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【完結編】天に在らば比翼の鳥

7.帰還

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葉月が解放されたという朗報は突然、飛び込んできた。
イランで行方不明になってから2年が過ぎていた。

綾瀬と高谷は、ありすを連れ、成田に葉月を迎えに行った。
フランス政府専用機での極秘の帰国だった。
タラップから自分の足で降りてくる葉月を見て、綾瀬は安堵のため息を漏らしたが、その変わりようには驚きを隠せなかった。

高谷もまた表情を固くしている。
葉月がどれほど過酷な場所にいて、辛い生活を強いられてきたのか、別人のような姿を見るだけでわかる。

ありすだけが、無邪気に喜びをあらわにして、葉月の元に走り寄り、抱きついた。
「パパ!」

痩せ細った身体で、10歳になった自分の娘を抱き上げて、目元を細める。
ありすと言葉を交わしたあと、綾瀬と高谷の方に視線を移し、微笑んだ。
どんなにやつれていても、その顔は、二人がよく知る相川葉月だった。



***



心身の衰弱が激しいという理由で、葉月は空港からそのまま大学病院に入院することになった。
感染症等の検査結果を待つ間、面会は許されず、綾瀬が葉月と会えたのは一週間後だった。

「立派になりましたね」
角度をつけたベッドに、背中をつけて座っている葉月は、綾瀬を前にして開口一番、そう口にした。

「立派なやくざになったって言いたいのか。褒められてる気がしねえな」
そんな、以前と変わらないやりとりに、離れていた年数がなかったかのような錯覚に陥る。

「葉月、おまえ、ずっと日本にいなかったのか」
「ええ、桐生の家を出てすぐに日本を出ました」
「オレがムショに入ったことは知らなかったんだな」
葉月は綾瀬の言葉に顔を顰めた。
「刑務所に入った?いったい、なにをしたんです」
咎めるように、言う。
「昔のことだ。それより、おまえのことを説明しろ。なんで、中東なんかに行ったんだ。おまえは堅気になるために、組を出たはずだ」
「堅気のつもりですよ、いまでも」
そう言って笑う。

「自分でも、よくわかりません。日本では狭い世界にいたので、広い世界を見たかったのかもしれませんね。いろんな国に行き、いろんな人に会いましたよ。フランスで仕事に就いてしばらく落ちついたんですが、どうも性に合わなかった。テヘランで暮らしてみて、やっと馴染んだんです。乾いた砂漠の空気が、肌に合ったのかもしれません」
「ふざけるな。ありすを危険に晒したんだぞ。爆弾が怖いと毎晩、泣いていた」
綾瀬は本気で怒っていた。

「ありすには可哀想なことをしたと思っています。けれど、綾瀬、戦場にも子供はたくさんいるんです。可哀想な子供は、ありすだけじゃない」
「他人の子供と自分の子供を比べるな」
「確かに、その通りです。オレは親としては失格です。今でも、ありすを危険にしている」

綾瀬は、葉月を睨みつけた。
「どういう、意味だ」
「綾瀬。このまま、ありすを日本に置いてください。オレはテヘランに戻ります」
「戻る?なぜ、戻る。おまえこそ、このまま日本にいろ」
「それは出来ません。オレを必要としている人間があの地にはいるんです」
「おまえに何ができる。紛争やテロを止めることなんか、誰にもできない」
「もちろん、わかっています。でも、一人か二人、いえ、三人四人くらいは、救えるんですよ、これでも」
「それが、おまえの選んだ生き方か」
「ええ、そうです」

葉月の言葉は断定的で迷いがなかった。
なにを言っても無駄だとわかるように。

「オレは多分、あの国で命を落とすことになるでしょう。ありすをあなたの養女にしてください。必要な書類はすべて揃えてあります。そして、ありすを生涯、国外に出さないで下さい。オレを恨んでいるのは、小さな国家レベルの組織です。たとえオレが死んでも、いつ報復をしてくるかわからない」

