25 / 34
二十五話
しおりを挟む
姿は見えなくても、ちゃんと傍にいる理苑に、小さく微笑んでから、再び歩き始めた。
「…大丈夫なの?」
自室に向かう途中で、天井から、八蜘蛛が肩に降り立った。
「なにが?」
「昔の話なかんして」
あの里は、良くない方へと、変わってしまった。
斑尾達が、純粋に哀しみを減らす為に造ったが、欲望に蝕まれた人によって壊され、妖かしの身勝手な行動で、そこに住まい生きた人々に苦痛を与えてしまった。
だが、どんなに隠したとしても、その過去は、決して消えることない事実。
里の未来を担う彼等は、その過去を知り、壊れてしまったものを直し、流れを変えなくてはならない。
「彼らが、その流れを変えられると思えないわ」
「彼らが変えられなくとも、彼らの意志を受け継いで、修螺や雪姫達の世代が、それを成し遂げてくれるかもしれないでしょ?私のように」
その者の時には、変えられなかったことが、何世代も後に産まれた子孫が、それを変えることもある。
そこには、因縁や世継ぎなど、くだらない理由ではなく、ただ純粋に変えたいと願うから、変えようとする。
「彼らだって、それと同じなんじゃないのかな?」
「でも、あの変わり様…彼らに受け入れられるのかしら?」
「受け入れるしかないんだよ。私と同じでね?」
六つの子供が、受け入れたのだ。
長く生きている彼等が、出来ないことはない。
「それに…受け入れられなかった時は、ここに来させないよ」
「どうして?」
「自分で決めた事から、逃げるような人の逃げ場にされたくないし。八蜘蛛も知ってるでしょ?私は、そんなに甘くないよ?」
護符を見せながら、ニッコリ笑うと、八蜘蛛は、喉を鳴らすように笑った。
「お~怖い怖い」
「またまたぁ~。怖くないくせにぃ」
「えぇ。怖くなどないわよ?だって、私達は、お優しい蓮花様を知ってるんだもの」
蜘蛛の姿で、八蜘蛛は、優しく微笑んだ。
「それは、皆も同じでしょ?」
「私達の優しさは、蓮花様にだけよ」
「そう?でも、慈雷夜は、違ったみたいだけどね」
「あれは、素直に言う事を聞くから、優しくしてただけよ」
「なんとも酷い言いようですね?」
逆側の肩に、慈雷夜が、降りて来ると、八蜘蛛は、鼻を鳴らすように笑った。
「でも、ホントの事でしょ?」
「さぁ?お好きにどうぞ」
「八蜘蛛。あの子達が、怪我した時、スゴかったんだよ?」
「あら。そうだったの?」
「さぁ?忘れました」
「またまた~。あの時、全部八つ裂きに…」
「蓮花様」
八蜘蛛と一緒に、ケタケタと声をあげて笑い、部屋の障子を締め、隠していた神酒を引っ張り出した。
「暇だし。付き合ってよ」
八蜘蛛は、人の姿となり、隣に座ると、嬉しそうにグラスを持って、艶やかに笑った。
「いいわよ?」
「やった。慈雷夜は?」
「喜んで」
嬉しそうに微笑んで、グラスを差し出す慈雷夜を見て、八蜘蛛とクスクス笑い、互いのグラスを神酒で満たし、無言で乾杯すると、三人で呑み、退屈な時間を楽しく過ごした。
斑尾達が戻ったのは、深夜になってからだった。
「おかえり~」
ほろ酔い気分で声を掛けると、斑尾は、溜め息を溢して、畳に倒れ込んだ。
「大丈夫ですか?」
その後ろから、理苑と亥鈴も入って来て、斑尾の両脇に、同じように倒れ込んだ。
「こりゃ、がっつやられたね」
斑尾達の様子を苦笑いして、見つめていると、屋根裏から仁刃が現れた。
「本当に凄かったんですよ?」
六人が噛み付くように、斑尾達の話を聞き、現状を話し合い、更に、斑尾達の意見を聞く。
それを繰り返し、最後には、斑尾達の方が、グッタリしていた。
「斑尾が、あの妖狐に押されてる様子は、本当に滑稽でした」
「見てたなら手を貸せ…」
「嫌ですよ」
「なんで、我らだけが、こんな目に…」
「貴殿方が、創造者だからでしょう」
「仕方ないと思っていても、流石に辛い…」
「仕方ないと思うなら、不満を漏らさないで下さい」
斑尾達が、ぐったりしながらも、口々に不満を言い、それを仁刃が、一刀両断する。
ニヤニヤと笑いながら、八蜘蛛と地雷夜と共に、その様子を眺めていた。
「諦めなさい。それが、貴殿方の役目でしょ」
「そうかもしれませんけど…」
「いい加減になさい!!」
仁刃が、怒鳴りながら、白い煙を上げ、人の姿となると、寝転んでいた三人は、驚いて、体を起こした。
「大体、さっきから不満ばかり。日頃から、己を甘やかしているから、そうなるのです。そのくせ、蓮花様ばかりに…」
仁刃の説教が始まり、向かい側で、斑尾達は、背中を丸め、視線を下げ、黙って正座していた。
「なんだかんだで、仁刃と楓雅が、一番まともかもね」
「それは、私らも、まともじゃないって事かしら?」
「そんなことないよ?感覚的にってこと」
「確かに。それはありますね」
三人でグラスを傾け、斑尾達に向かい、それまでの不満を交えながらも、説教を続ける仁刃を見つめた。
「…っとに情けない」
こってり絞られ、無言のまま、ぐったりしてる斑尾達を他所に、仁刃は、また蛇の姿になると、屋根裏に戻ろうとした。
「仁刃」
手招きをすると、首を傾げながらも、膝元までやって来た。
「有り難う」
「何がでしょうか?」
「心配で見てたんでしょ?」
「そんなこと…」
小さな頭を優しく撫でると、気持ち良さそうに、仁刃は目を細めた。
「私が、そう思ってるんだから、それで良いの。ね?」
「…はい」
頭を撫でていると、仁刃は、目を閉じてから、不意に、手を避けて下を向いた。
「蓮花様」
「ん?」
「ほんの少し…甘えても…良いでしょうか」
恥ずかしそうに、白い頬を赤く染める仁刃は、とても可愛らしい。
小さく微笑み、その冷たい体を抱え、優しく背中を撫でると、小さな瞳を細めた。
「…有り難うございます」
腕に頬を擦り寄せ、嬉しそうに、目を閉じる仁刃の表情は、とても愛らしい。
「いつも有り難う」
「いえ。私が、そうしたいだけですから」
優しい時間は安らぎを生み、斑尾達も、幸せそうな仁刃を見つめ、優しく微笑んでいた。
暫くは、雑談をしていたが、疲れていた為、理苑や亥鈴も、一緒に雑魚寝してしまい、自然と目を覚ました時には、出勤時間が、とっくに過ぎていた。
白夜、流青、妃乃環が休みの日は、通常よりも、少し早く出なければならない。
それは、斑尾達も同じだったが、その姿はもういない。
「もう!!なんで起こしてくれないのさ!!」
急いで、シャワーを浴び、濡れた髪も、そのままにして、着替えを終わらせると、廊下を走り抜け、事務所に向かって、全速力で走り抜けた。
「…お…おはよぉ…」
出勤すると、斑尾達は、外回りに行っていて、そこには、紅夜と阿華羽、楓雅と仁刃の四人しかいなかった。
「おはよう。寝坊かい?」
紅夜と阿華羽が、ニヤニヤと笑っている奥で、無表情の楓雅の隣で、仁刃が、頬を赤くして、そっぽを向いた。
「ちょっと!!起こしてくれてもいいでしょ!!」
「いや…あの…ぐっすり寝てらしたので…その…」
「お前。気持ち悪いぞ」
荷物を抱えたまま、モジモジする仁刃に、楓雅は、冷たい視線を向けた。
仁刃は、ニヤニヤしていてる紅夜達の視線を受け、更に、頬の赤みが増し、その場から逃げるように、倉庫の方に消えてしまった。
「…何したの?あれ」
「さぁ?ずっとあんな感じだ。外回り行ってくる」
首を傾げてから、楓雅が、書類を鞄に突っ込んで、事務所から出て行き、二人は、肩を震わせていた。
「…何言ったの」
「別に?特に、何も言ってないさ。ねぇ?」
「あぁ。ただ、珍しいって言っただけね?」
「…二人とも、今日は資料整理」
