私を襲った獣は、人ならざるものでした。〜溺れるほどの愛に、身を任せようと思います〜

こころ ゆい

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1.奪われる

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「はぁ、はぁ....」

(どうして...どうして....)

 ーーどうして、こんなことになってるの....?

 今年十八を迎えた東堂 桜子とうどう さくらこは、自分の上にのしかかり、荒い息を吐く、大きな獣と対峙していた。

 押さえつけられている身体は華奢で、肉付きの悪さは否めない。だが、白く滑らかな肌や愛らしく整った顔つきは庇護欲をそそる見た目だ。今は、顔色が極端に悪くなっていた。

 パニックになりそうな頭を叱咤して、何とか冷静に物事を整理しようと試みる。



 桜子の育った家、東堂家は、神の『寵愛』を受ける家のひとつとして、桐国とうこくで名高い名家だ。
 家に生まれる子供たちは皆、何かしらの力を備え、生まれてきた。

 触れた者の心を読む力、怪我を治す力、痛みをうつす力、記憶を呼び起こす力。それぞれ持つ能力は違うが、普通なら持ち得ぬ力を保持していると言う点では同じだ。

 例に漏れずーー。
 桜子の二つ上の姉・東堂 麗子とうどう れいこは『神の力』を備えていた。

 姉は自由を好み、家に縛られることを嫌っていたが、『人を支配する能力』を持っていた。
 力は、極微弱ながら、その特性から取り扱いに注意の必要なものだ。何せ、人の精神に関与する。
 姉が力をふるえば、その人の心を無視して、イエスと頷かせることができるのだから。

 使いようによっては、『人間兵器にんげんへいき』と化すこともあり得るものだった。

 だが、言い換えれば、またと見ない特殊な能力として、両親は大いに喜び、褒め称えた。

 それもそうだ。
 その力があれば、国は特に『東堂家』に目をかけ、優遇し...さらには、国の有力者との婚姻の話まで持ち上がるかもしれない。いや。きっと持ち上がる。

 だから、姉は生まれた瞬間から今まで...ずっと、ずっと。大切にーー愛されてきた。

 対して、桜子はーー。

 類稀たぐいまれなる能力を持つ姉に反して、桜子は何も持たずに生まれた。そう、何もなかったのだーー。
 神の『寵愛』を受ける家に生まれる子は、代々、何かしらの能力を備えていたはずだった。それなのに、桜子には....本当に何も能力が出現せず、『役立たず』の烙印らくいんを押された。

「お前には、がっかりだ。せいぜい、姉の邪魔にならぬよう、慎みを持ち、麗子に尽くせ」

 自分を見る父の氷の如く冷えた視線と、姉の奴隷のように生きろと言わんばかりの言葉。

 それは、幼い頃から桜子の心を踏みにじってきた。

 機嫌の良し悪しでふるわれる暴力。
 日々、何気なく吐き出される、暴言や冷たい言葉。
 常に向けられる、愛情とはかけ離れた自分を人とも見ぬ、あざける目。
 主人たちの態度に、使用人でさえ、桜子を軽んじた。

 能力を持たぬ自分が、悪い。
 能力を持たぬ自分は、愛されなくて当然。

 いつしか痛みの感覚は麻痺し、桜子は誰にも期待せずに生きるようになった。

 しかしーー。

 年頃を迎えた頃、桜子にひとつの縁談が持ち上がる。それは、何にも期待しなくなった彼女の、淡い望みを引き出すのには十分だったーー。



「...お、お姉さ、ま。これは...どういう、ことですか」
「あら、桜子。随分、早かったのね」

 それは、今日の出来事。
 間もなく卒業を控えた学院から戻ると、いつもなら使用人たちが動き回っているはずの家が静まり返っていた。

 両親は「大事な会議がある」と数日家を空けており、本当であれば、姉があれこれ使用人に指示を出している頃だ。

 桜子は、恐る恐る玄関に足を踏み入れ、靴を脱いだ。
 そっと縁側の廊下を進んでいくと、奥の部屋からひそめた男女の声がする。
 足を踏み出し近づいていくにつれ、その声は鮮明なものとなりーー。

