、良太が炭火でじっくりと、焦がさぬように、けれど香ばしく焼き上げた。ぱちぱちと脂がはぜる音、醤油の焼ける香ばしい匂いが、店の中にふわりと広がる。
「鰯か。これもまた、良い匂いじゃな」
若君様は、慣れない手つきで、しかし丁寧にお箸を使い、鰯の身をほぐしていく。
そして、炊きたての玉響のご飯とともに、一口。
その瞬間、若君様の動きがぴたりと止まった。
目を丸くして、口の中の味わいを確かめるように、何度も頷いている。
「……うまい」
ぽつりと漏れた、心の底からの一言だった。
「この鰯、うまいぞ! 程よい塩気と凝縮された旨味。そして、このわたのほろ苦さが、白い飯とこれほど合うとは……! この飯も、一粒一粒が輝いておる。噛むほどに甘みが増す。……なんと、豊かな味わいじゃろうか」
若君様は、夢中になって飯と鰯を交互に口に運んでおられた。そのお姿は、国の若君というよりも、美味しいものに出会った一人の少年そのものだった。
そのお姿を、良太は固唾をのんで見守っている。自分の焼いた魚を、あのように美味しそうに食べてくださっている。料理人として、これ以上の喜びはないだろう。彼の目には、うっすらと涙の膜が張っていた。
「良太とやら」
ふいに、若君様が顔を上げた。
「はい!」
「この鰯、そなたが焼いたのか?」
「は、はい! 私が、心を込めて……!」
「見事じゃ。火の入れ加減が絶妙じゃ。皮はぱりっとして香ばしく、身はふっくらと柔らかい。そなたの、この鰯に対する心が伝わってくるような焼き加減であった。大儀であったな」
若君様からの、直接のお褒めの言葉。
良太の体は、わなわなと震えていた。そして、その大きな瞳から、ぽろり、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「も、もったいのうございます……!」
声を上げて泣きじゃくる良太を、若君様は優しい目で見守っておられた。
「良い料理人は、優しい心を持つと聞く。そなたの涙が、その証じゃな。これからも、その心を忘れずに、民の腹と心を満たす料理を作り続けるのじゃぞ」
「はい……! はい……!」
良太は、何度も何度も頭を下げていた。
この日の出来事は、彼の料理人人生において、何物にも代えがたい大きな宝物となったに違いない。
その後も、若君様は豆腐と油揚げの味噌汁を最後の一滴まで飲み干し、「満腹じゃ、満腹じゃ」と、大変ご満悦の様子で腹をさすっておられた。
お帰りの際、若君様は私の前に立つと、悪戯っぽく笑われた。
「おし乃。そなたの料理は、確かに人の心を解きほぐす力があるようじゃな。今日はまこと楽しかった。また近いうちに、今度はこの国のことをそなたとゆっくり語り合ってみたい。……また、参るぞ」
「はい。いつでも、お待ち申し上げております」
私は、深々と頭を下げた。
嵐のように過ぎ去った特別な夜。
やわらぎ亭の小さな歴史に、また一つ、温かく、そして大きな輝きを放つ一頁が加わった。
良太の涙で濡れた板場を拭きながら、私はこの先の未来がますます楽しみになってくるのを感じていた。
若君様が、お忍びでこの店に足を運んでくださる。その約束の日が、今日だった。
店の戸口には「本日、都合により休業」の札を下げ、客席にはたった一組、若君様とお付きの奥方様、そして護衛を兼ねて同席する金さんのための膳が用意されている。
炊き場に立つ私は、いつもと変わらぬように心を落ち着けていたが、隣の良太はそうもいかないらしい。朝から顔は青ざめ、手つきはおぼつかず、まるで生まれたての小鹿のように震えている。
「おし乃さん……お、俺、どうしたら……。万が一、粗相でもしたら……」
「大丈夫よ、良太。いつも通りにすれば良いのです。あなたをこの店の板場に立たせているのは、私なのだから。何かあれば、私が全ての責めを負います」
私の静かな声に、良太は少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。ごくりと唾を飲み込み、こくこくと何度も頷く。その生真面目さが、彼の良いところだ。
やがて、店の戸が静かに開かれた。
入ってこられたのは、先日と同じ美しい奥方様と、そして町人の娘に扮した利発そうな顔つきの少年。年の頃は十を超えたあたりだろうか。その目には、隠しきれない聡明さと好奇の光が宿っている。彼こそが、この国の未来を担う若君様だった。
金さんがすっと立ち上がり、深々と頭を下げる。私も良太も、それに倣った。
「ようこそお越しくださいました。ささ、どうぞこちらへ」
金さんの気遣いに、若君様はにこりと微笑み、席に着いた。
「面を上げよ。今日は堅苦しい挨拶は抜きじゃ。そなたたちが、私の喉を救ってくれたおし乃と良太か」
鈴を転がすような気品のある声。けれど、どこか親しみやすい温かさも感じられる。