「はぁ!?」
「どうして…」
「文句ある?」
冷たい視線を向けると、二人は、小さく肩を震わせ、足早に資料庫に消えた。
事務所には、誰も居なくなり、盛大な溜め息をつき、静かに、書類の確認を始めた。
判子を捺し、紙を捲る音だけが響く中、静かに仁刃が倉庫から顔を出し、デスクに戻ると、キーボードを打つ心地良い音が響き始めた。
「仁刃」
後ろに立ったのも分からない程、集中していた仁刃の肩に触れると、その体が、ビクッと大きく揺れ、眼鏡をずらしながら、驚いた顔で振り返った。
「なん…でしょうか…」
「お昼だけど、どうするの?」
時計を指差し、正午になってることを知った仁刃は、眼鏡の位置を直しながら立ち上がった。
「すみませんでした。お昼に…」
「何食べる?」
「…はい?」
「だから、何食べに行く?」
「いえ。一人で…」
「何でも良いなら、近くに新しいお店出来たから、そこ行こうよ」
「蓮花様?私の話を…」
「その呼び方禁止だよ」
現世での仕事中は、様呼びを禁止し、普通の人として、対等に接すると、決めていたが、この時の仁刃は、それすらも、忘れていた。
「あ…すみません…」
「とりあえず、時間がもったいないし。行くよ」
「ちょ!!蓮花さん!?」
仁刃の手を引き、強引に連れ出し、新しく出来たファミレスに向かった。
席に案内され、注文を終わらせてから、視線を向けたると、向かいに座る仁刃は、叱られた子供のように、下を向いたまま、小さくなっていた。
「何したの?」
「いえ。別に…」
「じゃ、顔上げなよ」
そう促しても、仁刃は、顔を上げようとしない。
「紅夜達に、なんか言われた?てか、何言われたの」
「何も…」
「言いなさい。何言われたの」
仁刃は、視線に耐えられなくなり、顔を真っ赤にし、ボソボソと呟いた。
「…斑尾が居るのに…大胆だなと…」
二人は、普段は、決してやらない事をした仁刃をからかっていた。
「昨日は、亥鈴や理苑だっていたじゃん。なんで、仁刃だけが言われるのさ」
「私が一番に部屋を出たので、紅夜達は、それで勘違いをしてるのかと」
「じゃ、そう言えば良いでしょ?」
「言いましたよ…言いましたが、ずっと、あんな感じで」
二人の嫌な笑みと仁刃の様子に、苛立ち始め、大きな溜め息をついた。
その瞬間、下を向いている仁刃が、哀しそうに目を細め、今にも泣き出しそうな顔をした。
「すみません。私の軽率な行動で、ご迷惑を…」
「何が迷惑なの?」
視線を上げた仁刃は、驚いた顔をして、困ったように視線を泳がせた。
「誰が迷惑って言った?誰も言ってないでしょ。紅夜達は、困ってる仁刃を見て、楽しんでるだけ。それに、何も悪い事をしてないんだから、堂々としてなよ」
「でも…甘えては…」
「仁刃。もう昔とは、違うんだよ?」
白蛇は、斑尾達が里を出てから、住み着いた一族で、蛇族を束ねていた為、仁刃も、幼い頃から、その為の教育を受けていた。
両親や周りから、族長となるのだと言われ、その期待が重圧として、小さな背中に掛けられ、他者に甘えることを許されずに生きてきた。
だが、同族に騙され、仁刃は、族長の座を譲り、孤独と哀しみを抱いて、里を飛び出したが、そんな環境で育ち、他者に甘えることも、誰かを頼る方法も分からなかった。
そんな仁刃にとって、外の世界は、とても過酷で、冷たかった。
蛇の姿でいれば、人に追われ、人の姿になれば、何も知らないことを怪しがられ、時には、悪妖に襲われた。
そんな苦しい状況から逃れようと、仁刃は、蛇の姿のまま、車の前に飛び出そうとした。
仁刃が、全てを捨てようとした瞬間、小さな体が抱えられた。
『…離せ…離さぬなら…食い殺すぞ』
妖かしの姿になった仁刃の頬に、優しく触れると、その瞳が大きく揺れた。
『無理しないで良いんだよ?』
一瞬、驚いた顔をしたが、仁刃は、眉を寄せ、牙を剥き出しにした。
『誰にも救って貰えなかったんなら、他の誰かを頼ればいい。諦めないで。必ず、苦しむあなたの手を掴んでくれる人がいる。哀しむあなたを救ってくれる人がいる』
仁刃の口が大きく開かれ、鋭く尖った牙が、首筋に当たるが、肌に刺さることはなかった。
『その誰かに、私を選んで欲しい。私が、あなたの手を引くことを許して欲しい』
小さな傷から、赤い雫が滑り落ちる中、小さく震える背中に腕を回した。
『これが最後。私で最後。もし、あなたが裏切りを感じ、救われないと思った時は、思うがままに、その牙で、この身を貫き、その手で、全てを終わらせればいい』
牙が肌の上を滑り、肩に顔を埋めると、仁刃は、その頬を涙で濡らした。
静かに涙を流す仁刃は、今にも消えてしまいそう程儚かった。
落ち着き始めた仁刃の手を引き、村に連れ帰り、身の上話や事情を聞き、暫くの間、村で過ごさせた。
人の優しさや暖かさを知り、仁刃が、生きることを強く願うようになった。
『私は、貴殿と…あなたと生きたい。あなたと共に生きる時間が欲しい。だから…私の為に…私が生きる為に…あなたの名を…私に下さい…』
その願いを叶える為、式契約を交わした。
だが、式神となっても、仁刃は、誰も頼らずに、一人で、なんとかしようとする時があり、それをやめさせる為、目を掛け、手を掛けた。
最近では、それが薄れ始めたが、たまに、紅夜や阿華羽にからかわれると、また昔に戻ってしまう。
どんなに一人で生きようとしても、その隣には、必ず誰かの存在がある。
目に見えなくとも、そこには、他者と関わり合いがあり、気付かないだけで、互いが互いを頼り、個々の時間を生きる。
それは、この世に生きているモノが、絶対に持ち合わせている。
そうでなくては、この世に生命など生まれない。
その関わりがなくては、この世で、生命は存在出来ない。
「育った環境が、どうであれ、今は、それをする必要がないんだよ?」
仁刃は、目を伏せて、自分の拳を見つめていた。
「てか、楓雅だって、たまに甘えてるんだから、仁刃が、甘えたって良いじゃん」
楓雅も、仁刃と似たような環境で育った為、最初は、甘えようとも、頼ろうともしなかったが、式神となり、少しずつ、頼るようになり、最近では、甘えるようにもなった。
「え!?」
大声が響き、周りの人達から、クスクスと、笑い声が零れると、仁刃は、真っ赤になって、体を小さくした。
そこに、注文した料理が運ばれ、テーブルに並んだ。
「いただきます」
手を合わせてから、食べ始めると、仁刃も、落ち着きを取り戻した。
「楓雅も、甘えてるなんて、知りませんでした」
「そらそうだよ。誰にもバレないようにしてるみたいだから」
モグモグと、口を動かしながらも、仁刃は、驚いた顔をした。
「どうやってですか?」
「楓雅が休みの前日に、たまに、手紙で呼び出されるんだよね。あっちから来ればいいのに」
眉間にシワを寄せると、仁刃の頬が緩んだ。
「彼は、そんな風にしてたんですね」
「そうだよ。だから、仁刃も、たまには、甘えても良いんだよ。ね?」
「…はい」
優しく目を細めて、仁刃は、頬を赤らめ、安心したように微笑んだ。
「ところでさ。眼鏡、変えたら?度、合ってないでしょ」
「でも、これは…」
村での生活の中で、仁刃は、キツい目付きを気にしていた。
契約を交わした時、それを隠せるようにと贈った眼鏡は、大切な記憶と共にある宝物なのだ。
仁刃は、眼鏡に触れ、眉尻を下げた。
「じゃ、今度、新しいの買いに行こうよ。ね?」
「…はい」
瞳を輝かせ、嬉しそうに微笑んだ仁刃に、微笑みを返し、珈琲を飲みながら、穏やかな時間を過ごした。
優しい時間に、ゆっくりし過ぎ、休憩時間は、とっくに過ぎていた。