 そして。
 障子をはさんで声をかけ、開けた先に...姉とあられもない姿で浮気している、自身の婚約者を見つけたのだ。

「ち、違うんだ、桜子。これは」
「あら~、何が違うって言うの?功太さん」

 何も身につけない生まれたままの姿で、白いシーツに包まって、艶めかしい肢体を投げ出して、功太にしなだれかかる姉。
 かろうじて大事な部分だけ隠し、青い顔で慌てふためく婚約者であったはずの二階堂 功太にかいどう こうた

 桜子は震え、カタカタ音を立て始める歯にぐっと力を込めた。

「....功太さまは....お姉様と新たにご婚約される、ということで宜しいのでしょうか」

 何とか毅然と尋ねれば、明らかに面白くないという表情で姉の麗子は答えた。

「ふん、そんなの知らないわ。私は、家に尽くす今の生活に嫌気がさしているの。それもこれも...あなたが『役立たず』のせい。あなたに力さえあれば、私はーー。....私から自由を奪った桜子にも同じ報いを受けさせてやりたかっただけ」

 だから、婚約者を...唯一、桜子の心の支えとなっていた婚約をダメにしようとしているのか。

 桜子は頭の中で、足元から全てがガラガラと崩れ落ちる音を聞いていた。

 学院を卒業して、婚約者の功太と結婚する。
 そうすれば、この家を....桜子のことを人とも見ぬ全身凍えた心地になる視線ともおさらばできる。

 別に、功太を特別に好きだとか、愛しているとか、そんな感情があったわけではない。

 でも、父が『役立たず』の桜子でも、何とか家のためになる婚姻はないかと血眼ちまなこになって探し出してきた家との婚約。
 神の『寵愛』を受ける家ではなくても、資産家で、ほどほどに縁繋ぎになる利点がある家。
 その家の息子との婚約は、桜子にとっても唯一、この家から逃れられる『手段』だった。

 あと少し。あと...ほんの少し耐えれば。

 そう思ってカウントダウンする桜子の心は、麗子に見透かされ、あっけなく壊されたのだーー。

 逃げようとした自分が悪い。
 元はと言えば、能力を持たずに生まれた自分のせいなのだから。
 こんなこと....こんな些細なことは水に流して、いつも通り、姉に尽くさなければ。
 また、何に期待することなく、以前の自分に戻るだけ。

 普段ならそう思うはずなのに...桜子はもう限界だった。

「....わかりました」
「え?」

 一言だけ残し、姉と...先ほどまで婚約者だった男性に背を向ける。
 甲高く、キーキー呼ばれる声を無視して、桜子は振り返りもせず、夢中で走った。

(私に報いをと願うのなら...)

 ーーこのまま、人生を諦めよう。

 桜子の中で何かの糸が切れる音がしてーー。
 気づけば、暗い森....誰もが「入るな」と口を揃える『魔の森まのもり』へとやって来ていたのだ。



 鬱蒼うっそうと茂る葉が覆い隠して、出ているはずの太陽の光も、この森には届いていない。
 明るさはどこにもなく、陽だまりなどひとつも見当たらない。

 ただただ、どんよりと。薄暗く....そこかしこで、ガサガサと得体の知れぬ生き物が行き交う音が聞こえる。

 時折、「カァー!」「シャーッ」という恐ろしい声まで響いてくる。

 とてつもなく不気味な雰囲気を漂わせる森は、嘘か誠か....神ではなく『魔の者まのもの』を祀ってあるという『魔峠神社まとうげじんじゃ』の裏手に広がっていた。

 その森は、魔族の住む『魔界』への入り口があると噂され、足を踏み入れるなど自殺行為だと言われている。

 たった今、生を諦め、人生に終止符を打つ場所として、桜子が選んだのがここだったわけだがーー。
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