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第4章 RONDO-FINALE
op.12 月に寄せる歌(5)
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『リチェルちゃん、ちょっと帳簿を見てもらえるかい?』
『はーい! すぐ行きまーす!』
明るい声が工房の天井に響く。
道端で僕がリチェルさんと出会ってから一週間。
それは男所帯の工房に彼女が居着いてからの日数でもある。
物怖じしない性格のリチェルさんは気難しい職人の先輩達とも不思議とすぐに打ち解けた。彼女がくるくると工房で動き回る様子を見ていると、僕はとても嬉しい気持ちになる。
一週間前、工房の親方に相談した時は正直ダメだと思っていたのだ。親方は人と話すことを嫌う人だし、何より工房は男ばかりだったから。だけど信じられないことに、親方は承知してくれた。倉庫にしていた部屋を一室空けてくれたのだ。
『まぁ、手伝いで一人くらい娘っ子がいてもいいだろう』
そう呟いた親方は、昔娘を一人亡くしているのだと先輩の一人が教えてくれた。
リチェルさんが『身を寄せる場所がどこにもない』と言ったのも理由の一端かもしれない。
親方は厳しい人だが、行き場がない人間を外に放り出せるような非情な人でもない。そんな人だから、僕は親方を心から尊敬している。
唯一の誤算といえば、リチェルさんが家事全般を全く出来なかったことだ。
雑巾の絞り方も知らず、野菜の切り方も知らない。
ナイフを持たせるとあまりに危なかっしくて見ていられず、ずっと隣についていなければならなかった。結局最後には全部僕がやったのだけど、リチェルさんは『ミケがやる方がずっと早いわ』と隣で座って笑っていた。
放り出さなくてよかった、と心から思ったものだ。彼女がこの町で一人きりで生きていくのはまず無理だろう。
リチェルさんの肌は日に焼けておらず、とても白かった。
手も今まで水仕事などした事がないのだろうとすぐに分かる美しさだったから、良いところのお嬢さんなのだろうと言うことは僕じゃなくても誰もがすぐに気付いた。
だけど彼女はそう言う話題をはぐらかすのがとても上手かった。
『ここにいる方がずっと楽しいわ。みんな親切だし、温かいし。まだほんの少ししかいないけれど、私この工房と働いているみんなが大好きだもの』
リチェルさんに花の笑顔でそう言われては、僕を含めて誰も『帰りなさい』だなんて言えなかった。
それに家事全般がダメなだけで、リチェルさんはとても頭が良かった。
初日に帳簿の数字が合わないと唸っていた先輩の手元をヒョイと覗き込んだだけで、すぐに計算ミスを見つけてしまったのだ。
家事が出来ない代わりに実務はすごく優秀で、今はそちらの手伝いの方が主になってるくらいだった。
誰が見ても可愛くて、いつも笑顔で明るいから自然とみんなを元気付ける。
そんな彼女はたった一週間で、工房の人間をほとんど味方につけてしまった。
だけど最初に彼女と出会ったのが僕だったからか、リチェルさんは僕のそばにいる事が多くて、僕にとっては嬉しいやらこそばゆいやらだ。
『ねぇ、ミケ』
リチェルさんは僕より五つも年下だったけれど、僕のことを当たり前みたいに呼び捨てた。
だけど不思議と全く気にならなかった。彼女に鈴を転がすような声で名前を呼ばれると、何でも聞いてあげたくなってしまう。
自分で言うのも何だけど、僕は一緒にいて楽しい男じゃない。
おしゃべりが上手いわけでもないし、女性の扱いになんてもちろん慣れてない。だけどリチェルさんは『そんなの関係ないわ』と笑うのだ。
『ミケの周りの空気はとっても温かいのよ。優しくて、穏やかな気持ちになるの。私は貴方のそばにいるのが一番落ち着くわ』
ありがとう、と満足に口にするのも難しいような直球の褒め言葉だった。
僕はもうすっかりこの少女に参ってしまっていたけれど、リチェルさんは工房の皆から好かれていたし、出る幕はないだろうとも思っていた。
実際彼女に参っている男は僕だけではなかったし、漏れずに僕もその中の一人だっただけだ。
同輩のカルロがリチェルさんに告白するのを見てしまったのは、彼女が工房に住み込みを始めて一ヶ月が過ぎた日の事だった。
聞き耳を立てるのは良くないことだと、急いでその場から離れようとした時、凛とした彼女の声が聞こえた。
『ごめんなさい。私ミケが好きなの』
思わず足が止まった。
聞き間違いかと思った。だけど自分の名前と間違えそうな人は思い当たらない。心臓がバクバクと鳴って、呼吸がままならなくなる。勘違いだと首を振って、急いでその場から逃げ出した。
だけどリチェルさんは何を思ったのか、その後工房で僕が好きだと公言するようになったのだ。