急いで、事務所に戻ると、外回りに出ていた楓雅達が、もう戻っていて、デスクで作業をしていた。
待ってる
デスクに、四つ折りの置き手紙には、楓雅の字で、それだけが書かれていた。
見た目に似合わず、可愛らしい字を書く楓雅は、パソコンに向かって、真面目な顔をしていた。
その横顔を盗み見てから、誰にもバレないように、小さく微笑んで、仕事を再開した。
その日の真夜中。
誰もが眠りに落ち、静かになってから、楓雅と会う為、自宅の裏にある林を歩いていた。
「楓雅」
木の上で夜空に顔を向け、目を閉じていた楓雅は、静かに視線を向けると、嬉しそうに微笑み、黒い翼を広げた。
目の前に降り立ちながら、抱き付き、胸いっぱいに息を吸い込み、ゆっくりと息を吐き出すと、安心したように、髪に頬擦りした。
「…百合だ…」
その香りに、リラックスした楓雅は、白い煙を上げ、真っ黒の着物に身を包み、その首には、古い首飾りを着けていた。
本で見るような天狗の姿と少し違い、長い刀を腰にぶら下げ、妖かしの姿に変わった楓雅の腕に力が入り、引き寄せるように、きつく抱き締められた。
「…く…苦し…」
その時、懐から小さな声が聞こえ、楓雅は、驚きで、後ろに飛び退き、刀に触れて身構えた。
その様子が、おかしくて、ケタケタと声をあげて笑うと、楓雅の眉間にシワが寄った。
「ごめんごめん。今日は、もう一人連れて来たの。出ておいで」
懐を見下ろし、仁刃が顔を出すと、楓雅は、目を大きくさせた。
「…なんで…」
「実はね?昼間のアレのことで、色々あったらしくてさ。ね?」
仁刃が昼間のことを説明すると、楓雅は、状況が理解出来たようで、腕を組んで溜め息をついた。
「それは、災難だったな」
「二人には、八蜘蛛と亥鈴に言って、キツくお灸を据えてもらったけど、あの二人の事だから」
「暫く言われるだろうな」
人の姿になっていた仁刃が、ガクンと肩を落とし、その背中を擦ると、楓雅は、頭を乱暴に掻いた。
「それで連れて来たのか」
「楓雅には、悪いと思ったけどね?仁刃は、まだ昔のクセが抜けないから。少し、話でもって思ってさ」
木の根に座り、うつ向く仁刃を見下ろし、楓雅は、小さな溜め息をつきながら隣に座った。
「俺で良いのか?」
「…はい。是非」
嬉しそうに頬を染め、目を細めた仁刃と楓雅に挟まれ、二人の話を静かに聞いていた。
最初は、普通に話をしていたが、蛇と鳥の姿になった二人が、大きなアクビをした。
「おいで」
腕を広げると、二人共、遠慮がちに膝に頬を寄せた。
そんな二人を抱き上げ、膝の上に乗せて、その頭を優しく撫でると、嬉しそうに目を細め、頬擦りをしていたが、小さな寝息を発て、寝てしまった。
愛らしい二人を起こさないように、足音を消し、自室に戻ると、斑尾の寝ている腹に、頭を乗せ、二人を抱えて横になり、静かに目を閉じた。
朝日で目を覚ました二人は、静かに、障子を開け、周囲を確認してから、縁側に出ると、それぞれの寝床に向かい姿を消した。
哀しいことに、その日も寝坊した。
「起こしてよ!!」
「良い年して、何言ってんだ。いい加減自分で起きろ」
「だからって置いてかないでよ!!」
「ならちゃんと起きろ」
「起きてないなら起こしてよ!!」
「起きれないなら、目覚ましでも買え」
「斑尾が壊したんじゃん!!」
「知らん」
斑尾との不毛な言い合いが始まると、皆は、笑いながら仕事を始めた。
その後も、変わらない平和な日々を過ごしていると、篠からの手紙が届き、次の日に、皇牙に連れられて、里を訪れた。
「篠。戻ったよ」
目の前の障子を開け、皇牙に続くと、篠は、多くの紙を手にして、真剣な顔をしていた。
「皇牙様。お待ちしてました」
「篠。あの話って、本当なの?」
手紙には、斬島を捕まえていた牢屋の壁が、破壊されていた事が書かれていた。
「はい。昨夜までは、確認できてるんですが、今朝には、いなくなっておりました」
真夜中に、外から牢屋を壊したのだろうが、それだけなら、別に問題はない。
その壁の壊れ方が、問題なのだ。
「その牢屋を見せてもらえますか?」
「分かった。こっちだ」
篠に連れられ、里の外れ、蔵のような造りの牢屋が現れ、その裏側には、人一人が通れるくらいの穴が空いていた。
周囲の壁と比べると、穴が空いている部分は、長い年月が過ぎたように、とても脆く、朽ち果ててしまったかのようだ。
皇牙と篠が話をしてる間、入ったり、出たりを繰り返し、その床や壁に触れてみる。
「何してるの?」
「何かないかなって」
「もう調べてある。何も見付からなかった」
「篠。蓮花ちゃんが、探してるのは、ちょっと違うと思うよ?」
「どうゆう事ですか?」
「多分、残像かなんかだと思う」
この世に存在するものには、それぞれの記憶がある。
記憶は、そこに生きる生命が、持ち合わせている。
靴や服、花や土など、言葉を発せなくとも、そこには、各々の記憶があり、言葉を発するものは、それを残像と呼ぶこともある。
皇牙の言う残像が、ここに生きる生命達の記憶のことならば、その通りなのだが、多くの妖かしが、行き交うばかりで、肝心の壊れた瞬間が見当たらない。
不意に、足元の小石に視線を落とし、それを拾い上げた瞬間、その記憶が浮かび上がった。
暗闇から手が翳され、壁に小さな亀裂が走り、脆くなった壁が、自らの重みで崩れ落ちると、黒々とした影が、グッタリした斬島を引きずり出し、暗闇の中に消えた。
「…あの、手首に着けてる縄って、なんですか?」
その手首に縄が掛けられてるだけで、グッタリしてる斬島に、首を傾げた。
「もしかして、妖力を封じる縄の事かな?」
「それ、見せてもらえますか?」
驚いた顔をし、視線を合わせた二人に連れられ、保管されている所に向かい、壁に吊るされいる縄を見つめた。
「触っても良いですか?」
「あぁ」
一本に、指先だけで触れ、すぐに離した。
「これ。やめた方がいいですね」
「どうして?」
「月蝶の力が、込められてるからです」
縄は、身に着けた者の力を吸収し、月蝶に流れ込む仕組みになっていたが、練り込まれた力が微かな為、力を封じていると勘違いされいた。
「力が強ければ強い程、早く吸収するようになってるみたいです」
「だからか…」
「思い当たる事でも?」
この縄を掛けてから、力を失ったように、斬島の妖力が感じられなくなった。
最初は、気にも止めていなかったが、数日前から、座っていることも出来なくなり、呼吸も弱まり始めていた。
流石に、おかしいことに気付き、それを調べようとしていた矢先、この事件が起きた。
「…つまりは、月蝶が、この仕組みが知られる前に、使えそうな妖かしを連れ出そうと考え、それが斬馬だった」
「あの人、本当は、斬馬っていうんですね」
「でも、困った事になったね」
皇牙は、然程、困っていないように見えたが、篠は、困ったように、眉尻を下げ、腕組みをした。
「どうしてです?」
「この縄を使ってるのは、ここだけじゃないんだよ」
この里では、昔から悪妖や罪人を捕まえると、この縄を掛けて、牢屋に入れていた。
「里全体で使ってるんですか?」
「そう。ほとんどの牢屋が、こうゆう造りだから、簡単に逃げられちゃうんだよね」
「そうなんですね。ってことは、これに代わる物があれば、やめても大丈夫なんですよね?」
「まぁね」
「だが、そんなモノは…」
「ありますよ?」
袂から護符を取り出し、近くの壁に貼ると、二人は首を傾げた。
「壁を触ってみて下さい」
疑いの目を向けながら、篠が、その壁に手を着くと、大きな音を発てて、床に座り込んだ。
「篠!?どうしたの!?」
