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阿蘭陀の商人の一件が落着し、やわらぎ亭にはまたいつもの穏やかな日常が戻ってきた。
私の料理が国境を越えたと金さんは囃し立てたが、私にとっては目の前の一人のお客様を想う、ただそれだけのことに過ぎない。それでも、店の評判がさらに広まったのは事実のようで、最近では見慣れない顔の客も暖簾をくぐることが増えてきた。
梅雨明けの蒸し暑い日差しが照りつける、そんな日の午後。
やわらぎ亭に、品の良い初老の女性が、少し年下の嫁に付き添われてやってきた。
「まあ、ここが噂のやわらぎ亭。なんだか、ほっとするようなお店だねえ」
お姑さんだろうか、にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべて、店内を興味深そうに見回している。年の頃は七十に近いだろうか。綺麗に結われた銀髪と、その優しい佇まいが印象的だった。
「いらっしゃいませ。どうぞ、涼しいところへ」
私が声をかけると、お嫁さんの方が少し申し訳なさそうに会釈をした。
「すみません、女将さん。母がこちらの深川めしを一度食べてみたいと申すものですから。少し物忘れが多くなってきまして、ご迷惑をおかけするやもしれませんが……」
「いいえ、お気になさらず。お婆様、どうぞこちらへ」
私はお婆様を奥の涼しい席へと案内した。お婆様は、お妙さんと名乗られた。その目は、少女のようにきらきらと輝いている。
「ありがとうよ、おし乃さん。あなたの噂はかねがね聞いておったよ。どんな人の心でも、一膳の飯で解きほぐしてしまうんだってねえ」
「とんでもない。私はただ、お客様に喜んでいただきたい一心で、料理をお作りしているだけでございます」
「ふふ、その謙虚さが良いんだねえ」
お妙さんは、注文した深川めしをそれはそれは美味しそうに召し上がった。あさりの出汁が染みたご飯を頬張り、「ああ、滋味深い。こりゃあ、たまらないねえ」と何度も頷いている。
その幸せそうな横顔を、お嫁さんは少し潤んだ目で見守っていた。
食事が終わった後も、お妙さんはしばらく店で世間話を楽しんでおられたが、ふとした瞬間にその表情がふっと曇ることがあった。何かを思い出そうとしては、その記憶が霞にかかったように掴めず、寂しそうに遠くを見つめるのだ。
帰り際、お嫁さんがそっと私のところにやってきた。
「女将さん。……実は、母のことで一つご相談が。……母は昔から料理が上手でしてね。特に、亡くなった父が大好きだった、ある料理があったのです。ですが最近は物忘れのせいで、その料理の作り方をどうしても思い出せないようなのです」
「思い出せない……?」
「はい。何か、こりゃこりゃとした歯触りのもので、甘酸っぱい味付けだった、とまでは言うのですが……。肝心の材料と作り方が、どうしても。思い出せないことが本人も一番つらいようでして。父との大切な思い出まで失ってしまうような気がするのでしょう。……もし、女将さんなら、母の記憶を呼び覚ますような、そんな一品を……」
すがるような、その瞳。人の記憶の中の味を再現することの難しさは、以前にも経験している。しかし、今回はその記憶自体が曖昧なのだ。
これは、料理人としての腕が、そして心が、試される仕事だ。
「……かしこまりました。いくつか、お婆様に質問をさせていただいてもよろしいでしょうか」
私は再び席に戻ったお妙さんの隣に座り、優しく語りかけた。
「お妙さん。そのお料理、もう少しだけ教えていただけますか」
「ああ、おし乃さん……。すまないねえ、こんな年寄りの繰り言に付き合わせて。……そうさねえ。お父さんが好きだった、あれだろ? 蓮根だよ、蓮根。昔、うちの裏の畑でたくさん採れたんだ。それをな……」
蓮根。こりゃこりゃ、というのは、あの独特の歯触りのことか。
「味付けは、甘くて少し酸っぱい……。そうさ、確か、鳥の挽き肉も使ったはずだよ。それを、どうしたんだったかねえ……」
蓮根と、鳥の挽き肉。そして、甘酸っぱい味。
私の頭の中で、失われた記憶の欠片が、一つの料理の形を結び始めた。
「……わかりました。お妙さん。三日後、もう一度こちらにお越しいただけますか。私が必ずや、旦那様との思い出の味を再現してご覧にいれますわ」
私の自信に満ちた言葉に、お妙さんとお嫁さんの顔がぱっと輝いた。
