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第3章 MENUETT
op.10 レモンの花咲くところ(4)
しおりを挟む「リチェルさんって、すごく綺麗な肌をしてるのね」
不意に後ろからかけられた言葉に、リチェルはキョトンとして振り返った。ベッドに腰掛けたロミーナが『ごめんなさい』と恥ずかしそうに口元を押さえる。
「人の身体を不躾に見るなんてお行儀が悪いわよね。でも綺麗だからつい目がいっちゃった。嫌だった?」
「いえ、全然。そんな事ないです」
寝巻きに着替えると、締め付けられてた身体が楽になる。ずっと立ち仕事だったせいか、少し足が痛い。お店は昼の方がずっと忙しいらしくて、ずっと働いてたはずのロミーナが平気そうなのがリチェルには驚きだ。
「リチェルさん。あの、良かったら寝るまでの間少しお話しない? 会ったばかりの人とお話しするの、嫌かな?」
ロミーナの言葉に、リチェルは慌てて首を横に振る。聞いたところロミーナはリチェルより一つ上で、ほとんど同い年だ。同い年の女の子と話をする機会はここ数年リチェルにはなくて、ドギマギしながら誘われるままにロミーナの隣に座る。
「リチェルさん、髪触っていい?」
「あ、はい」
遠慮がちにリチェルの髪に触れたロミーナが『わぁ、ふわふわね』と声をあげた。
「羨ましいなぁ。私の髪ってゴワゴワしてるし癖毛だから」
「でも、細いから絡まりやすいみたいです……」
サラも言っていた。
ちゃんと梳かしてあげないとすぐ絡まりますよ、と言われた。
「そうかな? ふふ、リチェルさんってお人形さんみたい。清楚で上品で控えめで、兄さんの好みのど真ん中、って感じがする」
「そ、そうなんですか?」
確かにアルは良くリチェルを褒めてくれる。だけど改めてそう言われると気恥ずかしい。きっと有難い事なのだと思うけれど、ロミーナの言葉は勿体ない言葉ばかりで、自分には分不相応に思えてしまう。
「敬語使わなくて大丈夫よ。だって私たちそんなに歳も変わらないし、兄さんには普通にしゃべってたでしょ。リチェルさん」
ロミーナの言葉に、リチェルは頷く。
少し緊張するのは、こうして同い年の女の子と友人みたいに会話することがきっとリチェルにとって特別だからだ。
ロミーナはそれから家族のことをたくさん話してくれた。アルとトトはいつも言い合いばっかりしているけど根っこは良く似ているのだとか、お互い大切に思ってるのに全然素直じゃないのだとか。
「兄さんは本当はとっても穏やかなんだけど、父さんの前だけあんな感じなの。強がってるのねきっと」
リチェルさんは、どうして兄さんが戻ってきたのか知ってる? と聞かれて、リチェルは言葉に詰まる。聞いたけれども、言っていいのか分からない。
「兄さん、ピアノがしたくて出ていったのよね」
「はい、そう聞いてます」
「諦めちゃったのかな……」
「いえ、そう言う訳じゃなくて……! アルさんは、あの……」
家族ときちんとお話しするために戻ってきたのだ、と。口にしていいのだろうか。アルは怒らないだろうけれどためらって、そうしているとロミーナが遠慮がちに笑う。
「大丈夫よ、リチェルさん。今ので何となく分かった。兄さん、優しいから。私たちのこと無視できるわけがないのよね」
「はい……! あ、えっと。そうなの、アルさん。料理も好きだって言ってたわ。ロミーナさんが喜んでくれるからって」
「兄さんが? うん、きっとそう。兄さん、私が美味しいって言うと、いつも嬉しそうに笑うの」
自分のことを褒められたみたいに、ロミーナが笑う。きっとアルのことが大好きなのだろう。
それからロミーナは母親のことも話してくれた。母親はロミーナが生まれてすぐに亡くなったらしい。トトはそれから再婚もせずに男手一つでアルとロミーナを育ててくれたという。母親のことは覚えていないし、アルもトトもいたから寂しいことはなかったと言う。
「私ね、父さんには再婚してほしいなぁってずっと思ってるの。父さん強がりだけど、やっぱり隣に誰かいた方が安心する。私も兄さんも、ずっと一緒にはいられないから。でも父さんったら本当にお尻が重いの! 早く告白しちゃえばいいのに」
「トトさんには、どなたかいらっしゃるの?」
ロミーナの言葉がまるで今の事を言ってるみたいで、不思議に思って聞くと『やだリチェルさん、気付かなかった?』とロミーナは笑う。
「今日ラウラさんって女性の方がいらしたでしょ? お父さん、ラウラさんにゾッコンなのよ」
分かりやすくて嫌になっちゃう。とロミーナが少しも困ってなさそうに言う。