「…急に…力が…」
「何言ってんの?ただ壁に触っただけでしょ?」
「皇牙さんも、触ってみれば良いんじゃないですか?」
壁を指差すと、皇牙は、床近くの壁に手を伸ばした。
指先が触れると、驚いた顔で、篠と視線を合わせた。
「これ、貼った所を中心に、力を吸収することが出来るんですよ」
成長する過程で、力のバランスが保てなくなり、多くの活力を吸収し、更に、多くの力を放出するようになってしまい、それが、周囲にまで影響を及ぼした時期があり、それを制御する為に、この護符を作った。
「因みに、貼った裏側には、なんの影響もありませんし、そっち側から、力の譲渡も出来ないようになってます。牢屋の上下、左右の四隅に貼ったら、逃げ出せないと思いますよ?」
護符を剥がして、ヒラヒラと揺らしながら、説明すると、立ち上がった二人は、また首を傾げた。
「剥がされたらどうする」
「直接触ったら、倒れますよ?」
自身の力を吸収させ、周りからの活力を減少させることで、無意識でも、そのバランスが保てるようする為に作った護符は、妖かしが触れれば、多くの妖力を奪われ、意識を失ってしまう可能性もある。
「貼る時は、厚手の手袋を何枚か重ねれば、大丈夫だと思います」
「そうか」
「濡れたら?」
「雨や水、汗やお湯などで濡れても、なんの問題もありませんが、大量の血で濡れた場合、効力が失われます」
「どうして?」
血が大量に流れ出るということは、生命の危機が迫っている状態にある。
そんな時に、その生命を維持出来るように、護符の効力が消えるように、試行錯誤した。
「そうなんだ。結構、便利なんだね」
「これを使って死んでたら、元も子もないですからね。もし、必要なら用意しますけど。どうしますか?」
「ここの修繕は、どれくらいで終る?」
「一週間です」
「三日で終わらせられない?」
「…分かりました。やってみます」
「よし。蓮花ちゃん。一旦帰ろう」
「そうですね。皆さんにも、話さなきゃないですしね。それでは」
篠に別れを告げ、すぐに里を出ると、自宅に向かい、大地を走る皇牙を追うようにして、木の上を移動した。
「蓮花ちゃん。大丈夫?辛い?」
別に辛い訳じゃなかったが、枝の細さに気を取られ、普段よりも、早く動けず、皇牙から、離れてしまっていた。
皇牙の前に降り立つと、眉を寄せて、苦笑いを浮かべた。
「少し」
「この辺は、手入れされてないから、当然だよね」
「ですよね。仕方ないから走ります」
「大丈夫?」
普通の人よりも早く走れるが、妖かしの皇牙と比べたら、天と地の差がある。
しかも、狼の妖かしの皇牙は、他の妖かしよりも更に速い。
「蓮花ちゃん。乗って」
目の前に屈み、皇牙は、背中を見せた。
「大丈夫です。早く行きましょう」
横を通り過ぎ、少し先で、振り返ると、皇牙は、淋しそうな顔をしていた。
「分かった。でも、無理しないで、辛くなったら言うんだよ?」
そこからは、鬱蒼と生い茂る木々を避けながら、必死に、足を動かしたが、呼吸が、すぐに上がってしまった。
「大丈夫?」
先を行く皇牙は、まだまだ余裕がある。
これが、人と妖かしの差なのだ。
「ホントに大丈夫?」
並ぶ皇牙に、返事を返そうとしても、声すら出なくなっていた。
「…蓮花ちゃん。ゴメン」
走りながら抱えられ、皇牙は、一気にスピードを上げた。
「怖いなら、目つぶってて」
目の前にある皇牙の顔を見つめ、その声は聞こえなかった。
斑尾達以外に、抱えられたことがなく、どうしたら良いか分からず、そのまま、大人しくしてると、すぐに自宅に着いた。
「…このまま、中まで行く?」
「お降ります!!」
その速さと乗り心地の良さに驚いて、ボーっとしていると、満面の笑みで視線を向けられ、慌てて降り立ち、季麗達を皇牙に任せ、佐久に電話した。
「…ってことで、私の部屋にあるはずだから、集めといてもらっていい?」
「分かった。準備しとく」
「有り難う。斑尾が行くから」
「分かった」
残して来た護符を集めてくれるように頼み、すぐに斑尾に向かわせ、持ち帰った護符を皇牙に渡した。
「ごめんなさい。これしか用意出来なくて」
あまり作っていなかったこともあり、百枚程しかない。
「大丈夫。これだけあれば、なんとかなるよ」
「皇牙。里に戻るぞ」
「あぁ」
渡した護符を持って、季麗達が、里に戻って行く背中を見送った。
「斑尾」
「準備は整ってる」
斑尾達は、もう行動を起こしていた。
「急ぐぞ」
「…ありがと」
急いで、寺の奥に向かい、行き止まりの何もない壁に、五芒星を描き、胸の前で手を叩くと、強い光が放たれた。
五芒星の中央を押すと、観音扉のように、壁が大きく開かれ、真っ暗な闇が広がっていた。
誰もが、躊躇ってしまいそうな程の闇に、迷う事なく入ると、開かれていた扉は、後ろで、重たい音を発てて閉じられた。
足元を風がすり抜け、パチンと指を鳴らし、部屋の中央に置かれたロウソクに火が灯り、揺らめく光で、部屋の中が、浮かび上がった。
巻物や壁掛けなど、装飾品の一切がなく、床にロウソクが、円形に置かれただけの部屋。
その中心には、佐久と作った貴重な墨、斑尾を織り混ぜた筆、妃乃環と力を宿らせた和紙が、綺麗に並べられ、正装した亥鈴と理苑が待っていた。
「やるよ」
「御意」
それから、新たに護符を作り始め、夜が明けるまで、その部屋に籠った。
「頼む」
「あぁ」
出来上がった護符を斑尾が、楓雅に渡し、里に向かって飛び立った。
「本当に、手が掛かる」
「仕方ないだろ」
「そうですよ。これが、斑尾の役目でしょ」
笑い声を夜空に響かせ、亥鈴と理苑は、それぞれの寝床に戻り、斑尾も、いつも通りに、頭を抱えるようにして眠りに落ちた。
護符を里に持ち帰ると、すぐに朱雀達が出て来た。
「季麗様!!大変です!!八百音が!!」
斬島が居なくなった後、その他の者達も、同じように消えてしまった。
「今、総力を上げて…」
「呼び戻せ」
月蝶が絡んでいるとなれば、捜索に出向いた妖かしが、餌食になってしまうかもしれない。
「…分かりました。すぐに呼び戻します」
「呼び戻したら、修繕に回して」
「はい」
朱雀達が走り去るのを見送り、季麗達は、それぞれの牢屋に向かうと、そこにいた妖かしと共に、四隅に護符を貼り、悪妖の縄を外して回った。
縄を回収し終えた時、捜索に出ていた妖かし達を連れ、朱雀達が戻り、壊れた壁の修繕に取り掛かった。
それぞれの場所で、修繕や改装に追われながらも、それぞれの現状確認をしていた季麗達の前に、楓雅が、半妖の姿で現れ、無言で、新しい護符を渡すと、すぐに飛び去った。
「無愛想な奴」
「仕方ないだろ」
「構ってる余裕もありませんし」
「そうだな」
空に向かって苦笑いしていると、遠くから、風に乗り、甘く淡い香りが鼻先を掠めて、静かに消えた。
「…大丈夫なの?」
自室に向かう途中で、天井から、八蜘蛛が肩に降り立った。
「なにが?」
「昔の話なかんして」
あの里は、良くない方へと、変わってしまった。
斑尾達が、純粋に哀しみを減らす為に造ったが、欲望に蝕まれた人によって壊され、妖かしの身勝手な行動で、そこに住まい生きた人々に苦痛を与えてしまった。
だが、どんなに隠したとしても、その過去は、決して消えることない事実。
里の未来を担う彼等は、その過去を知り、壊れてしまったものを直し、流れを変えなくてはならない。
「彼らが、その流れを変えられると思えないわ」
「彼らが変えられなくとも、彼らの意志を受け継いで、修螺や雪姫達の世代が、それを成し遂げてくれるかもしれないでしょ?私のように」
