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第3章 MENUETT

op.10 レモンの花咲くところ(8)

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 ラクアツィアへ向かう馬車はちょうど昼頃に、カスタニェーレを出た。

 ついて行きたいという双子をアルとロミーナが止めて、また戻ってくるからと店を出た。そうして揺れる馬車の中、ヴィオは窓の外を流れる知らない景色を見つめている。

 リチェルは昨日の仕事で疲れていたようで、気付けばこくりこくりと船を漕いでいて、少し迷ってヴィオはその頭を自分の方に倒した。

 横に座るソルヴェーグに視線をやると、うまい具合に目を閉じていた。多分寝たふりだろう。このままリチェルが起きるまで見ないふりをするつもりだ。

 リチェルをリンデンブルックで引き取って以来、ソルヴェーグがリチェルについて言及したことは一度もない。

 実際ソルヴェーグに何も言わせないようにしているつもりだけど、多分それ以上に信頼されているのだと、よく分かっていた。決定的にヴィオが何かを間違えようとしない限り、きっとソルヴェーグは何も言わない。

 唯一口を出そうとしたのは、昨日のレストランの席のことだ。それも具体的には、何を言われたわけでもないし、第一あの場面で何を言うのだと今でも思う。

『それ、本気で言ってる?』

 アルにそう言われた時、珍しく気持ちがザラついたのは、多分苛立ちだ。大人気ない感情は、今でも少し胸に残っている。

 だけど、アルのような人間と結婚すれば幸せなのかも知れない、と言ったのはまごうことなきヴィオの本音だった。

 そうすれば、ずっと笑っていられるんじゃないかと思うから。

 彼女の持つ優しさや無垢の笑顔を、もう二度と失うことはないまま、生きてくれるんじゃないかと、そう思うから。

(それなのに──)

 どうして自分は今日、カスタニェーレを出る前にリチェルのことを恋人だなんて言ってしまったのだろうか。明らかにリチェルは動揺していた。相手は面倒な手合いじゃなかっただろうし、多分そう言わなくても良かったのは自分でも良くわかっていた。

 繋いだ手の感触が、まだかすかに残っている。
 今も肩にかかる無防備な重みが、他人の体温が、少しも不快じゃない。
 

 いつの間にか、そばにいるのが当たり前で。

 一緒にいるのが、心地よくて。

 ずっと笑っていてほしいと、そう──。


 その感情の名前を、名付けようとする前に意識的に思考に蓋をした。
 言葉にするのを避けるように。


 だって一度名前をつけてしまえば──。

 
 きっともう、そばにはいられなくなるから。



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