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愛しさと逃げ出したい気持ち・前編

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 ニーナが目覚めるとまだ夜中だった。娼館の従業員寮のベッドの上だと分かると、ニーナはほっと息をついた。ベッドの足元には酔っ払った同僚が三人ほど折り重なって寝息を立てている。従業員寮のいつもと変わらない光景にニーナは安心感を覚えた。

(夢を見ていたな。昔の……)

 少し前にカインの昔話を聞いて以来、ニーナはいつかカインに自分のことを話したいと思うようになっていた。

(でも……何でそんな風に思うんだ。カインの話を聞けて、嬉しかったから?)

 上体を起こして、足元で幸せそうに酒瓶を抱える同僚達に毛布をかけた。

(こいつらも、親に売られたり、戦争から逃げて来たり、色んな奴がいるけど……オレみたいに誰かに自分のことを話したいって思うこと、あったのかな?)

 ニーナは世話焼きでお節介だったが、他人の身の上についてはあまり深入りしないようにしていた。ベッドから立ち上がり、窓のカーテンを開けるとキレイな三日月が出ている。ニーナは月の淡い光に見惚れた。

(……何もかも全部を忘れてしまえたらって思う時がある。そんな時は何も考えずにじっとしていると、胸の苦しいのはどこかに行ってしまう)

 苦しい思いはニーナの体中を駆け巡り、少しずつ蒸発していくようだった。このまま誰にも話さないでいると、起きたこと全てがなかったことになるような気がして、ニーナはそれを怖いと感じていた。

 現に老夫婦の元で一緒に暮らした子ども達の顔は、もう覚えていない。老夫婦も優しかったが、ニーナはもうその時のことをうまく思い出せなかった。いつか、父や母や、兄や姉、妹、そして弟のことが、自分の中から全て消えていくかもしれないと思うと、寂しくて悲しくて、怖くて仕方なかった。

(あれから、色々な町に行って、色んな仕事をして、ふらふら、ふらふら、一人で生きて来たんだ……今更)

 海を渡ってからは知らない大陸の知らない国で知らない言葉を覚え、言われるがまま肉体労働や下働き、チンピラの使いっ走りのようなことまでやってきた。幼い頃から妹や弟の世話をし、集落にある小さな学校で読み書きや計算を習って来たため、仕事の覚えが悪いと殴られることも少なかった。ニーナは一人でもそれなりに上手く生きることが出来てしまっていた。

(そうだ……自分のことを話してみたいなんて……全部、今更だ)

 ニーナは暗い空に浮かぶ三日月を見つめ、カインのことを思い浮かべた。暗い静かな瞳で優しく見つめられると、体中の血が騒ぐ気がして落ち着かなくなる。大きな体で抱きしめられ、ごつごつした手で大事な物を扱うように撫でられると、この温かさを自分だけのものにしたいと願ってしまう。

(……今までずっと……過去から逃げ回るみたいに生きて来たんだ。今更……ただ一人の温もりが欲しいなんて、おこがましいよな)

 ニーナはカインを求める気持ちを振り払い、カーテンをそっと締めた。

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