その者の時には、変えられなかったことが、何世代も後に産まれた子孫が、それを変えることもある。
そこには、因縁や世継ぎなど、くだらない理由ではなく、ただ純粋に変えたいと願うから、変えようとする。
「彼らだって、それと同じなんじゃないのかな?」
「でも、あの変わり様…彼らに受け入れられるのかしら?」
「受け入れるしかないんだよ。私と同じでね?」
六つの子供が、受け入れたのだ。
長く生きている彼等が、出来ないことはない。
「それに…受け入れられなかった時は、ここに来させないよ」
「どうして?」
「自分で決めた事から、逃げるような人の逃げ場にされたくないし。八蜘蛛も知ってるでしょ?私は、そんなに甘くないよ?」
護符を見せながら、ニッコリ笑うと、八蜘蛛は、喉を鳴らすように笑った。
「お~怖い怖い」
「またまたぁ~。怖くないくせにぃ」
「えぇ。怖くなどないわよ?だって、私達は、お優しい蓮花様を知ってるんだもの」
蜘蛛の姿で、八蜘蛛は、優しく微笑んだ。
「それは、皆も同じでしょ?」
「私達の優しさは、蓮花様にだけよ」
「そう?でも、慈雷夜は、違ったみたいだけどね」
「あれは、素直に言う事を聞くから、優しくしてただけよ」
「なんとも酷い言いようですね?」
逆側の肩に、慈雷夜が、降りて来ると、八蜘蛛は、鼻を鳴らすように笑った。
「でも、ホントの事でしょ?」
「さぁ?お好きにどうぞ」
「八蜘蛛。あの子達が、怪我した時、スゴかったんだよ?」
「あら。そうだったの?」
「さぁ?忘れました」
「またまた~。あの時、全部八つ裂きに…」
「蓮花様」
八蜘蛛と一緒に、ケタケタと声をあげて笑い、部屋の障子を締め、隠していた神酒を引っ張り出した。
「暇だし。付き合ってよ」
八蜘蛛は、人の姿となり、隣に座ると、嬉しそうにグラスを持って、艶やかに笑った。
「いいわよ?」
「やった。慈雷夜は?」
「喜んで」
嬉しそうに微笑んで、グラスを差し出す慈雷夜を見て、八蜘蛛とクスクス笑い、互いのグラスを神酒で満たし、無言で乾杯すると、三人で呑み、退屈な時間を楽しく過ごした。
斑尾達が戻ったのは、深夜になってからだった。
「おかえり~」
ほろ酔い気分で声を掛けると、斑尾は、溜め息を溢して、畳に倒れ込んだ。
「大丈夫ですか?」
その後ろから、理苑と亥鈴も入って来て、斑尾の両脇に、同じように倒れ込んだ。
「こりゃ、がっつやられたね」
斑尾達の様子を苦笑いして、見つめていると、屋根裏から仁刃が現れた。
「本当に凄かったんですよ?」
六人が噛み付くように、斑尾達の話を聞き、現状を話し合い、更に、斑尾達の意見を聞く。
それを繰り返し、最後には、斑尾達の方が、グッタリしていた。
「斑尾が、あの妖狐に押されてる様子は、本当に滑稽でした」
「見てたなら手を貸せ…」
「嫌ですよ」
「なんで、我らだけが、こんな目に…」
「貴殿方が、創造者だからでしょう」
「仕方ないと思っていても、流石に辛い…」
「仕方ないと思うなら、不満を漏らさないで下さい」
斑尾達が、ぐったりしながらも、口々に不満を言い、それを仁刃が、一刀両断する。
ニヤニヤと笑いながら、八蜘蛛と地雷夜と共に、その様子を眺めていた。
「諦めなさい。それが、貴殿方の役目でしょ」
「そうかもしれませんけど…」
「いい加減になさい!!」
仁刃が、怒鳴りながら、白い煙を上げ、人の姿となると、寝転んでいた三人は、驚いて、体を起こした。
「大体、さっきから不満ばかり。日頃から、己を甘やかしているから、そうなるのです。そのくせ、蓮花様ばかりに…」
仁刃の説教が始まり、向かい側で、斑尾達は、背中を丸め、視線を下げ、黙って正座していた。
「なんだかんだで、仁刃と楓雅が、一番まともかもね」
「それは、私らも、まともじゃないって事かしら?」
「そんなことないよ?感覚的にってこと」
「確かに。それはありますね」
三人でグラスを傾け、斑尾達に向かい、それまでの不満を交えながらも、説教を続ける仁刃を見つめた。
「…っとに情けない」
こってり絞られ、無言のまま、ぐったりしてる斑尾達を他所に、仁刃は、また蛇の姿になると、屋根裏に戻ろうとした。
「仁刃」
手招きをすると、首を傾げながらも、膝元までやって来た。
「有り難う」
「何がでしょうか?」
「心配で見てたんでしょ?」
「そんなこと…」
小さな頭を優しく撫でると、気持ち良さそうに、仁刃は目を細めた。
「私が、そう思ってるんだから、それで良いの。ね?」
「…はい」
頭を撫でていると、仁刃は、目を閉じてから、不意に、手を避けて下を向いた。
「蓮花様」
「ん?」
「ほんの少し…甘えても…良いでしょうか」
恥ずかしそうに、白い頬を赤く染める仁刃は、とても可愛らしい。
小さく微笑み、その冷たい体を抱え、優しく背中を撫でると、小さな瞳を細めた。
「…有り難うございます」
腕に頬を擦り寄せ、嬉しそうに、目を閉じる仁刃の表情は、とても愛らしい。
「いつも有り難う」
「いえ。私が、そうしたいだけですから」
優しい時間は安らぎを生み、斑尾達も、幸せそうな仁刃を見つめ、優しく微笑んでいた。
暫くは、雑談をしていたが、疲れていた為、理苑や亥鈴も、一緒に雑魚寝してしまい、自然と目を覚ました時には、出勤時間が、とっくに過ぎていた。
白夜、流青、妃乃環が休みの日は、通常よりも、少し早く出なければならない。
それは、斑尾達も同じだったが、その姿はもういない。
「もう!!なんで起こしてくれないのさ!!」
急いで、シャワーを浴び、濡れた髪も、そのままにして、着替えを終わらせると、廊下を走り抜け、事務所に向かって、全速力で走り抜けた。
「…お…おはよぉ…」
出勤すると、斑尾達は、外回りに行っていて、そこには、紅夜と阿華羽、楓雅と仁刃の四人しかいなかった。
「おはよう。寝坊かい?」
紅夜と阿華羽が、ニヤニヤと笑っている奥で、無表情の楓雅の隣で、仁刃が、頬を赤くして、そっぽを向いた。
「ちょっと!!起こしてくれてもいいでしょ!!」
「いや…あの…ぐっすり寝てらしたので…その…」
「お前。気持ち悪いぞ」
荷物を抱えたまま、モジモジする仁刃に、楓雅は、冷たい視線を向けた。
仁刃は、ニヤニヤしていてる紅夜達の視線を受け、更に、頬の赤みが増し、その場から逃げるように、倉庫の方に消えてしまった。
「…何したの?あれ」
「さぁ?ずっとあんな感じだ。外回り行ってくる」
首を傾げてから、楓雅が、書類を鞄に突っ込んで、事務所から出て行き、二人は、肩を震わせていた。
「…何言ったの」
「別に?特に、何も言ってないさ。ねぇ?」
「あぁ。ただ、珍しいって言っただけね?」
「…二人とも、今日は資料整理」
「はぁ!?」
「どうして…」
「文句ある?」
冷たい視線を向けると、二人は、小さく肩を震わせ、足早に資料庫に消えた。
事務所には、誰も居なくなり、盛大な溜め息をつき、静かに、書類の確認を始めた。
判子を捺し、紙を捲る音だけが響く中、静かに仁刃が倉庫から顔を出し、デスクに戻ると、キーボードを打つ心地良い音が響き始めた。
「仁刃」
後ろに立ったのも分からない程、集中していた仁刃の肩に触れると、その体が、ビクッと大きく揺れ、眼鏡をずらしながら、驚いた顔で振り返った。
「なん…でしょうか…」
「お昼だけど、どうするの?」
時計を指差し、正午になってることを知った仁刃は、眼鏡の位置を直しながら立ち上がった。
「すみませんでした。お昼に…」
「何食べる?」
「…はい?」
「だから、何食べに行く?」
「いえ。一人で…」
「何でも良いなら、近くに新しいお店出来たから、そこ行こうよ」
