【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

文字の大きさ
80 / 100

80

しおりを挟む
やわらぎ亭の名は、いつしか江戸の食通たちの間でも囁かれるようになっていた。
もちろん、私自身はそんなことに関心はない。けれど、店の評判が一人歩きを始めると、時には招かれざる客がやってくることもある。

からり、と威勢よく店の暖簾をくぐってきたのは、二人組の若い料理人だった。
揃いの白い割烹着に、剃り上げた青々とした頭。その立ち居振る舞いから、日本橋あたりにある格式の高い料亭の板前だろうと見当がついた。

「ここが例のやわらぎ亭か。思ったより、小汚い店だな」

二人組の、年長らしい方が吐き捨てるように言った。名を憲三というらしい。
もう一人の、新二と呼ばれた若い方は、不安そうに辺りを見回している。

「いらっしゃいませ」

私が静かに迎えると、憲三は私を頭のてっぺんから足の先まで、品定めするような目で見下ろした。

「あんたがここの女将か。噂じゃあ、大層な料理の腕前だそうじゃねえか。……俺たちに、この店で一番の料理とやらを食わせてみろ。俺たちの舌を唸らせることができたら、その評判も本物だと認めてやろう」

あまりにも無礼な物言い。店の常連たちが、ざわりと色めき立つ。
隣に立つ良太も、悔しそうに拳を握りしめていた。
けれど、私は少しも動じなかった。彼の傲慢な態度の奥に、料理に対する純粋な情熱と、そして若いからこその焦りのようなものが見えたからだ。

「かしこまりました。ですが、あいにくと今すぐにお出しできるような特別な料理はございません。お時間をいただけるのでしたら、ご用意いたしますが」

「ふん、逃げる気か? まあいいだろう。明日のこの時間にまた来てやる。せいぜい、腕によりをかけて俺たちを驚かせるようなもんを用意しておくんだな!」

そう言い残し、二人は嵐のように去っていった。
後に残された店の中は、怒りと不快な空気で満ちていた。

「おし乃さん! なんであんな奴らの言うこと聞くんですか! 追い返してやればよかったんですよ!」

良太が憤懣やるかたないといった様子で私に詰め寄る。

「まあ、落ち着きなさい、良太。彼らはただ自分の腕に自信があるだけ。そして、自分たちの知らない世界が少し怖いのよ」

「ですが……!」

「良い機会じゃないか。私たちの、やわらぎ亭の料理が何たるかを、彼らに教えてあげましょう」

私の落ち着いた様子に、良太も少し冷静さを取り戻したようだった。
私は、彼らのために作る料理を既に心に決めていた。
それは、どんな豪華な食材よりも、どんな奇をてらった技法よりも、料理の本質を問う一品。
日本料理の、魂そのもの。

翌日。約束の時間きっかりに、憲三と新二は腕を組んで店にやってきた。
その顔には「どんなものが出てくるか、見せてもらおうか」という傲慢な自信が浮かんでいる。

私は二人を静かに席へと案内し、そして一つの椀をそっと彼らの前に置いた。
椀の中には、透き通った黄金色の汁が張られているだけ。
具は、美しく飾り切りされた一枚の人参と、湯引きした鶏のささみが一切れ、そして吸い口に三つ葉が添えられているのみ。
あまりの素っ気なさに、憲三は眉をひそめた。

「……なんだ、これは。お吸い物だと? 俺たちを馬鹿にしているのか」

「どうぞ、まずはその香りをお楽しみください」

私の言葉に、憲三は訝しげにしながらも椀に顔を寄せた。
ふわりと立ち上る、気品のある、深く、そしてどこまでも澄んだ香り。それは、最高級の利尻昆布と枕崎の本枯節から、丁寧に丁寧に引いた一番出汁の香りだった。

「……なんだ、この香りは……」

憲三の顔から、傲慢な表情が消えていた。
彼は、ごくりと喉を鳴らし、おもむろに椀を手に取ると、その汁を一口、口に含んだ。

その瞬間。
憲三の大きな体が、びくりと震えた。
彼の目が、信じられないものを見たかのように大きく見開かれている。

「…………」

言葉がない。ただ、その場で固まったように動かなくなってしまった。
隣の新二が、心配そうに声をかける。

「憲三さん? どうしたんですか?」

憲三は、その声にも答えず、もう一口、確かめるように汁をすする。
そして、しばらくの沈黙の後、天を仰ぐように深く長いため息をついた。

「……負けた」

ぽつりと漏れたのは、完全な敗北を認める一言だった。

「なんだ、これは……。なんだ、この出汁は……。こんな……こんな、澄み切っていながらどこまでも深い旨味の出汁など、飲んだことがない……。昆布の甘み、鰹節の香り、その全てが完璧に、寸分の狂いもなく調和している……。俺が、親方のもとで何年もかけて学んできた出汁が、まるで子供の遊びのように思える……」