「ラウラさんも絶対気づいていると思うし、父さんのこと嫌いじゃないと思うんだけどなぁ。前にね、『ロミーナちゃん、もしお父さんが再婚したら嫌?』って聞いてきたから『全然! 大歓迎です!』って私答えちゃったの。流石にラウラさん結婚してください! とは言えなかったけど。私が父さんの代わりにプロポーズする訳にはいかないものね」
でもね、とロミーナが困ったような声を出す。
「お父さんったら私がいくら突っついても、自分はラウラちゃんよりずっと年上だから~とか、先に結婚させなきゃ行けない子供がいるから~とか言い訳ばっかりしているの。本当はきっと怖いのね」
「怖い?」
「そう。ごめんなさい、って言われることが。ラウラさんはそんな人じゃないと思うんだけど、やっぱり勇気が出ないのよ」
父さんには幸せになってほしいんだけど、とロミーナが呟く。その口調からロミーナが心から父親を案じている事が分かった。
「ごめんね、うちの話ばっかりしちゃって。リチェルさんは?」
急に質問の矛先を向けられて、リチェルはキョトンとする。
わたし? と思わず聞き返す。
「そう。リチェルさんは好きな人いる? 兄さんは対象外としても、ほらヴィオさんってとっても素敵でしょう。私目が合っただけでときめいちゃった。すっごくカッコ良いんだもの」
それは、知っている。
今日部屋に案内してくれる時にロミーナがヴィオに見惚れていたのが何となく分かった。あの時はどうしてか少し胸の中にモヤがかかったみたいで、うまく喋れなくなってしまって──。
「あ、誤解しないでリチェルさん! うーん。何ていうんだろう、こういうの。えっと、イッパンロン? の話だから! 私がヴィオさんに恋しちゃったとかではないの!」
慌てたようにロミーナが否定してきて、どう返していいか分からなくてリチェルはこくこくと頷く。だけど同時に何か心の棘が取れたような心地もして、そう感じることがとても浅ましく思えた。
ずっと引っかかっている。
最近心にモヤをかける、得体の知れないこの気持ちを。
「……ロミーナさん」
「なぁに?」
その心のままに。
「──恋って、どんな感情ですか?」
ポツリと、問いかけた。
「え?」
「普通の好きとは、何が違うの?」
リチェルの言葉にロミーナが目を瞬かせる。
おかしな質問だっただろうか。そう思いながらも止める事が出来なかった。
リチェルにとって、恋という感情は本の中だけのものだ。孤児院にいたときに読ませてもらったわずかな本の中で見たことがあるくらいで、それももうあまり覚えていない。
ただとても心が揺れる事だとは分かって、それはリチェルにとって歓迎できることではなかった。
だって、感情を揺らせば傷つくことが増えるから。
一生懸命耳を塞いで、見えないふりをして。
言われたことだけをきちんとしていたら、痛いことだけは遠ざけることが出来る。
そうやって生きてきた。
ただ、生きていくことだけに必死だった。
(だけど……)
だけど、ヴィオに出会ってからは──。
ロミーナは、リチェルの質問にキョトンとしていた。
それだけで自分が場違いな質問をしている事がわかる。リンデンブルックでサラに言われたこと。自分が取り落としてきた、他の人が持っていて当たり前の何か。そんな知っていて当たり前の一つを、ロミーナに聞いているのかもしれない。
「……えっと、そうね」
だけどロミーナは、リチェルの質問を馬鹿にしたりしなかった。それどころか自分の胸を両手で押さえると、真剣な表情で考え込む。
「うーん、確かに恋って何だろう。改めて言われると難しいなぁ。普通の好きとは全然違うんだけどなぁ」
そう言って首をひねる。うん、でも。と呟くとロミーナが少し頬を染めて笑う。
「私は、恋、してるよ?」
えへへ、と恥ずかしそうに、まるで隠していた宝箱を開けるようにロミーナは口にした。
「幼なじみでね。小さい頃からずっと一緒なの。わたし、兄さんや父さんとか、常連さんには平気で喋れるんだけど、外に行くとちょっとダメで。気が弱いのね。それにほら、ちょっとくせっ毛でしょ? 小さい頃はよくからかわれて言い返せなくって……。でもその幼なじみはね、私がからかわれてるといつもかばってくれたの。今も重いもの持ってくれたり、暗くなると家まで送ってくれたり、とか……」
話しながらロミーナの頬がどんどん赤く染まっていく。その表情はリチェルから見ても、とても可愛いく見えた。
「たとえば私は父さんも兄さんも好きだけど、恋はしてない。全然違うわ。何だろうな。一緒にいて胸がギューってなったりするの」
「胸が?」
「うん。ちょっと手が触れるだけでギューってなるの。心臓が爆発しそうなのに、離したくないの。変でしょ? あとは会えるとすっごく嬉しいんだけど、離れるとすぐ会いたくなって。会えないと寂しかったり、するかな?」