「蓮花様?私の話を…」
「その呼び方禁止だよ」
現世での仕事中は、様呼びを禁止し、普通の人として、対等に接すると、決めていたが、この時の仁刃は、それすらも、忘れていた。
「あ…すみません…」
「とりあえず、時間がもったいないし。行くよ」
「ちょ!!蓮花さん!?」
仁刃の手を引き、強引に連れ出し、新しく出来たファミレスに向かった。
席に案内され、注文を終わらせてから、視線を向けたると、向かいに座る仁刃は、叱られた子供のように、下を向いたまま、小さくなっていた。
「何したの?」
「いえ。別に…」
「じゃ、顔上げなよ」
そう促しても、仁刃は、顔を上げようとしない。
「紅夜達に、なんか言われた?てか、何言われたの」
「何も…」
「言いなさい。何言われたの」
仁刃は、視線に耐えられなくなり、顔を真っ赤にし、ボソボソと呟いた。
「…斑尾が居るのに…大胆だなと…」
二人は、普段は、決してやらない事をした仁刃をからかっていた。
「昨日は、亥鈴や理苑だっていたじゃん。なんで、仁刃だけが言われるのさ」
「私が一番に部屋を出たので、紅夜達は、それで勘違いをしてるのかと」
「じゃ、そう言えば良いでしょ?」
「言いましたよ…言いましたが、ずっと、あんな感じで」
二人の嫌な笑みと仁刃の様子に、苛立ち始め、大きな溜め息をついた。
その瞬間、下を向いている仁刃が、哀しそうに目を細め、今にも泣き出しそうな顔をした。
「すみません。私の軽率な行動で、ご迷惑を…」
「何が迷惑なの?」
視線を上げた仁刃は、驚いた顔をして、困ったように視線を泳がせた。
「誰が迷惑って言った?誰も言ってないでしょ。紅夜達は、困ってる仁刃を見て、楽しんでるだけ。それに、何も悪い事をしてないんだから、堂々としてなよ」
「でも…甘えては…」
「仁刃。もう昔とは、違うんだよ?」
白蛇は、斑尾達が里を出てから、住み着いた一族で、蛇族を束ねていた為、仁刃も、幼い頃から、その為の教育を受けていた。
両親や周りから、族長となるのだと言われ、その期待が重圧として、小さな背中に掛けられ、他者に甘えることを許されずに生きてきた。
だが、同族に騙され、仁刃は、族長の座を譲り、孤独と哀しみを抱いて、里を飛び出したが、そんな環境で育ち、他者に甘えることも、誰かを頼る方法も分からなかった。
そんな仁刃にとって、外の世界は、とても過酷で、冷たかった。
蛇の姿でいれば、人に追われ、人の姿になれば、何も知らないことを怪しがられ、時には、悪妖に襲われた。
そんな苦しい状況から逃れようと、仁刃は、蛇の姿のまま、車の前に飛び出そうとした。
仁刃が、全てを捨てようとした瞬間、小さな体が抱えられた。
『…離せ…離さぬなら…食い殺すぞ』
妖かしの姿になった仁刃の頬に、優しく触れると、その瞳が大きく揺れた。
『無理しないで良いんだよ?』
一瞬、驚いた顔をしたが、仁刃は、眉を寄せ、牙を剥き出しにした。
『誰にも救って貰えなかったんなら、他の誰かを頼ればいい。諦めないで。必ず、苦しむあなたの手を掴んでくれる人がいる。哀しむあなたを救ってくれる人がいる』
仁刃の口が大きく開かれ、鋭く尖った牙が、首筋に当たるが、肌に刺さることはなかった。
『その誰かに、私を選んで欲しい。私が、あなたの手を引くことを許して欲しい』
小さな傷から、赤い雫が滑り落ちる中、小さく震える背中に腕を回した。
『これが最後。私で最後。もし、あなたが裏切りを感じ、救われないと思った時は、思うがままに、その牙で、この身を貫き、その手で、全てを終わらせればいい』
牙が肌の上を滑り、肩に顔を埋めると、仁刃は、その頬を涙で濡らした。
静かに涙を流す仁刃は、今にも消えてしまいそう程儚かった。
落ち着き始めた仁刃の手を引き、村に連れ帰り、身の上話や事情を聞き、暫くの間、村で過ごさせた。
人の優しさや暖かさを知り、仁刃が、生きることを強く願うようになった。
『私は、貴殿と…あなたと生きたい。あなたと共に生きる時間が欲しい。だから…私の為に…私が生きる為に…あなたの名を…私に下さい…』
その願いを叶える為、式契約を交わした。
だが、式神となっても、仁刃は、誰も頼らずに、一人で、なんとかしようとする時があり、それをやめさせる為、目を掛け、手を掛けた。
最近では、それが薄れ始めたが、たまに、紅夜や阿華羽にからかわれると、また昔に戻ってしまう。
どんなに一人で生きようとしても、その隣には、必ず誰かの存在がある。
目に見えなくとも、そこには、他者と関わり合いがあり、気付かないだけで、互いが互いを頼り、個々の時間を生きる。
それは、この世に生きているモノが、絶対に持ち合わせている。
そうでなくては、この世に生命など生まれない。
その関わりがなくては、この世で、生命は存在出来ない。
「育った環境が、どうであれ、今は、それをする必要がないんだよ?」
仁刃は、目を伏せて、自分の拳を見つめていた。
「てか、楓雅だって、たまに甘えてるんだから、仁刃が、甘えたって良いじゃん」
楓雅も、仁刃と似たような環境で育った為、最初は、甘えようとも、頼ろうともしなかったが、式神となり、少しずつ、頼るようになり、最近では、甘えるようにもなった。
「え!?」
大声が響き、周りの人達から、クスクスと、笑い声が零れると、仁刃は、真っ赤になって、体を小さくした。
そこに、注文した料理が運ばれ、テーブルに並んだ。
「いただきます」
手を合わせてから、食べ始めると、仁刃も、落ち着きを取り戻した。
「楓雅も、甘えてるなんて、知りませんでした」
「そらそうだよ。誰にもバレないようにしてるみたいだから」
モグモグと、口を動かしながらも、仁刃は、驚いた顔をした。
「どうやってですか?」
「楓雅が休みの前日に、たまに、手紙で呼び出されるんだよね。あっちから来ればいいのに」
眉間にシワを寄せると、仁刃の頬が緩んだ。
「彼は、そんな風にしてたんですね」
「そうだよ。だから、仁刃も、たまには、甘えても良いんだよ。ね?」
「…はい」
優しく目を細めて、仁刃は、頬を赤らめ、安心したように微笑んだ。
「ところでさ。眼鏡、変えたら?度、合ってないでしょ」
「でも、これは…」
村での生活の中で、仁刃は、キツい目付きを気にしていた。
契約を交わした時、それを隠せるようにと贈った眼鏡は、大切な記憶と共にある宝物なのだ。
仁刃は、眼鏡に触れ、眉尻を下げた。
「じゃ、今度、新しいの買いに行こうよ。ね?」
「…はい」
瞳を輝かせ、嬉しそうに微笑んだ仁刃に、微笑みを返し、珈琲を飲みながら、穏やかな時間を過ごした。
優しい時間に、ゆっくりし過ぎ、休憩時間は、とっくに過ぎていた。
急いで、事務所に戻ると、外回りに出ていた楓雅達が、もう戻っていて、デスクで作業をしていた。
待ってる
デスクに、四つ折りの置き手紙には、楓雅の字で、それだけが書かれていた。
見た目に似合わず、可愛らしい字を書く楓雅は、パソコンに向かって、真面目な顔をしていた。
その横顔を盗み見てから、誰にもバレないように、小さく微笑んで、仕事を再開した。
その日の真夜中。
誰もが眠りに落ち、静かになってから、楓雅と会う為、自宅の裏にある林を歩いていた。
「楓雅」
木の上で夜空に顔を向け、目を閉じていた楓雅は、静かに視線を向けると、嬉しそうに微笑み、黒い翼を広げた。
目の前に降り立ちながら、抱き付き、胸いっぱいに息を吸い込み、ゆっくりと息を吐き出すと、安心したように、髪に頬擦りした。
「…百合だ…」
その香りに、リラックスした楓雅は、白い煙を上げ、真っ黒の着物に身を包み、その首には、古い首飾りを着けていた。