憲三はがっくりと肩を落とし、椀の中を見つめていた。その目には、先程までの傲慢さは微塵もなく、ただ、本物の「芸」を前にした一人の料理人としての畏怖と、そして感動の色が浮かんでいた。

「おし乃、殿……。……どうすれば、このような出汁が引けるのですか」

いつの間にか、その呼び名は「あんた」から「おし乃殿」に変わっていた。

「特別なことは、何も。ただ、出汁を引く時の水の温度に気を配り、昆布と鰹節が持つ一番良いところだけを、そっと引き出してあげるだけですわ」

「それだけ……。それだけのことが、これほどまでに……」

「大切なのは、技や知識だけではございません。誰に、何を伝えたいか。その想いこそが、最高の調味料になるのだと、私は信じております」

私の言葉に、憲三と新二ははっとしたように顔を見合わせた。
彼らが追い求めていたのは、客の顔ではなく、己の腕を誇示するための料理だったのかもしれない。

「……参りました。俺たちの、完敗です」

憲三はすっくと立ち上がると、私に向かって深々と、それはもう床に頭がつくほどに、頭を下げた。

「おし乃殿。俺たちは目が覚めました。どうか、この未熟者たちに、料理の道をもう一度ご指導ください!」

その真摯な姿に、店の常連たちから温かい拍手が送られた。
一杯のお吸い物が、若き料理人たちの天狗になっていた鼻をへし折り、そして料理人としての本当の誇りを思い出させてくれたのだ。
やわらぎ亭の一番出汁の香りが、優しく彼らを包み込んでいるようだった。
しおりを挟む
感想 8

あなたにおすすめの小説

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

さくらと遥香

youmery
恋愛
国民的な人気を誇る女性アイドルグループの4期生として活動する、さくらと遥香(=かっきー)。 さくら視点で描かれる、かっきーとの百合恋愛ストーリーです。 ◆あらすじ さくらと遥香は、同じアイドルグループで活動する同期の2人。 さくらは"さくちゃん"、 遥香は名字にちなんで"かっきー"の愛称でメンバーやファンから愛されている。 同期の中で、加入当時から選抜メンバーに選ばれ続けているのはさくらと遥香だけ。 ときに"4期生のダブルエース"とも呼ばれる2人は、お互いに支え合いながら数々の試練を乗り越えてきた。 同期、仲間、戦友、コンビ。 2人の関係を表すにはどんな言葉がふさわしいか。それは2人にしか分からない。 そんな2人の関係に大きな変化が訪れたのは2022年2月、46時間の生配信番組の最中。 イラストを描くのが得意な遥香は、生配信中にメンバー全員の似顔絵を描き上げる企画に挑戦していた。 配信スタジオの一角を使って、休む間も惜しんで似顔絵を描き続ける遥香。 さくらは、眠そうな顔で頑張る遥香の姿を心配そうに見つめていた。 2日目の配信が終わった夜、さくらが遥香の様子を見に行くと誰もいないスタジオで2人きりに。 遥香の力になりたいさくらは、 「私に出来ることがあればなんでも言ってほしい」 と申し出る。 そこで、遥香から目をつむるように言われて待っていると、さくらは唇に柔らかい感触を感じて… ◆章構成と主な展開 ・46時間TV編[完結] (初キス、告白、両想い) ・付き合い始めた2人編[完結] (交際スタート、グループ内での距離感の変化) ・かっきー1st写真集編[完結] (少し大人なキス、肌と肌の触れ合い) ・お泊まり温泉旅行編[完結] (お風呂、もう少し大人な関係へ) ・かっきー2回目のセンター編[完結] (かっきーの誕生日お祝い) ・飛鳥さん卒コン編[完結] (大好きな先輩に2人の関係を伝える) ・さくら1st写真集編[完結] (お風呂で♡♡) ・Wセンター編[完結] (支え合う2人) ※女の子同士のキスやハグといった百合要素があります。抵抗のない方だけお楽しみください。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

カオルとカオリ

廣瀬純七
青春
一つの体に男女の双子の魂が混在する高校生の中田薫と中田香織の意外と壮大な話です。

義姉妹百合恋愛

沢谷 暖日
青春
姫川瑞樹はある日、母親を交通事故でなくした。 「再婚するから」 そう言った父親が1ヶ月後連れてきたのは、新しい母親と、美人で可愛らしい義理の妹、楓だった。 次の日から、唐突に楓が急に積極的になる。 それもそのはず、楓にとっての瑞樹は幼稚園の頃の初恋相手だったのだ。 ※他サイトにも掲載しております

処理中です...