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◇◇◇コバンザメ◇◇◇
◇1◇ 吸着
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お母さんみたい。
サトミ先輩のことをそう思った。珠子にはお母さんがいたことも、いっしょに暮らしたこともなかったから、実際には、珠子のイメージするお母さん像に先輩が似ていた、ということで、もしかしたらそれは友達のお母さん、たとえば何度が会っているマリのお母さんとか、に似ているということかもしれない。
「おなか空いていない? なにか食べたの?」
「何時くらいに帰るの?」
「迎えにいこうか?」
そう言ってマリのお母さんは、いつもマリのことを心配していた。
マリはその度にうるさがっていたけれど、それは心底うるさいと思っているわけではなくて、「ああーっ、もーっ」なんて眉間にシワを寄せて言ってはいるのだけれど、どこか笑っているような、どこか嬉しそうな、そんなふうだった。そしてマリとお母さんのそういうやりとりを見て、珠子の胸はほっこりとあたたかくなった。
肉眼では見えるはずのない細かいホコリが蛍光灯に反射して、空中にキラキラとした粒となって舞っている。まるで絵本の世界の、暖炉の前みたいな場所に、今、珠子はいた。先輩が広げてくれた毛布はあたたかそうな姿で珠子のことを呼んでいる。ぼんやりとオレンジ色の電灯が灯り、部屋は柔らかい雰囲気で満たされている。
「ねえ、お母さん、今日学校でね」
子供のころ何度も想像した風景が、ぴったりと当てはまりそうだ。
「きいてきいて、あのね」
優しい笑顔のお母さんに、ぜんぶ話してしまいたい。こんなことを言ってもいいだろうか、なんて考えることなしで話ができる相手。お母さんってそういうものでしょう? ああ、でも、ぜんぶを包み隠さずっていうのはないのかも。マリがおしゃべりの途中で、「とてもじゃないけど親には言えない」って、口にすることがあった。だからきっと話せないこともあるんだ。なんでも話していい、なにもかも話すことが許される、というのならば、すべてを話してしまいたい。そう思うけれど、そうじゃないこともあるんだ、きっと。ああ、本物のお母さんと話ができたら、どんなだったんだろう。珠子はそんなことを考えた。
「たまちゃん?」
名前を呼ぶ声にハッとする。気付けばサトミ先輩の顔がすぐ目の前にあって、珠子はびっくりした。心配そうな表情がくすぐったい。同時に、珠子の胸はポワッとあたたかくなる。
「ボーッとしちゃって、すみません」
「いいのいいの、大丈夫? 話したくないことは話そうとしなくっていいからね。ある程度はマリから聞いているから、それで十分よ」
先輩は手を受話器にみたてて、電話で、というジェスチャーをした。
マリは先輩にどんなことを話したのだろう。
「どうしよう」
一時間くらい前、珠子はマリに電話をして言った。東京に出てきたのだけれど、泊めてくれると思っていたところに泊まれなくなった。そんな言い方をしたと思う。それから、泣きそうになるのを精一杯がまんして、
「たぶん失恋した」
そう告白もした。
言葉にすると心がヒリヒリと痛んだ。じわじわと浸み込むように、時間の経過とともに、珠子の胸の痛みは増してきている。
「わかった、ちょっと待っていて。泊めてくれそうな人を知ってるから、連絡してみる。あんた、公衆電話からかけてるんだよね? 三十分、ううん、十分後にもう一回電話ちょうだい。いい? かけなおすのよ」
マリは優しい声でそう言って電話を切った。
驚かれることも、質問攻めにされることもなかったことを意外に思ったけれど、マリだから当然か、とも思った。きっとものすごい速さですべてを想像して、珠子のことを思いやってくれたのだと思う。
「あんた今どこ? サトミ先輩が迎えに行ってくれるから」
かけなおした電話に出たマリは、開口一番そう言った。そしてマリのおかげで今、珠子はサトミ先輩の部屋で、ベッドを用意してもらっている。
マリは先輩にどんなことを話したのだろう。想像できたことをぜんぶ?