本で見るような天狗の姿と少し違い、長い刀を腰にぶら下げ、妖かしの姿に変わった楓雅の腕に力が入り、引き寄せるように、きつく抱き締められた。
「…く…苦し…」
その時、懐から小さな声が聞こえ、楓雅は、驚きで、後ろに飛び退き、刀に触れて身構えた。
その様子が、おかしくて、ケタケタと声をあげて笑うと、楓雅の眉間にシワが寄った。
「ごめんごめん。今日は、もう一人連れて来たの。出ておいで」
懐を見下ろし、仁刃が顔を出すと、楓雅は、目を大きくさせた。
「…なんで…」
「実はね?昼間のアレのことで、色々あったらしくてさ。ね?」
仁刃が昼間のことを説明すると、楓雅は、状況が理解出来たようで、腕を組んで溜め息をついた。
「それは、災難だったな」
「二人には、八蜘蛛と亥鈴に言って、キツくお灸を据えてもらったけど、あの二人の事だから」
「暫く言われるだろうな」
人の姿になっていた仁刃が、ガクンと肩を落とし、その背中を擦ると、楓雅は、頭を乱暴に掻いた。
「それで連れて来たのか」
「楓雅には、悪いと思ったけどね?仁刃は、まだ昔のクセが抜けないから。少し、話でもって思ってさ」
木の根に座り、うつ向く仁刃を見下ろし、楓雅は、小さな溜め息をつきながら隣に座った。
「俺で良いのか?」
「…はい。是非」
嬉しそうに頬を染め、目を細めた仁刃と楓雅に挟まれ、二人の話を静かに聞いていた。
最初は、普通に話をしていたが、蛇と鳥の姿になった二人が、大きなアクビをした。
「おいで」
腕を広げると、二人共、遠慮がちに膝に頬を寄せた。
そんな二人を抱き上げ、膝の上に乗せて、その頭を優しく撫でると、嬉しそうに目を細め、頬擦りをしていたが、小さな寝息を発て、寝てしまった。
愛らしい二人を起こさないように、足音を消し、自室に戻ると、斑尾の寝ている腹に、頭を乗せ、二人を抱えて横になり、静かに目を閉じた。
朝日で目を覚ました二人は、静かに、障子を開け、周囲を確認してから、縁側に出ると、それぞれの寝床に向かい姿を消した。
哀しいことに、その日も寝坊した。
「起こしてよ!!」
「良い年して、何言ってんだ。いい加減自分で起きろ」
「だからって置いてかないでよ!!」
「ならちゃんと起きろ」
「起きてないなら起こしてよ!!」
「起きれないなら、目覚ましでも買え」
「斑尾が壊したんじゃん!!」
「知らん」
斑尾との不毛な言い合いが始まると、皆は、笑いながら仕事を始めた。
その後も、変わらない平和な日々を過ごしていると、篠からの手紙が届き、次の日に、皇牙に連れられて、里を訪れた。
「篠。戻ったよ」
目の前の障子を開け、皇牙に続くと、篠は、多くの紙を手にして、真剣な顔をしていた。
「皇牙様。お待ちしてました」
「篠。あの話って、本当なの?」
手紙には、斬島を捕まえていた牢屋の壁が、破壊されていた事が書かれていた。
「はい。昨夜までは、確認できてるんですが、今朝には、いなくなっておりました」
真夜中に、外から牢屋を壊したのだろうが、それだけなら、別に問題はない。
その壁の壊れ方が、問題なのだ。
「その牢屋を見せてもらえますか?」
「分かった。こっちだ」
篠に連れられ、里の外れ、蔵のような造りの牢屋が現れ、その裏側には、人一人が通れるくらいの穴が空いていた。
周囲の壁と比べると、穴が空いている部分は、長い年月が過ぎたように、とても脆く、朽ち果ててしまったかのようだ。
皇牙と篠が話をしてる間、入ったり、出たりを繰り返し、その床や壁に触れてみる。
「何してるの?」
「何かないかなって」
「もう調べてある。何も見付からなかった」
「篠。蓮花ちゃんが、探してるのは、ちょっと違うと思うよ?」
「どうゆう事ですか?」
「多分、残像かなんかだと思う」
この世に存在するものには、それぞれの記憶がある。
記憶は、そこに生きる生命が、持ち合わせている。
靴や服、花や土など、言葉を発せなくとも、そこには、各々の記憶があり、言葉を発するものは、それを残像と呼ぶこともある。
皇牙の言う残像が、ここに生きる生命達の記憶のことならば、その通りなのだが、多くの妖かしが、行き交うばかりで、肝心の壊れた瞬間が見当たらない。
不意に、足元の小石に視線を落とし、それを拾い上げた瞬間、その記憶が浮かび上がった。
暗闇から手が翳され、壁に小さな亀裂が走り、脆くなった壁が、自らの重みで崩れ落ちると、黒々とした影が、グッタリした斬島を引きずり出し、暗闇の中に消えた。
「…あの、手首に着けてる縄って、なんですか?」
その手首に縄が掛けられてるだけで、グッタリしてる斬島に、首を傾げた。
「もしかして、妖力を封じる縄の事かな?」
「それ、見せてもらえますか?」
驚いた顔をし、視線を合わせた二人に連れられ、保管されている所に向かい、壁に吊るされいる縄を見つめた。
「触っても良いですか?」
「あぁ」
一本に、指先だけで触れ、すぐに離した。
「これ。やめた方がいいですね」
「どうして?」
「月蝶の力が、込められてるからです」
縄は、身に着けた者の力を吸収し、月蝶に流れ込む仕組みになっていたが、練り込まれた力が微かな為、力を封じていると勘違いされいた。
「力が強ければ強い程、早く吸収するようになってるみたいです」
「だからか…」
「思い当たる事でも?」
この縄を掛けてから、力を失ったように、斬島の妖力が感じられなくなった。
最初は、気にも止めていなかったが、数日前から、座っていることも出来なくなり、呼吸も弱まり始めていた。
流石に、おかしいことに気付き、それを調べようとしていた矢先、この事件が起きた。
「…つまりは、月蝶が、この仕組みが知られる前に、使えそうな妖かしを連れ出そうと考え、それが斬馬だった」
「あの人、本当は、斬馬っていうんですね」
「でも、困った事になったね」
皇牙は、然程、困っていないように見えたが、篠は、困ったように、眉尻を下げ、腕組みをした。
「どうしてです?」
「この縄を使ってるのは、ここだけじゃないんだよ」
この里では、昔から悪妖や罪人を捕まえると、この縄を掛けて、牢屋に入れていた。
「里全体で使ってるんですか?」
「そう。ほとんどの牢屋が、こうゆう造りだから、簡単に逃げられちゃうんだよね」
「そうなんですね。ってことは、これに代わる物があれば、やめても大丈夫なんですよね?」
「まぁね」
「だが、そんなモノは…」
「ありますよ?」
袂から護符を取り出し、近くの壁に貼ると、二人は首を傾げた。
「壁を触ってみて下さい」
疑いの目を向けながら、篠が、その壁に手を着くと、大きな音を発てて、床に座り込んだ。
「篠!?どうしたの!?」
「…急に…力が…」
「何言ってんの?ただ壁に触っただけでしょ?」
「皇牙さんも、触ってみれば良いんじゃないですか?」
壁を指差すと、皇牙は、床近くの壁に手を伸ばした。
指先が触れると、驚いた顔で、篠と視線を合わせた。
「これ、貼った所を中心に、力を吸収することが出来るんですよ」
成長する過程で、力のバランスが保てなくなり、多くの活力を吸収し、更に、多くの力を放出するようになってしまい、それが、周囲にまで影響を及ぼした時期があり、それを制御する為に、この護符を作った。
「因みに、貼った裏側には、なんの影響もありませんし、そっち側から、力の譲渡も出来ないようになってます。牢屋の上下、左右の四隅に貼ったら、逃げ出せないと思いますよ?」
護符を剥がして、ヒラヒラと揺らしながら、説明すると、立ち上がった二人は、また首を傾げた。
「剥がされたらどうする」