先輩からも同輩からもからかわれるし小突かれるし、たまに本気で詰め寄られるし、とても困った。だけどリチェルさんは決して僕に直接それを言うことはなかったし、僕への態度も変わることがなかった。だから僕を言い訳にしているのかなと思う事にした。
だってリチェルさんはとっても可愛いから、今までにもそんな事はたくさんあったに違いない。
自分のせいで工房の関係性がこじれるのを彼女は嫌がるだろうし、僕は自分で言うのもなんだけどあまり怒らない性格だったから、彼女がそれで安心するならいいかと思ったのだ。
だからあの夜、工房の後片付けをしている僕のところにリチェルさんがフラリと来た時も、僕はいつものように彼女に接したのだ。
『こんな夜に出て来ちゃダメだよ。部屋で休んでおいで』
いつもならすんなりと部屋に戻る彼女は、だけどその日は帰らなかった。
膝を抱えて僕の仕事が終わるのをじっと待っていた。そうしてポツリと呟いたのだ。
『もしかして、ミケは私のこと好きじゃないのかしら』
子どもが拗ねたみたいな声だった。
『え?』
『だって私ずっとミケが好きだって言ってるわ。だけど貴方は少しも私に応えてくれないでしょう?』
『だって直接言われた事がないし。それは……』
誰かと恋愛関係にならない為に言ってるんだと思ってた、と零すとリチェルさんは本気で怒ったみたいだった。
勝ち気な瞳でキッと僕を睨みつけて、そんな状況でも周りに配慮してか『そんな訳ないでしょう!』と抑えた声で言う。
『直接言うのは恥ずかしいもの。だからずっと待っていたのに。これくらい言えばミケから言ってくれるかしらって……。私、こんなに人を好きになったことなんてないのに。好きなのは私だけで、ミケは私のことなんてこれっぽっちも想っていないのね』
その瞳がじわりと潤んで、涙がこぼれ落ちたものだからもう焦った。
リチェルさんが泣くことなんてあってはいけないし、それが自分のせいだなんて耐えられない。だから必死で弁明した。
そんな事ない。僕も君が好きだよ。だけど君は本当に素敵な人だから、僕なんかには勿体無くて言えなかったんだ。
そういう趣旨の事をつっかえながら何度も言ったと思う。女性が喜ぶような言葉なんて少しも思いつかなくて、思いついた陳腐な言葉を必死で並べることしかできなかった。
顔を伏せて僕の言葉を聞いていた彼女は、やがて少し赤くなった目を僕に向けて『本当に?』と問うた。
『もちろん、神に誓って』
心からそう口にした。
月明かりに照らされた彼女は本当に美しかった。僕を見上げる表情は頬に流れた涙の跡を含めて一枚の絵画のようで、こくりと喉がなる。そっと彼女の両手が伸びて僕の頬を挟んだ。
『リ……』
名前を呟く前にそっと唇が塞がれた。
まるで永遠にも思える数秒間。僕は呆気にとられたまま、目の前でかすかに震える長いまつ毛を見ていた。
そっと唇を離した彼女はいたずらっぽく笑って、良いことを教えてあげる、といつもより少し寂しげな表情で呟いた。
『本当にもったいないのは私ではなくて貴方の方よ、ミケ。私みたいな人間に貴方が手を伸ばしてくれたことが、私にとっては人生の救いなの』
どうか忘れないでね、とリチェルさんは告げる。
『愛してるわ』
そう言って笑った彼女の頬に新しい涙がつたった。
その涙はどこか、先ほどまで泣いていた彼女の涙とは全く別物な気がして。
とても寂しいものな気がして──。
僕は目の前の少女から抜け落ちた何かを埋めるように、小さな身体を抱きしめた。
『はーい! すぐ行きまーす!』
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雑巾の絞り方も知らず、野菜の切り方も知らない。
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放り出さなくてよかった、と心から思ったものだ。彼女がこの町で一人きりで生きていくのはまず無理だろう。
リチェルさんの肌は日に焼けておらず、とても白かった。
手も今まで水仕事などした事がないのだろうとすぐに分かる美しさだったから、良いところのお嬢さんなのだろうと言うことは僕じゃなくても誰もがすぐに気付いた。
だけど彼女はそう言う話題をはぐらかすのがとても上手かった。
『ここにいる方がずっと楽しいわ。みんな親切だし、温かいし。まだほんの少ししかいないけれど、私この工房と働いているみんなが大好きだもの』
リチェルさんに花の笑顔でそう言われては、僕を含めて誰も『帰りなさい』だなんて言えなかった。
それに家事全般がダメなだけで、リチェルさんはとても頭が良かった。
初日に帳簿の数字が合わないと唸っていた先輩の手元をヒョイと覗き込んだだけで、すぐに計算ミスを見つけてしまったのだ。
家事が出来ない代わりに実務はすごく優秀で、今はそちらの手伝いの方が主になってるくらいだった。
誰が見ても可愛くて、いつも笑顔で明るいから自然とみんなを元気付ける。