「しばらく会わないうちに、図々しい頼み事を平気で言うようになったな」

綾瀬のきつい言葉に、だが葉月は表情を和らげた。
「ありすを手元に置くことは、あなたにとってもいいことだと思います」
葉月の言い草にただ呆れているというように、綾瀬は返事をしない。
構わず、葉月は言葉を続けた。
「人を育てるということは、自分を育て直すということです。それに、あなたとありすはよく似ている」

お互いを見つめていると、離れていた数年間がまるでなかったように、あの頃に戻る。

葉月が綾瀬の側にいたのは、綾瀬が自分自身に折り合いをつけられず、最も苦しんでいた時だ。
あの頃、綾瀬は手に触れるものすべてを傷つけずにはいられないようにすさんでいた。
とくに葉月には暴虐とも言えるような我儘の限りを尽くしたが、葉月は綾瀬のやり場のない怒りや痛みを、いつも正面で受け止めた。

目の前にいるのはもう慰めを必要とする傷つきやすいナイーブな少年ではない。
別れてからなにがあったか推し量ることは出来ないが、美しく成熟した姿から、強かに生きてきた道筋が見えるようで、葉月は、どこか嬉しそうに綾瀬を見つめる。

「あなたは、変わりましたね。自分を許せるくらい、大人になった」
「おまえこそ、変わった」
「生き地獄を見て変わらない人間はいません。ですが、変わらない想いもあります」

モデルのように端正だった面影は今はもうない。
けれどやつれたせいで、深い皺が刻まれた目尻を下げて微笑みながら綾瀬を見つめる眼差しは、あの頃と何も変わりはなかった。

そんな目で見つめられたせいか、綾瀬はつい漏らすように、今更未練がましいことを聞いた。
「葉月、本当はなぜ出ていったんだ」

葉月は一瞬、驚いた表情を見せたあと、ふっと諦めたように笑った。
「オレは、父のことが好きでした。ヤクザであることを含めて、尊敬出来る人間でした。だから、あなたと違って、自分もそう生きることに躊躇いはなかったんです。けれど父は、望まなかった。それは、父が、あなたの器量にオレが及ばないと、判断したからです。オレも、あなたの側にいるようになって、そのことを身に染みて理解しました」

綾瀬は黙って葉月の言葉を聞いていた。
「オレはあなたに及ばない。あなたには勝てない。あなたの側にいて、支えることは出来るかもしれない。でも、あなたに対する劣等感は、いつか、あなたを傷つけるだろうと思いました」

そんなふうに言っても葉月の声には痛みはない。
もはや、遠い過去の感傷に過ぎなかった。

「あなたを想う気持ちと同じくらい強く、憎むようになるかもしれない。それが、怖かったんですよ」

それも、葉月の本心だったが、すべてではない。

葉月の言葉に、まだ納得出来ないという顔をしている綾瀬に、苦笑しながら、葉月は言葉を繋いだ。

「それでも、あなたがオレを必要としたら、オレは一生あなたの影として生きてもよかった。でも、あなたは片翼を見つけた。それは、オレではなかった。それだけのことです」

綾瀬の驚いた表情に、葉月は満足そうに笑った。

「後悔はしていません。これで、よかったんです」

二人はしばらく黙り込んで、花瓶に生けられた花を見た。
誰が持ち込んだのか、病室には似合わない、ダリアを基調とした豪奢な花束だった。

「庭の白木蓮は、まだ、ありますか」
葉月の問いかけに、綾瀬は、頷きながら「ある」と答えた。



***



ありすを連れて篤郎が部屋に入って来た。
ありすは嬉しそうにベッドに乗り上がり、葉月に異国の言葉でなにか、話をしている。

ペルシャ語だった。
2年立っても、ありすはペルシャ語を忘れていない。

はじめは楽しそうに話をしていた父娘だったが、途中から、葉月が何かを説得しているようだった。
ありすの表情は曇り、ノーと言っているのが、わかった。

綾瀬と篤郎は部屋を出た。
病室から、ありすの悲鳴のような泣き声が廊下まで聞こえていた。

葉月が日本に滞在したのはわずかひと月余りだった。




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