だとしたら、珠子からも直接話さなかったら感じが悪いかもしれない。それでも、今すべてを先輩に話すのは難しいと珠子は思う。
高校三年間、ずっといっしょだったマリに話すのとはわけがちがう。顔は知っていたとはいえ、先輩と二人だけで話をするのは今夜が初めてだった。おまけに自分の気持ちだって、珠子はまだよくわからずにいる。そんなぜんぶをうまく言葉にすることはできそうになかった。けれど、どうしてこうなったのか。せめてそれだけは伝えたい。
「あてがはずれちゃって、住むところがなくなってしまいました」
考えて考えて、やっとでてきた言葉はこれだけだった。
「そうみたいね。家出したの?」
すぐにストレートな質問が返ってくる。けれど少しもイヤな気持ちはしなかった。
「そうじゃないです。親も私に一人暮らしをさせたいって話していたので、タイミングが少し早くなっただけというか……」
飛び出してきたようなものだけれど、置手紙をしてきたし、実際に、珠子に家を出て欲しいと両親が話をしていたのを知っている。だからウソをついているわけじゃない。
「そっか。それならいいんだけど、でも落ち着いたらちゃんとまたおうちに連絡できる?」
「できると思います」
「そう。わかった。じゃあ、きまり! しばらくはタマちゃんもここに住むってことにしましょう。ね?」
サトミ先輩の優しい笑顔に、珠子はもう、うなずくことしかできなかった。
お母さん、ううん、お姉さんがいたら、きっとこんなだったんだろうな。あらためて珠子はそう思った。
サトミ先輩のことをそう思った。珠子にはお母さんがいたことも、いっしょに暮らしたこともなかったから、実際には、珠子のイメージするお母さん像に先輩が似ていた、ということで、もしかしたらそれは友達のお母さん、たとえば何度が会っているマリのお母さんとか、に似ているということかもしれない。
「おなか空いていない? なにか食べたの?」
「何時くらいに帰るの?」
「迎えにいこうか?」
そう言ってマリのお母さんは、いつもマリのことを心配していた。
マリはその度にうるさがっていたけれど、それは心底うるさいと思っているわけではなくて、「ああーっ、もーっ」なんて眉間にシワを寄せて言ってはいるのだけれど、どこか笑っているような、どこか嬉しそうな、そんなふうだった。そしてマリとお母さんのそういうやりとりを見て、珠子の胸はほっこりとあたたかくなった。
肉眼では見えるはずのない細かいホコリが蛍光灯に反射して、空中にキラキラとした粒となって舞っている。まるで絵本の世界の、暖炉の前みたいな場所に、今、珠子はいた。先輩が広げてくれた毛布はあたたかそうな姿で珠子のことを呼んでいる。ぼんやりとオレンジ色の電灯が灯り、部屋は柔らかい雰囲気で満たされている。
「ねえ、お母さん、今日学校でね」
子供のころ何度も想像した風景が、ぴったりと当てはまりそうだ。
「きいてきいて、あのね」
優しい笑顔のお母さんに、ぜんぶ話してしまいたい。こんなことを言ってもいいだろうか、なんて考えることなしで話ができる相手。お母さんってそういうものでしょう? ああ、でも、ぜんぶを包み隠さずっていうのはないのかも。マリがおしゃべりの途中で、「とてもじゃないけど親には言えない」って、口にすることがあった。だからきっと話せないこともあるんだ。なんでも話していい、なにもかも話すことが許される、というのならば、すべてを話してしまいたい。そう思うけれど、そうじゃないこともあるんだ、きっと。ああ、本物のお母さんと話ができたら、どんなだったんだろう。珠子はそんなことを考えた。
「たまちゃん?」
名前を呼ぶ声にハッとする。気付けばサトミ先輩の顔がすぐ目の前にあって、珠子はびっくりした。心配そうな表情がくすぐったい。同時に、珠子の胸はポワッとあたたかくなる。
「ボーッとしちゃって、すみません」
「いいのいいの、大丈夫? 話したくないことは話そうとしなくっていいからね。ある程度はマリから聞いているから、それで十分よ」
先輩は手を受話器にみたてて、電話で、というジェスチャーをした。
マリは先輩にどんなことを話したのだろう。
「どうしよう」
一時間くらい前、珠子はマリに電話をして言った。東京に出てきたのだけれど、泊めてくれると思っていたところに泊まれなくなった。そんな言い方をしたと思う。それから、泣きそうになるのを精一杯がまんして、
「たぶん失恋した」
そう告白もした。
言葉にすると心がヒリヒリと痛んだ。じわじわと浸み込むように、時間の経過とともに、珠子の胸の痛みは増してきている。
「わかった、ちょっと待っていて。泊めてくれそうな人を知ってるから、連絡してみる。あんた、公衆電話からかけてるんだよね? 三十分、ううん、十分後にもう一回電話ちょうだい。いい? かけなおすのよ」
マリは優しい声でそう言って電話を切った。
驚かれることも、質問攻めにされることもなかったことを意外に思ったけれど、マリだから当然か、とも思った。きっとものすごい速さですべてを想像して、珠子のことを思いやってくれたのだと思う。
「あんた今どこ? サトミ先輩が迎えに行ってくれるから」
かけなおした電話に出たマリは、開口一番そう言った。そしてマリのおかげで今、珠子はサトミ先輩の部屋で、ベッドを用意してもらっている。
マリは先輩にどんなことを話したのだろう。想像できたことをぜんぶ?
だとしたら、珠子からも直接話さなかったら感じが悪いかもしれない。それでも、今すべてを先輩に話すのは難しいと珠子は思う。
高校三年間、ずっといっしょだったマリに話すのとはわけがちがう。顔は知っていたとはいえ、先輩と二人だけで話をするのは今夜が初めてだった。おまけに自分の気持ちだって、珠子はまだよくわからずにいる。そんなぜんぶをうまく言葉にすることはできそうになかった。けれど、どうしてこうなったのか。せめてそれだけは伝えたい。
「あてがはずれちゃって、住むところがなくなってしまいました」
考えて考えて、やっとでてきた言葉はこれだけだった。
「そうみたいね。家出したの?」
すぐにストレートな質問が返ってくる。けれど少しもイヤな気持ちはしなかった。
「そうじゃないです。親も私に一人暮らしをさせたいって話していたので、タイミングが少し早くなっただけというか……」
飛び出してきたようなものだけれど、置手紙をしてきたし、実際に、珠子に家を出て欲しいと両親が話をしていたのを知っている。だからウソをついているわけじゃない。
「そっか。それならいいんだけど、でも落ち着いたらちゃんとまたおうちに連絡できる?」
「できると思います」
「そう。わかった。じゃあ、きまり! しばらくはタマちゃんもここに住むってことにしましょう。ね?」
サトミ先輩の優しい笑顔に、珠子はもう、うなずくことしかできなかった。
お母さん、ううん、お姉さんがいたら、きっとこんなだったんだろうな。あらためて珠子はそう思った。
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