そこまで言って『恥ずかしいね』とロミーナが熱くなった頬を押さえて、照れ笑いを浮かべた。
恐る恐る自分の胸に手を当てると、そうその辺! とロミーナがにこっと笑う。
不意に、ロミーナの表情が緩んだ。
「……私ね。リチェルさんはもう恋をしているんだと思ってた」
「え?」
思わずロミーナの方を見ると、ロミーナは優しい目をしたまま『だって』とこぼす。
「リチェルさん、ヴィオさんのことずっと目で追ってる。今日だってそう。ヴィオさんが飲んでた水が空っぽになってたの、すぐ気づいたでしょう? あれ、ずっと見てるからだと思うよ」
ずっと、見ている。
言われて初めて気付く。そうだ、ずっと目で追っている。
初めは、ヴィオが目に映る所にいないと不安で。
置いていかれるのじゃないかと、不安で仕方なくて。
だけど置いていかれる心配がなくなってからも、リチェルは変わらずヴィオを目で追っていた。
考え事をする時口元に手を当てる仕草や、何か思いついた時に微かに変わる表情。
疲れているのだろうか。
ちゃんと、眠れているのだろうか。
今は何を考えてるのだろう。
何か役に立てることはないだろうか。
そんな事を考えながら、ずっと目で追っていた。
ほんの少しでいいから、貴方のことが知りたくて。
ほんの少しでいいから、貴方の役に立ちたくて。
目が合うと、微かに微笑んでくれるのが、嬉しくて──。
「リチェルさん?」
ハッとした。
瞬きをすると、目の前にいるロミーナに焦点が合った。
ロミーナが何か口を開こうとしたその時、廊下から何かをドアに叩きつけるようなけたたましい音が響いた。
「え、何⁉︎」
ロミーナが慌てて立ち上がって、ドアに走っていく。
「馬鹿言うな! お前まだそんな夢見がちなこと言ってんのか!」
ついで怒鳴り声が廊下に響き渡った。
ロミーナの後ろから廊下を覗き込むと、アルが廊下から立ち上がるところだった。
突き飛ばされたか殴り飛ばされたか、背中を強く打ったようで微かに呻きながらキッと扉の前に立つトトを睨みつける。
「だから、戻ってきたじゃないか! ちょっとくらい話を聞いてくれてもいいと思うんだけど……!」
「知るか! ちったぁ目が覚めたと思いきやこの馬鹿息子が! もう寝ろ!」
そう怒鳴ってバタンッッ! と勢いよく扉が閉まった。
「兄さん?」
「あ、ロミーナ? あとリチェルさんも。ごめんね、気にしないで。いつもの事だから……」
そう言いながらも、アルの声は明らかに元気がない。兄さん、とロミーナが案じるように小さく呟く。
「良いから、ロミーナも早く寝て。お前が起きてくるとリチェルさんまで気にしちゃうだろ?」
廊下にいるアルと目が合う。
アルさん、大丈夫? と恐る恐るロミーナの後ろから尋ねると、明らかにアルがギョッとした顔をした。頬を赤らめて『だ、大丈夫!』と言うとぐいぐいと扉を閉める。
「おやすみ。ほら、ロミーナ閉めて!」
慌てた様子で扉から離れたアルにロミーナは何か察したらしい。そうね! と言うとパタンと扉を閉めた。
「ごめんね、リチェルさん。もう寝巻きなのに」
そう言われてリチェルもようやく先程のアルの態度を理解する。
そうか、普通はあんな風になるのか。以前ヴィオが普通だったからそんなものなのかと思ってしまっていた。やっぱりサラが正しいのだろう。
と、ロミーナが気遣わしげにリチェルに声をかけてきた。
「あの、リチェルさん。さっきの私、余計なこと……」
「え、ううん。何でもないの! 黙ってしまってごめんなさい。もう大丈夫だから、今日は寝ましょう?」
慌ててそう言うと、ロミーナはおずおず頷いた。どうして言葉が出なくなったのか、リチェルにもうまく説明できなかった。
その後は二人で一緒のベッドで眠った。
他人の体温を間近に感じるのは新鮮で、落ち着かなくて、だけど嫌な気持ちじゃなかった。
ベッドの中でロミーナはお詫びみたいに、幼なじみの話を聞かせてくれた。
いつから好きだったのかなぁ、と呟くロミーナにリチェルは答えは出せなかったけれど、一緒に考えるのはどこか楽しくて、くすぐったかった。
いつの間にかロミーナは眠ってしまっていた。
隣の安らかな寝息を聞きながら、リチェルは真っ暗な天井を見上げていた。
『……私ね。リチェルさんはもう恋をしているんだと思ってた』
恋?
誰に、とは思わなかった。だって思い浮かぶのはたった一人だけだ。
その言葉はずっとぐるぐると頭の中で回りつづけて、結局リチェルは明け方までうまく眠れなかった。
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