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第1章 SONATA

op01.昔、一人の旅人が(6)

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 元々滞在中の宿なのだから、片付けるのにそんなに時間はかからなかった。乱雑に散らばっていた紙はほとんどが楽譜で、楽団の手伝いで譜面を触ることも多いリチェルは楽譜を順番通り並べることには少しだけ慣れている。
 全部終わると、一旦休憩しようとヴィオがコーヒーを淹れてくれた。コップに注がれたその液体は知識として知っていたものの飲んだことはなくて、恐る恐る口を付けると少し酸味のきいた独特の風味が口に広がった。

「…………」
「やっぱり紅茶の方が良かったな」

 これでも飲みやすいものを選んだつもりだが……、ヴィオがそう呟いたのを聞いて首をふるふると横に振る。むしろこんな良いものを出してもらっていのかと恐縮していたのだった。
 ヴィオが勧めてくれたシュガーポットから砂糖を一杯入れると、コーヒーはリチェルにも随分飲みやすくなった。先ほど宿の人が持ってきてくれたので、おそらくヴィオが頼んでくれたのだろう。

「リチェルはクライネルトの屋敷に住んでるのか?」
「いえ。本邸に住んでいるのはきちんと雇われた使用人の方ばかりです。わたしは楽舎の方に住んでいて……」
「楽舎?」

 聞き慣れない言葉だったのだろう。ヴィオが聞き返す。

「楽舎は本邸から少し敷地を下ったところにあるクライネルト音楽団の事務所のようなところです。先代がそう呼んでいるのがいつの間にか屋敷の皆さんにも定着したみたいで、もしかして他の場所にはないんでしょうか?」
「あぁ、少なくとも俺は聞いたことがないな。リチェルは事務所に住んでるのか?」
「事務所といっても元々は住居だったんです」

 楽舎は元々クライネルトの先代当主が、各地から集めてきた音楽家を住まわせるための建物だった。先代は音楽の才があれば身分の差を問わずスカウトして連れてきてしまったから、住むための場所を用意する必要があったらしい。社交界でも物好きだと陰で笑われていたと陰口を耳にしたことがある。
 ただ音楽への情熱は本物だった。

「先代が亡くなってから、住み込みでそこにいた楽団員の人達は徐々に解雇されていってしまって」

 リチェルが来てすぐの話だ。
 あの楽団には初めの頃はリチェルに良くしてくれる人達もいたし、住み込みの楽団員によって時たまセッションも行われていた。だけど先代が亡くなってから約二年の間に根無し草の楽団員はほとんど辞めていった。リチェルが残っているのは、リチェルが女でまだ十分に独り立ちできる年齢ではなかったからだろう。幸いにも先代の連れてきた孤児をすぐに放逐することは当主もしなかった。
 運が良かったんです、とリチェルは続ける。

「今は楽団員の歌姫であるイルザさんと私が住んでいます。元々の用途が楽団員達のアパルトメントだったので、自然に楽団の皆さんが集まる場所になって、舞台衣装や譜面台は楽舎に置いている方も多いです」

 そしてその整理をするのがリチェルの仕事だった。屋敷で言いつけられた雑用をしながらやらなくてもいい譜面台の掃除や楽譜の整理をするのは、少しでも音楽に触れていたいからだ。

「…………リチェルは、そのイルザさんに歌を習ったりはしなかったのか?」

 ふるふるとリチェルは首を振る。

「わたしは、雑用なので」

 そう言って曖昧に笑う。
 本当は習いたかったけれども、習えない理由がある。だけどそれを口にするのは憚られた。

「でも、歌うのは好きだろう?」
「……え?」
「少なくとも初めて会った時歌ってた君はとても楽しそうだった」

 目を瞬かせる。

(好き?)

 確かにリチェルは小さな頃から暇さえあれば歌っていた。リチェルが歌えばシスターは褒めてくれたし、年下の子どもたちは喜んでくれた。一人でいてさえ、聖歌を口ずさんで。
 あぁ、その通りだ。

 リチェルは歌うのが好きだった。

 ずっと歌っていたくて、いつの間にか国を渡ってこんな所まで来た。だけどここに来てからは人前で歌ってはいけなくなって。もう拍手をしてくれる人も、笑ってくれる人もいない。いつしか好きだと思うのは苦しくなった。だから好きだということすら忘れていたのだ。
 歌うことが楽しいのだとまた気付けたのは、間違いなくあの丘の出来事がきっかけだった。

「──はい。ヴィオさんと出会って、好きだったと思い出しました」

 そう告げると、今度はヴィオが驚いたようだった。

「あの日貴方が声をかけてくれなかったら、きっと忘れたままでした」

 ずっと歌は歌っていただろう。だけどそれが楽しいとは、気付けなくなっていたかもしれない。こんなボロを着た娘にヴィオがためらいなく声をかけてくれたから、リチェルは好きなことを好きだと思い出せたのだ。