「は。おし乃にございます」
「りょ、良太と申します!」
裏返った良太の声に、若君様はくすりと笑われた。
「うむ。して、今日はそなたたちの料理を味わいに参った。普段、この店の者たちが食べておるものと同じで良い。特別なものは要らぬ。民の暮らしを、その食を通して知ってみたいのじゃ」
そのお言葉に、私は静かに頷いた。
これこそが、私が最も得意とするところ。派手なご馳走ではなく、日々の暮らしに寄り添う、温かい一膳。
「かしこまりました。それでは、今宵はやわらぎ亭の日常の味を、存分にお楽しみくださいませ」
私は良太に目配せをし、支度に取り掛かった。
まずお出ししたのは、季節の野菜の炊き合わせ。
大根は米のとぎ汁で丁寧に下茹でし、透き通るような柔らかさに。人参は梅の形に飾り切りし、里芋はこっくりと。そして、彩りの絹さや。それぞれ別の鍋で味を含ませ、最後に一つの器に盛り付ける。手間はかかるが、そうすることで一つ一つの野菜の持ち味が際立つのだ。
「ほう……。美しいのう。食べるのが惜しいくらいじゃ」
若君様は感心したように呟き、そっと大根を口に運んだ。
そのお顔が、ぱっと輝く。
「……滋味深い。ただ柔らかいだけではない。出汁の香りと大根そのものの甘みが、口の中で優しく解けていくようじゃ。他の野菜も、それぞれに見事な味わい。……これが、そなたの店の味か」
「お口に合いましたようで、何よりでございます」
続いて、膳の中央に置いたのは、本日の一番のご馳走。
良太が、この日のために心を込めて焼いた鰯の丸干しだった。
紀州で獲れた新鮮な真鰯を、潮風で一夜干しにしたものだ。これを、良太が炭火でじっくりと、焦がさぬように、けれど香ばしく焼き上げた。ぱちぱちと脂がはぜる音、醤油の焼ける香ばしい匂いが、店の中にふわりと広がる。
「鰯か。これもまた、良い匂いじゃな」
若君様は、慣れない手つきで、しかし丁寧にお箸を使い、鰯の身をほぐしていく。
そして、炊きたての玉響のご飯とともに、一口。
その瞬間、若君様の動きがぴたりと止まった。
目を丸くして、口の中の味わいを確かめるように、何度も頷いている。
「……うまい」
ぽつりと漏れた、心の底からの一言だった。
「この鰯、うまいぞ! 程よい塩気と凝縮された旨味。そして、このわたのほろ苦さが、白い飯とこれほど合うとは……! この飯も、一粒一粒が輝いておる。噛むほどに甘みが増す。……なんと、豊かな味わいじゃろうか」
若君様は、夢中になって飯と鰯を交互に口に運んでおられた。そのお姿は、国の若君というよりも、美味しいものに出会った一人の少年そのものだった。
そのお姿を、良太は固唾をのんで見守っている。自分の焼いた魚を、あのように美味しそうに食べてくださっている。料理人として、これ以上の喜びはないだろう。彼の目には、うっすらと涙の膜が張っていた。
「良太とやら」
ふいに、若君様が顔を上げた。
「はい!」
「この鰯、そなたが焼いたのか?」
「は、はい! 私が、心を込めて……!」
「見事じゃ。火の入れ加減が絶妙じゃ。皮はぱりっとして香ばしく、身はふっくらと柔らかい。そなたの、この鰯に対する心が伝わってくるような焼き加減であった。大儀であったな」
若君様からの、直接のお褒めの言葉。
良太の体は、わなわなと震えていた。そして、その大きな瞳から、ぽろり、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「も、もったいのうございます……!」
声を上げて泣きじゃくる良太を、若君様は優しい目で見守っておられた。
「良い料理人は、優しい心を持つと聞く。そなたの涙が、その証じゃな。これからも、その心を忘れずに、民の腹と心を満たす料理を作り続けるのじゃぞ」
「はい……! はい……!」
良太は、何度も何度も頭を下げていた。
この日の出来事は、彼の料理人人生において、何物にも代えがたい大きな宝物となったに違いない。
その後も、若君様は豆腐と油揚げの味噌汁を最後の一滴まで飲み干し、「満腹じゃ、満腹じゃ」と、大変ご満悦の様子で腹をさすっておられた。
お帰りの際、若君様は私の前に立つと、悪戯っぽく笑われた。
「おし乃。そなたの料理は、確かに人の心を解きほぐす力があるようじゃな。今日はまこと楽しかった。また近いうちに、今度はこの国のことをそなたとゆっくり語り合ってみたい。……また、参るぞ」
「はい。いつでも、お待ち申し上げております」
私は、深々と頭を下げた。
嵐のように過ぎ去った特別な夜。
やわらぎ亭の小さな歴史に、また一つ、温かく、そして大きな輝きを放つ一頁が加わった。
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