Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー

雪葉あをい

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第1章 SONATA

op.02 魔法使いの弟子(6)

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 マルコを追いかけてどうするか、リチェルには考えがあった訳ではなかった。
 飛び出したのは咄嗟で、見つけられたのは運がよかったのだ。
 たまたま話しかけた老婦人が、偶然全速力で走っていった若者を見ていたから。

「…………何」

 答えた少年の声は震えていた。
 敵を見るようにリチェルを睨みつける。
 虚勢だとすぐに分かる態度で、リチェルが何か言うより前に早口でまくし立てる。

「ヴァイオリンのことで追ってきたんだろ? でも言う気ないから。だって問題ないって言ったのはあっちだし、大丈夫だって言ったなら自分の発言に責任持たなきゃいけないのはあっちだって一緒だろ。
受け渡した時点で納品は終わってるんだし、アレを問題ないって言えちゃう奴が売るんだから客もそれなりだよ。どうせ……」

 ぷつりと、マルコが言葉を切る。そうして震える声で、続ける。

「どうせ、分かりゃしないんだから……」

 それはマルコの希望だろうか。本当に分からなければいいと思っているのだろうか。
 だけど分からなくてもいいと、そう願うには彼は──。
 
『ヴァイオリンという楽器は百年以上も前にその形に完成を見ていると言われるまさしく楽器の王様なんだ!』

 生き生きと、マルコがヴァイオリンについて語ってくれたのはついさっきの事だ。

 一歩、踏み出す。

 びくりと、マルコの肩が跳ねるのが分かった。引き結んだ唇とこちらを睨む目がどこか怯えているように見えた。

 そっとマルコの正面にしゃがみこむと、リチェルは遠慮がちに口を開く。

「さっきお話を聞かせて下さった時、マルコさんはとてもヴァイオリンが好きなんだと思いました」
「え?」

 何をいきなり、とマルコが訝しげな表情に変わる。

 リチェルにもわからない。どうしてマルコを追いかけたのか、そうしなきゃいけないと思った衝動はどうして生まれたのか。うまく言葉に出来る自信がない。
 だけど──。

「わたしは、歌うのが好きです」

 たどたどしく、リチェルは言葉を紡ぐ。

「だけど、好きなことを思い出したのは本当に、つい最近のことで……」

 ヴィオが、リチェルに歌わせてくれたから。
 だからリチェルは、歌うことがこんなにも好きだったのだと思い出せた。

「少し前までは、好きだと言うことを忘れていました。好きだと気づいたらきっととても苦しくなるから。忘れようとしていたんだと思います。だけど思い出せてとても良かったとも思うんです。何かを好きなことって、とても素敵なことだから。とても嬉しくて、それだけで勇気が湧いてくるんです」

 マルコにとって、ヴァイオリンはそうではないのだろうか。

「マルコさんは、違いますか?」
「……っ」

 マルコが歯を食いしばったのが分かった。座り込んで握りしめた手が、小刻みに震えている。
 違うなら違うと言うはずなのに、リチェルのことを馬鹿にすることも出来たはずなのに、マルコはそれをしなかった。

(この人はきっと、とてもヴァイオリンが好きなんだわ)

 そうか、と腑に落ちる。
 だからきっと、リチェルはマルコを追いかけたのだ。

 あの日あの丘で好きな事を好きだと思い出した。それはとてもリチェルにとっては大切な気持ちで、この人が同じ思いを持っているなら、それを傷つけてほしくない──。

「……後悔、して欲しくないんです」

 好きだと思った気持ちを裏切って、それでもその気持ちは綺麗なままで持ち続けられるのだろうか。
 リチェルには分からない。だけど、それはとても難しいことである気がして。

「マルコさんの好きを、大事にして欲しいんです」

 その気持ちは美しくて、星の見えない寒い夜でも心を灯してくれるような、温かな気持ちだと知ってしまったから。傷つけて欲しくないと身勝手に思ってしまって。
 ごめんなさい、とリチェルは続ける。

「何も知らないのにこんな事を言って……。余計な、お世話でしょうか……?」

 マルコは答えない。
 俯いた唇が固く引き結ばれていた。

 どうしてだろう。悲しくなる。
 この人の好きは、とても綺麗で明るいものなのに──。

 ごめんなさい、ともう一度謝って立ちあがろうとしたリチェルの手を、前から伸びた手が突然ガッと掴んだ。その勢いに一瞬心臓が跳ねる。

「…………わじゃ、ない」

 掴まれた手の勢いにリチェルがたじろいたのが分かったのだろう。マルコの手の力がわずかに緩む。
 だけど離しはしてくれない。

「……余計なお世話じゃ、ない」

 マルコの手は震えていた。
 
 掴まれた瞬間跳ね上がった恐怖を無理矢理押さえつける。
 大丈夫、この人は大丈夫と自分に言い聞かせて、おずおずとリチェルはマルコの前に座り直す。

 リチェルを見た瞳からは、敵を見るような色は抜け落ちていた。

「……だって、ようやく認めてもらえたんだ」

 ポツリと、マルコがこぼす。

「ほんの少しだけだけど。あのヴァイオリン、良いんじゃないかって、親方が、初めて言ってくれたんだ……っ」

 震える声が、先程とは打って変わって弱々しく言葉を紡いでいく。

「失望、されたくなくて。弟子、切られるのかなとか考えちゃって……それは、絶対嫌で……、だけどっ」

 ギュッとリチェルの手首を掴む手に力がこもる。

「自分の作品が、親方の物だと思われるのも嫌で……っ」

 あんな物じゃないんだ、と小さくても意志の強い声がマルコから漏れた。

「同じように売られるのは、許せなくて……。でも、問題ないって、あの店主は言うから……どうしていいか、俺……っ」

 その時、背後にふと人の気配を感じてリチェルは振り返った。リチェルの動きに気付いたのだろう。マルコもゆっくりと顔を上げて、表情を変える。

 ヴァイオリンを背負ったヴィオがいた。

 あの後すぐに追いかけてくれたのだろう。特に息を切らした様子もなく、リチェルとマルコを見下ろして小さく息をつく。

 反射的に謝ろうとするリチェルを制して、ヴィオはリチェルの手を掴んだままのマルコの手を掴んでリチェルの手首から引き離すと、そのまま無理矢理立たせた。


「どうすればいいかは自分で決めろ」


 短くそう言うと、その手首を掴んだまま踵を返す。

「リチェル、ついて来てくれ」

 その声に咎める響きがないことに安堵して、同時に申し訳なさも込み上げる。
 きっと何か考えがあるのだろうと信じて、リチェルはヴィオの後を追いかけた。
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