「だからヴィオさんのおかげです」

 リチェルの言葉をヴィオは黙って聞いていた。黙って聞いて──。

 
「──君の、迷惑にはならなかったか?」


 やがて、ぽつりとヴィオが呟いた。それは独り言のような声だったが、リチェルの耳にはちゃんと聞こえた。はい、と迷いなくリチェルは返事をする。
 
「ヴィオさんがあの日わたしに声をかけてくれたからです。ありがとうございます」

 きっと苦しくて、一度は忘れた『好き』だけど、やっぱり手放したくない感情だったのだと分かった気がする。これからもリチェルが人前で歌えない事に変わりはなくてもきっと後悔しないろう。心からの感謝だった。
 そうか、と呟いて、ヴィオはそれ以上何も口にしなかった。代わりにカタリと席を立つと、ヴァイオリンケースからヴァイオリンを取り出す。

「ヴィオさん?」

 軽い動作でヴァイオリンを首元にのせると、その手が弓を引く。軽いタッチで音階を奏でて、ヴィオが微かに笑う。

「今日は歌いにきてくれたんだろう? 良かったら、リチェルの知っている歌を教えてくれないか?」

 一瞬キョトンとして、パッとリチェルは表情を明るくする。
 胸にじわりと温かなものが広がる。自然に笑みが漏れて、リチェルは席から立ち上がった。

「……はい!」



   ◇



 見覚えのある人影を宿の入り口に見つけて、デニス・クライネルトは思わず建物の影に身を隠した。

 親しげに話をする背の高い青年と、青年より頭ひとつ分以上小さな影。小さな方は一見十二、三の少年に見える。だけどそれが少年ではなくじきに十六になる少女である事をデニスは承知していた。

「何だよあれ……」

 信じられない物を見て、デニスは呆然と呟く。
 青年の方は二日くらい前に楽団に所属するデニスの友人に聞いたヴァイオリン弾きで間違いないだろう。
 
 何でもデニスの友人達が散々小馬鹿にした子どもに見事な演奏を聴かせたという演奏家で、街でももっぱら噂になっていた。逆に楽団の株は急降下だ。彼らの素行にクライネルト音楽団にも市民から苦情が届いたそうで、楽団を管理するベルガー氏が悪態をついているのを今朝聞いたばかりだった。最近は祖父の頃からの縁もいよいよ薄まってきて、よその楽団に講演を取られる事もたびたび出て来ている。奴らにとっては良いゴシップのネタだ、と苛立ちもあらわに吐き捨てていた。
 
 デニスにとってはあまり興味がない事柄だったが、ベルガー氏に恩を売っておいて損はない。
 そのヴァイオリン弾きがこれ以上楽団の名誉を汚すことがないか僕が様子を見て来ましょうか? と提案すると、流石に御子息にそんな面倒ごとを任せるわけには……と渋面を作ったベルガー氏だが、良い方法がありますよ、と説き伏せてこっそり街へと出て来たのだ。

 領主の次男の顔なんて市民はいちいち覚えていない。
 多少変装をすればバレず、件の青年の宿泊場所はすぐに割り出せた。先の出来事で有名になっていたから、ファンなんですとか適当な事を並べたら店の人はすぐに宿泊先を教えてくれた。まぁ後は直接話をして、可能であればうちの楽団との演奏を持ちかけるつもりだった。馬鹿で短慮な友人の尻拭いにはなるが、あんなのでも将来は商家の後継ぎだ。貿易事業も活発になる中、尻拭いして損はない。きっとそのヴァイオリン弾きと一緒に演奏したのを知れば市民の溜飲だって下がるだろう。
 むしろそんなに演奏が上手いなら釣られてうちの楽団の評判も上がるかもしれない。それでベルガー氏には十分恩が売れる。

 そんな事を考えていたのが数分前。そしてその考えは、青年と一緒に出てきた少女の姿を見た瞬間に吹き飛んだ。

「何だよ、アイツ……」

 青年を見上げる少女の口元は遠目からでも笑っているように見えた。そんな表情は見た事がない。
 それ以前にデニスの知るあの少女は常に無表情だった。人形のような瞳。申し訳ありません、と繰り返す声には何の感情も籠らない。脅かしたり痛めつけた時だけは微かに感情が混ざるから、つい手や足が出るようになった。

 だけどあの少女は笑うのか。

 沸々と腹の底から沸いて来たのは怒りだった。

(オレが何を言ったって、そんな表情、しなかったくせに……)

 本来孤児であるリチェルはデニスに声をかけることすら出来ないのだ。それを他でもない自分が目をかけてやっているのに、あの娘はただの一度も自分に笑顔を向けることはなかった。
 それどころか話しかけられた事にいつも困惑している風ですらある。
 初めは領主の息子が声をかけているのだから多少戸惑っても仕方がない、と見逃してやった。だけど何度声をかけても、リチェルの態度は変わらなかった。

(何だよ、孤児のくせして)

 ギリっと奥歯を噛み締める。

(あんな風に笑うなら──)


 もっと、優しくしてやったのに。


 無意識に溢れたその言葉の真意をデニスは理解しない。身分の低いリチェルは自身の思うように振る舞うのが当然だと断じている領主の子息は理解しない。
 だから決して、理解し合えることはない。
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