私を襲った獣は、人ならざるものでした。〜溺れるほどの愛に、身を任せようと思います〜

こころ ゆい

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2.待ち人

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 ーーこんな...“食べられて“さよならすることになるなんて。

 確かに、人生を諦めた。
 それについて不満は言うつもりはない。
 でも、でもーー。
 肌を食いちぎられ、痛みに耐えて命尽きるのは....想定していなかった。
 冷静に考えてみれば、ここは森。
 獣がいることくらい思いつくものなのに。
 自分はなんてバカなのか。

 ーーどこまでも、『役立たず』の能無しだ。


「甘い...甘い匂いだ。....は、ぁ。たまらん。...お主、一体何者だ」

 ギラギラと紅い目を光らせて、長く鋭い牙を口から覗かせながら、その大きな生き物は言った。

 声はくぐもっていて、頭に直接語りかけてくる不思議な感覚に、桜子はグラグラと視界を揺らす。
 黒光りする艶のある長い毛に覆われた、大きな大きな犬...いや、狐.....?
 そんな、似ているようでただの犬や狐とは異質の生き物は、今、彼女を押し倒し、ビクともしないものすごい力でのし掛かっていた。

「...わ、わかり、ませ」

 カタカタ震える身体と、血の気が引いて真っ青になった顔、怯えた瞳を向けて答える。
 学院の白い制服、紺色の膝下まであるスカートは土で所々汚れ、長くまっすぐ伸びる美しい黒髪は、森の落ち葉が敷き詰められた地面に扇状にべったり広がっていた。

 桜子の薄桃色の瞳には、自分を喰らわんとする大きな獣が映っている。
 よく見れば、ギラギラ光る中にも、どことなく疲れが浮かぶ目元。肩が上下する荒い呼吸。グッテリと力無く垂れ下がった赤い舌。その獣が弱っているのは、火を見るよりも明らかだった。

 獣はピクと鼻を動かす。

「....なんだ?どうして...体が楽に?」

 ボソリ呟いて、目を見開いている。

「...お主、まさか...『待ち人』か?」

 そして、スッとさらに鼻を寄せてきた。
 首元に濡れた鼻が当たった瞬間、桜子の口から「ひっ」と小さな悲鳴が漏れる。

(た、食べられる....っ)

 ぎゅっと目を瞑り、首元をくんくん嗅ぎ回る気配にじっと耐えた。

「...やはり。...やっと見つけた。今までどこに隠れていたのだ」

 ーー我が『運命の伴侶』よ。


 耳朶にじんわり広がる甘い響き。
 思わず身体の力が解け....目を開けた。

「...う、んめいの...はんりょ....?」

 コクリとひとつ頷くと、大きな獣は仰向けに倒れる桜子をグイッと身体全体を使って起こし、背中に乗せるように掬い上げた。

「あ....っ」

 パタリと再び身体がグラついて、前のめりに倒れた先はふわふわと柔らかな...黒い毛に覆われた大きな背中。
 今度はそこに、うつ伏せに寝そべる形になっている。

 すぐに歩き始める獣の揺れる背中から振り落とされぬよう、桜子は必死にしがみついた。

「.....大丈夫か?.....辛いか?」

「は、はい.....?」

「.....うむ、やはり。そこでは揺れが辛そうだな。ならば.....」

 ーーこれでどうだ?


 ふいに、視界がふわりと高くなり。
 身体が浮く感覚がした。

 わけもわからずキョロキョロ見回せば...今度は太く頑丈な男性の腕に横抱きにされ運ばれている。

 たった今まで、獣のふわふわ柔らかな毛に埋もれていたというのに。

 これは何事かとそろりと見上げた先には...じっと自分を見下ろす紅い双眸があった。

 長く艶やかな黒髪を無造作に後ろで編み、陶器のようにつるりと白い肌に、この世のものと思えぬ妖しく美麗な顔。陽の光が届かぬ薄暗い森の中でも、一際はっきりと輝いている。

 素材の違う黒の布を織り合わせ作り上げられた、袴に似たつくりの服を着ており、足元は草履だった。

 一見、同じ人間だが....
 状況から考えて、先ほどの獣とこの人物はイコールということだろう。

 と、先ほどまで茂った葉に覆い隠されていた空が、顔を出した気配がした。

 空を見上げれば、煌々と輝くまるい満月が見える。
 どうやら、もうすっかり夜になっていたようだ。

(綺麗....)

 夜空の月を背景に、自分を抱える人物。
 まるで、空から降りそそぐ月の粉を全身に纏ったみたいに煌めいている。
 もとから輝いていた姿なのに、今は、より一層輝きを強めていたーー。


「....ん?....これでどうだと、問うておる」

「は、はい.....?」

「.....そうか」

 視線が絡んだ瞬間、その人物はふっと不敵な笑みを浮かべーー。

「...もう逃さん」と呟いた気がしてーー。

 桜子は、ぽうっと彼を見つめた。

 この頃には、獣を恐れていた心など綺麗に消え去っていて、そのまま....力強い腕に身を任せたのだ。
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