三日後。私は朝から調理に取り掛かっていた。
八百屋の忠さんには特別に頼んで、泥付きの、新鮮で立派な蓮根を届けてもらった。
まず、蓮根の皮を薄く剥き、節に沿って輪切りにする。酢水にさらしてアクを抜いておく。
次に、鳥の挽き肉に刻んだ葱と生姜、そして少しの塩と酒を加えて、粘りが出るまでよく練り込む。これが、味の要になる。
水気を拭き取った蓮根の輪切りの片面に葛粉を薄くはたき、その上に鳥の挽き肉をこんもりと乗せ、もう一枚の蓮根で挟み込む。蓮根と蓮根が離れないように、縁を指で軽く押さえるのがこつだ。
これを、油を引いた鉄鍋で両面をこんがりと香ばしく焼き上げる。
最後に、甘酸っぱい餡を作る。醤油と酢、砂糖、そしてみりんを鍋に入れ、一度煮立たせる。そこに水溶き葛粉を回し入れ、とろみがついたら、焼きあがった蓮根にじゅわっと絡ませる。
しゃきしゃきとした蓮根の歯触りと、じゅわっと旨味のある鳥挽き肉、そして食欲をそそる甘酢餡。
「蓮根のはさみ焼き」。これに違いない。
約束の時間、お妙さんとお嫁さんが、期待に満ちた顔でやってきた。
「さあ、お妙さん。どうぞ、お召し上がりください」
湯気の立つ蓮根のはさみ焼きを、そっと差し出す。
お妙さんはごくりと喉を鳴らし、その一皿をじっと見つめている。何かを必死に思い出そうとしているようだった。
そして、おずおずとその一欠片を口に運んだ。
しゃくり、という心地よい歯触りが店内に小さく響く。
その瞬間。
お妙さんの目が見開かれ、その皺だらけの頬を涙がとめどなく流れ落ちた。
「……ああ……。ああ……! そうだ、これだよ……! この味だ……!」
それは、歓喜の声だった。
「思い出したよ、おし乃さん! 全部、思い出した! お父さんと一緒に泥だらけになって蓮根を掘ったこと……。このはさみ焼きを作ると、お父さんがそれはそれは嬉しそうに『これが一番のご馳走だ』って、笑ってくれたこと……!」
お妙さんは子供のように泣きながら、しかし本当に幸せそうに、そのはさみ焼きを頬張っていた。
一皿の料理が、失われかけていた大切な記憶の扉を再び開けてくれたのだ。
お嫁さんも、そんな母の姿を見て嬉しそうに涙を拭っている。
料理とは、ただ腹を満たすだけのものではない。
人の記憶に寄り添い、忘れかけた温もりを再び心に灯してくれる、魔法のような力を持っている。
私の料理が国境を越えたと金さんは囃し立てたが、私にとっては目の前の一人のお客様を想う、ただそれだけのことに過ぎない。それでも、店の評判がさらに広まったのは事実のようで、最近では見慣れない顔の客も暖簾をくぐることが増えてきた。
梅雨明けの蒸し暑い日差しが照りつける、そんな日の午後。
やわらぎ亭に、品の良い初老の女性が、少し年下の嫁に付き添われてやってきた。
「まあ、ここが噂のやわらぎ亭。なんだか、ほっとするようなお店だねえ」
お姑さんだろうか、にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべて、店内を興味深そうに見回している。年の頃は七十に近いだろうか。綺麗に結われた銀髪と、その優しい佇まいが印象的だった。
「いらっしゃいませ。どうぞ、涼しいところへ」
私が声をかけると、お嫁さんの方が少し申し訳なさそうに会釈をした。
「すみません、女将さん。母がこちらの深川めしを一度食べてみたいと申すものですから。少し物忘れが多くなってきまして、ご迷惑をおかけするやもしれませんが……」
「いいえ、お気になさらず。お婆様、どうぞこちらへ」
私はお婆様を奥の涼しい席へと案内した。お婆様は、お妙さんと名乗られた。その目は、少女のようにきらきらと輝いている。
「ありがとうよ、おし乃さん。あなたの噂はかねがね聞いておったよ。どんな人の心でも、一膳の飯で解きほぐしてしまうんだってねえ」
「とんでもない。私はただ、お客様に喜んでいただきたい一心で、料理をお作りしているだけでございます」
「ふふ、その謙虚さが良いんだねえ」
お妙さんは、注文した深川めしをそれはそれは美味しそうに召し上がった。あさりの出汁が染みたご飯を頬張り、「ああ、滋味深い。こりゃあ、たまらないねえ」と何度も頷いている。
その幸せそうな横顔を、お嫁さんは少し潤んだ目で見守っていた。
食事が終わった後も、お妙さんはしばらく店で世間話を楽しんでおられたが、ふとした瞬間にその表情がふっと曇ることがあった。何かを思い出そうとしては、その記憶が霞にかかったように掴めず、寂しそうに遠くを見つめるのだ。