「直接触ったら、倒れますよ?」
自身の力を吸収させ、周りからの活力を減少させることで、無意識でも、そのバランスが保てるようする為に作った護符は、妖かしが触れれば、多くの妖力を奪われ、意識を失ってしまう可能性もある。
「貼る時は、厚手の手袋を何枚か重ねれば、大丈夫だと思います」
「そうか」
「濡れたら?」
「雨や水、汗やお湯などで濡れても、なんの問題もありませんが、大量の血で濡れた場合、効力が失われます」
「どうして?」
血が大量に流れ出るということは、生命の危機が迫っている状態にある。
そんな時に、その生命を維持出来るように、護符の効力が消えるように、試行錯誤した。
「そうなんだ。結構、便利なんだね」
「これを使って死んでたら、元も子もないですからね。もし、必要なら用意しますけど。どうしますか?」
「ここの修繕は、どれくらいで終る?」
「一週間です」
「三日で終わらせられない?」
「…分かりました。やってみます」
「よし。蓮花ちゃん。一旦帰ろう」
「そうですね。皆さんにも、話さなきゃないですしね。それでは」
篠に別れを告げ、すぐに里を出ると、自宅に向かい、大地を走る皇牙を追うようにして、木の上を移動した。
「蓮花ちゃん。大丈夫?辛い?」
別に辛い訳じゃなかったが、枝の細さに気を取られ、普段よりも、早く動けず、皇牙から、離れてしまっていた。
皇牙の前に降り立つと、眉を寄せて、苦笑いを浮かべた。
「少し」
「この辺は、手入れされてないから、当然だよね」
「ですよね。仕方ないから走ります」
「大丈夫?」
普通の人よりも早く走れるが、妖かしの皇牙と比べたら、天と地の差がある。
しかも、狼の妖かしの皇牙は、他の妖かしよりも更に速い。
「蓮花ちゃん。乗って」
目の前に屈み、皇牙は、背中を見せた。
「大丈夫です。早く行きましょう」
横を通り過ぎ、少し先で、振り返ると、皇牙は、淋しそうな顔をしていた。
「分かった。でも、無理しないで、辛くなったら言うんだよ?」
そこからは、鬱蒼と生い茂る木々を避けながら、必死に、足を動かしたが、呼吸が、すぐに上がってしまった。
「大丈夫?」
先を行く皇牙は、まだまだ余裕がある。
これが、人と妖かしの差なのだ。
「ホントに大丈夫?」
並ぶ皇牙に、返事を返そうとしても、声すら出なくなっていた。
「…蓮花ちゃん。ゴメン」
走りながら抱えられ、皇牙は、一気にスピードを上げた。
「怖いなら、目つぶってて」
目の前にある皇牙の顔を見つめ、その声は聞こえなかった。
斑尾達以外に、抱えられたことがなく、どうしたら良いか分からず、そのまま、大人しくしてると、すぐに自宅に着いた。
「…このまま、中まで行く?」
「お降ります!!」
その速さと乗り心地の良さに驚いて、ボーっとしていると、満面の笑みで視線を向けられ、慌てて降り立ち、季麗達を皇牙に任せ、佐久に電話した。
「…ってことで、私の部屋にあるはずだから、集めといてもらっていい?」
「分かった。準備しとく」
「有り難う。斑尾が行くから」
「分かった」
残して来た護符を集めてくれるように頼み、すぐに斑尾に向かわせ、持ち帰った護符を皇牙に渡した。
「ごめんなさい。これしか用意出来なくて」
あまり作っていなかったこともあり、百枚程しかない。
「大丈夫。これだけあれば、なんとかなるよ」
「皇牙。里に戻るぞ」
「あぁ」
渡した護符を持って、季麗達が、里に戻って行く背中を見送った。
「斑尾」
「準備は整ってる」
斑尾達は、もう行動を起こしていた。
「急ぐぞ」
「…ありがと」
急いで、寺の奥に向かい、行き止まりの何もない壁に、五芒星を描き、胸の前で手を叩くと、強い光が放たれた。
五芒星の中央を押すと、観音扉のように、壁が大きく開かれ、真っ暗な闇が広がっていた。
誰もが、躊躇ってしまいそうな程の闇に、迷う事なく入ると、開かれていた扉は、後ろで、重たい音を発てて閉じられた。
足元を風がすり抜け、パチンと指を鳴らし、部屋の中央に置かれたロウソクに火が灯り、揺らめく光で、部屋の中が、浮かび上がった。
巻物や壁掛けなど、装飾品の一切がなく、床にロウソクが、円形に置かれただけの部屋。
その中心には、佐久と作った貴重な墨、斑尾を織り混ぜた筆、妃乃環と力を宿らせた和紙が、綺麗に並べられ、正装した亥鈴と理苑が待っていた。
「やるよ」
「御意」
それから、新たに護符を作り始め、夜が明けるまで、その部屋に籠った。
「頼む」
「あぁ」
出来上がった護符を斑尾が、楓雅に渡し、里に向かって飛び立った。
「本当に、手が掛かる」
「仕方ないだろ」
「そうですよ。これが、斑尾の役目でしょ」
笑い声を夜空に響かせ、亥鈴と理苑は、それぞれの寝床に戻り、斑尾も、いつも通りに、頭を抱えるようにして眠りに落ちた。
護符を里に持ち帰ると、すぐに朱雀達が出て来た。
「季麗様!!大変です!!八百音が!!」
斬島が居なくなった後、その他の者達も、同じように消えてしまった。
「今、総力を上げて…」
「呼び戻せ」
月蝶が絡んでいるとなれば、捜索に出向いた妖かしが、餌食になってしまうかもしれない。
「…分かりました。すぐに呼び戻します」
「呼び戻したら、修繕に回して」
「はい」
朱雀達が走り去るのを見送り、季麗達は、それぞれの牢屋に向かうと、そこにいた妖かしと共に、四隅に護符を貼り、悪妖の縄を外して回った。
縄を回収し終えた時、捜索に出ていた妖かし達を連れ、朱雀達が戻り、壊れた壁の修繕に取り掛かった。
それぞれの場所で、修繕や改装に追われながらも、それぞれの現状確認をしていた季麗達の前に、楓雅が、半妖の姿で現れ、無言で、新しい護符を渡すと、すぐに飛び去った。
「無愛想な奴」
「仕方ないだろ」
「構ってる余裕もありませんし」
「そうだな」
空に向かって苦笑いしていると、遠くから、風に乗り、甘く淡い香りが鼻先を掠めて、静かに消えた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
クラス最底辺の俺、ステータス成長で資産も身長も筋力も伸びて逆転無双
四郎
ファンタジー
クラスで最底辺――。
「笑いもの」として過ごしてきた佐久間陽斗の人生は、ただの屈辱の連続だった。
教室では見下され、存在するだけで嘲笑の対象。
友達もなく、未来への希望もない。
そんな彼が、ある日を境にすべてを変えていく。
突如として芽生えた“成長システム”。
努力を積み重ねるたびに、陽斗のステータスは確実に伸びていく。
筋力、耐久、知力、魅力――そして、普通ならあり得ない「資産」までも。
昨日まで最底辺だったはずの少年が、今日には同級生を超え、やがて街でさえ無視できない存在へと変貌していく。
「なんであいつが……?」
「昨日まで笑いものだったはずだろ!」
周囲の態度は一変し、軽蔑から驚愕へ、やがて羨望と畏怖へ。
陽斗は努力と成長で、己の居場所を切り拓き、誰も予想できなかった逆転劇を現実にしていく。
だが、これはただのサクセスストーリーではない。
嫉妬、裏切り、友情、そして恋愛――。
陽斗の成長は、同級生や教師たちの思惑をも巻き込み、やがて学校という小さな舞台を飛び越え、社会そのものに波紋を広げていく。
「笑われ続けた俺が、全てを変える番だ。」
かつて底辺だった少年が掴むのは、力か、富か、それとも――。
最底辺から始まる、資産も未来も手にする逆転無双ストーリー。
物語は、まだ始まったばかりだ。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる