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第1章 SONATA
op.03 空高く軽やかに舞う鳥(1)
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朝方降っていた雨の影響か、窓から見える湖は白く靄がかかっていた。
陽光の差さない日は、窓際に立つと冷たい空気を感じる。あとひと月もすれば、町を囲む高い山々の頂上は雪をかぶりはじめるだろう。
天然の要塞と呼ばれる高く険しい山々を頂く国境防衛の要所である反面、訪れた人々は皆口々に美しいと褒めそやす観光地を多く内包するヴィッテルスブルクを治める領主ライヒェンバッハ家の館は、ここ数ヶ月内部にも深い霧が立ち込めているようだった。
「今何と言った? ハンス」
空気を震わすようなピリっとした声が、執務室に響いた。
いかにも相手を威圧する目的で発せられた太く重い声。落ち着きを装ってはいるが、内には憤怒とも言える激情が隠れていることが容易に分かる。
これが軍にいた時であれば、彼は間違いなく声を荒げていただろう。
「ですから申し上げた通りです。ルートヴィヒ様」
答えた男は主人の激情などそよ風のように聞き流した。背筋をピンと伸ばして姿勢良く立ってはいるが、その顎はすましたように高く上がっている。
「ヴィクトル様の足跡を辿りましたところ、どうやら孤児を買って連れ回しているようでして」
「何のために?」
怒気をおさえた震える声に、極めて薄情にさあ、と男はとぼけた。
「ですがお聞きしたところ、大層お可愛らしい娘だったとか。ヴィクトル様もお年頃ですからまぁ女遊びの一つや二つなさるでしょう」
「そういう問題ではない!」
今度こそ我慢が出来ないと言うように、屋敷の現在の主人であるルートヴィヒ・フォン・ライヒェンバッハは執務机を叩きつけた。
「平常であれば何も言わん! だが事情が事情なのだ! 何の為にアイツが家を出るのを許したと思っている!」
「さて。とはいえヴィクトル様もまだ学生の身でいらっしゃいますし、羽目を外してしまうこともあり得ましょう。いささか家名に恥じる行いではありますが」
「いささかどころではないわ! 何を呑気にほざいているのか! 即刻ヴィクトルを呼び戻せ!」
「ではそのように手配させて頂きます」
そう言ってハンスことヨハネス・マイヤーは頭を下げる。
飄々としたヨハネスの態度は思い悩む主人に対して不遜ですらあったが、ルートヴィヒにはそれを指摘する余裕はない。堪えきれないように頭を押さえて強くかぶりを振る。
「何をやっているのだアイツは……! そんな奴ではないと思って、家を出したというのに……!」
「さて。ルートヴィヒ様のご慧眼に物申す気はございませんので、私からはこれ以上は何も申し上げることはありません」
「何だ、気になることがあるならさっさと口にしろ!」
「ですが……」
「ええい! 言えと言っている!」
そうですか、と黙り込んでヨハネスはやや遠慮がちに口にする。
「全く含むところのない私的な見解ではありますが……、当主となるにはまだお若くいらっしゃるのでは? 今回の件も優先すべき順位を間違っていらっしゃるのでしょう」
「それなら問題ない。ライヒェンバッハの当主は兄であってあやつでは無い」
「ですがその兄君が……」
「分かっている! もう黙れ! とにかくすぐにでもヴィクトルを私の目の前に引っ立ててこい!」
苛立たしげに手を振ると、ルートヴィヒは執務室の呼び鈴を鳴らす。間も無く老年の執事が部屋へと入ってきた。
「御用でしょうか」
「……ソルヴェーグ? どうしてお前が。息子はどうした」
「フォルトナーの事であれば少しばかり別の仕事をしておりまして。手が離せぬと言うものですから、少しばかり手伝いに回っているのです。もう引退した年寄りですので、どこまでお役に立てるかはわかりませんが」
部屋の雰囲気を察しているだろうに、落ち着いた、むしろ穏やかな口調でソルヴェーグと呼ばれた執事は返事をする。その言葉にルートヴィヒがわざとらしくしかめっ面を作った。
「何を言う。お前が来れば使用人達もみな襟を正し働くだろうよ。帰ってきて屋敷の執事が息子に、いやそうか。お前達親子ではなかったのだったな。親子のようだともてはやされているから忘れるわ。何せお前がいなくなっていて驚いたのだ。それで、元気でいたか?」
親しみのある態度に、ソルヴェーグもはい、と表情が柔らかくなる。
「ルートヴィヒ様もご健勝で何よりです。久しくお会いしておりませんでしたから、懐かしゅうございますな」
ほっほと笑う声は朗らかだ。
元々ルートヴィヒが幼い頃から執事を務めていた人物なので、態度もお互い気安くなる。もちろんソルヴェーグの方は主人への礼節を決して怠ってはいないのだが、懐かしい執事の様子に相好を崩すと、ルートヴィヒは気が抜けたように執務室の椅子にドサリと腰を下ろした。
「まぁいい。ソルヴェーグ。すまんが、コーヒーを淹れてきてくれ。少し休みたい」
「もちろんでございますとも」
主人に一礼し、そのまま退室すると思いきやソルヴェーグはふいにヨハネスの前で視線を止めた。
「時に、マイヤー殿」
「……何か?」
突然名を呼ばれたヨハネスが怪訝そうにソルヴェーグに目をやる。
相対するのは初めてではあるが、ヨハネスの方はもうこの老紳士に警戒心を抱いていた。
口ぶりからすると今日来たばかりなのだろうが、ヨハネスの名前をすでに知っている。どこで聞いたのやらである。
そんなヨハネスの様子に気付く素振りもなく、穏やかな口調のままソルヴェーグは続ける。
「すでに屋敷より退いた身である私が言うのも憚られますが、お願いがございます。ご存知の通り、この家には数多くの使用人が仕えておりませぬ故、どこに誰の耳があるかは分かりませぬ。滅多なことは口にしないようお願い申し上げたい」
何を、とは問わずとも分かる。ソルヴェーグは、先程のヨハネスのヴィクトルへの軽口を耳にしていたのだろう。
どこから? と言う疑問を端において、コホンと咳払いをすると『それは失礼しました』と口にすると、ルートヴィヒが笑った。
「すまんな、ソルヴェーグ。そいつは俺の客分なんだ。とても頭の回る奴なのだが、軍にいた頃から口が悪くてな。俺からもよく言い含めておくから、ここは俺に免じて許してやってくれ」
「ルートヴィヒ様がそう言うのであれば」
そう言って一礼すると今度こそソルヴェーグが出て行く。扉がパタンと締まるのを見計らって、ヨハネスは息をついた。
「話しぶりからして以前の執事殿ですか?」
「そうだ。とても優秀な男でな。滅多なことを口にして、敵に回さんよう気をつけろよ。ほら、手配を急ぐがいい」
先ほどに比べて幾分か落ち着いてはいるが、急きたてる様子は変わらない。一礼すると、ヨハネスはその場を辞す。
(さて……)
出たばかりの扉を振り返って、ヨハネスは思惑を巡らせる。探せ、と言われずともヴィクトルの足跡は順調に掴んでいる。
ただルートヴィヒの命令に大人しく従うかと言われると話は別だ。ヨハネスにはヨハネスの算段がある。
(前回の報告ではベルシュタットにいたとか。恐らく次に滞在する町は──)
陽光の差さない日は、窓際に立つと冷たい空気を感じる。あとひと月もすれば、町を囲む高い山々の頂上は雪をかぶりはじめるだろう。
天然の要塞と呼ばれる高く険しい山々を頂く国境防衛の要所である反面、訪れた人々は皆口々に美しいと褒めそやす観光地を多く内包するヴィッテルスブルクを治める領主ライヒェンバッハ家の館は、ここ数ヶ月内部にも深い霧が立ち込めているようだった。
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空気を震わすようなピリっとした声が、執務室に響いた。
いかにも相手を威圧する目的で発せられた太く重い声。落ち着きを装ってはいるが、内には憤怒とも言える激情が隠れていることが容易に分かる。
これが軍にいた時であれば、彼は間違いなく声を荒げていただろう。
「ですから申し上げた通りです。ルートヴィヒ様」
答えた男は主人の激情などそよ風のように聞き流した。背筋をピンと伸ばして姿勢良く立ってはいるが、その顎はすましたように高く上がっている。
「ヴィクトル様の足跡を辿りましたところ、どうやら孤児を買って連れ回しているようでして」
「何のために?」
怒気をおさえた震える声に、極めて薄情にさあ、と男はとぼけた。
「ですがお聞きしたところ、大層お可愛らしい娘だったとか。ヴィクトル様もお年頃ですからまぁ女遊びの一つや二つなさるでしょう」
「そういう問題ではない!」
今度こそ我慢が出来ないと言うように、屋敷の現在の主人であるルートヴィヒ・フォン・ライヒェンバッハは執務机を叩きつけた。
「平常であれば何も言わん! だが事情が事情なのだ! 何の為にアイツが家を出るのを許したと思っている!」
「さて。とはいえヴィクトル様もまだ学生の身でいらっしゃいますし、羽目を外してしまうこともあり得ましょう。いささか家名に恥じる行いではありますが」
「いささかどころではないわ! 何を呑気にほざいているのか! 即刻ヴィクトルを呼び戻せ!」
「ではそのように手配させて頂きます」
そう言ってハンスことヨハネス・マイヤーは頭を下げる。
飄々としたヨハネスの態度は思い悩む主人に対して不遜ですらあったが、ルートヴィヒにはそれを指摘する余裕はない。堪えきれないように頭を押さえて強くかぶりを振る。
「何をやっているのだアイツは……! そんな奴ではないと思って、家を出したというのに……!」
「さて。ルートヴィヒ様のご慧眼に物申す気はございませんので、私からはこれ以上は何も申し上げることはありません」
「何だ、気になることがあるならさっさと口にしろ!」
「ですが……」
「ええい! 言えと言っている!」
そうですか、と黙り込んでヨハネスはやや遠慮がちに口にする。
「全く含むところのない私的な見解ではありますが……、当主となるにはまだお若くいらっしゃるのでは? 今回の件も優先すべき順位を間違っていらっしゃるのでしょう」
「それなら問題ない。ライヒェンバッハの当主は兄であってあやつでは無い」
「ですがその兄君が……」
「分かっている! もう黙れ! とにかくすぐにでもヴィクトルを私の目の前に引っ立ててこい!」
苛立たしげに手を振ると、ルートヴィヒは執務室の呼び鈴を鳴らす。間も無く老年の執事が部屋へと入ってきた。
「御用でしょうか」
「……ソルヴェーグ? どうしてお前が。息子はどうした」
「フォルトナーの事であれば少しばかり別の仕事をしておりまして。手が離せぬと言うものですから、少しばかり手伝いに回っているのです。もう引退した年寄りですので、どこまでお役に立てるかはわかりませんが」
部屋の雰囲気を察しているだろうに、落ち着いた、むしろ穏やかな口調でソルヴェーグと呼ばれた執事は返事をする。その言葉にルートヴィヒがわざとらしくしかめっ面を作った。
「何を言う。お前が来れば使用人達もみな襟を正し働くだろうよ。帰ってきて屋敷の執事が息子に、いやそうか。お前達親子ではなかったのだったな。親子のようだともてはやされているから忘れるわ。何せお前がいなくなっていて驚いたのだ。それで、元気でいたか?」
親しみのある態度に、ソルヴェーグもはい、と表情が柔らかくなる。
「ルートヴィヒ様もご健勝で何よりです。久しくお会いしておりませんでしたから、懐かしゅうございますな」
ほっほと笑う声は朗らかだ。
元々ルートヴィヒが幼い頃から執事を務めていた人物なので、態度もお互い気安くなる。もちろんソルヴェーグの方は主人への礼節を決して怠ってはいないのだが、懐かしい執事の様子に相好を崩すと、ルートヴィヒは気が抜けたように執務室の椅子にドサリと腰を下ろした。
「まぁいい。ソルヴェーグ。すまんが、コーヒーを淹れてきてくれ。少し休みたい」
「もちろんでございますとも」
主人に一礼し、そのまま退室すると思いきやソルヴェーグはふいにヨハネスの前で視線を止めた。
「時に、マイヤー殿」
「……何か?」
突然名を呼ばれたヨハネスが怪訝そうにソルヴェーグに目をやる。
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口ぶりからすると今日来たばかりなのだろうが、ヨハネスの名前をすでに知っている。どこで聞いたのやらである。
そんなヨハネスの様子に気付く素振りもなく、穏やかな口調のままソルヴェーグは続ける。
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何を、とは問わずとも分かる。ソルヴェーグは、先程のヨハネスのヴィクトルへの軽口を耳にしていたのだろう。
どこから? と言う疑問を端において、コホンと咳払いをすると『それは失礼しました』と口にすると、ルートヴィヒが笑った。
「すまんな、ソルヴェーグ。そいつは俺の客分なんだ。とても頭の回る奴なのだが、軍にいた頃から口が悪くてな。俺からもよく言い含めておくから、ここは俺に免じて許してやってくれ」
「ルートヴィヒ様がそう言うのであれば」
そう言って一礼すると今度こそソルヴェーグが出て行く。扉がパタンと締まるのを見計らって、ヨハネスは息をついた。
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「そうだ。とても優秀な男でな。滅多なことを口にして、敵に回さんよう気をつけろよ。ほら、手配を急ぐがいい」
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