帰り際、お嫁さんがそっと私のところにやってきた。
「女将さん。……実は、母のことで一つご相談が。……母は昔から料理が上手でしてね。特に、亡くなった父が大好きだった、ある料理があったのです。ですが最近は物忘れのせいで、その料理の作り方をどうしても思い出せないようなのです」
「思い出せない……?」
「はい。何か、こりゃこりゃとした歯触りのもので、甘酸っぱい味付けだった、とまでは言うのですが……。肝心の材料と作り方が、どうしても。思い出せないことが本人も一番つらいようでして。父との大切な思い出まで失ってしまうような気がするのでしょう。……もし、女将さんなら、母の記憶を呼び覚ますような、そんな一品を……」
すがるような、その瞳。人の記憶の中の味を再現することの難しさは、以前にも経験している。しかし、今回はその記憶自体が曖昧なのだ。
これは、料理人としての腕が、そして心が、試される仕事だ。
「……かしこまりました。いくつか、お婆様に質問をさせていただいてもよろしいでしょうか」
私は再び席に戻ったお妙さんの隣に座り、優しく語りかけた。
「お妙さん。そのお料理、もう少しだけ教えていただけますか」
「ああ、おし乃さん……。すまないねえ、こんな年寄りの繰り言に付き合わせて。……そうさねえ。お父さんが好きだった、あれだろ? 蓮根だよ、蓮根。昔、うちの裏の畑でたくさん採れたんだ。それをな……」
蓮根。こりゃこりゃ、というのは、あの独特の歯触りのことか。
「味付けは、甘くて少し酸っぱい……。そうさ、確か、鳥の挽き肉も使ったはずだよ。それを、どうしたんだったかねえ……」
蓮根と、鳥の挽き肉。そして、甘酸っぱい味。
私の頭の中で、失われた記憶の欠片が、一つの料理の形を結び始めた。
「……わかりました。お妙さん。三日後、もう一度こちらにお越しいただけますか。私が必ずや、旦那様との思い出の味を再現してご覧にいれますわ」
私の自信に満ちた言葉に、お妙さんとお嫁さんの顔がぱっと輝いた。
三日後。私は朝から調理に取り掛かっていた。
八百屋の忠さんには特別に頼んで、泥付きの、新鮮で立派な蓮根を届けてもらった。
まず、蓮根の皮を薄く剥き、節に沿って輪切りにする。酢水にさらしてアクを抜いておく。
次に、鳥の挽き肉に刻んだ葱と生姜、そして少しの塩と酒を加えて、粘りが出るまでよく練り込む。これが、味の要になる。
水気を拭き取った蓮根の輪切りの片面に葛粉を薄くはたき、その上に鳥の挽き肉をこんもりと乗せ、もう一枚の蓮根で挟み込む。蓮根と蓮根が離れないように、縁を指で軽く押さえるのがこつだ。
これを、油を引いた鉄鍋で両面をこんがりと香ばしく焼き上げる。
最後に、甘酸っぱい餡を作る。醤油と酢、砂糖、そしてみりんを鍋に入れ、一度煮立たせる。そこに水溶き葛粉を回し入れ、とろみがついたら、焼きあがった蓮根にじゅわっと絡ませる。
しゃきしゃきとした蓮根の歯触りと、じゅわっと旨味のある鳥挽き肉、そして食欲をそそる甘酢餡。
「蓮根のはさみ焼き」。これに違いない。
約束の時間、お妙さんとお嫁さんが、期待に満ちた顔でやってきた。
「さあ、お妙さん。どうぞ、お召し上がりください」
湯気の立つ蓮根のはさみ焼きを、そっと差し出す。
お妙さんはごくりと喉を鳴らし、その一皿をじっと見つめている。何かを必死に思い出そうとしているようだった。
そして、おずおずとその一欠片を口に運んだ。
しゃくり、という心地よい歯触りが店内に小さく響く。
その瞬間。
お妙さんの目が見開かれ、その皺だらけの頬を涙がとめどなく流れ落ちた。
「……ああ……。ああ……! そうだ、これだよ……! この味だ……!」
それは、歓喜の声だった。
「思い出したよ、おし乃さん! 全部、思い出した! お父さんと一緒に泥だらけになって蓮根を掘ったこと……。このはさみ焼きを作ると、お父さんがそれはそれは嬉しそうに『これが一番のご馳走だ』って、笑ってくれたこと……!」
お妙さんは子供のように泣きながら、しかし本当に幸せそうに、そのはさみ焼きを頬張っていた。
一皿の料理が、失われかけていた大切な記憶の扉を再び開けてくれたのだ。
お嫁さんも、そんな母の姿を見て嬉しそうに涙を拭っている。
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