そんな彼女はたった一週間で、工房の人間をほとんど味方につけてしまった。
だけど最初に彼女と出会ったのが僕だったからか、リチェルさんは僕のそばにいる事が多くて、僕にとっては嬉しいやらこそばゆいやらだ。
『ねぇ、ミケ』
リチェルさんは僕より五つも年下だったけれど、僕のことを当たり前みたいに呼び捨てた。
だけど不思議と全く気にならなかった。彼女に鈴を転がすような声で名前を呼ばれると、何でも聞いてあげたくなってしまう。
自分で言うのも何だけど、僕は一緒にいて楽しい男じゃない。
おしゃべりが上手いわけでもないし、女性の扱いになんてもちろん慣れてない。だけどリチェルさんは『そんなの関係ないわ』と笑うのだ。
『ミケの周りの空気はとっても温かいのよ。優しくて、穏やかな気持ちになるの。私は貴方のそばにいるのが一番落ち着くわ』
ありがとう、と満足に口にするのも難しいような直球の褒め言葉だった。
僕はもうすっかりこの少女に参ってしまっていたけれど、リチェルさんは工房の皆から好かれていたし、出る幕はないだろうとも思っていた。
実際彼女に参っている男は僕だけではなかったし、漏れずに僕もその中の一人だっただけだ。
同輩のカルロがリチェルさんに告白するのを見てしまったのは、彼女が工房に住み込みを始めて一ヶ月が過ぎた日の事だった。
聞き耳を立てるのは良くないことだと、急いでその場から離れようとした時、凛とした彼女の声が聞こえた。
『ごめんなさい。私ミケが好きなの』
思わず足が止まった。
聞き間違いかと思った。だけど自分の名前と間違えそうな人は思い当たらない。心臓がバクバクと鳴って、呼吸がままならなくなる。勘違いだと首を振って、急いでその場から逃げ出した。
だけどリチェルさんは何を思ったのか、その後工房で僕が好きだと公言するようになったのだ。
先輩からも同輩からもからかわれるし小突かれるし、たまに本気で詰め寄られるし、とても困った。だけどリチェルさんは決して僕に直接それを言うことはなかったし、僕への態度も変わることがなかった。だから僕を言い訳にしているのかなと思う事にした。
だってリチェルさんはとっても可愛いから、今までにもそんな事はたくさんあったに違いない。
自分のせいで工房の関係性がこじれるのを彼女は嫌がるだろうし、僕は自分で言うのもなんだけどあまり怒らない性格だったから、彼女がそれで安心するならいいかと思ったのだ。
だからあの夜、工房の後片付けをしている僕のところにリチェルさんがフラリと来た時も、僕はいつものように彼女に接したのだ。
『こんな夜に出て来ちゃダメだよ。部屋で休んでおいで』
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膝を抱えて僕の仕事が終わるのをじっと待っていた。そうしてポツリと呟いたのだ。
『もしかして、ミケは私のこと好きじゃないのかしら』
子どもが拗ねたみたいな声だった。
『え?』
『だって私ずっとミケが好きだって言ってるわ。だけど貴方は少しも私に応えてくれないでしょう?』
『だって直接言われた事がないし。それは……』
誰かと恋愛関係にならない為に言ってるんだと思ってた、と零すとリチェルさんは本気で怒ったみたいだった。
勝ち気な瞳でキッと僕を睨みつけて、そんな状況でも周りに配慮してか『そんな訳ないでしょう!』と抑えた声で言う。
『直接言うのは恥ずかしいもの。だからずっと待っていたのに。これくらい言えばミケから言ってくれるかしらって……。私、こんなに人を好きになったことなんてないのに。好きなのは私だけで、ミケは私のことなんてこれっぽっちも想っていないのね』
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そんな事ない。僕も君が好きだよ。だけど君は本当に素敵な人だから、僕なんかには勿体無くて言えなかったんだ。
そういう趣旨の事をつっかえながら何度も言ったと思う。女性が喜ぶような言葉なんて少しも思いつかなくて、思いついた陳腐な言葉を必死で並べることしかできなかった。
顔を伏せて僕の言葉を聞いていた彼女は、やがて少し赤くなった目を僕に向けて『本当に?』と問うた。
『もちろん、神に誓って』
心からそう口にした。
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まるで永遠にも思える数秒間。僕は呆気にとられたまま、目の前でかすかに震える長いまつ毛を見ていた。
そっと唇を離した彼女はいたずらっぽく笑って、良いことを教えてあげる、といつもより少し寂しげな表情で呟いた。
『本当にもったいないのは私ではなくて貴方の方よ、ミケ。私みたいな人間に貴方が手を伸ばしてくれたことが、私にとっては人生の救いなの』
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